「ちょっと有里!? アンタどこ行くの今日コンクールでしょ!?」
「それがどうしたって言うんですかーっ」
 背中の皮膚を引っ張る親の言葉をも無視して、私は健太の入院しているナントカ病院へ疾駆する。Tシャツによれよれのジーンズに裸足スニーカーだけど、格好なんて気にしない。自分の格好気にするくらいだったら、私は今こうして住宅街を駆け抜けていない。道行く人と目が合う。へへ。どうよ、私の姿は。もんのすごく格好悪いでしょう? 格好いいけど、すごく格好悪いでしょう?
 ランニング用のスニーカーだから、足が軽い軽い。だけど靴のおかげってわけでもなさそう。うへへ。なんだか今の私だったらどこまでも飛んで行けそうな気がする。
 大通りに飛び出した私は、もう頭の見えている大病院に照準を合わせ、ヨーイドンで全力疾走。すれ違う雑踏がうわっとかきゃあっとか言っているのが聞こえる。叫んでる暇があったらそこをどけ! この道は私だけのミラクルロードなんだ。大魔王(大切な人)が勇者(私)を待ち受けているんだっ!
 私の狂気じみた行為に腹を立てたのか、穏やかな顔をしていた信号が顔を真っ赤にする。その程度のことで私を止められると思ったら大間違いだ。鉄製の乗り物が排気ガスを吐きながら走る中へ、私は猛然とダッシュする!
 すぐさま右や左や右往左往やら、甲高いブレーキ音が響いた。「馬鹿野郎、死にてえのか!!」「信号無視すんな大歩危がァ!!」「おい警察呼べケーサツ」とかナントカ言ってる。ほう、警察ですかそうですか。どっちにしろ今の私を止められる奴なんで一人しかいないけどね。そして今私はその一人の元へと向かってるわけ。お分かり?
 なんだか後ろから「待てぇーっ!」と私の追っかけがついてきてるみたいだけど、ごめんね。残念だけど居間はあなたの相手をしてる暇はないの。
 コンクリート製建造物どもが碁盤目状に並ぶ町並みを、唐紅が白っぽく照らしあげる。私は暑さなんてものともせぬ勢いで、地面を蹴飛ばし続ける。天使のように体が軽い。今なら、カール・ルイスにだって余裕で勝てそうだ。
 病院はもう、腕二十本程度ぐらいの距離に見えている。こうなったら私の勝ちも同然だ。忌々しい自動扉を潜り抜けたら、その先には至福の――――
 むんず。
 と、誰かに左腕をつかまれた。慣性の法則に従って、私の体は前のめりになる。誰だ、私の腕をつかんだのは。この私を止めるなんていったいどういう「何がしたいんだね、君」お巡りさんだ。
「いやあ、ね。私はちょっと、ここに用事があって」と、私は病院をぴーんと指差す。
「信号無視をするような人が入っては困るんだけどねえ」とお巡りは言う。うるへー! お前に私の何が分かるって言うんだ!
 とは、なんとなく言えず。国家権力だし。
「は、はいスミマセン」
「とりあえずちょっと交番まで来てもらおうかな。悪意はないみたいだし」
 お、なんだ。その程度なのか。てっきり署にでも連行されるのかと思った。なんかリアリティにかけるな。もうちょっと問題行動引き起こしたら連行されるかな。ようし。
 そう考えた末に、私がとった行動。それは。
「けぇぇぇぇぇぇぇんたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
 病院の高層の方に向かって、大音声を発射する。その衝撃で、周囲の視線が蟻んこを焼く虫眼鏡のように一斉に私に集まる。おい、おい、火傷しちゃうよ。私に皆がエーカーグラター。
 それでも私は気にしない。確か健太の病室は道路側だったから、窓を閉めていてもこれくらいは聞こえるはず。だから私は空気を怒鳴るように叫び続ける。
「ぅおおわああたああああしいいいはああああああああああまちがってええええええええ」
「何奇声を上げとるんだ! さっさと来なさい!」
 首根っこを引っ張られても気にしない!
「どぅわあああかあああらあああわあああたあああしいいわああああああ」
 そこまで言ったところで、私は口を押さえられてむぐむぐ呻きながら、交番のほうに引っ張られていった。
 健太の病室らしき窓は開いていない。聞こえたのかも聞こえてないのかも分からない。もしかしたら信号無視なんてしなかったらちゃんと健太に会えたかもしれない。
 …………………………
 いいーや。違うね。私はこれでいいんだ。中途半端に健太に優しくしてたまるもんか。
 私は終始わがままな彼女だった。それだったら、最期のときまでわがままを貫き通すってモンがいいんじゃないのかねえ。一途ってモンじゃないのかねえ神様! 自己中心的って最高じゃないの! 私、仁川有里は、カレシ、中野健太を生涯困らせたことを誓いましたっ!
 警官にずりずりと引きずられながら、私は気持ち悪くうへへーと笑う。
「いーじゃんいーじゃん。ありのままの自分って」
 素晴らしいじゃん。何で今まで自分のこと閉じ込めてたんだろ。ばっかみたい。
 ああ、蝉の声が鼓膜に沁み渡る。今なら蝉と一緒に即興でセッションでもできてしまいそう。
 私はまるでそこに鍵盤があるかのように、両手を構える。
 そして。
「第三交響曲『蝉と私』、引っきまぁーすぅ!」
 蝉の声のリズムに合わせて、仮想の曲を弾き始めた。
 そのリズムは今まで弾いたどんな曲よりも。エリーゼよりも、第九よりも。
 ずっと強く、私の心の奥深くを打ち鳴らした。