Neetel Inside 文芸新都
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『皆さん、「昨日」から何か変わったことなどはありますか?』
 六月十一日の夜。人気のない掲示板に、珍しく二日連続で書き込みがありました。それは『もし昨日に戻れるとしたら、あなたはどうしますか?』と言う名のスレッドに新たに書き込まれたもので、書き込み主は恐らくスレッドを立てた人物と同一と思われる「名無し」さんでした。いつもどおりその書き込みに反応する人はいないと思われましたが、この日は違いました。

 最初に反応したのは、「K」さんでした。「K」さんは胡坐をかきながらカツ丼を貪り、しばらくディスプレイを眺めていましたが、ふと思いついたように箸の手を止めて器と箸をキーボードの横に置くと、カタカタと音を立てて、『とりあえず死にたいとは思わなくなった』とメッセージを送信しました。「信じられないことだがな」と湿った衣のついた舌をんべーと出して、「K」さんはカツ丼を吸収する作業を再開します。「K」さんの机の上には、遺書用に使おうと思っていたノートは見当たりませんでした。

 次に反応したのは、「M」さんでした。「M」さんは先日までの頭痛が嘘のように回復したと呟きながら、こう書き込みました。『よく分からないけど、自信が出てきた』。「M」さんは少しの間ぼーっとディスプレイを覗き込んでいましたが、不意に傍の窓のカーテンを開けて、外を眺めました。雨が降っている中に、傘をさして嬉しそうにかけている少女がいました。「M」さんはそれに対して少し悲しそうな笑顔を浮かべると、掲示板を閉じて、前に開いていたテキストエディタとの睨めっこに戻りました。

 その次に反応したのは、「N」さんでした。Nさんは思い出に浸るようにぱらぱらとアルバムのようなものを捲っていましたが、掲示板の書き込みを見つけるやいなや、実に楽しそうなリズムで『人生観が180℃変わった気がする。今ものすごく幸せ』と書き込みました。「N」さんの笑顔は今までの下品じみたものとは打って変わって、まるで大きな壁を乗り越えた人間の見せるそれになっていました。「N」さんはアルバムを最後まで捲り終えると、窓の外に広がる夜空を眺めました。そこでは宵の明星が、いつもよりも一際明るく輝いていました。

 続いて反応したのは、書き込んだ「名無し」さんでした。「名無し」さんは『それは良かった。あなた方の行く末に悠久の幸福があらんことを』と書き込みました。


「なるほど、皆何かしら身の回りに変化がおきてるんだな……しかも、幸せそうだ」
 俺は夜食のレタス巻きを齧りながら、次々と書き込まれてゆくレスを見続けた。俺と「O」さんだけは書き込まなかったが、皆「昨日」を境に人生に変化があったようだ。しかも全員、あの時の書き込みに「昨日への未練」を含んでいる。だとすると、もしかしたら「昨日」に遡ったりでもしたのか?
「さすがにそれはありえないか」レタス巻きを残り全部口に頬張ると、入っていたパックを輪ゴムでまとめてゴミ箱に放り投げる。お、ストライク。ナイスコントロール俺。プロ野球選手も夢じゃない。
 やや閑話休題。なるほど書き込んだ三人が何かしらの手段で「昨日」に戻ったのは確からしい。しかし俺は「昨日」などには戻っていないし、そもそも戻ろうとも思っていなかった。多分戻りたいと考えていなかったから戻らなかっただけだろうけど。今でも戻りたいとは思っていない。
 「昨日」に戻れたからって、何かが変わるわけでもない。少なくとも俺は、そう思っている。過去ばかり見つめ続けていては、絶対に前に進むことは出来ないのだ。

「――――そうとは限りませんよ?」
「うお!?」

 不意に背後に響いた風のような声に、俺は慌てて振り向いた。そこには、大和撫子とでも言うべきか。さらりとした長い黒髪が目を引く、端麗な女性が俺のベッドに腰掛けていた。一瞬何が起こったのかと頭が錯乱しかけたが、彼女の身体が“若干透けている”というのをいち早く発見して、俺の頭は事を推した。
「あんたが……彼らの運命を? 彼らを、『昨日』に遡らせた?」
 女性はしばらく天から見守るような目線を送っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「そうだといったところで、あなたはどうするつもりなのですか?」

       

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