Neetel Inside ニートノベル
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【勇者】

 夕立の後の、あの澄んだ空気が少年は好きだった。埃が流されて、遠くまで見える。爽やかな緑の匂い。やけに眩しい太陽。雨宿りを済ませた旅人。
 東の街に着いて最初に吸った空気は、その真逆に位置する物だった。重くのしかかるような大気と、淀んだ風の流れ。人通りは少なく、活気が無い。そして何よりも街全体を覆うように、隠微な邪悪の気配がある。少年は、自分が今から何をすべきなのか、あっという間に指針を失った。
 何も出来ないまま、街の隅で佇んでいると、通りがかりの男に声をかけられた。
「あ、あなたはもしかして、勇者様ですか?」
 少年は男を見る。顔色が悪く、服もよれよれで折り曲がっている。何と答えて良いか分からず少年が黙っていると、男は勝手に続けた。
「勇者様ですよね? 今時ライドドラゴンに乗って旅しているのなんてそう何人もいる物じゃないし、何よりその剣が証拠だ」
 と言って、鍛冶屋グレンの打った飛剣ライトリーハートを指差した。
 帝都付近でウーズを仕留めた事によって王に認められ、南の街付近で人殺しのゴブリン達を倒し、また帝都に戻ってゴブリンを始末した少年の武勇伝は、辺境であるこの東の街まで届いていた。少年は少し照れつつ、今のこの街の現状について尋ねる。
「つい3日くらい前から、腹痛を訴える者が相次ぎまして……最初は、食中毒か何かだと思って軽く見ていたんですが、2日もしない内にみんなばったばったと倒れ始めて、今ではご覧の有様です。タチの悪い疫病か何かだと、医者も良く分からん様子です。僕自身も……げほっ」
 男が咳き込み、少年は気を使いつつ尋ねる。
「この街の領主様は、何をなさっているんですか?」
「そ、それが……エルーシャ様はちょうど3日前、この病が流行りだしてからというもの館の方に篭られてしまって、全く出てこないのです。昼夜問わず何人も屋敷を取り囲んでいますよ」
 少年は目を瞑り、耳を澄ます。魔物の気配は、街全体から漂っている。どこか特定の場所から強力に感じるという事は無い。だからこそ不気味なのだ。
「分かりました。とりあえず、その屋敷を尋ねてみます」
 少年は男と別れ、この街の領主であるエルーシャの屋敷を訪ねた。
 屋敷は小高い丘の上に立っており、古いが、しっかりと頑丈な石造りで、高い塀もある。確かにこれなら篭城も出来そうだ。男の言った通り、周りを人が囲んで、大きな声で呼びかけている。
「エルーシャ様! 街の一大事に何をなさっておられるのですか!?」
「今すぐ出てきてください! 街が大変な事になっています!」
 館の前には2人の衛兵が立っていたが、荒っぽい事態に陥っている訳ではなく、ただ傍観している。こんな状態になっているのに、人々の道徳が崩れてないという事は、どうやら人望はそれなりに厚いらしい。
 少年が近づくと、衛兵の1人が少年に気づいた。何か言いたそうな顔をほんの一瞬だけ見せたが、すぐに無表情な衛兵の顔に戻った。少年は察する。
 街の一大事に、3日も顔も見せずに引きこもった、人望のある領主。何か「人に言えない事情」があるのは間違いない。
 少年は踵を返し、丘を下って、屋敷の背後に回った。当然、そこにも高い塀がある。
 ファンクルから降りて、塀によじ登って覗いてみたが、窓には全てカーテンがかかっており、中の様子は見えない。太陽の光はちょうど屋敷の真正面からきていたので、影になってしまっているのだ。
 少年は塀の上に立って、ライトリーハートを抜く。
 光を集めて輝く刃。その切っ先を窓に向けて、目を凝らす。
 少年の瞳に映ったのは、カーテンの向こうで蠢く影。輪郭はぼんやりとぼやけているが、明らかに人間ではない。その瞬間、少年の心が呼応した。自動的に、剣を握る手に力が入る。
 すると、ゴブリンを倒したあの時のように、剣の刃が砕け散った。破片が地面に落ち、溶ける。
「ファンクル逃げろ!」
 叫ぶと同時に、少年の背後から突風が吹いた。振り向くと、以前よりも増えた刃がこちらに向けて飛んでくる。ファンクルもそれに気づき、危険を察知して、身を屈める。
 防ぎきれない、と少年は直感する。手には柄だけになった剣1つ。腕でガードするのは無謀に思え、塀を盾にしようとしても、おそらくあの刃は塀を貫くだろう。
 上下左右とも、逃げられる空間は無い。訳も分からず絶対絶命。少年は戦慄する。
 その時、少年の頭の中で何かが弾けた。
 奇跡を起こせると過信した訳ではない。かといって、何かの算段があった訳も無い。ただ無心に、身体が答えた。この世界に対する疑問。あえて言い換えれば、『真理』と呼べるような物に、ほんの少しだけ触れた気がしたのだ。
 気づくと、少年は無尽の刃に向けてその肉体を放っていた。
 刃の合間を縫うように、少年の身体は滑空する。いや、というよりはむしろ刃が少年の身体を避けたように見える。
 少年は刃の内の一本に見事着地し、刃達は先頭から順番に屋敷の壁に激突していった。頑丈な壁は滅茶苦茶に破壊されていく。凄まじい轟音と、地割れのような振動が辺り一帯に轟いた。
 大きく穴の開いた場所に、少年の乗った刃はちょうど飛び込み、少年の身体は部屋に放り出される。
 転がって、壁に衝突して止まった少年は、目の前にいる女と目が合った。若く、美しい女だったが、突然の出来事に言葉を失って、その端正な顔立ちは、呆けて台無しになっていた。少年は起き上がり尋ねる。
「あ、あなたがエルーシャ様ですか?」
「え、ええ」と、エルーシャはどうにか答える。
「助けに来たんですが……」少年は振り向き、大穴の開いた壁を見る。「迷惑でしたか?」
 エルーシャは首を振る。まだ上手く言葉が出ないらしい。
 それと同時に、ドアに何か巨大な物がぶち当たる音。ドアが軋み、ヒビが入り、ウーズの身体が隙間から覗く。
 少年はエルーシャの手を取り、有無を言わさず穴に向かって走り出し、外に飛び出した。
「ファンクル!」
 呼ばれて駆けつけたファンクルは2人を乗せて、丘を滑るように下った。


「ここまで来ればひとまず安心でしょう」
 少年はエルーシャをファンクルから降ろし、そう言った。エルーシャは頷き、背後を確かめる。
 街の外れ、視界の開けた牧草地。疫病の影響か、人も家畜も気配は無い。少年は尋ねる。
「何があったんですか?」
 エルーシャは呼吸を整え、これまでの経緯を語り始めた。
「3日前の夜、寝ている時に突然あの恐ろしい怪物がやってきたんです。私が悲鳴を上げると、駆けつけてきた使用人達をあっという間に飲み込んで、私をあの部屋に閉じ込めました」
「なぜ助けを呼ばなかったのですか?」
 少年の問いに対し、エルーシャは真剣に答える。
「私は、この街の住民が私の事を信頼している事を信頼しています。だからこそ、犠牲にする訳にはいかなかったのです」
 少年は、あの衛兵2人の態度を思い出す。
「ですが……」
 少年は言葉に躓く。すると、エルーシャはその様子を察し、
「『疫病』の件でしたら、聞いています。閉じ込められている間も、外からの声は聞こえていましたので。これは私の推察ですが、あの怪物は『井戸』の下の地下水脈を狙ったのだと思います。これだけ短期間で、街全体に広がるという事は、それ以外に考えられません。あの怪物は軟体生物のようでしたから、自分の一部を井戸の中に投げ入れて、そこから毒性を発揮していたのではないか、と」
 少年は、街全体から魔物の気配がしていた事を思い出して納得する。
「それで、この事実をどうにかして外に伝えられないかと考えていた所に、あなたが助けにきてくださったんです」
 エルーシャは少年の手を握り、改めて礼を述べる。
「ありがとうございます」
 少年は慌てて、
「い、いや、とんでもない」
 その時、少年を貫いた鋭利な感覚。少年は、それのする方へと振り返る。
 遠くからでも分かるくらいに巨大化したウーズが、凄まじい速度で少年とエルーシャを追ってきていた。木をなぎ倒し、草を枯らしながら、あらゆる命を飲み込んでまっすぐに突き進んでくる。
「逃げましょう」
 少年は再び提案し、エルーシャの手を取る。しかし、エルーシャはそれを拒否した。
「逃げられません」
 その瞳に宿っていたのは、鋼よりも固い意志。
「わざわざこうして追ってくるという事は、あの怪物はおそらく人質を必要としているのでしょう。もしも人質が居なくなったら、街の住民達に何をするか分かりません。でも、だからこそ私は絶対に殺されないはずです。どうか、あなたおひとりでお逃げください」
 そう強く言い切るエルーシャの震える足を、ドレススカートが隠していた。
 少年は無言のまま、エルーシャの前に立ち、いつの間にか刃が復活していたライトリーハートを抜く。
「やれるだけの事はやってみます。駄目だったら、ごめんなさい」
 剣の柄がエルーシャのみぞおちに入った。エルーシャは気絶する。
 エルーシャの身体を鞍に乗せて、ファンクルの頭を軽く撫でる少年。
「ファンクル、出来るだけ離れてくれ」


 少年の構えた剣を認識してか、速度を落とすウーズ。
 しかし物量は圧倒的で、ウーズの身体は一定の距離を保ったまま少年の周りを取り囲む。逃げ場は無い。少年は剣を構えたまま、微動だにしない。
「ずっと不思議に思っていた」
 少年がウーズに話しかける。当然、言葉を理解できるのかどうかは分からない。独り言のような物だ。
「この剣が砕けるのは何故かって」
 ウーズがじりじりと距離を詰めていく。少年は汗一つかかず、じっとウーズを見つめる。
「さっきエルーシャさんと話をして、なんとなくだけど……分かった気がするよ」
 刹那、ウーズがその巨体を激しく揺らし、分散させた。そして勢い良く、同時に、少年の身体めがけて、飛びかかる。
 初弾は一薙ぎで振り払ったものの、次々と続けてウーズの塊が少年に襲い掛かってくる。やがてさばき切れずにまずは足が固められ、次に腕、そして肩、腰とどんどん自由が奪われていく。
 だが、既に少年は攻撃を完了していた。その手に握ったライトリーハートは、いつものように粉々に砕け散っている。
 少年の身体が完全にウーズに飲み込まれた。しかし少年は決して柄を離さなかった。それは何よりも強い意志だ。正義を貫くという、この世界で唯一の真実だった。
 轟く雷鳴。暗闇に落ちる空。やがてそれらは、幾千もの刃の集団であると気づく。
 地面に向けて降り注ぐ刃の大群。ウーズの身体があっという間に細切れになっていく。
 そして嘘のような静寂が過ぎ去った後、そこに立っていたのは、傷だらけになった少年だけだった。
 数多の刃はウーズの『核』に見事に命中したらしい。ウーズは雲散霧消し、亡き者となった。
 しかし、少年の方も無事ではない。全身、傷だらけ。しかも左腕は切り落とされ、無残にも地面に転がっている。だが、あれだけの刃雨の中で、それだけの怪我で済んだのは、奇跡と呼ぶに相応しい出来事だ。
 少年は、ふらふらになりながらも、自分の身体の一部だった物を見つけて呟いた。
「これくらいは……くれてやるさ」
 そして目を閉じ、うつぶせに倒れた。
 残った右手には、まだしっかりと剣が握られていた。

       

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