Neetel Inside 文芸新都
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 病院を出る頃には、小雨が降り始めていた。しとしとと服を濡らし、太陽に焼かれたアスファルトの匂いが蒸気のように嗅覚をくすぐる。平日の昼下がりは人通りが少なく、ちょうどこの間見た映画のワンシーンにそっくりだった。時をかける……何だっけ。忘れた。
 斜線の曖昧な道路を、自動車がしゃああと雨を掻き分けながら無作為に走る。空気は雨にもかかわらず妙に澄んでいる感覚がして、息を思い切り吸い込むと汚れた体内が浄化されるような気がした。視界にはうっすらと靄がかかって、山の方は霞んでいて肉眼では見えない。
 私は誰も歩いていない道を、ゆっくりと歩く。そのたびに足元の水が跳ねて、少しずつ足元を濡らした。群青色に染まる町は、ゆっくりと動き始めている。雨は次第に止みそうだった。
 不意に立ち止まって、道端に咲く紫陽花に目をやる。
 そこに、カエルやカタツムリはいない。
 あの子と一緒にいなくなってしまったのだろうか、と、私は根拠もないことを呟いた。そりゃそうだ。子どもが一人死んだところで何千万という生き物が死に絶えるはずはない。
 何が言いたいのか自分でもわからなくなってきたから、早足でアパートへと向かう。元より雨で服が濡れるのは思わしくない。一刻も早く部屋に帰って、シャワー浴びて、それから…………
 ……それから、何をしよう。私には、何ができる? せっかく「昨日」に戻る機会を得たというのに、私は何もできないまま終わるのか? いや、それでは駄目だ。何か、何か行動を起こさないと。
 そう、思い立ってはみるが、やはり何も思い浮かばない。結局のところ、私は仕事も趣味の小説も何一つ成就せず、雨のように片道切符の人生を送っていくことになるのか。私はきっと、主役にはなれない。誰かの物語の脇役として、ハンバーグランチのパセリとして、生きていかなければならないんだ。
 …………………………
 私をさらに貶めるように、雨が身体を穿つ。酸性雨かどうかはわからないけれど、肌の表面から内臓の奥深くまで、冷たいものが流れ、染み渡って行くような気がした。その感覚もいつかは薄れ、雨は私とニアミスしながら地面に落ち、私と私以外の世界とを分断しているように思えた、そんな時。
 私の視界の隅に、使い古された一本の傘が映った。骨も折れてずたずたに穴が開いているけれど、撥水性はあるようで、その表面は濡れてしまうことなく雨粒を受けて輝いていた。
 今の私と、辛うじて似ている。しかし彼は、私と違って、雨を受けても、濡れていない。それどころか、雨を受けて輝いている。
 そしてそれとリンクした「何か」に触発されて、私の脳内にあの子の言葉が再生された。
「………………あ」
 私の頭のパズルは、ピースを探して求め回っていた。そして今、それがようやく嵌った。そんな気がした。
 急激に視界が開けたような錯覚に陥る。雨は激しくなってきそうだったけど、私はそれをむしろ、迎え入れようとしていた。喜んで、喜んで。
 空を見上げる。ぼたぼたと雨粒が顔面に打ち付ける。顔が洗顔の後みたいにびしょびしょになった。思い切り泣いた後のように、雫で満たされた。
 だけどそこには、悲しみ以外の感情があった。
「そうかそうかそういうことか」
 リズムに乗って、私は呟く。ぶるぶるっと傘の雫を飛ばすように顔を振って、ぐっと前を見つめる。そこにあるのは相変わらず足跡の少ない道に、時々すれ違う鉄の怪物。
 そして、私。
 紛うことなき、三摘花乃。
「なあるほどね」
 何を理解したのか、悟ったのかは分からない。神仏のごとく悟りの境地に達したわけではなければ、全てを察知した預言者になったつもりもない。端的に言うと、面倒になった。
 誰が主人公で脇役とか、「昨日」戻ったから何をすればいいかとか、私は何もできないまま終わるのかとか、そんなの私に分かるわけがない。
 私は、主人公でもなければ、脇役でも、神でも、仏でもない。
 私は、私だ。それ以外に、何か理由が要るだろうか。私が、生きていることに。
「まあ結局のところはよく分からないけどね」
 もっともだ。私はただ「私」という人間の中を奔走している一個体に過ぎないのだから。
 それに、ちょっといい考えも思いついた。このよく分からない感じを、私が奔走するという私自身の物語を、小説にしてみよう。それは実に馬鹿な発想だった。だけど、それでいいんだ。私が趣味でどんなに馬鹿を犯そうと、きっとこの世界には何も関係ない。私はもう、陰湿な人間でも、雨女でもない。
 “あの子”のように喩えるなら、そう。
 私は、アンブレラガール。
 土砂降りを受け続けても、なお輝き続けてみせる。
 数分前とは打って変わって有頂天な私は、調子のいいことに早速小説のネタとかプロットとかを練り始めて、アパートの前にたどり着く頃には、タイトルを決めるまでに達していた。
「タイトルかあ……」
 私は神の手によってかは分からないけど、「昨日」にやってきた。それで物質的に得たものといえば、頭痛をより強力に抑える薬しかない。でも、得た物は他にあった。
 ずっと忘れていた思い出のような、何か。
 こんな調子の、今現在世界で一番馬鹿になっているだろう私の生き様を描くストーリー。

 その、タイトルは――――

       

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