風が強い。高度はそこまで高くないはずなのだが、心持ち風が強く感じる。俺だったらバランスを崩してまっさかさまに落ちてしまうだろうが、奈津紀は違う。俺みたいに、恐怖を抱いていない。度胸がある。そもそもあいつの神経に「恐怖」という感情が存在するかどうかが疑問なのだが。
「少しでも後ろに倒れれば、お前は死ぬ。それは分かってるな?」
「当たり前じゃない。私だって子どもじゃないんだからそれぐらい分かるよ」
 見上げた場所にいながらも、対等な口ぶりで奈津気は答える。
「それを踏まえた上で、お前は今からどうするつもりなんだ、奈津紀」
 俺が訊くと、奈津紀はより一層口の端を吊り上げて言った。
「贖罪だよ。私は今までいくつもの罪を犯してきたでしょう? だから今日この日を以って、私は罪を償って天使になるの。ノー・クライム・エンジェル及び穢れなきジンジャーエンジェルにね」
「言ってる意味がよく分からねえ。とりあえずそこから降りろ、話がしたい」
「話なら今現在してるじゃない。それに、今降りたら竜司まで殺したくなるから駄目」
 強かに怒気を含ませて言い放つと、奈津紀は柵の上に立った。
「私が何しようと、自由なの。竜司も言ってくれたでしょ? 私を縛り付ける鎖はもうないんだって。鎖が解けた今、翼をもがれていない天使が空に飛び立たない以外に術はあるかしら? 答えはノーよ。正しく厭離穢土、私は天に召されるのではなく、呼び戻されるだけなんだから」
「いいから戻って来い。俺を殺してからでも死ぬのは遅くないだろ」
 ぴた、と奈津紀の表情が凍りつく。汲み取るに、驚きと無感情の中間辺りか。
「嫌だ。どうして私が竜司を殺さなくちゃならないの?」
「お前が死ぬなら、俺も死ぬ。それに俺は今まで散々お前の悪事につき合わされてきたんだ、最後まで添い遂げさせてもらうぜ」
「それだったら、私が殺さなくてもいいじゃない」
「ま、お前の裁量によるなそれは。俺が“クラスメート”として扱われるか、もしくは“犯罪者の一人”として扱われるかによって俺の取るべき行動も変わってくる。それぐらいは分かるだろう?」
「………………」
 奈津紀が黙り込む。信じられない、という形相で俺を見下ろしながら、何度も唇を動かしている。俺に読唇術の読み取り技能はなかったが、何が言いたいかはすぐに分かった。
 ――――“嘘だ”。
「嘘じゃない」
 否定してから、俺は言い立てる。状況が変わらないときのために、「用意」をしておいてよかった。
「お前がいつまでも優柔不断でいる気なら、俺にも考えがある」
 そう言って俺は、懐からバタフライナイフを取り出した。昔、父親が使っていたものだ。ずいぶんと年季が入っているが、切れ味は申し分ない。これなら大丈夫だろう。俺はそれを、そっと首にあてがう。頚動脈の脈動がどくんと伝わってきて、全身に悪寒を齎した。ああ、やっぱ苦手だこういう感覚は。
 奈津紀の顔が青ざめる。おやおや、お前はこの程度で驚くような奴だったか。はは、らしくねえな。
「俺が死ねば、お前はいったいどうなるだろうな」
「止めてよ……」
「嫌だね。これはお前には全くもって関係ない。俺はたまたまここにやってきて、自殺を計ろうとナイフを首に突き立てているだけだ。それについてお前にはどうこう口出しする権利はない」
「止めてって言ってるじゃない!! どうしてそうやって私の嫌がることばかりを」
「今更グダグダ言ってんじゃねえ!!」
 場の空気が、切り裂かれたように黙り込む。さて、これで現世も見納めだ。
「一回しか言えないからな。ちゃんと聞いとけよ」
 俺は奈津紀の目を見ずに言った。疾駆する言葉を無視して言った。
「俺は、お前のことが――――」



 最後まで言えたかどうかは覚えていない。その後奈津紀やクラスメート……あわよくば人間には出会った記憶がないから、多分俺は無事に死ぬことができたんだろう。痛みは全身に齧り付くほど苦しいものだったが、喉元過ぎれば暑さを忘れると言う。今は凄くいい気分だ。まさに、天にも昇る気持ちといったところか。
 俺が昨日――「六月九日」に戻ったことで、何か変わったことがあるわけじゃない。結果的には俺が死んだか死んでいないかの違いだけのはずだ。が、それでも俺の中では革新的なこと。言葉に表すことはできないが、俺は確かに自分を変えた。「昨日」に戻ったことで。それは地球規模で考えればナノ以下に些細なことかもしれないが、俺の「世界」には革命を齎した。そして、今、俺は暗闇の中にいる。
 俺は自ら、先行く道を閉ざしてしまった。俺と同い年の人間がいたら、少なくともあと七十年は生きるだろう。ということは、俺は七十年分の功績を今から何らかの形で残す必要がある。

 ――――さて。何から始めようか。