Neetel Inside ニートノベル
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ブチャラteaの短編集
保健室の先生

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 中学二年生になって四月の最初の授業の日、私は去年までと同じように教室ではなく保健室に向かった。
 一週間に一回の保健室登校。それが今の私に出来る最大限の努力だった。ぎりぎり不登校じゃないだけマシだ、なんてことは全然思ってもいないし、いずれはちゃんと教室で授業を受けないといけないのは分かっている。だけど、やっぱり教室に行くのが怖かった。周囲の人間が怖かった。だから、頭では分かっていても、やっぱり教室ではなく保健室へと足が動いていた。
 新しく担任になった先生は「今年から少しずつでいいから教室にも来てみないか」なんて間抜けなことを言っていた。そんな簡単に言わないで欲しい。少しずつでも教室に行けたら苦労なんてしていないし、保健室登校なんてしていない。なにも分かっていない。教師なんてそんなものだ。ていのいいことばかり言って、生徒たちのことなんて本当に理解しようとなんてしていないんだ。上っ面だけの薄っぺらな職務態度が丸見えだ。
 保健室の前で私は立ち止まった。躊躇ったのではない。去年と同じように、これからまた一年間保健室登校をするのかと思うと憂鬱な気分になったのだ。嫌気がする。教師に? 周りの人間に? いや、たぶん自分自身にだ。
 はあ、と一度溜息を吐き出してから「失礼します」と言って引き戸を開けて中に入ろうとした。だけど、室内の光景を見た私はぴくりと固まってしまった。――保健室に不審者がいた。
 そういえばと、私はこの間家庭訪問に来た新しい担任が、養護教諭が変わったと言っていたのを思い出した。だけど、保健室の中にいた人は、どう考えても先生という感じではなく、不審者、百歩譲っても変人としか思えないような人だった。
 保健室の中には浴衣を着た綺麗な女の人が、部屋の真ん中で和傘をぶんぶん振り回していた。
 不審者は「百三……百四……」とカウントしながら、長い黒髪からきらきらと輝く汗を飛び散らしている。うわ、こっちまで飛んできた。
「百五、あらぁ…………はぁはぁ」
 呆然と戸口に突っ立っていた私に気がついた素振り女は、ぜぇぜぇと息を切らしながらこちらを振り返った。私と目が合うと、素振り女はにこりと微笑み、額から流れる汗を浴衣の袖でぞんざいに拭いながらゆっくりとこちら近づいてきた。私は未だ動けずにいる。
「君が……はぁ……例の……保健室登校ちゃん?」
「な、何者ですか……?」
「そんな……ぜはぁ……ことより…………はぁ、うげぇっほ! はぁ……野球しないイカ!?」
「絶対いやです」
 私は、満身創痍の素振り女の誘いを全力で断った。
 これが、この奇妙な先生との出会いだった。

 今年度からこの学校の養護教諭として赴任してきた先生は本当に変な人だった。養護教諭のくせに服装はいつも浴衣。たまに、チャイナドレスとか野球のユニホームを着ていることもある。本人曰く、和洋折衷の世界に通用する養護教諭を目指しているとか。まったく意味が分からなかった。
 私が保健室に入ると先生はいつもなにかをしていた。私は養護教諭というのは比較的暇そうな仕事だと思っている。それでも去年までの先生はノートパソコンでなにか作業をしていたり、保健室に遊びに来る生徒を相手していたり、私の話し相手になってくれたりしていた。だけどこの先生はそういうことをしていたわけではない。ただ、遊んでいるだけだった。
 最初の頃はいつも素振りをして汗だくになっていた。私が「なにしてるんですか?」って訊いたら「保健室で寝たきりの子とホームランを打つ約束したのよ。うふふ」って言っていた。馬鹿だと思った。
 素振りをしなくなったと思ったら、今度はゴルフのパットをするようになった。勿論、自慢の和傘でだ。私がまた「なにしてるんですか?」と訊くと「保健室で寝たきりの子とホールインワンをする約束をしたのよ。うふふ」って言っていた。アホだと思った。ゴルフに飽きたら、次は和傘をギターに見立てて弾き語りをするようになった。いつものようになにをしてるのかと訊くと「保健室で寝たきりの子と武道館に行く約束したのよ。うふふ」って言っていた。その後、ベッドで寝てた子に「先生うるさい!」って怒鳴られてた。可笑しくて私は笑ってしまった。
 こんな先生だけど、怪我をした生徒とか体調の悪い生徒には意外なほど真面目に、そして優しく介抱していた。そんな先生を見ると、私はやればできるじゃんなんて思っていたけど、考えてみれば当たり前のことをやっているにすぎないのだ。なんだか騙された気分になる。
 だけど、先生は仮病とかサボりで保健室にくる生徒は徹底的に追い払っていた。いつだか、去年から保健室によくサボりに来ていた不良っぽい生徒を「あなた覚悟して来ている人ですよね? 保健室に来るということは、謎の注射をぶっ刺されてから休息するという危険を常に覚悟して来てる人ですよね?」とかなんとか言って、浴衣の袖から出した注射器で脅したきり、保健室に用もなく来る生徒はめっきりいなくなった。私が、なんでそんなことしたのかと尋ねると「だって、遊べないじゃない」と当然のように先生は言った。やっぱり、この人はただ遊んでいるだけだった。
 そんな先生と接しているうちに、週一回だった保健室登校が週二、週三、いつの間にか私は毎日保健室に通うようになっていた。特別先生になにか言われたわけではないし、自分の中でなにかを決心したわけではなかった。ただ、先生の変な行動を見ているのが楽しかった。ただそれだけだと思う。先生は、私が毎日保健室に通うになる、ということを意図してあんな馬鹿なことをしていたのではないのは分かっている。だけど、だからこそ私は保健室に毎日通えるようになったんだと思うし、先生の馬鹿な行動を見ているのが楽しくなったんだと思う。

 楽しい時間は早く過ぎる。そんな言葉を実感したのはたぶん初めてだったと思う。気がつけばもう三月も半ばに差し掛かっていて、もう一ヶ月もすれば三年生に進級、そんな時期になっていた。
 私は相変わらず保健室登校のままで、結局今年は一度も教室に行けないままだった。だけど三年生になったら少しづつ教室にも。そんなことも考えるようになっていた。先生のお陰で、なんてことは全然思わないけど、でももし先生が担任の教師で、授業も全部先生が受け持ってくれたら、私は教室に行けるのかも、なんて馬鹿なことも考える。絶対に有り得ないのに。先生の馬鹿が伝染ったのかもしれない。
 いつものように保健室に入ると、その日は珍しく先生がいなかった。でも、鍵が開いていたのだから、たぶんどこかに行っているのだろう。あまり深く考えないで、いつのも保健室の隅のほうにある机に腰掛けて、なんとなく窓の外に目をやった。……そこに先生を発見した。
 先生は保健室のベランダから少し出たところの、この学校の創立者とかいう人の銅像の前でなにかをしていた。お決まりの浴衣姿に和傘を差しているからすぐに気がついた。
 私が近づいていくと先生がなにをしていたのかすぐに分かった。先生は鼻歌を歌いながら、ご機嫌な様子で創立者の銅像に口紅で落書きをしていた。本当にこの人は馬鹿なことをするのが好きなんだなぁ。
 私に気がついた先生は、にこっと微笑むと今度は無言で落書きを再開した。
 先生の笑顔はなんだか不思議だ。幼い子供のような可愛らしい笑顔のように見えるのに、大人の女性のような美しい笑顔にも見える。だけど、いま見せた微笑みはなんだか、そのどちらとも取れないような、いつもの先生の笑顔ではなかった気がする。そんなことを考えながら、私は先生の様子を黙って見つめた。
「この学校は好き?」
 しばらくすると、先生が突然口を開いた。
「何もかも変わらずにはいられない。それでもこの学校は好き?」
「……意味が分からないですよ。そもそも、学校嫌いですし」
「うふふ、そうよね。先生も学校ってだぁーい嫌いだもん」
 先生は落書きを止めて口紅を浴衣の袖にしまうと、こちらを振り返って、いつもの不思議な笑顔を浮かべた。
「じゃあ、保健室は好き?」
 先生の言葉がずしりと胸に圧し掛かってきた。なにも答えられなかった。保健室は好き? こんな、なんでもない質問に答えるのは簡単だったはずだ。保健室は好きだったし、なにより先生が好きだった。だけど、なぜかその時の私はなにも答えられないで、先生の笑顔から逃げるように、ただ黙って俯くことしか出来なかった。
 今の私なら、先生がその時なにを言おうとしたのか分かるような気がする。だけど、その時の私はなにも分からなかったし、なにも答えることができなかった。
 そうこうしているうちに、先生はなにも言わずに保健室に戻っていったのだった。 

 中学二年生最後の日、終業式。その日、授業は一つもないにも関わらず、私は朝から保健室に来ていた。先生はいつもの浴衣姿で保健室の掃除をしていた。
「先生、終業式に出ないんですか?」
「見て分からない? 先生は大掃除中なの。それに、私って校長先生の長話聞いてると、どっかの非常識な新成人ばりに張り切っちゃうから、校長に式に出んなって言われてるのよ。一年一度の式典なんだから、少しくらいハメ外してもいいと思わない? うずうず」
 先生はどこから持ってきたのか、組み立て式のビリーヤード台を解体しながら、いつもの調子で言った。
 やっぱりか……。なんとなく、薄々気がついていた。先生は今年でいなくなる。先生が大掃除をしているのを見て予感は確信に変わった。
 先生はなにも言わずに、いなくなるつもりだったんだろうか。私はその方が、なんだか先生らしいなぁと思った。だから、もし先生が本当に今年でいなくなるのだとしても、私はなにも言わないつもりでいたはずだった。なのに、勝手に口が動いていた。
「先生……来年から違う学校に行くの?」
「あら、知ってたの?」
 先生は作業を続けながら言った。
「私は自動的なのよ。保健室に異変を察知したときに浮かび上がってくるの。なんちゃって。うふふ」
「……意味分かんないですよ」
「寂しい?」
「別に……」
 私は、なんだか拗ねた子供のような反応をとってしまう。本当はすごく寂しかった。それに、先生がいなくなったら、私はたぶんもう学校には来れなくなってしまう気がした。だけど、そんなこと言ったってどうしよもない。先生が残ってくれるわけではないのだ。
「そう」と言うと、先生は作業を止めて、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「じゃあ、アナタはもう大丈夫ね」
「……なにがですか?」
「それは、アナタが考えること」
「…………」 
 先生はまたいつもの調子で意味の分からないことを言う。私はまたなにも言えなくなって、ただ俯くことしかできなくなった。
 先生の上履きが、私の視界に入ってきた。その上履きに、ぽたっと一粒の水滴が落ちた。それを追いかけるように次々にぽたぽたと水滴が落ちていく。気がつくと私の目からは涙が溢れ、止めどなく先生の上履きに流れ落ちていた。
 しばらく黙っていた先生は、突然私の顔を両手で挟んでぐいっと持ち上げた。先生はいつもの微笑みを浮かべていた。そして、私の手にそっと番傘の柄を握らせてきた。
「約束しましょう。その傘はアナタに預けるわ。もし、アナタがさっきの質問の答えを見つけることがで出来たら返しにきてね」
 私は涙で滲む視界で先生を見つめた。なにか言おうと思った。「ありがとう」とか「さよなら」とか。そんなありふれた言葉を。だけど、私の口はなにも言葉を紡ぎだしてくれなかった。
 先生はもう一度にこっと微笑むと、私の頭に手をぽんと置いて、保健室の戸口に向かって歩き出した。
「あ、早く返しにきてね。じゃないと、次に行く学校で私遊べなくなるから。ん? なんだか、こんな光景見たことある気がするわ。……海賊王? うふふ、気のせいね」
 最後にそう言うと、先生は颯爽とした足取りで保健室を出て行ってしまった。
 私はぼんやりと先生の和傘を見つめた。いろんな遊びに使ったせいか、結構ボロボロになっている。その番傘にまた涙が零れ落ちた。
「……ふふ。先生本当に意味分かんないよ」

 三年生になった私は、相変わらずまだ保健室登校を続けていた。
 先生には悪いけど、やっぱりいきなり教室に行くのは無理そうだった。でも、いつになるかは分からないけど、教室に行ってみようと、少しだけ決心がついた。先生のお陰で、とは思いたくなかった。あんなふざけた先生のお陰だと思うと、なぜだか負けた気分になる。
 今頃先生はきっと、また別の学校の保健室で自由気ままに遊んでいるんだろうなぁ。そんな光景が容易に頭に浮かんでくる。
「ねえ、なんでいつも学校にその傘持ってきてるの」
 今年赴任して来た養護の先生が、顔をしかめながら尋ねてきた。私はそれに笑顔で答えた。
「約束したんです。保健室でいつも遊んでいる人と」

       

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Neetsha