昨日ノート
二章 雨が降ったなら
ざあざあと、窓を打ちひしぐ雨の音が鼓膜に突き刺さる。夜の色で塗り固められた空は月を写さずにいて、ただただ大口を開けたように吸い込まれそうな真っ暗闇が蒼穹を黒で埋め尽くしていた。雨は好きではない。だけど、嫌いでもない。雨自体は好きだったけれど、雨に関するあることが原因で心のそこからは好むことができなくなっていた。
私は今一度パソコンのディスプレイに向き直る。適当に拾ってきたフリーのテキストエディタに、小難しい表現やら会話文やらがこぞって並んでいた。この画面が表示されたまま、新たな文字は刻まれていない。私のキーボードの打つ音は、降りつける雨の音に及び腰になっているようだった。
テキストエディタをタスクに仕舞って、見慣れた画面を開く。空色を基調とした、スローペースのチャットのようなスペース。リアルタイム、と言うのが現代っ子っぽいのかもしれない。もう若くはないけど。
私は「いまどうしてる?」という平等の問いにカタカタとキーボードを軽く叩いて、タブキーとエンターキーを押す。私の呟きが表示される。それには誰も答えることはないだろうし、もちろん私も答えて欲しいとは思わない。私はこのサイトを本当に「呟き」でしか利用していない。だから交流を求めていなければ、第二者や三者に私の考えに対する意見を求めたりもしていない。本当に、ただの独り言なのだ。
それならば日記帳にでも書けばいいかもしれない。でも私は面倒くさがりだから、すぐに手に入るものしかやらないのだ。だからこうして、趣味で小説なんて書き始めてしまった。今では仕事に追われながら小説を書く日々。いつかこの上下関係が逆転してしまいそうで、私は心底おびえているし、期待もしている。
しかし、自分の書いた小説をどこかに公開したり、他人に見せるようなことはしていない。これも先刻の呟き同様、個人の独り言の範疇だ。それだから物語も大きく展開しないし、山場もなければ落ちもない。いつしか私は何を書きたいのかも忘れたまま、ただ延々と文字の羅列を積み重ねていた。
夜の十時を回った。昨日の朝熱を測ると高熱だったため会社を休んだのだけれど、昼になる前に平熱に戻ってしまった。だから病院でも大した薬は貰わずにいたのだけど。それが過ちになるとは思わなかった。
夜に差し掛かり、再び熱が頭痛とともに光来。それが日付を越えても続き、少しは和らいだとはいえ今現在も苦しみながらディスプレイとにらめっこをしている。
「……はあ」
何度目のため息か、もう数えるのも億劫になった。申し訳程度の頭痛止めを飲んだけれども、脳幹をすり鉢にかけるような微細な痛みが絶えることはなかった。脳味噌が味噌汁にされてしまったかのように、とろとろに溶けているようだった。
新着の呟きが十件もあると言うことだったので、一応展開してみる。どうでも、いいようなことばかりだったものの、ある一つの呟きが私の目に留まった。
それは、偶に見ている掲示板でよく名前を見る人の呟きだった。
『時々見てる掲示板の新スレッドがおかしいのなんのって。つい書き込んじゃった』
時々見てる掲示板。確証があるわけではなかったが、私はすぐにその掲示板を開いてみた。確かタイトルはタイムマシンだのなんだの。そんなことに興味はなくて、私はいつも閲覧ばかりしていた。
掲示板の新スレッド一覧を見る。すると、一番上に明らかに目を引くスレッドタイトルが光っていた。
『もし昨日に戻れるとしたら、あなたはどうしますか?』
「昨日……?」
私は眉根を寄せて、しばらくそのタイトルをまじまじと眺める。未来に行けるならとか過去に戻れるならとかの抽象的な仮定の類ではなく、「昨日に戻れたらどうするか」という、半ば具体的な問いかけ。それに感銘を受けたのか、自然とディスプレイ上のカーソルは書き込み欄をクリックし、私は再びカタカタとキーボードを鳴らしていた。そして一通り書き終えると、送信ボタンを押す。
『昨日病院で痛み止めをもらってきたんだけど、ぜんぜん効いてないの。こんなことになるならもっと効き目が強いやつをもらってくればよかったなって思ってる』
結局のところ、これも独りよがりの述懐に過ぎなかった。その掲示板も独り言を呟いただけで閉じてしまったし、再びディスプレイと部屋に沈黙が訪れる。
私は回転椅子の背もたれにぎいと寄りかかると、首だけを横に向けて窓の中の景色を見つめる。
雨。鉛のように振り続ける、雨。もしも酸性雨ならば、外に飛び出して溶けてしまいたい。
私は昔から何かと雨に縁があった。修学旅行は台風が直撃するし、私が出席した遠足は大体大雨で校内遠足か中止。私が一歩も出歩かなければ外はかんかん照り。一歩出ればまるでスコールのよう。
そうしてつけられたあだ名は言うまでもなかった。
雨女こと私三摘花乃は、俗に言う根暗で陰鬱で、本当に雨のような人間だった。
今も、昔も。きっとこれからも。
私は今一度パソコンのディスプレイに向き直る。適当に拾ってきたフリーのテキストエディタに、小難しい表現やら会話文やらがこぞって並んでいた。この画面が表示されたまま、新たな文字は刻まれていない。私のキーボードの打つ音は、降りつける雨の音に及び腰になっているようだった。
テキストエディタをタスクに仕舞って、見慣れた画面を開く。空色を基調とした、スローペースのチャットのようなスペース。リアルタイム、と言うのが現代っ子っぽいのかもしれない。もう若くはないけど。
私は「いまどうしてる?」という平等の問いにカタカタとキーボードを軽く叩いて、タブキーとエンターキーを押す。私の呟きが表示される。それには誰も答えることはないだろうし、もちろん私も答えて欲しいとは思わない。私はこのサイトを本当に「呟き」でしか利用していない。だから交流を求めていなければ、第二者や三者に私の考えに対する意見を求めたりもしていない。本当に、ただの独り言なのだ。
それならば日記帳にでも書けばいいかもしれない。でも私は面倒くさがりだから、すぐに手に入るものしかやらないのだ。だからこうして、趣味で小説なんて書き始めてしまった。今では仕事に追われながら小説を書く日々。いつかこの上下関係が逆転してしまいそうで、私は心底おびえているし、期待もしている。
しかし、自分の書いた小説をどこかに公開したり、他人に見せるようなことはしていない。これも先刻の呟き同様、個人の独り言の範疇だ。それだから物語も大きく展開しないし、山場もなければ落ちもない。いつしか私は何を書きたいのかも忘れたまま、ただ延々と文字の羅列を積み重ねていた。
夜の十時を回った。昨日の朝熱を測ると高熱だったため会社を休んだのだけれど、昼になる前に平熱に戻ってしまった。だから病院でも大した薬は貰わずにいたのだけど。それが過ちになるとは思わなかった。
夜に差し掛かり、再び熱が頭痛とともに光来。それが日付を越えても続き、少しは和らいだとはいえ今現在も苦しみながらディスプレイとにらめっこをしている。
「……はあ」
何度目のため息か、もう数えるのも億劫になった。申し訳程度の頭痛止めを飲んだけれども、脳幹をすり鉢にかけるような微細な痛みが絶えることはなかった。脳味噌が味噌汁にされてしまったかのように、とろとろに溶けているようだった。
新着の呟きが十件もあると言うことだったので、一応展開してみる。どうでも、いいようなことばかりだったものの、ある一つの呟きが私の目に留まった。
それは、偶に見ている掲示板でよく名前を見る人の呟きだった。
『時々見てる掲示板の新スレッドがおかしいのなんのって。つい書き込んじゃった』
時々見てる掲示板。確証があるわけではなかったが、私はすぐにその掲示板を開いてみた。確かタイトルはタイムマシンだのなんだの。そんなことに興味はなくて、私はいつも閲覧ばかりしていた。
掲示板の新スレッド一覧を見る。すると、一番上に明らかに目を引くスレッドタイトルが光っていた。
『もし昨日に戻れるとしたら、あなたはどうしますか?』
「昨日……?」
私は眉根を寄せて、しばらくそのタイトルをまじまじと眺める。未来に行けるならとか過去に戻れるならとかの抽象的な仮定の類ではなく、「昨日に戻れたらどうするか」という、半ば具体的な問いかけ。それに感銘を受けたのか、自然とディスプレイ上のカーソルは書き込み欄をクリックし、私は再びカタカタとキーボードを鳴らしていた。そして一通り書き終えると、送信ボタンを押す。
『昨日病院で痛み止めをもらってきたんだけど、ぜんぜん効いてないの。こんなことになるならもっと効き目が強いやつをもらってくればよかったなって思ってる』
結局のところ、これも独りよがりの述懐に過ぎなかった。その掲示板も独り言を呟いただけで閉じてしまったし、再びディスプレイと部屋に沈黙が訪れる。
私は回転椅子の背もたれにぎいと寄りかかると、首だけを横に向けて窓の中の景色を見つめる。
雨。鉛のように振り続ける、雨。もしも酸性雨ならば、外に飛び出して溶けてしまいたい。
私は昔から何かと雨に縁があった。修学旅行は台風が直撃するし、私が出席した遠足は大体大雨で校内遠足か中止。私が一歩も出歩かなければ外はかんかん照り。一歩出ればまるでスコールのよう。
そうしてつけられたあだ名は言うまでもなかった。
雨女こと私三摘花乃は、俗に言う根暗で陰鬱で、本当に雨のような人間だった。
今も、昔も。きっとこれからも。
「……それにしてもなんだかおかしい」
明らかな異変に気付いたのは、翌日の朝だった。昨日の雨も嘘のように止んでいて、テレビニュースでは男子高校生の自殺のニュースだった。そしてどういうことか、その名前には見覚えがあった。それだけではない。そのほかのニュースも、どれもニューとは呼びがたい既知の事実ばかりだった。この時点で、ようやく私は違和感に気付いた。
毎日斜線を入れているカレンダーも。黒の地味な携帯の日付も。どちらも六月十一日ではなく、六月九日を頑として示していた。
「どういうこと?」
自問に近いニュアンスで呟く。もちろん「独り言」に答えてくれる生き物はいないわけで、鼓膜に鳴り響くのは騒々しいミンミンゼミの鳴き声だった。ミンミンゼミよく鳴くな。ミンミンゼミよく鳴く。
汗ばんだT寝巻きを脱いで、ハンガーにかけてあるタオルで体全体をよく拭く。寝るときはいつも大体Tシャツにパンツ。これも「独り言」に過ぎないからぶっちゃけても一向に構わない。箪笥を開けて適当な服とズボンを見繕うと、一分をしないうちに着替え終了。シャワーを浴びてもいいけど、面倒くさい。
そこで一つ思い出したことがあった。頭痛がひどい。数十本の杭で同時に頭蓋を打たれるかのような痛みが大脳新皮質から脳髄まで沁み渡る。立ち上がったままでいると目眩で倒れてしまいそうだ。これはまずい。とりあえず会社は無理っぽいから、休んで病院に行こう。……会社にはあんまり行きたくないし。
そしてまた思い出す。確か「昨日」――――“六月九日”も、同じようなことがあった。朝から頭痛がしたので会社を休んで病院に行こうとすると、昼になってから急に痛みが引いた。だからそこまで効き目の強い薬は貰わずにいたのだけど、夜になって頭痛が再来する結果になった。ここまで既知情報が積み重なってくると、いよいよ本当に「昨日」に戻ってしまったのかと考える。見間違いのないように、もう一度携帯を開く。六月九日、間違いない。
私はリビングに向かってその足で台所まで行き、食パンを二枚取り出して見事なコントロールでトースターにシュートする。自動で焼き上げるタイプなのですぐにヴヴンと駆動音が聞こえた。冷蔵庫を開けて二秒間だけ冷気を堪能し、牛乳を取り出してコップに注ぐ。一分間ほどボーっとしていると程なく食パンが焼き上がったので、右手に牛乳、左手に食パンを一枚乗せた皿、口に食パンを一枚装備してリビングに向かい、器用に右足の小指でテレビのスイッチを入れる。やはり一度訊いたことのある「オールズ」が速報を銘打って流されていた。
「本当に、六月九日に戻ってしまったのか」
別に驚きも戸惑いもしなかった。原因はあの掲示板だとこと知れたからだ。私はタイムマシンの存在を半ば信じていたので、むしろ喜びがこみ上げてきた。だけど過去に戻れたからと言って、特に変わることもなかった。強いて言えば、もう少し効き目の強い薬を処方してもらうくらいだった。
「昼になったら、病院に行こうかな」
食パンを噛み千切りなら「独り言」をこぼし、牛乳を一口であおった。時折聞き慣れたニュースの内容を復唱しながら、食パンを一枚残らず食べ終える。食欲だけはいつも旺盛。
外出用にはカーディガンを一枚羽織ればいいから、ベッドにごろんと横になる。目覚まし時計を十二時にセットして昼寝準備完了。まだ朝だから、二度寝と呼ぶべきだろうか。なんてことを考えることも面倒になるほどに、すぐに意識はまどろんでいった。視界の上に靄が寝転んで、うつらうつらと意識は千鳥足になる。よく寝る女だな、と自分で思って苦笑する。
この時はまだ気付いてなかったけど、既に大分頭痛が引き始めていた。つまりそれは何を意味しているのか。過去の経験では、頭痛が和らいできたのは昼ぐらいだ。
何時間か寝たあとに、ふと時計を見る。そういえばまだ、時刻の確認をしていなかった。
一時三十分。ということは私が起きたとき既に、十時を回っていたのだった。ということは。
ということは、の先からは何も言葉が思いつかなかったので、急いでがーディガンを装着し、財布と保険証を確認して玄関から飛び出す。頭の奥を締め上げるような痛みは、ほとんどない。だけど、奴がリベンジを計っていることは、もう今の私は予測済み。油断する気なんてさらさらない。
私は「再発すると困るので効き目が強い薬をお願いできますか。ジェネリックで」という台詞を道中で何度も繰り返し呟き、二時には病院へとたどり着いた。
自動扉をくぐると、病院独特の鼻につんと来る香りが鼻腔に広がる。すう、と吸い込むと横隔膜の当たりが痙攣しそうになったから、外の空気とともに吐き出す。幸い患者は数人で、あまり待たなくて良さそうだ。受付を手早く済ませて、待合室の椅子に座る。頭上の小さなテレビではニュースキャスターが饒舌に話していた。内容はもちろん、何度も聞いた事。
私以外には、顔の皮膚が折りたたまれたお婆さんと、タイトスカートを履いた若い女性、それと小さな男の子を連れた初老程度の男性がいた。誰がどんな理由でここへきているかはわからないけれど、みんな同じ患者だ。もしかしたら命の危機に瀕している人だっているかもしれない。みんなそれを訊ねようとは思わないし、目すら合わせないけど、私以外にもこんなことを考えている人はいるかもしれない。
初老の男性と男の子が名前を呼ばれて診察室へと向かっていった。田中さん、というらしい。下の名前は何だろうか。太郎? 昭造? いくら考えても、分かるはずはなかった。これが病院に来たときの暇つぶし。
次に呼ばれたのは、折りたたみお婆さんこと東海林さんだ。庄司かもしれないけど、多分東海林。緩慢な動作で立ち上がると、のっそのっそと診察室へ歩いていった。何だろう。風邪かな。
しばらくして初老の男性と男の子との入れ違いで、私の名前が呼ばれた。そそくさと診察室に向かうとなじみの先生がいた。一言目で「ジェネリック」っと言ってしまいそうになったけど、あわてて口を押さえた。その所為で「吐き気がするんですか?」と言われてしまった。違います。
頭痛だとか色んな症状の説明をした後、いよいよお薬の処方タイム。
「症状は軽いみたいですね」
「はい。ですけど悪化したら仕事に支障が出るので、効き目が強めのものでお願いできますか? ジェネラルで」「分かりました。少々時間を頂きますが、よろしいですか?」「構いません」「あと、ジェネラルじゃなくてジェネリックですね」あ。練習したのに。
互いに微笑した後、私は待合室に戻った。看護士さんの説明によると、三十分ほど待つらしい。少し出てくるには短すぎるから、小説のネタでも考えておこう。ゆっくりとソファに座る。お婆さんがちょうど病院から出て行った。男性と少年はもういなかった。タイトな女性は私と入れ違いに診察室に入っていって、待合室には私一人だけだった。静穏な空間に、私の呼吸の音とニュースキャスターの抑揚のある音声だけが響く。
一人でこうしていると、思っているよりも時間が経つのは遅い。呼ばれるまで少し仮眠を取ろうかと思った、その時だった。
「ねえねえお姉さん」
お姉さん、と言う単語にピクリと反応して、私は目蓋を上げる。目の前にはいつの間にか気配も感じさせずに、一人の少女が立っていた。顔立ちと身長的に、小学二年生程度といったところか。女の子は私の目をじーっと見つめている。どうしたんだろうと考えた時に、私は自分が問いかけられていることに気付いた。
「どうしたの?」
私がやんわりと答えると、女の子は嬉しそうに言った。
「あのね。お姉さんって、あめさんは好き?」
「アメサン?」私は棒読みで訊き返した。「アメって、飴のこと?」
「ううん。お空から降ってくるあめさんだよ」
「ああ、そっちかあ。うーんどうかな、好きでも嫌いでもないな」
「そうなんだー。私はね、大嫌いなんだよ!」なんて大っぴらに大嫌いって言うんだこの子は。
「でもねー」女の子は言う。「ちょっとだけ好きになる時があるの」
「ちょっとだけ?」
「うん! それはね、傘持って歩く時! かえるさんとか、かたつむりさんとかに、あいさつするの! それでねー、長靴で水溜りに入って、ちゃぷちゃぷするの! とっても楽しいんだよ!」
「へぇ、そうなんだ。楽しそうだね」
「だからね、また、お外に行ってみたいなーって、時々思うの」
「外に?」
「うん。もう二度と外には出られないって言われちゃったから」
「え?」私は一瞬言葉に詰まった。「それは一体、どういう…………」
「――――さーん、三摘さーん」
看護士さんの声で、私は我に帰った。どうやら眠ってしまっていたみたいだ。時刻は三時前。三十分ほど寝ていた。辺りを見回してみても、あの女の子はどこにもいなかった。確かにあの子と話したはずなのに、その子がいた病院は現実世界ではなく、私の頭の中の病院だった。それにしても、リアルだったなあ。
折角なので、私は薬を渡してくれた看護士さんに、夢の中で出会った少女の容姿と言っていたことを伝えてみた。すると看護士さんは一瞬驚いた表情になったけど、すぐに表情を笑顔に戻して、こう言った。
「あー……懐かしいですねえ。いましたよ、その子」
「それで、外に出られないって言うのは、どうしてだったんですか?」
「えっとですね。確か、急性骨髄性白血病でしたかね……」
その後数分ほど、私はその女の子の話を聞いた。名前は恩田加奈子。小学校二年生で、両親は早くに交通事故で亡くなったらしい。身寄りがなく病気がちだったために、この病院で暮らしていたと言うことだそうだ。そして、つい一ヶ月前。
症状が急激に悪化して、この世を去ったと言う。
病院を出る頃には、小雨が降り始めていた。しとしとと服を濡らし、太陽に焼かれたアスファルトの匂いが蒸気のように嗅覚をくすぐる。平日の昼下がりは人通りが少なく、ちょうどこの間見た映画のワンシーンにそっくりだった。時をかける……何だっけ。忘れた。
斜線の曖昧な道路を、自動車がしゃああと雨を掻き分けながら無作為に走る。空気は雨にもかかわらず妙に澄んでいる感覚がして、息を思い切り吸い込むと汚れた体内が浄化されるような気がした。視界にはうっすらと靄がかかって、山の方は霞んでいて肉眼では見えない。
私は誰も歩いていない道を、ゆっくりと歩く。そのたびに足元の水が跳ねて、少しずつ足元を濡らした。群青色に染まる町は、ゆっくりと動き始めている。雨は次第に止みそうだった。
不意に立ち止まって、道端に咲く紫陽花に目をやる。
そこに、カエルやカタツムリはいない。
あの子と一緒にいなくなってしまったのだろうか、と、私は根拠もないことを呟いた。そりゃそうだ。子どもが一人死んだところで何千万という生き物が死に絶えるはずはない。
何が言いたいのか自分でもわからなくなってきたから、早足でアパートへと向かう。元より雨で服が濡れるのは思わしくない。一刻も早く部屋に帰って、シャワー浴びて、それから…………
……それから、何をしよう。私には、何ができる? せっかく「昨日」に戻る機会を得たというのに、私は何もできないまま終わるのか? いや、それでは駄目だ。何か、何か行動を起こさないと。
そう、思い立ってはみるが、やはり何も思い浮かばない。結局のところ、私は仕事も趣味の小説も何一つ成就せず、雨のように片道切符の人生を送っていくことになるのか。私はきっと、主役にはなれない。誰かの物語の脇役として、ハンバーグランチのパセリとして、生きていかなければならないんだ。
…………………………
私をさらに貶めるように、雨が身体を穿つ。酸性雨かどうかはわからないけれど、肌の表面から内臓の奥深くまで、冷たいものが流れ、染み渡って行くような気がした。その感覚もいつかは薄れ、雨は私とニアミスしながら地面に落ち、私と私以外の世界とを分断しているように思えた、そんな時。
私の視界の隅に、使い古された一本の傘が映った。骨も折れてずたずたに穴が開いているけれど、撥水性はあるようで、その表面は濡れてしまうことなく雨粒を受けて輝いていた。
今の私と、辛うじて似ている。しかし彼は、私と違って、雨を受けても、濡れていない。それどころか、雨を受けて輝いている。
そしてそれとリンクした「何か」に触発されて、私の脳内にあの子の言葉が再生された。
「………………あ」
私の頭のパズルは、ピースを探して求め回っていた。そして今、それがようやく嵌った。そんな気がした。
急激に視界が開けたような錯覚に陥る。雨は激しくなってきそうだったけど、私はそれをむしろ、迎え入れようとしていた。喜んで、喜んで。
空を見上げる。ぼたぼたと雨粒が顔面に打ち付ける。顔が洗顔の後みたいにびしょびしょになった。思い切り泣いた後のように、雫で満たされた。
だけどそこには、悲しみ以外の感情があった。
「そうかそうかそういうことか」
リズムに乗って、私は呟く。ぶるぶるっと傘の雫を飛ばすように顔を振って、ぐっと前を見つめる。そこにあるのは相変わらず足跡の少ない道に、時々すれ違う鉄の怪物。
そして、私。
紛うことなき、三摘花乃。
「なあるほどね」
何を理解したのか、悟ったのかは分からない。神仏のごとく悟りの境地に達したわけではなければ、全てを察知した預言者になったつもりもない。端的に言うと、面倒になった。
誰が主人公で脇役とか、「昨日」戻ったから何をすればいいかとか、私は何もできないまま終わるのかとか、そんなの私に分かるわけがない。
私は、主人公でもなければ、脇役でも、神でも、仏でもない。
私は、私だ。それ以外に、何か理由が要るだろうか。私が、生きていることに。
「まあ結局のところはよく分からないけどね」
もっともだ。私はただ「私」という人間の中を奔走している一個体に過ぎないのだから。
それに、ちょっといい考えも思いついた。このよく分からない感じを、私が奔走するという私自身の物語を、小説にしてみよう。それは実に馬鹿な発想だった。だけど、それでいいんだ。私が趣味でどんなに馬鹿を犯そうと、きっとこの世界には何も関係ない。私はもう、陰湿な人間でも、雨女でもない。
“あの子”のように喩えるなら、そう。
私は、アンブレラガール。
土砂降りを受け続けても、なお輝き続けてみせる。
数分前とは打って変わって有頂天な私は、調子のいいことに早速小説のネタとかプロットとかを練り始めて、アパートの前にたどり着く頃には、タイトルを決めるまでに達していた。
「タイトルかあ……」
私は神の手によってかは分からないけど、「昨日」にやってきた。それで物質的に得たものといえば、頭痛をより強力に抑える薬しかない。でも、得た物は他にあった。
ずっと忘れていた思い出のような、何か。
こんな調子の、今現在世界で一番馬鹿になっているだろう私の生き様を描くストーリー。
その、タイトルは――――