Neetel Inside 文芸新都
表紙

剣と槍。抱くは大志
第十三章 離間の計

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 全軍で陣を構え、睨み合っていた。俺達は再び、バロン軍と干戈を交える事になったのだ。
 バロンは俺にタイクーンを引き渡した後、すぐに軍を動かした。兵力は五万で、その内の一万は弓騎兵隊である。さらにもう一万は騎馬隊であり、バロン軍は主に機動力を重視した構成となっている。
 対するメッサーナは三万の兵力で、そのほとんどは歩兵だ。騎兵は俺のスズメバチ隊だけで、はっきり言って軍の足は遅い。だから、機動力という面では、バロン軍とは勝負にならないだろう。だが、俺はこの構成で良いと思っていた。
 北の軍と騎馬隊で張り合っても、勝ち目は薄い。これはバロンの弓騎兵隊とぶつかり合って分かった事だが、まず、馬の質が違いすぎる。俺のスズメバチはともかく、他の騎馬隊では勝負にならないだろう。シーザーの獅子軍も機動力という一点だけを見れば、北の軍には劣っていると言わざるを得ないのだ。
 だから、今回は機動力を捨てて、他の部分で勝負する事だった。今回の歩兵は重装備で固めてある。機動力を捨てた代わりに、防御力を手に入れたのだ。これは主に矢に対抗する為で、さらに言えば弓騎兵を封じる為だった。弓騎兵は原野を疾風の如く駆け回り、好き放題に矢の嵐を浴びせてくる。考えてみれば、厄介な事この上ない兵科なのだ。
 弓騎兵は言ってしまえば風だった。それに対し、重装備の歩兵は山である。山のようにどっしりと構え、風を受ける。相性で言えば、これは悪くはない。
 俺のスズメバチ隊は、アクトの槍兵隊に寄り添う形で陣を組んでいた。これはシグナスが生きていた頃の名残りである。俺はあいつと共に、戦場を駆けてきた。そのシグナスはもう居ない。だが、その代わりに、タイクーンが居る。これから俺は、このタイクーンと共に、戦場を駆けていくのだ。
 アクトが、馬上で目を凝らしていた。バロン軍の陣形を読み取ろうとしているのだろう。どういう動きをしてくるのか。その予測を立てようとしているのかもしれない。
「アクト、指揮官としては初陣になるが、気負っていないか?」
 タイクーンに乗ったまま、俺はアクトに話しかけた。相変わらず無表情で、物静かな男である。
「馬上の景色に戸惑っています」
 ぼそりとアクトが言った。
「どういう事だ?」
「俺は、今まで歩兵でした。馬に乗る事は無かったのです」
 そんなアクトの言葉に、俺は笑ってしまっていた。アクトは、これから始まる戦の事よりも、今の馬上の景色の事を気にしていたのだ。もしかしたら、俺が思っている以上に、アクトの肝は太いのかもしれない。
「安心しろ。お前のような奴ほど、本番では上手くやるものだ」
「失敗の事など考えていません。そのために、俺の槍兵隊は激しい調練をこなしたのです。槍兵隊は生まれ変わった。俺は、そう思います」
 シグナスではなく、アクトの槍兵隊。俺はふと、そんな事を思った。だが、アクトの言う通り、槍兵隊は生まれ変わったと言っていいだろう。アクトは、騎馬隊に対する調練を念入りにこなしていたのだ。
 槍兵が最も力を発揮するのは、対騎馬である。騎馬隊から見ても、やはり槍は脅威だ。単に突き出されるだけでも、かなりの圧力を感じてしまうのだ。だが、大概の槍兵は騎馬の勢いに踏み潰される。これが弱点と言えば弱点だが、アクトはこの部分を入念に鍛え上げていた。あとは実戦で、その真価を問うだけである。
「相手は風のように速い騎馬隊を擁している。弓騎兵は俺が抑えるが、騎馬隊はお前が抑えなくてはならん」
「わかります」
「クライヴの弓兵隊も援護に入るはずだ。無理はするなよ」
「無論」
 アクトの声は、覇気に満ちていた。
 それからしばらく、両軍の睨み合いが続いた。時が経つにつれ、両軍の気が高まっていく。タイクーンの鼓動が、身体の芯まで伝わってくる。
「駆けよう、共に」
 呟く。同時に、角笛が鳴った。戦の開始の合図だ。
「ロアーヌ将軍」
 アクトが言った。声は落ち着いている。
「派手に動くなよ、アクト」
 俺が言ったのは、それだけだった。
 不意に、敵の騎馬隊の旗が揺れた。突撃の合図だ。横一列になり、駆けてくる。勢いに乗って、踏み潰してくるつもりだ。
「将軍、ご武運を」
 アクトがそう言い、馬で駆け出す。すぐに槍兵隊が陣形を変えた。魚鱗である。まずは敵の騎馬隊の突撃を受け流すつもりなのだろう。
「槍、突き出せっ」
 アクトの大音声。ザッという足を踏み出す音と共に、槍が一斉に前に突き出された。
 敵の騎馬隊の喊声。勢いに乗っている。踏み潰される。そう思った瞬間、槍兵隊が一斉に一歩前に出た。いや、それだけではない。気迫を放っていた。その気迫が、敵の騎馬隊を圧す。騎馬の勢いが緩んだ。次の瞬間、敵の騎馬隊は槍の餌食になっていた。
 見事という他なかった。アクトは、騎馬突撃の絶妙な呼吸を感じ取り、槍兵隊を前に出させたのだ。そして、気迫で敵の勢いを削いだ。これはやろうと思って出来る事ではない。槍兵全員の呼吸が合っていなければならないのだ。だが、アクトの槍兵隊は、それをやってのけた。
 さらにアクトは円陣を組ませた。四方八方に槍を突き出し、その姿はさながら針鼠のようである。敵の騎馬隊が、攻めあぐねているのがハッキリと分かった。
 それを見かねて、敵の歩兵が動き出す。アクトはまだ針鼠を解いていない。クライヴの弓兵隊が、脇から援護射撃を繰り出していく。
 まだバロンの弓騎兵は動いていなかった。いや、動くべき時でもない。だが、アクトの針鼠を打ち破るには、バロン自身が出て行かなければならないだろう。あれは、それほどの堅陣なのだ。
 敵の騎馬隊が何度か突撃するも、針鼠は崩れなかった。むしろ、敵の騎馬隊を損耗させている。アクトの指揮は落ち着いており、騎馬が突っ込むべき穴を作って誘い込み、それを槍で串刺しにするという戦法を取っていた。これを何度か繰り返すと、今度は敵の騎馬隊が攻め込むのを嫌がり始めた。それもそのはずだ。蹴散らせると思って攻め込んだら、逆に蹴散らされるのだ。
「そろそろだろう、バロン」
 お前が動く時だ。俺は心の中で、そう呟いた。
 目を閉じ、返事を待った。バロン流の返事。
 瞬間、鋭気。それを感じ取ると同時に、剣を抜き放った。金属音。矢が、虚空へと消える。
「タイクーン、駆けるぞ」
 弓騎兵隊一万が、原野へと駆け出していた。

     

 弓騎兵隊一万が、風を切って原野を駆け抜ける。
 メッサーナ軍で手強いのは、ロアーヌのスズメバチだけではなかった。槍のシグナスが遺した槍兵隊、クライヴが率いる弓兵隊。これらは、私が想像していたものよりも、数段、手強かった。いや、もしかしたら、こちらの歩兵を上回っているかもしれない。何度、攻め立てようとも、メッサーナ軍は一向に崩れる気配を見せなかったのだ。指揮はシルベンだが、遠目からみても問題のない、むしろ的確な指揮だった。しかしそれでも、メッサーナ軍は持ち応えた。それ所か、さらに闘志を倍増させて、こちらの士気を削いできた。
 兵力では勝っている。こちらは五万で、メッサーナ軍は三万なのだ。しかしそれでも、私達の方が劣勢だった。まだロアーヌのスズメバチは動いていない。それなのに、劣勢だった。
 特に、シグナスの遺した槍兵隊の活躍ぶりには、目を見張るものがあった。あの針鼠のような円陣は、まさに要塞だ。あれは対騎馬を徹底しており、戦法うんぬんの話ではなく、騎馬という兵科で崩すのは不可能に思えた。勢いを乗せた突撃でも、跳ね返されたのだ。かといって、歩兵で崩すのも難しい。クライヴの弓兵隊が援護に回っているからだ。だから、槍兵隊を崩すには、まずはクライヴを蹴散らす必要があった。
 このクライヴを蹴散らすのは騎馬隊の仕事だが、クライヴは老練だった。エイン平原には丘が四つあるが、クライヴはその内の二つの丘を陣取り、援護射撃を繰り出しているのである。騎馬隊が攻撃を仕掛けるには、丘の斜面を駆け上がらなければならない。だが、その時、騎馬隊は弓矢の嵐を受けるだろう。つまり、騎馬隊では崩す事が出来ないのだ。
 戦の総指揮は軍師のヨハンが取っていると思われた。そうだとすれば、さすがにメッサーナ軍の頭脳の一人である。ヨハンは、お互いの軍の特性をきちんと理解し、戦を展開しているのだ。こちらは動。メッサーナは静とし、攻撃軍だというのに、メッサーナは地形を味方に付けて守りを主体にしている。一方、こちらは動であるが故に、派手に動き回るしかなかった。言い換えれば、攻め立てるしかなかった。防衛軍なのにも関わらずだ。
 北の軍を知り尽くしている。私はそう思った。北の軍は、騎馬が主体だった。名馬が多いのだ。騎馬は機動力と攻撃力に優れた兵科だ。そして、北の騎馬は精兵だと言い切れる。
 だが、メッサーナは、その騎馬で対抗して来なかった。代わりに、騎馬に対して有効な槍兵を前面に持ってきた。
 何故、自分の頭から槍兵隊の事が抜けてしまっていたのか。いや、何故、槍兵隊は大した事ないと決めつけてしまっていたのか。
 自分の中で、メッサーナ=ロアーヌのスズメバチ、という方式を作っていなかったか。シルベンから、槍のシグナスが死んだと聞いた時、槍兵隊の事が頭から抜けなかったか。もう怖くはない。そう思わなかったか。原野を駆けながら、そういった考えが頭を巡った。同時に、もう遅いという考えも巡った。
 すでに戦は始まっているのだ。そして、メッサーナ軍は歩兵も手強い事が分かった。騎馬隊で崩すのは不可能だという事も分かった。ならば、次にすべき事は。
「この現状を打開する事だ」
 呟いていた。
「ホーク、私とお前で戦況を変えよう」
 愛馬に話しかけ、私は腰元の弓に手をやった。騎馬と歩兵だけではメッサーナ軍には勝てない。ならば、弓騎兵で戦況をひっくり返す。私の弓で、戦況を変えてみせる。
「ホーク、お前は私の最高のパートナーだ。お前と共に駆ければ、出来ない事など無いように思えてくる」
 ホークの勇気が、私の身体の芯を貫いていた。ホークは、気性は大人しいが、恐れを知らない所があった。つまり、勇気がある馬なのだ。
 馬一頭分ほど、前へと駆け出た。その後ろを、一万の弓騎兵が駆けてくる。
 槍兵隊が見えた。針鼠。こちらの騎馬隊の突撃を何度も受け切ったからか、陣形から闘志が溢れ出ている。何でも来い。陣形が、そう言っている。
 弓。握り締めた。さらに右手を背の矢筒へと持っていく。指先で矢羽根に触れ、その中の一本を取り出した。
 もう集中していた。
「あの男が、指揮官か」
 馬上で懸命に指揮を執っている男。あれが、シグナスの後任なのか。
 原野を駆ける。弓矢を構えた。狙いはあの馬上の男。槍兵隊の指揮官。まずはあれを一矢で貫き、その後で残りの槍兵隊を殲滅させる。重装備のせいで時間はかかるだろうが、指揮官を殺せば話は変わる。
「ホーク、いくぞ」
 グイっと弓を引き絞る。片目を瞑り、狙いをすました。騎乗による振動で、狙いが上下する。
 集中。視界が狭まった。馬上の男。もう、それしか見えない。いや、それ以外必要ない。私は鷹の目。
「バロンだっ」
 放つ。風。矢が、光を切り裂いていく。その刹那、何かが割り込んできた。獣。違う。
 矢と馬上の男の間。一騎が割り込んでいた。金属音。矢が虚空へと消えた。剣。刃を光が照り返している。
「剣のロアーヌっ」
 そして、タイクーン。その十数秒後、スズメバチの千五百騎が追い付き、ロアーヌの周りを固めた。
「まずはお前との決着が先のようだな」
 心臓の鼓動が速くなっていた。それなのに、口元は緩んでいた。

     

 さすがにバロンの弓だった。タイクーンでなければ、間に合わなかった。もし、俺の馬がタイクーンでなければ、アクトの命は、バロンの一矢によって絶たれていただろう。
 バロンの弓騎兵隊が、原野を駆けていた。俺はそれを目で追いつつ、手綱を握り締める。
「タイクーン、やれるな」
 俺の言葉に、タイクーンは身体をぶるんと震わせた。
「よし。スズメバチ隊、出るっ」
 一斉に、千五百騎が動き始めた。虎縞模様の具足が、原野を駆け抜ける。そのまま、一直線に弓騎兵の後を追った。バロンとの約束を果たすのだ。すなわち、再戦である。
 前回のぶつかり合い。あの時に、互いにある程度の力量は掴んだ。部隊では、おそらくは互角だ。弓騎兵一万を前に、こちらは一騎たりとも脱落しなかったのだ。数の劣勢を考えれば、これは互角以上の戦いをしたと言える。ならば、指揮官同士ではどうだったのか。
 結果的には俺の負けだった。馬を射殺されたのだ。だが、馬が無事であれば、立場は逆だったのではないのか。あのまま行けば、剣の距離にまで持ち込めたはずだ。そして、そこまでやれれば、首を取るのはたやすかっただろう。だが、あの時はそれが出来なかった。結果として、俺はバロンの弓に屈したのだ。
 しかし、今はタイクーンが居る。タイクーンと一緒ならば。
 原野。弓騎兵に追い付き、並んだ。両軍の馬蹄が地鳴りのように響き渡る中、鋭気が肌を突き刺してきた。矢だ。飛んでくる。そう思うと同時に、馬首を巡らせた。刹那、矢の嵐が真横を突き抜ける。
 弓騎兵の横腹。見えた。距離が縮まっていく。
 その先頭にバロン。弓を構えている。前回はここで馬を射殺された。あれを経験とする。同じ過ちは繰り返さない。グッと剣を握り締めた。
 鋭気。矢。
「見えたっ」
 金属音。だが、同時に鋭気。矢だった。連射。バロンは連射が利くのか。剣を。そう思ったが、遅い。矢に貫かれる。
 その瞬間、矢が頬を掠めた。外れた。あのバロンが、ミスをしたというのか。いや、違う。
「タイクーン、お前が」
 矢をかわした。天祐(思いがけない幸運の意)ではない。タイクーンが自分の意志でかわしたのだ。馬が乗り手を守った。
 バロンがさらに弓を構えていた。タイクーンが駆ける。剣の距離へと導いていく。タイクーン、今度は俺がお前に応える。応えてみせる。
「バロンっ」
「ちぃっ」
 バロンが弓を収めた。もう間に合わないと判断したのだろう。バロンが腰元の剣へと手をやり、そのまま抜き放つ。
「俺と剣で勝負しようなどっ」
 ぶつかる。一合目。金属音。俺の一撃をバロンが受け切る。
 後方。スズメバチが追い付き、弓騎兵を蹴散らした。近距離に持ち込めば、弓騎兵は脆い。十五隊に分かれて、内外から崩しまくる。
 タイクーンが反転し、駆け抜ける。二合目。
「ホーク、お前の勇気を私にっ」
 バロンが吼えた。眼の光が強い。燃えている。バロンの馬が、突進してきた。タイクーンに怯まず、突っ込んでくる。
 ぶつかる。金属音。バロンの剣が、虚空へと消えていた。即座に反転する。首を。
「取らせてもらうぞ、バロンっ」
「そう易々と取れると思うなっ」
 短剣。バロンが抜き放っていた。ぶつかる。それと同時に短剣を弾き飛ばし、剣の束でバロンの胸を押した。バロンが姿勢を崩す。だが、馬から落ちない。ホークという馬が、バロンの態勢に合わせていた。
 そこをタイクーンが押す。だが、ホークも持ち堪えた。零距離。バロンが俺の右手首を掴んできた。剣を持つ手。これでは剣が使えない。
「往生際の悪い奴だ、武器無しのお前に何ができるっ」
「ロアーヌ、お前にだけは負けんっ」
「タイクーン、押せぇっ」
 叫んだ。タイクーンがグッと押し込む。ホークの足が揺れ、バロンの姿勢も崩れた。勝機。
 その刹那、バロンが腰元の弓に手をやっていた。この男、まだ諦めていないのか。だが。
「ちぃっ」
 バロンの舌打ち。喉元に、剣を突き付けていた。
「俺の勝ちだ」
 言ったが、息が弾んでいた、額には大粒の汗が浮かんでいる。それが頬を伝い、顎の下から雫となって落ちた。
「首を取れ」
 バロンが、低い声で言った。
「私の負けだ」
「お前には借りが二つある」
「知らんな。早く首を刎ねろ。私は敗者だ」
 バロンがジッと俺の眼を見つめてきた。恐怖の色はない。むしろ、闘志で眼が燃えていた。
「今のお前の首など何の価値もない」
「何? 侮辱するのか。この私を」
「違う。俺の中で、お前には借りが二つあるのだ。それを返すまで、お前の首には価値がない」
「詭弁を。私の弓騎兵を散々に蹴散らしておいて、その指揮官を討たないというのか」
「軍を引け」
「何だと?」
「軍を引けと言ったのだ。俺のこの行動がお前を侮辱したので言うのであれば、次で決着を付けてやる。次は、貸し借り無しの勝負だ。そのために、軍を引け」
 束の間、バロンと睨み合った。剣は突き付けたままだ。
 バロンが、唇を震わせた。
「後悔しないことだ」
 声を絞り出すようにして、バロンが言った。
「行け」
 言って、俺は剣を鞘に収めた。すぐに背を向け、駆け去る。同時に、バロン軍の太鼓が鳴った。退却の合図である。
 侮辱。バロンは、そう言った。俺は、あれほどの武人を侮辱してしまったのだろうか。あれほどの武人を。
 微かに、俺の心が痛んでいた。

     

 疲れていた。ついに私にも、老いという抗い難いものが圧し掛かって来たという事なのか。さすがに六十手前の年齢ともなると、全てが若い頃と同じようにはいかなくなっていた。しかしそれでも、私は国の宰相なのだ。実質的な、国での最高権力者なのだ。
 北の大地で、不穏な空気が漂っていた。統治者であるバロンの様子がおかしいのだ。今、北の大地は戦争中である。メッサーナと干戈を交えており、その戦況は芳しくないという。だが、問題はそこではなかった。
 北の大地が、バロンが、剣のロアーヌと馴れ合っている可能性が高い。いや、正確にはメッサーナとだ。私は各地方に間者を送り込み、様々な情報を探らせている。これは主に不正を正すための監視役であるが、他にも反乱の抑制としても使っていた。特に地方は、反乱分子の巣窟である。放っておけば、全国で一斉蜂起、という事にもなりかねないのだ。
 その地方の中で、反乱の危険を最も孕んでいるのが北だった。その根拠は政治のありようから始まるが、何より統治者であるバロンの姿勢が危険だった。何年かに一度の会合には顔を出さないし、私の政治を強く批判するような事を表でやったりもしたのだ。
 そのバロンが、北の大地の長だった。長がこれでは、その下がどうなるかは明白である。もし、バロンが反旗を翻した時、これを止める者が何人居るのか。いや、止められる者は居るのか。バロンの人望は、他とは比較にならない。バロンは、弓騎兵の始祖であり、建国の英雄の子孫なのだ。
 数年前、槍のシグナスを殺した。あれの人望も恐ろしいものであった。あのまま放っておけば、間違いなくメッサーナは手が付けられない状態になっていただろう。シグナスは人望以外にも、桁外れの強さまでも併せ持っていたのだ。
 当初は、シグナスが死ねば全てが終わると思っていた。それを実証するかのように、シグナスが死んだ途端、国に失望していた民達は目に見える形で落胆した。だが、そこからだった。現実はそこまで甘くなかったのだ。
 メッサーナは蘇りつつあった。剣のロアーヌを中心に据え、メッサーナは新たな活路を見出したのだ。そして、それが北だった。
 仮にメッサーナが北を取り込んでしまうと、これは厄介である。いや、厄介どころの話ではない。歴史が変わる。すなわち、戦乱の世に突入し、軍が力を持つ時代に入るのだ。
 小さな綻びが重なり合っている。今までを振り返ると、そう考えざるを得なかった。タンメルを殺して国の改革に乗り出した所までは良かった。だが、次にサウスを起用したのがまずかった。サウスは人の言う事を、いや、政治家の言う事を聞くタマではなかったのだ。
 そのサウスのおかげで、一体どれだけの計画が頓挫したというのか。そもそもで、シグナスを殺したと同時に、サウスがメッサーナに攻め込んでいれば、それで終わった話だった。それなのに、あれは攻め込まなかった。自分の楽しみを奪った。あれは、そう言ったのだ。
 しかしそれでも、サウスは処断できなかった。サウスは今の官軍の中で、貴重な人材である。人格はともかく、その能力は確かなものなのだ。それに、国がメッサーナに劣っている部分の一つに、軍事面の人材があった。こればかりはすぐに改善できる問題ではない。だから、サウスはまだ国にとって必要な人間と言えるのである。
 それにしても、メッサーナはしぶとい。シグナスを失って尚、力を振り絞ってくるのだ。だが、これは言い換えれば、それだけ今の国は腐っているという事なのだ。何としてでも改革する。そう思わなければ、メッサーナもここまで粘りはしないだろう。
 そして、そのメッサーナが北の大地を奪ったら、いや、北の大地がメッサーナと呼応したらどうなる。しかも、その臭いが強くなっている。
 バロンは、剣のロアーヌと命のやり取りを二度もやっていた。しかも、二度とも、殺して当たり前、というやり取りだった。一度はバロンが殺せた。そして、もう一度はその逆である。だが、その両者共に命を奪う事はしなかった。それどころか、そこで会話をしていたという情報まで入っているのだ。
 全く理解できなかった。一体、何の為に、何の為に戦をしているのだ。勝つためではないのか。敵を殺すためではないのか。メッサーナにとってバロンは、バロンにとってロアーヌは、最も首を取りたい対象であるはずだ。それなのに、何故。
 疲れていた。最近、考える事が多すぎる。だが、芯は強く保っていた。国の歴史を守る。この歴史だけは、何人(なんびと)たりとも触れてはならないものだ。そのためにどうすれば良いのか。どうすれば、メッサーナを叩き潰せるのか。
「フランツ様、よろしいですか」
 手の者の声だった。これはかつてのシャールが指揮していた闇の軍である。そのシャールは、シグナス暗殺時に死んだ。それからの闇の軍は、間諜を主に行っている。
「良い。入れ」
 すぐに手の者が部屋に入って来た。
 それから何も言わずに、手の者は一枚の書簡を手渡してきた。
「バロンの副官、シルベンから手に入れたものです。ちなみに、私はまだ中身を見ていません」
 中身を見ると、客観的な判断が出来なくなる可能性がある。そういう意味では、正しい行動と言えた。
「どうやって手に入れた?」
「眠っている間に。肌身離さず、といった状態でしたが、それから手に入れるのは我々にとっては造作もない事です」
「その日のシルベンの様子は?」
「いつも通り、というには、いささかおかしかったかと」
 それだけ聞き、私は書簡を開いてみた。そこには、最近の近況や親の話など、他愛のないものばかりが書かれているだけだった。だが、所々、墨で文字を消している。
 何度も、読み返す。だが、意味は読み取れなかった。
「誰がこれを書いたか分かるか?」
「いえ」
「メッサーナの人間の筆跡は頭に入っているか?」
「主だった人物であれば」
 私は頷き、書簡を手の者に見せた。
「これは軍師ヨハンの筆跡です。しかし、ヨハンがこれだけの誤字を」
「そこだ。しかも、ヨハンと言ったな。メッサーナで一、二を争う切れ者が、ここまでの誤字を出すわけがあるまい」
 となれば、この墨には何か意味がある。いや、そもそもでヨハンの筆跡の書簡を、何故シルベンが持っているのか。
 溜め息をついていた。
「フランツ様、お疲れのようですが」
「気にするな」
 頭を回転させた。メッサーナ側の計略の可能性もある。だが、それ以上に、バロンがメッサーナと誼を通じている可能性の方が高い。ロアーヌとの命のやり取り。北の政治の有り様。バロンの高祖父の時代と、今の国の有り様。
 バロンを殺した方が良いかもしれない。私は、そう思った。
 だが、バロンは国にとって貴重な人材である。軍事だけでなく、政治でも能力を発揮しているし、英雄の子孫という他の者にはないものまで持っているのだ。
 しかし、バロンを生かしておいたとして、その力を国のために使おうとするのか。北の大地には使うだろう。だが、国となると、どうなのか。
 可能性の話だった。国にとってプラスになる可能性。生かしておく、殺してしまう。このどちらが、国にとってプラスになるのか。いや、マイナスが少なくて済むのか。
「闇の軍を集めろ」
 言っていた。
「分かりました。目的は?」
「バロンを暗殺する」
 シャールが居れば。そう思ったが、すでに死んだ人間だった。
「期日は?」
「任せる」
「分かりました」
 目を閉じた。言ったが、本当に正しい選択なのか。いや、逡巡はすまい。
 再び目を開いた時、すでに手の者は消えていた。

     

 長い対峙だった。メッサーナがエイン平原に攻め込んできて、すでに半年が経とうとしている。
 これほど戦が長引く要因の一つとして、両軍の力の拮抗があった。兵力では私達の方が勝っているが、メッサーナは質でそれをカバーしているのだ。特に剣のロアーヌのスズメバチは、まさに天下最強の騎馬隊だった。おそらくだが、もう大将軍の騎馬隊よりも上だろう。ロアーヌがタイクーンを得て、そうなった。シルベンはロアーヌとタイクーンの事を、人中のロアーヌ、馬中のタイクーンと評していたが、まさにその通りだと思った。あれはまさに鬼神である。
 負けた。完膚無きまでに負けた。私と弓騎兵は、ロアーヌのスズメバチに負けたのだ。いや、それだけではない。私とホークも、負けた。
 あのぶつかり合いの事は、今でも覚えている。私は本気でロアーヌを射殺するつもりだった。矢を二連で撃ち放ち、ロアーヌを屍にするつもりだったのだ。だが、それをタイクーンがかわした。凄まじい気迫だった。馬が、乗り手を守ったのだ。あの時点で、私は敗北を覚悟していたのかもしれない。私とホークは、あれほどまでに心を通じ合わせていなかったのだ。
 その後の事は、思い出したくもなかった。私は誇りを粉々に打ち砕かれ、心は失意の底にあった。軍を退く時、涙が止まらなかった。誇り高く死ぬ事も出来ず、軍を退く。これほどの無念が、あるというのか。私は切にそう思ったのだ。
 それからは、両軍共に大きなぶつかり合いもなく、声だけの夜襲や、小競り合いばかりをやっていた。私の弓騎兵も、ロアーヌのスズメバチも、あれから全く動いてない。
 消耗戦だった。兵糧は潤沢で、食い物には困らないが、兵に疲労がたまっている。それはメッサーナも同じだろうが、我々の方がそれが顕著だった。
 我々にとって、今回が久々の戦である。つまり、言い換えれば、戦慣れしていないのだ。対するメッサーナは、戦続きでこういった対峙には慣れたものだろう。何度か本物の夜襲をかけようとしたが、警戒が厳重すぎて実行するには至らなかったし、せめて、声だけの夜襲でも、とやってみたが、目立った混乱も無いようだった。それでいて、陣には常に緊張感を漂わせているのだ。
「どうしますかの、坊っちゃん」
 幕舎で考え事をしていると、軍師のゴルドがやってきた。
 坊っちゃんはやめろ、と言いかかったが、抑えた。これは、今までに何度も言ってきた。それなのに直らないのだ。そのくせ、ゴルドは他の事にはすぐに気がつく。わざと言っているようにしか思えなかった。
「メッサーナを崩す方策が見つからん。ロアーヌのスズメバチもそうだが、槍兵隊と弓兵隊も厄介だ」
 槍兵隊は針鼠の陣形が、弓兵隊はクライヴの戦術眼が手強い。さらにその後ろでは、ヨハンの指揮がある。
「これ以上の対峙は難しいですぞ」
「兵糧か? 兵の疲労か?」
「いえ。フランツ殿です」
 小さくため息をついていた。頭の痛い事だった。私にはその気がないのに、フランツは疑ってかかってくる。結果を出して、身の潔白を証明してやりたいが、メッサーナは思った以上に手強い。
「大きなぶつかり合いをしていない。これは、疑惑を深めてしまいます」
「そう易々とぶつかる事が出来るなら、ここまで苦労はせん。こちらとて、犠牲は払いたくないのだ」
「フランツ殿は軍人ではなく、政治家ですからのう」
「政治家だろうが何だろうが、少し考えれば分かる事だろう」
「疑惑と老いで、判断能力が低下しているやもしれません」
 七十手前の老人が言える事か。私は、そう思った。
「何にせよ、まだ軍は退けん。エイン平原の次の戦場は、北の大地になってしまうからな。あそこに戦は持ち込みたくない」
 それからしばらく、戦術の話になった。さすがにゴルドの軍学は造詣が深い。だが、それでも、メッサーナを崩す方策は見つからなかった。ヨハンの存在が大きい。あれのせいで、計略の類が封じられてしまうのだ。だが、それは相手も同じ事だろう。
 陽が落ちてから、ゴルドは幕舎を出て行った。
 ロウソクの灯が消えかかっていた。新しいのに取り替えよう。そう思った瞬間だった。
 外から、無数の殺気を感じた。肌を舐めるような気味の悪い殺気である。
 メッサーナからの刺客か。一瞬、それが頭を過った。だが、らしくない。おそらくだが、違う。勘がそう言っている。
 出来るだけ音を立てず、弓と矢を背負った。さらに腰元の剣に手を忍ばせる。この殺気。私を殺そうとしているのか。
 刹那、何かが倒れる音が聞こえた。殺気の方向が変わる。
「バロン、生きてるかっ」
 シルベンの声。さらに倒れる音。その直後、金属音。シルベンが外で闘っているのか。だが、誰と。
「おい、返事をしろっ」
「生きているっ」
 言って、幕舎を出た。同時に剣を抜き放つ。
 囲まれていた。全身、黒装束の男達。その手には短剣だ。数は百名足らずと言った所か。
 闇の軍。私の頭の中に、不意にそれが浮かび上がった。国は、秘密裏に暗殺を得手とする、闇の軍と呼ばれるものを擁している、と聞いた事がある。この目の前に居る者達は、まさにそれではないのか。だが、何故ここに居る。
「シグナスはこいつらに殺されたっ」
 言いながら、シルベンが一人の男を斬り下げる。
「今度の狙いは、お前のようだぞ、バロンっ」
 何故。まず思ったのはこれだった。何故、私の命が狙われているのだ。
「フランツ」
 呟いていた。まさかとは思うが、疑心に駆られて、私を殺そうと考えたのか。あの男。
 すでにシルベンの息が荒い。戦闘時間は短いはずだが、この重圧の前では。
 どうする。私の剣の腕はせいぜい並の上と言った所だ。かと言って、弓で闘える距離ではない。
 その瞬間だった。馬蹄が聞こえた。
「バロン将軍っ」
 旗本の弓騎兵だった。僅か数騎だが、こっちに向かって駆けてくる。
「バロン、走れっ」
 シルベンが叫び、敵中に飛び込んだ。弓騎兵の方へと突き進んでいく。その間、敵が何度も覆いかぶさって来た。それをシルベンが防ぎ、斬り伏せる。
「お前だけは何としても守るっ」
 刹那、シルベンの真横を敵が襲いかかった。死角。そう思った瞬間、私が敵の首を飛ばしていた。
「気負うな、シルベン」
 言って、私も前に出た。二人で敵中を走る。
 敵の輪を抜け出た。弓騎兵と合流する。私の愛馬、ホークを連れて来ていた。走りながら手綱を掴み、飛び乗る。すでにホークは走り出している。その横に、馬に乗ったシルベンがついた。
「メッサーナの陣営に向けて駆けるぞっ」
「何? メッサーナだと。何故だっ」
「訳はあとで話す。ゴルドも居るはずだっ」
 馬を疾駆させた。弓騎兵の数騎も後をついてくる。すでに闇の軍の殺気は消えていた。任務失敗。そういう事なのか。
 未だ、頭が混乱していた。

     

 馬上で、風を切っていた。今はメッサーナ陣営に向けて駆けている。頭の中はまだ混乱していて、様々な思考が入り乱れているのが、自分でもはっきりと分かった。
 一体、どういう事なのだ。いや、今の私は、一体どういう状況に置かれているのだ。
 殺されかかった。分かっているのはこれだけだった。だが、誰に。私は、誰に殺されかかったのか。あれが闇の軍だとするなら、やはりフランツだという事になる。だが、何故なのだ。まさか、疑心に駆られての事なのか。それとも、私怨なのか。明確な理由は分からない。しかしそれでも、殺されかかったという事実がある。
 心がザワついていた。驚愕だとか衝撃だとか、そういったものが入り混じって、心がザワついている。
「フランツはお前を殺そうとした」
 不意にシルベンが言った。馬蹄と風の音が、耳の中で渦巻いている。
「あれは闇の軍だ、バロン。どういう意図かは分からんが、フランツはお前を殺そうとしたのだ」
 断定的な言い方だった。まるでこうなる事を知っていたかのような言い方だ。混乱していながらも、私はそういった事を冷静に読み取っていた。
「何故、メッサーナに向かう」
 呟いていた。声は馬蹄と風の音に消され、シルベンには届いていない。
 メッサーナに向かう必要はなどないはずだった。向かうなら、北の大地だ。あそこは私が治める土地で、私の故郷なのだ。帰るべき場所。それが、北の大地だった。
 だが、帰ったとして、どうだというのか。フランツは私を殺そうと企んだ。だから、あそこに帰ったとしても、その末路は見えている。そう考えると、暗澹(あんたん)とした想いが心の中を駆け巡った。そして、同時に、どうすれば良いのかが分からなくなった。
 高祖父の血。北の大地。守るべきもの。そして、自分の大志、夢。これらのワードが、断片的に頭の中に浮かび上がってくる。そして、これらのワードが意味するもの。
「ちぃっ」
 不意に、シルベンが舌打ちをした。それに反応し、前方を見定める。騎馬隊が、行く手を塞ぐように駆けていた。黒装束。闇の軍だった。百騎は居る。一方、こちらは十騎にも満たない数だ。
「まだ諦めてないのかよ、くそっ」
 シルベンが声をあげ、剣を抜いた。私はそれを、冷静に眺めていた。これが現実。ただ、そう思っていた。高祖父の血を引いていようとも、北の大地を真っ当に統治していようとも、殺される。これが、紛れもない現実だ。これが、腐り果てた国の姿だ。
「バロン、お前は最後尾だっ」
 シルベンの声。だが、聞こえただけで、頭の中には入ってこなかった。フランツは、あの男は、私を殺そうとしている。
「あの男は、私の首を欲しがっているのだな」
 腰元の弓に手をやっていた。次いで、矢をつがえる。
「おい、バロン、聞いてるのかっ」
 フランツは、この私を殺そうとしている。いや、私の血を、高祖父の血を絶とうとしている。許せない。私は、単純にそう思った。高祖父を、その血を、あいつは絶とうとしているのだ。
 触れてはならないものに触れた。フランツは、決してやってはいけない事をやった。
 私の中で何かが解き放たれた。そして、頭の中に浮かび上がっていたワード達が、一つになった。
「全て、撃ち貫く」
 言うと同時に、矢を連続で撃ち放った。瞬く間に闇の軍の二十人が馬上から消える。
 さらに撃ち放つ。五人、十人と馬上から人が消えていく。
「おい、バロン」
 全てが澄み切っていた。今まで、自分を縛っていた何かが消えた。表現するなら、こういう事だ。いや、それだけではない。
「私は鷹の目、バロンだっ」
 大志を、夢を撃ち貫く。国をぶち壊してやる。フランツが私を殺そうというのなら、私はお前を、国を撃ち貫いてみせる。
 こんな国など、とうに捨て去るべきだった。腐りに腐って、もうどうしようもない国だ。国は、この私を、高祖父の血を、絶とうとしたのだ。これは、誰であろうとも許される事ではない。この国の王ですら、許される事ではない。
 不意に、左右の丘から二隊の騎馬隊が駆け下りてきた。五十騎ずつ。逆落としだ。勢いに乗っている。
「まずいぞ、バロンっ」
 正直言って、受け切れそうもなかった。こちらは僅か数騎なのだ。討死。それが頭に浮かんだ。だが、不思議と恐怖はなかった。心は澄み切っている。今の私は、檻から放たれた鷹だ。鷹は、大空を自由に舞う。
「これが私の天命と言うのならっ」
 吼えた。これが私の天命ならば、甘んじて受け入れよう。もう覚悟は決めていた。
 弓を構える。突撃してくる騎馬隊。矢を連続で撃ち放った。撃ち放つ度に、敵騎兵が原野に消えていく。
 騎馬隊との距離が縮まっていく。もはや、命は投げていた。この数騎で、どこまで闘えるのか。あの槍のシグナスは、三百という敵を相手に、孤軍奮闘・獅子奮迅の活躍をしたという。だから私も。
 闘って死ねる。これは、軍人としては幸福な事だ。私は最期の最期で、鎖から、檻から解き放たれた。大志を、夢を貫くと決める事が出来た。もう、それで十分だ。多くは望むまい。これ以上を望むには、私はあまりにも時をかけ過ぎた。
 だから、あとはやるだけやって死ねば良い。もう、それで良い。
 敵騎兵。顔がはっきりと見えた。槍を構えている。この敵を殺して、私も死ぬ。さらば。矢を撃ち放つ寸前。
「バロン、諦めるなっ」
 怒声。その刹那、敵の騎馬隊の横っ腹を、何かが突き抜けた。虎縞模様の具足。スズメバチ。
「まさか」
 ロアーヌ。剣のロアーヌ。そして、スズメバチ隊。十数秒で敵の騎馬隊を殲滅させ、こちらに向けて駆けてくる。
「無事か。少しばかり遅れた」
「何故、お前が」
「借りを返しに来た。お前には二つの借りがあると言っただろう」
 何を馬鹿な事を。
「俺のスズメバチが殿を引き受ける。そこの男、シルベンと言ったな、ヨハンが待っている」
 剣のロアーヌが、この私を救うというのか。私の血を、存続させるというのか。
「バロン、ここはロアーヌに任せて行くぞっ」
 これが私の天命。私の天命は、メッサーナと共にあるというのか。
 すでにロアーヌは、私に背を向けていた。背後は俺が引き受ける。早く行け。背中で、そう言っている。
「ロアーヌっ」
 私は声をあげた。ロアーヌが振り返る。
 何も言わなかった。何も言わず、背を向けて私は駆け出した。言葉など要らない。背中で語れば、全てが分かる。ロアーヌは、そんな男だ。
 礼を言う。私は、背中でそう言っていた。

     

 時代が変わろうとしていた。メッサーナは大きな転機を迎えようとしているのである。
 私はメッサーナを離れ、ピドナに向かっていた。そのピドナに、ある人物が入ったのだ。
 その名はバロン。鷹の目である。バロンの家は代々が軍人の家系で、名族だった。だが、私にとって、そんな事はどうでも良い事だった。要は、バロン自身がどんな人間なのか、という事である。名族の血を引いている事を、鼻にかけるような人間なのか。それとも、それを内に秘め、一つの誇りとしているような人間なのか。
 はっきり言って、私の家は凡庸な一族だった。代々が役人の家系ではあるが、高官となった者は一人として居ない。父も小さな町の小役人で一生を終えた。そんな家で生まれた私が、今ではメッサーナの統治者なのだった。
 人に恵まれた。いや、人だけではない。機にも恵まれた。私は自分の人生を、そう捉えていた。
 昔から、人の才能を見抜いたり、引き出したりする事は得意だった。人と、ほんのちょっと一緒に時を過ごしてみると、この人はこういう事が得意だろう、というのが分かるのだ。それは私に対する言動から読み取れる事もあるし、端から様子を見て読み取れる事もあった。
 心が震える程の才能を秘めている人間。私の人生の中で、こういった人間に出会えた事は数回あるが、その初めてとなる人間がヨハンだった。
 元々、ヨハンは名も無い書生だった。というより、名も無い書生であろうとしていた。自らの能力を隠していたのである。一度だけ、私はヨハンと共に仕事をする事になったのだが、その時、ヨハンは明らかに手を抜いていた。他の者からしてみれば、あれが限界だろう、と見えていたのだろうが、私には手を抜いているようにしか見えなかった。
 それが切欠となり、私はヨハンに興味を持った。そこからは早かった。互いに心を開きあい、いつの間にかヨハンは私を敬愛してくれていた。
 そして、共にメッサーナで国に反旗を翻した。思えば、それからの私はヨハンに助けられてばかりだった。メッサーナの統治者は私だが、その実はヨハンだと言っても良いぐらいである。あの剣のロアーヌと槍のシグナスを連れてきたのも、ヨハンだったのだ。
 そのヨハンが、今度は鷹の目バロンを引き入れようとしていた。しかも今回は人だけではなく、北の大地という領土をも引き入れようとしているのだ。
 無論、ヨハン以外にも心を震わせるような人間は居る。だが、私とヨハンは、それを超越していた。今回の件で、私は強くそう思った。
 メッサーナを発って十四日後、私はピドナに辿り着いた。馬を早駆けさせれば、もっと早く着くのだが、私は馬に乗る事は得意ではなかった。
 メッサーナ領となってからのピドナに入ったのは、これが初めてだった。思ったよりも街に活気があり、戦時中だというのに、民の表情は明るかった。おそらく、兵を信頼しているのだろう。民のために戦う、それが、メッサーナの兵なのだ。
 私はその街の中を、ゆっくりと馬で移動した。時たま、民が私に気付き、頭を下げたりもするが、私はそれを笑顔で返すのだった。私とて、一人の人間なのだ。統治者であろうが何だろうが、たった一人の人間に違いはない。だから、民に対して態度を大きくするのは、間違っている。
 そのまま、政庁へと入った。門番の兵士が、びっくりしている。
「ラ、ランス様。どうして」
「バロンが来た、と聞いたのでな。居ても立ってもいられず、一人で来てしまった」
「それは分かりますが、すでにこちらから迎えを出していました。途中で会いませんでしたか」
「さぁ、どうであろうか。私は途中で街道を外れたからな」
 言って、私は大声で笑った。門番の兵士は、呆れたような表情をしている。
「バロンはどうしている?」
「一人、部屋の中でジッとしています。誰が声をかけようとも、返事もしません」
「ほう?」
「バロンの副官にシルベンと言う者が居るのですが、これの呼び掛けにも反応しないようです」
「わかった。とりあえず、ヨハンに会おう。通っても良いか?」
 私がそう言うと、兵士は慌てて道を開けた。そんな兵を労いつつ、私はヨハンの居室に向かった。
「ヨハン居るか?」
 言いつつ、扉を開ける。書類を捌いていたヨハンが、顔をあげた。
「ランス様、ですか? やけに早い到着で」
「いや、一人で来たのだ。どうやら、途中で迎えの者達とすれ違ってしまったらしい」
「また無茶をされましたな」
 言って、ヨハンは溜め息をついた。
「なに、メッサーナの政治の事なら大丈夫だ。若い者達が育ってきている。お前やルイスも、もう若いとは呼べない年齢になってきた。次代の事も考えねばならん」
「私が言っているのはそうではなく、その御身の事です。いかにメッサーナ領と言えども、暗殺の危険性は絶えずあるのです。そこをしっかりと」
 ヨハンの長い説教の始まりだった。言っている事は確かに正論なのだが、いまいち私は同意しかねる。命の価値は誰でも平等なのだ。私はそう思っているのだが、ヨハンは私を特別視したがるのである。だが、ヨハンが死ぬのが私にとって嫌であるように、ヨハンもこれに似た思いがあるのだろう。
「それで、バロン様に会いたくて来られましたな?」
「うむ。そのバロンは、部屋に籠り切りだと聞いたが」
「計略を使ったのです。これについては特に反発はないようなのですが、未だに高祖父の血について悩んでおられるようです」
「私は、まだバロンの人となりをよく知らないが」
「誇り高い人です。頭もよくキレますし、弓の腕はロアーヌ将軍が認める程の腕前です」
「誇り高いが故に、国を売った葛藤を抱えている。要はそんな所か?」
「すでに国に対しては何の思いも抱いてはおられません。また、自らの夢を貫くとも決めています。あとは血の問題ですな」
 その血で、今も尚、思い悩む。バロンにとって、自身に流れる血はそれほど重いものなのだろう。メッサーナに来たという事は、もう私達と共に戦う事を決心したはずだ。しかしそれでも、ここに来て迷う。私は、これに対しては当然だ、と思った。それが人間なのだ。
「少し、話をしてみよう」
 バロンの心を解きほぐす。今の私に出来ることは、これぐらいしかなかった。

     

 私は話をするため、バロンの部屋へと向かっていた。その先に、何かの目的があるわけでもない。あえて目的を言うならば、バロンの心を解きほぐす事である。解きほぐすだけで、その後の結果はどうなろうと構わなかった。メッサーナとは違う道を歩むも良し、国に戻るも良し。これからどうするのかは、バロン自身が決めれば良い事なのだ。
 バロンの部屋の前まで来て、私は立ち止まった。扉を開ける前に、二、三の言葉ぐらいは交わしておいた方が良いだろうと思ったのだ。
「バロン、いや、バロン殿、居るかな?」
 返事はない。だが、微かな身動ぎの気配は伝わって来た。
「私の名はランス。いや、私の名前など、どうでも良いな。少し、バロン殿の事が知りたくなったので、やって来た」
「メッサーナの統治者か?」
 扉の向こうから、声が聞こえた。低く落ち着いた声色だった。声だけで、その誇り高さが伝わってくる。
「さぁ、それはどうであろうか。私は否定したいが、周りの者は許してはくれぬだろうな」
「私は今、考え事をしている」
「だから、話せないか?」
 しばしの沈黙。だが、不思議と重苦しくはなかった。
「いや、貴殿となら話をしてみよう、という気になった。何故かはわからんが」
 それを聞き、私は扉を開けた。秀麗な顔つきをした男が、椅子の上に座っていた。その目には、迷いが見える。
 部屋の中は、机と椅子が二つあるだけで、かなり殺風景だった。まるで、ロアーヌの家のようである。
「メッサーナは何故、国に反旗を翻したのだ」
 不意にバロンが言った。眼光は鋭い。これは英雄の子孫としての言葉だろう。微かに敵意が見えた。
「腐り切っていたからだ。今の国はどう考えてもおかしい。強者ばかりが得をして、弱者は虐げられる一方だ。命はみな、平等である。これは全ての基本だ。この基本の部分が、崩れている。それが、今の国だ」
「国を建て直そうとは考えなかったのか。あのフランツのように」
「全てのものには寿命があるのだ、バロン殿。それは国も例外ではない。そして、この国の寿命はすでに切れかかっている」
「王が居る。そして、まだ権力を持っている」
「持っているだけだ。持っているだけで、使い方を知らない。それ所か、フランツに代わりをやらせている。これがどれだけおかしい事か、分からない訳ではあるまい、バロン殿」
 すでにバロンは自身の中に答えを持っているようだった。その上で、会話をしている。確認したいのだろう。自分の取った行動が正しいのか。高祖父を冒涜していないのか。そういった保障が欲しいのだ。
「フランツはまだ人格者だから良いものの、次代の宰相がどういう人間なのかは分からん。もしそれが私心を持つ人間であったなら、どうなるのか。これはすでに歴史が証明している」
「高祖父が作り上げた国だ、ランス殿」
「そうだ。確かにあなたの高祖父は偉大だ。だが、その国はすでに壊された。それも粉々に。先程の寿命よりも前に、心無い亡者どもに壊されたのだ。いや、正確には寿命を食い尽された。だから、もう守る必要はない」
「高祖父が作り上げた国は、すでに壊されただと」
「バロン殿の目には、どう見えているのだ」
 私がそう言うと、バロンは目を閉じた。
 伝えるべき事は伝えた。メッサーナの統治者としてではなく、一人の人間として、伝えるべき事は伝えたのだ。あとは、バロンが決めるだけだ。答えを、出すだけだ。
 しばらく沈黙が続いた後、バロンが小さなため息をついた。まだ目は閉じたままである。
「私は、北の大地の為に戦う。国ではなく、北の大地の為に」
「して、その敵は?」
「国であり、王。そして、フランツ」
 バロンが目を開いた。その目にはもう、迷いは無かった。
「我々、メッサーナと共通の敵だな。つまり、同志だ」
「臣従しろとは言わないのか?」
「私は臣下が欲しいのではない。同志が欲しいのだ。いずれ、誰かが王にならなくてはならないだろうが、それは別に私でなくても良い」
 要は天下を取り、その後の政治に携わる事ができれば、それで良い。私は、そう考えている。
「珍しいな。反乱を起こしたのに、野心がないとは」
「野心はある。天下が取りたい、という野心がな。ただ、自分がその頂点である必要はない、というだけの事だ」
 私がそう言うと、バロンは口元を緩めた。
「北の大地も、メッサーナの旗を掲げたい」
「同志としてか?」
「無論」
 それを聞き、私は思わず微笑んでいた。このバロンという男、気持ちが良い程、潔いのだ。このような男こそが、頂点に立つべき人間だろう。
「しかし、頂点はランス殿、あなたが良い。私は統治者、という柄ではないからな。それに、私は政治よりも戦が好きだ」
 ちょっと待て。そう言いかかったが、バロンが手で制してきた。
「私は剣のロアーヌと同じ目線で居たいのだ。あの男とは、これから多くを語り合う事になる。そこで上下関係ができてしまうのは好ましくない」
「しかしな」
「北の大地の政治は引き続き、私が見よう。その上で、ランス殿、あなたがメッサーナと北の大地の統治者だ」
 意志の強い眼だった。こういう眼をした人間には、もう何を言っても無駄である。
「私も統治者という柄ではないのだがな。家も凡庸であったし」
 愚痴っぽくそう言うと、バロンはただ笑みを返してきただけだった。

       

表紙

シブク 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha