Neetel Inside 文芸新都
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 自動扉をくぐると、病院独特の鼻につんと来る香りが鼻腔に広がる。すう、と吸い込むと横隔膜の当たりが痙攣しそうになったから、外の空気とともに吐き出す。幸い患者は数人で、あまり待たなくて良さそうだ。受付を手早く済ませて、待合室の椅子に座る。頭上の小さなテレビではニュースキャスターが饒舌に話していた。内容はもちろん、何度も聞いた事。
 私以外には、顔の皮膚が折りたたまれたお婆さんと、タイトスカートを履いた若い女性、それと小さな男の子を連れた初老程度の男性がいた。誰がどんな理由でここへきているかはわからないけれど、みんな同じ患者だ。もしかしたら命の危機に瀕している人だっているかもしれない。みんなそれを訊ねようとは思わないし、目すら合わせないけど、私以外にもこんなことを考えている人はいるかもしれない。
 初老の男性と男の子が名前を呼ばれて診察室へと向かっていった。田中さん、というらしい。下の名前は何だろうか。太郎? 昭造? いくら考えても、分かるはずはなかった。これが病院に来たときの暇つぶし。
 次に呼ばれたのは、折りたたみお婆さんこと東海林さんだ。庄司かもしれないけど、多分東海林。緩慢な動作で立ち上がると、のっそのっそと診察室へ歩いていった。何だろう。風邪かな。
 しばらくして初老の男性と男の子との入れ違いで、私の名前が呼ばれた。そそくさと診察室に向かうとなじみの先生がいた。一言目で「ジェネリック」っと言ってしまいそうになったけど、あわてて口を押さえた。その所為で「吐き気がするんですか?」と言われてしまった。違います。
 頭痛だとか色んな症状の説明をした後、いよいよお薬の処方タイム。
「症状は軽いみたいですね」
「はい。ですけど悪化したら仕事に支障が出るので、効き目が強めのものでお願いできますか? ジェネラルで」「分かりました。少々時間を頂きますが、よろしいですか?」「構いません」「あと、ジェネラルじゃなくてジェネリックですね」あ。練習したのに。
 互いに微笑した後、私は待合室に戻った。看護士さんの説明によると、三十分ほど待つらしい。少し出てくるには短すぎるから、小説のネタでも考えておこう。ゆっくりとソファに座る。お婆さんがちょうど病院から出て行った。男性と少年はもういなかった。タイトな女性は私と入れ違いに診察室に入っていって、待合室には私一人だけだった。静穏な空間に、私の呼吸の音とニュースキャスターの抑揚のある音声だけが響く。
 一人でこうしていると、思っているよりも時間が経つのは遅い。呼ばれるまで少し仮眠を取ろうかと思った、その時だった。
「ねえねえお姉さん」
 お姉さん、と言う単語にピクリと反応して、私は目蓋を上げる。目の前にはいつの間にか気配も感じさせずに、一人の少女が立っていた。顔立ちと身長的に、小学二年生程度といったところか。女の子は私の目をじーっと見つめている。どうしたんだろうと考えた時に、私は自分が問いかけられていることに気付いた。
「どうしたの?」
 私がやんわりと答えると、女の子は嬉しそうに言った。
「あのね。お姉さんって、あめさんは好き?」
「アメサン?」私は棒読みで訊き返した。「アメって、飴のこと?」
「ううん。お空から降ってくるあめさんだよ」
「ああ、そっちかあ。うーんどうかな、好きでも嫌いでもないな」
「そうなんだー。私はね、大嫌いなんだよ!」なんて大っぴらに大嫌いって言うんだこの子は。
「でもねー」女の子は言う。「ちょっとだけ好きになる時があるの」
「ちょっとだけ?」
「うん! それはね、傘持って歩く時! かえるさんとか、かたつむりさんとかに、あいさつするの! それでねー、長靴で水溜りに入って、ちゃぷちゃぷするの! とっても楽しいんだよ!」
「へぇ、そうなんだ。楽しそうだね」
「だからね、また、お外に行ってみたいなーって、時々思うの」
「外に?」
「うん。もう二度と外には出られないって言われちゃったから」
「え?」私は一瞬言葉に詰まった。「それは一体、どういう…………」

「――――さーん、三摘さーん」
 看護士さんの声で、私は我に帰った。どうやら眠ってしまっていたみたいだ。時刻は三時前。三十分ほど寝ていた。辺りを見回してみても、あの女の子はどこにもいなかった。確かにあの子と話したはずなのに、その子がいた病院は現実世界ではなく、私の頭の中の病院だった。それにしても、リアルだったなあ。
 折角なので、私は薬を渡してくれた看護士さんに、夢の中で出会った少女の容姿と言っていたことを伝えてみた。すると看護士さんは一瞬驚いた表情になったけど、すぐに表情を笑顔に戻して、こう言った。
「あー……懐かしいですねえ。いましたよ、その子」
「それで、外に出られないって言うのは、どうしてだったんですか?」
「えっとですね。確か、急性骨髄性白血病でしたかね……」
 その後数分ほど、私はその女の子の話を聞いた。名前は恩田加奈子。小学校二年生で、両親は早くに交通事故で亡くなったらしい。身寄りがなく病気がちだったために、この病院で暮らしていたと言うことだそうだ。そして、つい一ヶ月前。
 症状が急激に悪化して、この世を去ったと言う。

       

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