Neetel Inside 文芸新都
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 思い出すに、そこまではまだまだ天国。で、ここからが地獄。
 まずはお望みどおり署まで連れて行かれ、調書か誓約書かよく分からないものを書かされた。二、三時間は軟禁されたと思う。イケメンの刑事と話せたのは楽しかったけど。そして周囲の注目を浴びながらのそのそと家に帰ると、コンクールまではなんとあと一時間。親に軽く叱咤された後に急いで会場に向かった。何とか受付には間に合って、今現在順番待ちをしている状況だ。なんかこの数時間で、人生の波乱万丈成分の半分くらい使っちゃった気がする。
 今ちょうど、最初の人が演奏を始めた。私の出番は三番目だから、十分ちょいで私の腕前が披露されることになる。トップが弾いているのは、「エリーゼのために」だ。確かにいい曲だけれども、今の私からすればそこら辺の子供向けの同様と大差ない。私の持ち曲は、ベートーヴェンの「第九」。子どものころから弾いていたけれども、いまだに楽譜がないと弾けない。覚えることは、本当に苦手なんだ。
 だけどそんなことは、今は何にも関係ない。どんな曲を弾こうが、何も問題ない。
 私の奥底で鳴り続けるメロディは、どんな曲よりも強く、そして、泥まみれで美しい。どーよ、これ。まさに格好悪いけど格好いいでしょ?
 一人目が終了。二人目が舞台に出て行く。確かこの人の曲は短めだったよね。だとしたら、後数分で出番なのか。うっわー、二回目だってのに緊張してきたぜコノヤロー。ちっくしょうめぇ。
 いくら生意気なことを心中で述懐してみても、やっぱり緊張のプレッシャーからは逃れられない。ん、緊張とプレッシャーって同じ意味? 重複? ま、いいか。多分こんなこと考えてる間にも出番は刻々と迫ってきてるんだよ。どうしようかねえ、このナーバス具合は。あの高揚感はどこへ行ったのやら。
 そんなことを考えていた時。ぶるる、とマナーモードの携帯がメールの着信を知らせた。
「こんなときにいったい誰やねん」
 と、見事な関西弁(多分漫才弁)で携帯に片道切符の突っ込み。しれっと流して携帯画面を開く。センターポチリでメール画面へ。さてさて、送信相手は、っと。
「………………おおっと」
 私はそのメールの本文を開いて、三秒ほど完全に硬直してしまった。視界が一枚の風景画と化す。私を中心に世界が回り始めてしまったみたいな感覚だ。すべてを支配してしまいそうな、生温い世界。
 私は改めて本文を読み返し、やがては周りに人があまりいないことをいいことにぼそぼそとつぶやき始める。意識してやったわけじゃない。鳥が空を翔るように、魚が海を泳ぐように、自ずから口が動いた。
 拍手喝采が聞こえる。前の人が終わった。私の番だ。
 私は携帯を静かにたたんで、荷物の中に仕舞う。すたすたと、白んだ照明で平等に照らし出される舞台の上に、私は立つ。観客席に向かって一礼する。拍手が巻き起こる。手を振る。椅子に座って、鍵盤の上に指を乗せる。
 譜面台に、楽譜はない。楽譜がないと、第九は弾けない。だけど、それでも構わない。
 だって、楽譜は要らないから。思いのままに弾いてしまえばいい。残念ながら蝉とのデュエットはかなわないけれど、それは私に対して一人で突き進めと言っているのと同じだろう。
 たとえコンクールで最下位を取るような結果に終わっても、私はきっと後悔しないだろう。
 なぜならもう既に、貰っているから。

 最高の、一等賞を。

       

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