Neetel Inside ニートノベル
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 シャイフがその雀荘(軽食屋としても機能している)の戸をくぐると、点在する空き卓の奥に、ひとつだけひとだかりができている卓があった。
 人の環から二歩半ほど離れたところに店長がおり、シャイフが来ると目配せし、近くにいた若者に何事かささやいた。
 シャイフがその卓に近づくと、入り口側に座っていた長髪の若者と、その対面の外国人の少年がなにやらもめているらしかった。
 外野たちは長髪の味方らしい。真一文字に結んだ口とナイフのような視線の向かう先からわかる。
 しかし、いまにも殴りかかられそうな状況だというのに、異国の少年は自分の手牌ばかり見ている。
 シャイフはその格好を見て、少年が軍人だと思った。
 詰め襟のピシッとした黒い制服を着用し、襟元には勲章のようなバッヂ(馬のひづめが刻印されている、おそらく市民生活およそ三ヶ月分くらいの価値あるしろもの)が輝いていたからだ。
 少年兵の見つめる彼の河に捨て牌はない。
 しかし少年は手を開けていた。
 地和だ、とシャイフは思った。
 長髪がこめかみに青い筋を立てて、深く息を吸った。
 空気中のマイナスイオンから冷静さを吸収しようとしているのかもしれないが、おそらく徒労に終わるだろう。
「いいか」長髪はいまにも吐き戻しそうな緊張感たっぷりの声をだした。少年兵がちら、と目を上げる。
「おれはこう見えても犯罪をしたことはない。盗みも、殺しも、人様の迷惑になることだってしてきたつもりはないんだ、この十八年間な」
「ああ、そう。おめでとう」
 長髪と違って、少年兵は喋るのが億劫そうだった。
 シャイフはじっと彼のまなざしとその奥にあるものを、野次馬の隙間から目を細めて探った。
「そのおれでも許せないことが三つある。ひとつ、おれのおやじを成金呼ばわりするやつ。ふたつ、おれのお袋を金目当ての売女だと侮辱するやつ、そして三つ目が、麻雀でイカサマするやつだ」
 ぱち、ぱち、ぱち。
 少年兵は手を打った。顔色がひどく悪いため、嘲るような笑みも強がりのように見えてしまう。
「長いのは髪だけにしとけ。言いたいことはすぐに言え」
「おうわかった、じゃあそうする」
 長髪が少年兵の胸倉を掴んだ拍子に、卓からバラバラと牌が零れ落ちた。しかし誰も拾わず、ただ二人の行く末を見守っていた。
「一日で三回も役満アガるとは、おまえ、覚えたてか。やりすぎだぜ。プロはもうちょい気を配る」
「いまの地和はイカサマじゃねえよ。ツモ牌はおまえのヤマからツモったんだ。知らなかった?」
「そんなことはどうでもいい。おまえがどうにかしたんだ、そうだろ、え、少年脱走兵さんよ? そんなところだろ? てめえみてえなやつはいつだって負け犬の逃げ馬に決まってらァ」
 少年兵はため息をつくと、肩をすくめて話題を変えた。
「あのさ、おまえ、天和アガったことあるか」
「ない」
「知ってる。その腕だものな。ストリート・ジャンクは死ぬまで路傍の石ってわけ」
「こ、こンの野郎!」
「黙れっ!」
 どこにそんな余力があったのか。
 体内をウイルスに汚染されつくしているような禍々しさをまとった少年兵は、爪を立てて長髪の腕を掴んだ。
 みるみる血と悲鳴が湧いたが少年兵はまっすぐに敵の顔のド真ん中を見据えている。
「終わったことをいつまでもほざくんじゃねえ。ことが一番きわどかったとき、てめえはなにをしてた? ただぼさっとしてただけじゃねえか。据え膳食わぬは男の恥だ」
「は、離せ! 離しやがれっ!」
 長髪は一気に気勢を殺がれて掴まれた腕を振るが、万力のような力(シャイフはそれが筋力ではなく怒りによって増幅された無理のある力だと見抜いた。つまり、少年兵は明日にでも筋肉痛になるだろう)で押さえられ歯が立たない。
 野次馬たちにも殺気が立ち込め始めた頃、いつの間に人の柵をすり抜けていたのか、シャイフが少年兵のそばに立っていた。
「やめな」
 腕を離された長髪は涙目になって人の群れのなかへと消えていった。呻きだけが奥から聞こえてくる。
「おおシャイフ」「シャイフが来てくれた」「これであのガキも終わりだ」「ざまあみやがれ」「のろわれろ」
 四方向から放たれる絶望の文句を若い兵士はさわやかに無視して問うた。
「なんだ、あんた」
「あたしはシャイフ」老婆は名乗った。
「あたしのことはいい。ただの死に損ないさ。それより、あんたのことだ。名は?」
 少年兵は冗談を言う風でもなく真顔でこう答えた。


「サマー・ファルス」


「……なんだって?」
 シャイフが眉間に刻まれたしわを二倍にした。
「あんたそれ、本名じゃないね」
「ああ。あだ名みたいなもんだ、気にすんな」
「父の名は」
「知らない」
 異国の少年兵はぼそっと答えた。興味なさそうに。
 まるで自宅に残してきた死体の腐敗具合の方が気になって仕方がなく、そんな質問に答えるひまはない、というような無関心さだった。
「おまえは孤児か?」
 新たな問いには答えずに、サマー・ファルスはサイドテーブルに積み重なった紙幣と硬貨のドライフラワーを無造作に掴み、ポケットに突っ込んだ。帰るつもりなのだ。
 その場にいる全員の棘のような視線を浴びながら汗ひとつかかずに、少年は背を向けた。
「待ちな」
 シャイフのしわがれた静止の声に、少年の革靴がゆるやかに止まる。
 肩越しに振り返る顔は暗く、痩せた頬に影ができていた。
 乾ききった顔の中で黒く鋭い両目だけが妖しくきらめいている。
「勝ち逃げは許さない。そのためにあたしが呼ばれたんだからね、若いの」
「あんたが?」
 サマー・ファルスはシャイフの額から爪先まであらかた検分しても顔色を変えなかった。侮りもしなかったし、笑いもしなかった。
 そして、立ち去りかけた身体をほんの少し薄暗い店の中へと戻した。
「いいよ。なんだっていい。ここじゃもう、おれに打たせてはくれないみたいだから」
 一方的な罵倒と共に、シャイフと少年兵はその場を後にした。が、外に出ると喧騒はぴたっと止んでしまった。
 少年兵はかすかに背後を省みてから、暮れなずむ埃っぽい道をゆく老婆の背中を追った。


       

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