Neetel Inside 文芸新都
表紙

臭い女とババア
1、文と和と涼

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 あーあ、マンコ腐りそう。
 三年付き合った初めての彼氏と別れて、悲しみも癒えた先に思ったのはそんな事だった。大学も夏休みで、元彼と同じで気まずくなったバイトも辞めて、サークルもほぼ飲みサーだから行かなくて、暇極まりない。毎日朝の4時くらいに寝て、昼の1時くらいに起きて、ごろごろして過ごす。部屋の床に積み重なる洗濯物と、小汚くなったテーブルの上。切れ掛かってピンピンと変な音を立てながら点滅する蛍光灯が、正常じゃない私の精神状態みたい。
 パソコンがスクリーンセイバーを映している。元彼にカッコいいと言われた球体関節人形の画像。付き合う少し前くらいに話題に上がって、球体関節人形を知っている男の人って素敵と思ってますます好きになったんだ。
 今思えばタダの中二病でしかない。
 結局スクリーンセイバーをずっと面倒くさくて変えてないように、もう終わっている関係を別れ話すら面倒で続けてたんだ。
 ベッドの上で寝返りをうって、毛布を抱く。この糞暑い夏に冷房を効かせて毛布で温まって寝るのが至極。左手で毛布を抱いて右手でトランクスの中に手を突っ込む。彼氏が置いていったトランクスと、親が一人暮らしを始めるからって干しておくように持たせてくれたトランクスは部屋着と化した。キャミソールとトランクスって一番の部屋着だ。少し伸びた陰毛の間からクリトリスに触れて擦る。さっき終えたばかりで濡れていて気持ち悪くてすぐに洗面台に立った。中指の匂いを嗅ぐと臭い。ハンドソープで洗いながら、鏡で見た顔は不細工だった。
 オナニーはいつもクリトリスだからマンコがいくら液体を分泌しても何も利用されることなく洗い流される。むしろ臭い原因にもなる。湿った場所にカビが生えるように、私のマンコも腐るんじゃないのか。手を丁寧に洗うとタオルで拭いて、ふと身体を見た。揉まれたせいか成長期だったのか大きくなった胸と、ここ最近まともな食事をしていなくて削ぎ落ちるようにへこんだ腹。20歳のこの身体を腐らせておくのは勿体無い。足枷が無くなったんだ、遊びに行こう。ていうか男とやりてぇ。セフレ欲しい。彼氏ってポジションは面倒だから要らないけど、ナンパとかされたい。適当にビッチみたいな服着てぶらぶらしてたら声かけられないかな。
 急に笑いがこみ上げて来て、そのまま横にある風呂に入って全身洗って、無駄毛を剃った。バスタオルを忘れてびしょびしょで部屋に戻ると、朝5時で手始めに早朝露出狂でもしてやるかと数日振りにブローとメイクをした。こんな朝早くから声かけられるなんて思わないし、
大学の友達とかに見られたら嫌だからとりあえず最初は度胸試し。下着を着けてチューブトップにデニムのミニスカを履く。いつもなら絶対上着を羽織るけれど今日はこれで終わり。そのままビーサンを履いて家を出た。
 車を少し飛ばして人気の無い公園に行く。ここは田舎だから大学生の半分くらいが車を持っているんだ。薄暗い中、車は心地よく信号を無視して、最短時間で公園に着いた。6時からはきっとラジオ体操とかが始まるから、今だけだなとベンチに座る。
 開放感。
 露出狂って居るけど何となく気持ちわかるかもしれない。太陽が出始めた公園はひっそりとしていて、遊具もあまり無く、ゲートボール用の線みたいのだけ引いてある。風は無いけれどもいつもより涼しい。それでも少し暑いけれど。青姦ってしたことないな、誰か誘ってくれないかなと思っていると、後ろから凄い早い足音が聞こえて、振り向くとお婆さんが勢いをつけて迫ってきた。
「あらあらこんな寒い格好してぇ!」
長袖長ズボンにコートを羽織ったお婆さんにストールを掛けられた。あまりに早い出来事だったので目を見開いて固まっていたら、お婆さんは焦点の合わない目で寒かったでしょうと笑った。何だかよくわからない悪臭がした。私の中指の匂いと似ているような違う匂いで、吐き気がこみ上げた。

     

「これから夜になって寒くなるでしょう、若い子でも気をつけなきゃ」
 何を言っているんだ。明け方だぞ、と訝しげにお婆さんを見つめる。心理テストみたいのであった気がする、これは夕日ですか朝日ですかみたいな。それとは違う本当におかしくなっている感じに、これが認知症かと思う。
 お婆さんは私の横に座って、私の足を擦り出した。ひぃと息を呑む悲鳴をあげて、硬直した。
「足もこんなに冷たくなってねぇ」
 軽くホラーだ。やめろババアとも言えずに大人しく首を横に振る。脱毛したての肌はつるつるで触り心地が良いだろう、こんなババアに触られるために脱毛したわけじゃないんだ。皺皺な縮れたような手が私の左足を行き来する。直ぐ横に座られたことで匂いが強烈になる。
 お婆さんの髪の毛はべたっとしていて黒髪の根元が白くなっている。色が白くて皺だらけの顔は、目が空ろで小ぶりだから小さくまとまって見える。全体的に小汚い、多分ホームレスなんかでは無いんだろうけれど、着ている服も少し汚いしこの匂いは酷く鼻につく。
 それでも、痴漢に襲われた時と同じく驚くと何も抵抗出来なくなる。お婆さんに太ももを擦られながら、することもなく遠くを見つめた。手持ち無沙汰だ、煙草でも吸えれば良かったのに大学受験ストレス以来煙草の値段高騰に付いて行けなくなって必然的に禁煙になった。煙草も制限されて、酒なんかも飲酒運転が凄い制限されて、不況で、携帯やらツィッターやらで行動制限されて、そりゃあ鬱も増えるわと舌打ちをした。
「あぁぁぁぁぁ、ごめんなさいーー!!」
 隣から奇声のような大声と謝罪が聞こえて再度固まる。舌打ちがいけなかったのかお婆さんは震えながら腰を折って縮こまった。両手で耳を塞いでいるのか、頭を抱えているのか。
「いや、あの、お気になさらずに……」
 ああもう面倒くさい。過剰反応するんじゃねぇよ、こっちだってお前の行動黙って見てたってのに。左手でお婆さんの背中を撫でる。弱弱しく背骨がコート越しに当たって、以前飼っていた犬の死ぬ寸前を思い出した。老衰の場合、やせ細って死んでいく、そこは犬も人間も同じみたいだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい貴方、怒らないで。
 もう止めて、お願いですから」
 震えながら私に必死に謝るお婆さんを見て、勘違いをしているなという思いと、恐ろしい事に嗜虐心を感じた。そんな対応してるからその「貴方」を煽るんじゃないのかと笑いを堪える。
「勘違いなさっていますよ、私はお婆さん存じ上げませんから。
 どなたかと勘違いなさっているんじゃないですかね」
 勤めて笑顔で、バイトで備わった営業スマイルだ。もう付き合うのが面倒くさいからベンチから立ち上がって車に戻ろうとした。肩に掛かっているストールを外した瞬間にダメよ、と大声が響いた。
「ダメよ、子供は風の子って言ってもまだ肌寒いから」
 そう言ってお婆さんは素早く私の肩に両手を置いて座らせた。私の方が身長が高いのにぞっとするほどの力で肩を押された。今度は私の役は何になったんだ。さっきの舌打ちでの奇声のせいで溜息も出なくなって、無言で隣に座ると、うちの和也と仲良くしてやってねみーちゃんと言われた。
「私みーちゃんじゃないんですけど」
 そろそろイラついてきた。私は介護職には絶対就けないと判明した。
「みーちゃんじゃないの?ごめんなさいねぇ、おばちゃん記憶力がねぇ。
 お名前教えてくれるかな」
「………アヤコです」
 おばちゃんって年じゃねぇよ。お婆さんは私の左肩に手を置いたまま、笑顔で私の顔を覗き込んでくる。本名を教える必要性は無かったのだろうけど、とっさに思いつかなかった。笑顔で覗き込まれると気持ち悪いし臭い。朝っぱらからホラーって笑える、マンコも乾燥してくれるだろう。
「アヤコちゃん?漢字はどの字かしら、糸偏に旬かしら、それとも……」
「文学の文で文子です」
 私の性格の間逆のような名前で好きではない漢字。大体平成生まれなのに文子って可愛らしさの欠片もない。その答えを聞いてお婆さんは少し目を開いてから、あら奇遇ーと言った。
「私も同じよ、でも読み方が違うの、文子でふみこ。
 何だか親近感が湧くわねぇ」
「はぁ」
 通常に戻ってくれたような会話に一先ず安心はするが辟易もする。私とババアの名前が同じだからってこの先何の関係もない。あまり溜息っぽくならないように答えた返事はキャッチする相手を失った。お婆さんは急に黙って、置物みたいに固まった。その隙に携帯を見るともう5時43分だった。あと10分もすれば子供たちが集まってくるかもしれない。
 軽く伸びをして、ベンチから離れた。ストールを畳んでお婆さんの横に置いておく。今度は引き止められることなく車に戻れた。エンジンをかけて発進しようとすると目の前をおじさんが通り過ぎていった。大声を出しているようで、目を向けるとお婆さんに対して怒っていた。怒っていたのか叱っていたのかはよくわからないが、お婆さんは今度は奇声も上げずに縮こまっていた。もうちょっと早く来いよと思いながら、でも説明するのも面倒だろうし、お婆さんを擁護する立場に立つのも、何もかも面倒だから大人しく発車した。
 おじさんの大声と共にお婆さんのまた明日ねとか言う声が聞こえて、いや明日とか来ないしと心の中で返事をしておいた。

     

「久しぶり」
「久しぶり」
 元彼が荷物を取りにきたから、私の体内を通った空気に占有されている部屋に他人が入れる。散らばったのを短期間で整えられた部屋は私と同じで浮き足立っている。ベッド横に置いてある段ボールを指差すと、元彼は適当に頷いて座布団の上に座った。
「お前マジ痩せたよなー、俺のこと恋しかった?」
「いや別に、あれだね、一人だとご飯作るのも買いに行くのも面倒なるわ」
「ま、そんな奴だよ……アヤは」
 私は座布団には座らずにベッドに座る。けれどもすぐ立ち上がって冷蔵庫からお茶を出してコップに注ぐ。お茶だけは毎日作って冷蔵庫に入れている。冷蔵庫に残っているお茶は毎日捨てて、新鮮だから大丈夫なはずだ。コップを元彼に渡して、もう一度ベッドに座る。
「最近どーですか」
「どうって、普通。バイト仲間は腫れ物に触るようだったけど戻った。
 あ、この前合コンして、持ち帰ってみたら微妙だったわ」
「お盛んで、私は男日照りなのにね」
「いや俺も久しぶりだったよ、久しぶりで上手く行くかなって思ったけど
 案外慣れってか忘れないもんだな」
 曖昧に笑うと、元彼も笑った。暇でほぼ毎日のように私としてたんだから、忘れるわけないだろう。コップにグロスが付いて、気持ち悪くて手を伸ばしてコップをテーブルに置いてティッシュを取ろうと立ち上がった。
「今日予定何かあんの?」
「夜から友達とファミレスで喋る予定」
「へぇ」
 かちんとコップをテーブルに置く音がして、ティッシュを持った私の手は本来の目的を果たすことなくベッドに横たえられた。目の前に元彼の顔が来た。
「軽く頭打ったんだけど」
「いい?」
「窓閉めてくれたらね」
 前張り詰めた男が立ち上がって窓を閉めている姿はアホらしい。上から降ってくる香水と体臭に目を閉じて背中に手を回した。首元に顔を埋めると体臭が増した、懐かしいというか暑苦しかった。舐められる感覚が久しぶりで敏感に身体が反応する。左手で口を押さえると、右手で元彼のTシャツをずり上げた。冷房の効いた室内で私はあまり汗もかかなくて自分の喘ぎ声を聞く。本来の機能を果たすのがご無沙汰なマンコは、チンコを受け入れて喜ぶかと、凄い快感を感じさせるかと思っていたのに、何だか処女のように痛い。これで血でも流れたら少しセックスをしなければ処女膜再生出来る体質の持ち主なのだけど、そんな世の中上手くいかない。
 膝の裏に腕を回されて奥まで突かれると本当に痛くて泣きそうだ。妄想でのセックスはもっと気持ちよかったのに、妄想と現実は違う。あまりに痛くて騎乗位に変えて自分の好きな所に当たるようにしたのに、バカな元彼は下から突き上げてきて痛くなった。
「ぁ、っ……動いちゃ、ダメ」
 元彼の二の腕を持って傷つけないように言ったら、バカは興奮して突き上げを激しくしてきた。完全逆効果だった。舌打ちした気持ちを抑えて、早漏な事に救いを感じた。引き抜いてベッドに寝転がると、隣で後処理をした元彼が腕を差し出してきた。
「何?」
「何か条件反射みたいな、せっかくだし俺の腕枕で寝れば」
「そっちもここで寝るの?」
「いいじゃん、夜までくらい」
 面倒くさくてそのまま寝たら、3時間ほど寝てしまって2人で交互に風呂に入って私が化粧をしている間に元彼は荷物を持って帰っていった。車に乗って友達のアパートの前で彼女を拾ってファミレスに行く。
「お疲れー、何してたー?」
「寝てた寝てた、だから超元気だよ」
「うちらコーヒーで酔えるからね!」
「カフェインでノンシラフだからね!」
 アホらしいハイテンション。一番大学の中で気の合う彼女とは週一くらいでファミレスに行ってドリンクバーで何時間も語り合う。ファミレスでもカラオケでもカフェでも居酒屋でも良いんだけど、一番安上がりで盛り上がれるのがファミレスだったからそこに落ち着いている。夜中に2人で居ると最初は客にも店員にも声をかけられたりしたけれど、彼女の全くのシカトと私の邪魔しないで貰えますかの低音で以後来なくなった。
 ファミレスで軽くご飯を食べていたら、店員がいきなり私の車のナンバーを言った。お客様の中で、と医者でも探すようにナンバーを言う。違法駐車とかしていないんだけどなと、友達に断って店員に近づく。
「私の車ですけど、何か問題でも?」
「あ、お客様でしたか!見つかりましたよ!」
 そう言って店員が視線を向けた先にはおじさんが居た。見た事の無いというか知り合いではない小柄なおっさんだ。猫背で目を合わせてくれないような陰気なオヤジで顔が曇ってしまう。それでもその口から出てくる言葉は流れるようで、予想外だった。
「うちの母と公園で仲良くして頂いていたみたいで、お世話になりました。
 母、ご存知ですよね、金 文子です。ちょっと認知症が入ってしまいまして、
 最近明け方に徘徊するのでこっちも困っているんですよ。
 自己紹介が遅くなりました、金 和也です。あの人の息子です。
 いや、こんな綺麗な感じの女性とは思っていませんでした」
「はぁ。それで何の御用ですか」
 いきなり全てをぶった切って本題を要求してしまうのは私の悪癖だけど、今回は友達を待たせているのに長話をされかねなかったから良い風に出た。腕を組んで気だるい雰囲気を出す。
「す、すみません。いや、あのお願いなんですけどね、うちの母に
 もう一度会ってもらえないですかねぇ。
 貴方に会いたい会いたいって毎日言ってるんですよ。
 全くボケているのに車は覚えていたりと凄いですよねああいうときの老人って。
 まぁそれはいいんですけど、どうかお願いできないですかね」
「どういう事ですか」
「家に来て母とお話してくれるだけでいいんです。
 お暇な時に来て貰えないですかね、謝礼は僅かですがさせて頂きますので」
 金をダシに使おうとする辺りからこの男の薄っぺらさがわかる。揉み手はしていないだろうが、上司に媚び諂うように私に接するオヤジに、ババアに同情してしまう。こういうのはどうせ家と外では態度が違って内弁慶に決まっている。オヤジは下手に出ているようで明らかに私を見下している。ファミレスのレジの真横で話をする私達を何人かが興味深そうに見てくる。
「いいですよ別に謝礼なんて。伺います。
 今夏休みなので基本的に暇です、いつでも言って下さい」
「本当ですか、ありがとうございます!!
 えっと、これが家の住所なんですが、もしわからなければこちらの携帯に。
 私の携帯ですので。いつ来てもらえますかね?」
 どれだけ用意周到なんだよと、呆れながらそのメモを受けとる。私が明日にでもと言うと、オヤジは目を見開いてありがとうございますと作り笑いを浮かべた。
「夏休みということは学生さんなんですかね、よろしければ……」
「新都大学の2年です。清原文子と申します」
 この県で唯一の国立大学の名前を言うとオヤジは顔を一変させた。急に背を伸ばして、優秀なんですねと笑った。その態度不愉快だから止めた方がいいと思いながら、メモをポケットに入れて頭を下げて友達の待つテーブルに戻った。新都大が優秀なわけねぇだろと悪態をつきながら席に戻ると、友達が料理冷めちゃったよと不愉快そうにストローを咥えていた。

     

 約束して当日になって面倒臭くなるのは常だ。ドタキャンをしたくなって携帯を手に取るが、あのおっさんの声を耳元で聞くのも気持ち悪くて大人しくシャワーを浴びた。ブローをして化粧をして、裸足で人の家に上がるのはどうかと思ってストッキングを履いて行く。夏に履くストッキングは足に張り付いて、お腹周りがじっとりとして不愉快だ。車に乗って住所をカーナビに入れて発進。ふと信号待ちで何も手土産を持って来て居ないが大丈夫だろうかと途中で何か無いかと思ったけれど、カーナビは海沿いの道を勧めてくるから何も無い。何だ、オリバでもスピード出してんのかよと友達には伝わらないネタを呟いて車を走らせた。
 着いた金家は普通の民家で、特に特徴的な物は無かった。道路からはコンクリート塀で囲まれているから2階から下はよく見えないけど、小さな庭がありそうだ。2階の部屋の一つはカーテンが閉まっていて、納戸か何かなのかなと思う。民家だから駐禁切符は切られないだろう。家の前に車を停めて、呼び鈴を鳴らした。
「はい」
 聞き取りにくい小声と共に玄関の扉が半分ほど開く。出てきたのは暗い感じだけれど整った顔をした少年だった。引き戸の半分だと顔が少し隠れていて角度的に正解なのかもしれない。顔にかかっている長めの前髪はセンター分けのようになっていて、目はぱっちりしていて東方神起の何とかって真ん中の美形に似ている。色白い肌は綺麗で、あのおっさんの遺伝子はどこに消えたんだとガン見してやった。
「お父さんに頼まれて来た清原です。お婆さんいらっしゃいますか」
「聞いています。どうぞ」
 少年は半分だけだった引き戸を開いて私を招き入れた。真っ黒のTシャツに薄い色のダメージデニムの中で少年の身体は泳いでいる。よく腰履き出来るなと、案内される後姿を見つめる。特に何の変哲もない室内だけど少し埃っぽくて湿気臭い。自分の家が散らかっているのは気にならないけれど、人の家での埃っぽさや臭いは気になるものだ。古い畳の腐ったような臭いがする。い草の乾いてかびた臭い。廊下を歩く間、少年はこっちを一度も振り返らずに無言だった。案内されたダイニングキッチンは蛍光灯に照らされているが薄暗くて、物がごった返しているキッチンのすぐ横にテーブルがあってお婆さんはそこに居た。椅子に座って小ぢんまりしてぼんやりと庭の方の窓を見つめていたのに、私達の気配に気付いてこちらに視線を寄せた。
「あらー!!文子ちゃん!!」
「どうも、お久しぶりです」
 何も会う予定は無かったのに再会だ。笑顔を見せてお婆さんの前の椅子に座る。少年は無言で冷蔵庫からお茶を取り出して私とお婆さんに出した。コップがそんなに綺麗じゃなくて口をつけるのは躊躇われた。お婆さんがありがとう涼介と言って躊躇うことなくコップに口をつけた。
「どうぞごゆっくり」
 少年は無表情でそれだけ呟いて2階に上がっていった。夏休み中なんだろう、平日の昼間から一人で部屋でごろごろしているのは私と同じだ。お婆さんに話すことも無いから笑顔だけ作って黙っていると、お婆さんはまたマシンガントークを始めた。そんなところはあのおっさんと似ているなと思う。
「文子ちゃん会いたかったわぁ。あの男会わせてくれないし、公園行っても会えないしねぇ。
 文子ちゃんは 私の妹に似ていて気になっちゃうのよね。
 気になっちゃうって言うのもね」
 それから先は適当にしか聞いていなかったから曖昧にしか覚えていない。お婆さんには妹が居て美香子って言ってレイプされて殺されて、助けれなかったことを凄く後悔しているだとか、夫は韓国人で大変だったとか、息子が不甲斐ないとか、嫁が逃げたとか、嫁は最低の女だとか、孫が可愛いだとか、その孫が塞ぎこんでいるみたいだとか、本当にどうでもいい。相槌のローテーションを繰り返して聞き流した。ただの喋り相手が欲しかっただけじゃねぇかよ、時間返せババアと思ったけれど、足を上げて腹筋を鍛えたりして聞いていた。
 というかあのおっさん居ないのかよ。お願いしておいてお前居ないとかありえねぇけど、平日昼間に家に居たら居たでおかしいと思い直した。一区切りついたので帰ろうと、言葉を出そうとした瞬間にお婆さんが被せて同じことを繰り返してきた。レイプ、後悔、韓国人、息子、鬼嫁、孫。一字一句違わない話ではないが、ほぼリピートだ。ちらりと腕時計を見ると5時になっていて、ここに来てから3時間は経過していた。
 階段の下りる音が聞こえて少年、多分涼介と言うんだろう、が顔を出し、私達の横を通ってお婆さんの後ろにある箪笥からお金を取り出した。
「お弁当買ってくるよお婆ちゃん、幕の内でいい?」
「うん」
「清原さんは食べますか?」
「私は結構です、これでお暇しますので。お家にお婆ちゃん一人ってのもあれなので、
 涼介…さんが帰ってくるまで居ます」
そう言ってから毎日お弁当なんだろうか、いつもこの少年が買い物に行く間はお婆さん一人なんだから失言だったかなと不安に駆られた。でも少年は別に意に介する様子も無く、そうですか、とだけ呟いて出て行った。私達の会話の間お婆ちゃんが何かありがとうだとか、息子の文句を言っていたけど少年も私もずっと無視をしていた。5時になっても暗くならない夏の空は、この家とお婆さんの止まっている時間みたいだ、お婆さんは3度目のあの話を繰り返した。でもレイプと後悔の後に飛んで孫の話が来て、内容は完全に違った。
「涼介はね、優しい子なんだけど奥手というか、片親ってせいもあるのか、
 朝鮮人の血が混じっているせいもあるのか学校で上手く行かなくてね。
 学校に全然行かないのよ、いつも家に居るの。
 私も息子も詳しいことは上手く聞けないのよぉ。ほら思春期でしょう。
 それでね、一つ文子ちゃんにお願いがあるのよ、涼介を更正させてくれないかしらねぇ」
 またお願いかよ、この糞家族と歯軋りをして目を反らした。大体学校って今は夏休みだから行かなくてもいいんじゃないのか、更正って不良なのか今は。どう見ても不良ではなさそうだったが。それでもあの少年の雰囲気は多分いじめられっ子か一人ぼっちだ。無愛想な人間なんて多く居るし、中高生のうちは他人に対して口数少ない人間は多く居るけれど、それとは違う怯えたようであるのに孤高感がある雰囲気。この家に漂う空気と同じだけれど、それよりもっと重苦しいもの。何だかあの年特有の悟りきったと勘違いしている感じが彼にはあった。でもそんな面倒臭いことに関わりたくはない。
「私なんか役不足です。自己中心的で他人の気持ちを考えない人間なので、
 ああいう繊細なタイプの子は傷つけてしまうと思います。申しわけないのですが…」
「やってくれるのねぇー、ありがとう、ありがとう、文子ちゃん」
 お婆さんは両手を差し出して私に握手を求めた。いい加減にしろと思いながら不機嫌極まりない顔でだが両手を差し出してしまい、もっとこの家族と関わる事になった。大きな溜息をつきたかったが、あの美形を食ってしまおうかとボランティア精神と性欲が湧いてきた。

     

 戻ってきたら帰ると言っていたので、少年が戻って来るのを待って家に帰った。お婆さんに頼まれたけど、そのまま少年と接触すると帰るのが何時になるかわからないから後日また伺うと言っておいた。言い逃げしたいけれど、そういうわけにもいかず、次の日また金家に向かった。出迎えてくれた少年は、一瞬また来たのかというような怪訝な顔をした。
「今日お婆ちゃんはデイサービスなんで居ないんです」
「あ、いえ、今日は涼介さんに用があって」
 お婆さんが居ないのは面倒さが消えて良いのかもしれない。少年は昨日のように招き入れてはくれなくて、玄関先で追い返す気だ。
「何ですか」
「お婆ちゃんに頼まれたんですよ、何か、えっと、更生させてくれって」
「……更生?」
「不登校なんですよね?」
 ストレートに言葉に出すと少年は目を見開いて、その後に顔を顰めた。綺麗な顔が台無しだ。今にもドアを閉めそうだから自分の手を扉に添えて、足も遮るように置く。安物パンプス裏の薄い感覚から引き戸のレールを感じる。境界線を踏み潰す感覚。軽く悪質訪問販売だ。こんな繊細な話を玄関前でしたくないだろうと、笑顔を見せて無言で中に入れろと圧力をかける。私はそういう事をする人間が大嫌いだが、自分もその手を使ってしまった。
 少年は顔を伏せて身体を動かして私を通した。今日の少年はグレーのVネック五分袖に黒目のGパンで、Leeのロゴが腰元に入っている。生地のせいか乳首が浮かんでいて、お父さんを思い出して懐かしくなった。パンプスを脱いで向きを直していると、後ろから僕の部屋でいいですかという声が聞こえた。
「はい、お邪魔します」
 お互いに会釈をして少年の後ろを追って階段を上った。デニムのミニスカだったから後ろを気にしなくていいのは有難い。階段も少し埃っぽくて爪先立ちで階段を上る。ババアの臭いが全くしない2階で、手前の扉を開けられた。安っぽい車内のような臭いがした。ウルトラマリンだか男物の香水で、香水付け始めで皆付ける香水。もう少し成長したらお香なんかに到達するんだろう。
 シンプルな黒のカラーボックスと、シルバーパイプの本棚には本が所狭しと縦横斜めに入っていた。漫画、小説、写真集に雑誌、無造作に、それでも何か統一感をもって入れられている。フローリングの上に白のローテーブルがあって、お茶のコップが飲みかけで放置されていた。ベッドはタオルケットがぐちゃぐちゃに置いてあって、デスクの上にはノートパソコンが掲示板が開いて置いてあった。カーテンが閉じられていて、ここが正面から見えた納戸に思った部屋かと思う。
「お茶持ってきます」
「あ、結構です。お気になさらず」
「そうですか」
 ぼそぼそと声が響いて、少年は自分がデスク前の椅子に座って私にベッドを促した。押し倒される危険性を感じながらも、ベッドに腰掛ける。
「お婆ちゃんが心配してましたよ、涼介さんが塞ぎこんでいるって。あの、確認なんですけど、不登校なんですよね?今夏休みだから行ってないとかじゃなくて」
「まぁ」
 まぁって何だよと思いながら一応頷きだけする。これで不細工だったらすぐ帰宅だけど、足を組んだ。ミニスカのために股間近くに手を置いて気を使う。少年はちらっと足を見ると、目線を床に落とした。
 どう話を切り出していいのかわからない。成績評価が甘いということで、カウンセラーとかの授業を1年の時に受けたが、何せ自分の性格上上手い話の引き出し方が出来ない。大体カウンセリングって話したいとか、聞いてもらいたい人が来るものだが、こんな風に邪険に扱われている場合はどうすればいいのだろう。結局私は直球のデットボールに近いものを選んだ。
「いじめられたりしてるとかですか?」
 少年は私の顔を見てすぐに目線を反らした。膝の上に置いてある手がGパンを握る。無言に堪えられず、天井を見ると証明の中が黒い点々だらけで気持ち悪かった。
「いじめ、とか、だとしたら気にしなければ良いと思いますよ。
 中学、高校ですかね、わからないですけど、行った方がいいです、学校は。
 私も友達作るのとか結構苦手で人見知りなんで気持ちわかりますけど、時間が経てば友達って出来るものですよ」
「あんたに何がわかる!!」
 急に大声を上げられて身体が反射的にびくっと震えた。ああ、ああ、ババア以上に面倒くさい。窮鼠猫を噛むといった風な顔で少年は私に叫んだ状態で固まった。
「っ、知らねぇよ」
 舌打ちと共に低い声で答えると、少年は泣きそうになってまた顔を伏せた。沈黙が続いて、聞こえない程度の小さな溜息をついた。少年が手をもぞもぞと動かせて、奇妙な皮膚の擦れる音がした。
「わからないですよ、うん、私涼介さんじゃないんで。てか、全然知らないんで。
 何が起きたか教えて貰えますか?そしたら私も微力ながら助言出来ますよ多分。
 私もいじめって受けたことありますよ、気に留めて無かったんでよくわかんないですけど」
 自分の中学時代のいじめのことを話してみた。いじめとは私は思っていないけれど、友達が言うにはいじめだって話だから。話は単純で私の事を気に入らない男子がブスだとか何とか言って来て、コートを汚されたり、机蹴られたりしたって体験だ。全くブスは男に嫌われて面倒なんだ。化粧美人の過去は悲しいことだ。
 でもいじめとは思っていないというのは、いじめという言葉からして弱い者いじめ、つまり私が弱いっていう立ち位置が許せないのだ。私があんな男達より弱いわけがない。いじめではなく嫌がらせだと自分の中では思っている。
「そんな事もあったんですよ、でも今はこんな感じで友達とか居ますし。
 涼介さんも、いじめ、とか思わなきゃいいんですよ」
「……良いですよね、純粋な日本人の方は」
「は?」
「知らないですよね、根幹で差別された事が無いでしょうから」
 逆襲でも始まるのかしらと、足を組み直す。少年が椅子から立ち上がったから、勢いで椅子がデスクに当たった。跳ね返って膝裏に当たって痛くないんだろうかと思ったが、少年は震えながら声を張り上げた。
「韓国人ってだけで差別されるんですよ、経験無いでしょう!!在日の方じゃないですよね。
 学校で教室で差別されて、バスケ部で差別されて、近所にも差別されて!!
 韓国人は差別され続けて生きていかなきゃいけないんですよ、ネットとか見ていてよくわかりましたよ!!
 いじめとはレベルが違う!!一緒にすんな!!」
 叫べば大人しくなるとか、怯むとでも思っているのだろうか。薄っぺらさは親父譲りだと鼻で笑いたくなる。本人は劇的な事を言っているつもりなのかもしれないけれども、コントだ。肩を揺らして呼吸をする少年を見上げる。
「で?」
「え……」
「で?それが何で学校行かなくなる原因になるの?」

     

 私が何の影響も受けていない事がわかると、少年はブツブツ何かを呟いた。溜息をつきながら、足を組みなおす。質問に答えてくれないのでこっちから言葉を発する。
「学校は勉強しに行くところでしょう。何でいじめられたからって行かないの?涼介さんの言い分だと先生にも差別されているってことですか?授業中にも何か嫌な事あるんですか?勉強さえ出来れば先生なんて何も言ってきませんよ、きっと」
 一息で言い終わると、少年は小声で偽善者がとか、自分が正義って顔してんじゃねぇ糞ビッチがとか呟いていた。糞ビッチって私は貴方が思っている程ビッチじゃない。やった人数なんて3人だけだ。少年もイラついているだろうけれど、私もイラついてきてしまう。
「てかさ、もうタメ口で行くけど、いじめられたんならやり返すチャンスじゃん。やっちゃいなよ、正当防衛とか言って。で、韓国人が何?そんな事で差別するような人間がろくな人間なわけねぇだろが、そんな人間の言葉なんか間に受けなきゃいいでしょ。つーか、あんたも無駄知識ばっかつけて一人で落ち込んでんじゃねぇよ、差別にしか役立たない知識なんかいらねぇんだよ」
「……綺麗事……ばっか……言うな」
「まぁともかく、韓国人で差別された事私は無いからわかんないよ。本当に辛い事なんだと思うけど、それで学校行かないはイコールにはならないわ。何でそんな事で差別してくるゴミから逃げないといけないの。人間は虫の言う事なんて聞かないでしょ?それと一緒」
 あまり表に出すと性格悪いのがバレてしまうから、心の中に置いている精神論を語ると恥ずかしい。今になってイラつきも収まって恥ずかしさが湧いてきた。足を解いて、髪を触る。少年は無言で椅子に座った。大きな音がして椅子がデスクにぶつかった。立ち上がって少年に近づく。分け目がはっきりして、べた付いた彼の黒髪に手を置くと、少年から少し体臭を感じた。それ程不愉快ではない汗っぽい臭い。
「私は涼介さんの味方です。長い目で見たら日本人だとかどうとかより、美形な貴方の方が勝ち組ですよ」
 ぶっちゃけると社会に出るときに片親、韓国人というのは足枷になるだろうけれど、今は黙っておく。少年が大人になる時には関係ない社会になっているかもしれないが。
 何度か頭を撫でると、少年は固まったまま耳まで赤くなった。清原さんという声がして、顔を見上げてきたから変な空気を感じる。この年になると、そういう雰囲気とかは感覚でわかるようになってきた。流石に今は嫌だ。頭を撫でた手がべたついていて直ぐにでも拭きたい。
「じゃあ、私はこれでお暇しますね」
「は!?」
「涼介さん頑張って下さいね、何か相談があれば携帯にでも。
 あ、携帯教えますね、持ってますか?」
「……いえ、学校で禁止なんで」
「でしたら、これ」
 ベッドの上に置いていた鞄から手帳を取り出して、番号とメアドを書いて渡す。あっけにとられたような少年は条件反射のようにメモを受け取った。私はそれを見て、それでは、とだけ言って部屋から出た。階段を下りて車に戻ると、車内にあったウェットティッシュで手を拭く。これで全ての役目は果たした。
 少年が連絡して来たら最高なんだけどと思っていたら、その日の夜にメールが届いた。内容は勉強を教えてくださいというもので、その時に初めて少年が中2であることを知った。そのメールに大丈夫だと返信すると、日時が決まって、適当に何回かやり取りをした。急に今彼氏は居るのかだとか、胸の大きさとか変な事を聞く時があったから、スレでも立ててるんじゃないかと思ったけれど調べることは面倒くさくて止めた。胸の大きさなんて今はわからない。前はCだったけれど、アンダーはやせ細ったからいくつかカップ数は増えていると思う。ベッドに寝転がりながら少年とやり取りをして、その間にオナニーをしているとイきそうになる時にメールが返って来て自然に寸止めになる。大体パソコンからのメールなのに、携帯くらいの速度で返って来るのはどういう事なのか。何度目かの寸止めを食らって、少年からのメールかと携帯を開くと、サークルからメーリスで飲み会のお知らせが来た。大衆居酒屋での開催で、開催者があまり得意ではない子だったから返信は保留にした。その後に返って来た少年からのメールにおやすみなさいと書いて、携帯を床に投げ捨てると集中してイった。どろりと量増しした体液を洗い流すために箪笥からバスタオルを出したが、急に眠気に襲われてそのまま寝た。

     

 それからは適当に金家に行ってババアの相手をしたり、少年の勉強を見たり、少年の話し相手になってやったり、たまにご飯を作っておっさん共々振舞ってやったりした。ボランティアもやるとなると徹底的だ。スカルプも面倒でやっていなかったのが逆に役に立った。一時期凄いはまって携帯打つのも面倒な程だったからな。私も一人暮らしを始めて2年目だから、料理ぐらい適当に冷蔵庫にある食材で作れる。冷蔵庫の物を勝手に消費するのも悪いかと思って、次からはスーパーに寄ってから金家に向かうようになった。おっさんが料理作った初日は怪訝に私を見てきたのに、その次の時は物凄い低姿勢でうざかった。
 少年はどんどん夏休みの課題を終わらせていってくれるのかと思ったら、全然勉強が出来ていなくて、最初から教えるのは骨が折れた。聞くと県有数の中高一貫校で、頭の良い人が集まってきているらしい。多分勉強に付いていけなくなったのも原因なんだろうと思いながら、少年の話を聞いた。高校受験しなくて良いし、大学受験まで6年かけて準備出来るってのも羨ましい面ではある。6年もあれば東大とか行けるんじゃないのかと思ったけれど、私はきっと5年間程遊び呆けるだろうと思い直した。少年とも大分打ち解けたし、お婆さんは相変わらずよくわからないが、おっさんとも適当に会話する程度になった。
「今日で夏休みの宿題も終わるね。ってことで私も問題を作ってみました」
 昨日ワードファイルで作った問題用紙を5枚デスクに置く。少年は驚いたような顔をして、私を見上げた。デスクには椅子が一つしか付いていないから必然的に私は立って指導することになる。英語の問題で多分1時間くらいかかるのを予測して作った問題。
「うわ、マジそんな事までしてくれんすか。ありがとうございます」
「いえいえ。多分1時間くらいかかるから、それ解いたらご飯ね」
「あ、今日はオヤジが夜早いんで文子さんに作って貰わなくても大丈夫ですよ」
「え!?食材買って来ちゃったんだけど」
 もうこの部屋に来る前、居間に居たお婆さんと適当に会話しながら我が物顔で冷蔵庫に食材を収めた。いつも使っている男友達に貰ったギャルソン風の黒のエプロンも持ってきたというのに。少年はすまなそうに、すみませんと頭を下げて来たからそれ以上何か言う気にはならなかった。そっかーと溜息交じりに伸びをした。
「じゃあいいや、一緒に作るよ。小鉢みたいの作っておくわ。その間にやっておいて、それ。
 多分早く戻ってくるからさぼったらバレるからね!」
「わっかりましたー」
 鞄からエプロンを取り出して着けると、髪を一つに結んだ。階段を下りて、台所に入るとお婆さんは自分の部屋に戻ったのか居なくなっていた。手を洗って鍋にお湯を沸かすと、冷蔵庫からほうれん草を取り出した。小鉢としてほうれん草のおひたしと胡瓜の酢の物を作ろうと思う。それならメインが洋風でも和風でも合いそうだから。胡瓜をスライサーで切っていると、玄関から音がして、おっさんが帰って来た。手を拭いて、玄関に向かうと靴を脱いでいるおっさんに、お帰りなさい、お邪魔していますと声をかけた。
「ぁ……ただいま、ですかね。いつもすみませんねぇ清原さん」
「いえ、こちらこそ勝手に色々使っていて……。
 一応和也さんお帰り早いって聞いたんで、メインは作っていません」
 おっさんが自分から和也と呼んでくれと言ってきたから、今はそう呼んでいる。何となく距離が縮まった気がして気持ち悪い。おっさんの後に続いて台所に戻って、スライスを続けていると、すっと横におっさんが来た。シンクの横だったから手でも洗うのかと視線の端に捕らえていたら、おっさんの手が震えているのに気が付いた。
「きっ、きよ、清原さん」
「はい」
 スライスを止めて顔を向けると、おっさんが真っ赤になって震えていた。どうした、発作かとでも思ったけれど、次に続く言葉は発作以上に邪魔臭かった。
「あの、今度の、日曜とか、あっと、映画、見ませんか!?」
 何を言っている。その言葉と、その年になっても女一人誘うのにそんな調子なことと、全てに思考が止まった。この私より一回り、もしかしたら二周り程年の違うジジイは私を恋愛対象としてみているのか。一気に血の気が引くというか、どうしようもない怒りに包まれた。ドン引きだ。ジジイの誘い方も、この私を恋愛対象に見れる厚顔さも、おめでたい頭も全てに。酷い屈辱な気がしてきた。
「あー、すみません、その日は予定が」
 無表情で抑揚の無い声でそう返事すると視線をスライサーに戻した。ここで怒りを発露するのは子供だと思いながらも、ある程度の速さで胡瓜をスライスしていく。おっさんは小声で、あ、そうですか、そうですかと2回そうですかを言ってコンロの所に行った。ちらりと横目で見るといつも猫背で丸まっているのが、より縮こまって見えた。
 ああ、やりすぎた。悪い癖だ、やりすぎて可哀想な男が勘違いしてしまうのは。それでも、20歳の女を恋愛対象に入れて、しかも上手く行くとか思っている辺りに自分が凄くハードルの低い女だと思われている事を感じる。いくらやりてぇからって、どう見ても粗チンそうで、反吐が出そうなおっさんをそういう対象では見てねぇよ。そこまで安売りはしねぇよ。タダで息子やら母親やらの面倒見て、食料持って来てご飯作って、そんでタダマンなんかさせるわけねぇだろ。どんだけ都合の良い女なんだよ。
 そこまで思って、もしかして少年にも私はそう思われてるのかと思って、笑いがこみ上げてきた。このババア俺狙ってんじゃねぇだろうなとか思われているのかしら。急に全てがアホらしくなって、今夜は締め切りぎりぎりになっているサークルの飲み会に出席連絡をしようと心に誓った。出来るならサークル食い荒らして来よう、出来なくても一人くらいは食って来ようとやけ食いを決めた。 

       

表紙

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Neetsha