Neetel Inside ニートノベル
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この身体はキモチイイ……!
ep7.追憶不毛

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 朝の気配に、ふっと目が覚めた。澄んだ空気は冷たく清らかで、息を吸い込むと、神経の隅々まで覚醒するような気がした。こんな感覚は久しぶりだ。よく眠れたからだろうか、体は軽い。

「ん……」

 隣でユキが身動ぎして、今更その存在に気が付いた。そうだ、昨晩は……。

 広がりかけた回想を、慌てて中断する。こんな清々しい気分の時に、思い出すことではない。もっと爽やかな、できれば頭を空っぽに出来るようなことをしたかった。

 ユキに気付かれないように、そっとベッドを抜け出す。もっともこのお嬢様は朝がとても弱いらしく、ちょっとやそっとのことでは起きそうにないのだが。

 自室に戻って時計を見ると、まだ五時をほんの少し回ったあたりだった。

「やたら寒いと思ったら、いつもより大分早く起きちゃったんだ」

 腕で体をきゅっと締めても、まだ寒い。着替えを見つけないと。

「今日土曜日だから、九時からお仕事か。時間空いてるけど、どうしようかな」

 まだ朝は早いし、走りに行きたかった。幸い、小泉の家からジャージ類は持ってきているから、運動着には困らない。けれど、お仕事前にあまり運動は出来ないし、そうするとやはり一層時間があまることになる。

 うーん……、としばらく考え込んで、名案が浮かんだ。早朝の空気も吸いたいし、今からちょっとだけ走りに行こう。帰ってきたら、シャワーを浴びて、勉強にすることにする。あまり気は乗らないが、時間は有効に使いたい。それならさほど体力も使わないだろうし。

 ジャージに着替えて、忍び足で家の中を移動していると、思わぬ人物に出くわした。ユキの弟のイチタローさんが、リビングで一人珈琲を飲んでいた。

「あれ? おはよー、ジュンさん……ですよね? ジャージだからびっくりしちゃいました。どうしたんです、こんな時間に?」
「おはようございます。早く目が覚めてしまいまして。イチタローさんこそお早いですけど?」
「これから試合なんです。それと敬語使わないでもらえませんか? 年上の人に敬語使われるの苦手なんです。普段はともかく、今は勤務時間外ですし」

 彼は穏やかに苦笑した。確か中学二年生だったか。やたらしっかりしている。しかもユキの弟だけあって、なかなか可愛気のある顔立ちだ。所謂わんこ系の少年というと、彼の印象の大部分を表せていると思う。

「えっと、じゃあイチタロー君」
「はい。そう呼んでください」

 彼と二人きりで話すの初めてだ。なんだか少し緊張する。勤務中に事務的な会話はあっても、普段仕事中はまず世間話などしない。そうでないときは部屋に引き籠もっているか、ユキと一緒にいるかだから、何を話していいのか全く分からない。

「大変だね、こんなに朝早くから試合なんて」
「正確には試合地までが遠いんです。ここからだと電車も便利じゃないですし」
「ああ、なるほどね。部活何やってるの?」
「サッカーです。レギュラーじゃないから、今日はベンチで応援ですけど」
「そっか。チーム競技だもんね」
「ええ、僕はあまり運動神経よくないですから。……ジュンさんはジャージ着てますけど、今から運動でもするんですか?」
「うん、ちょっと走ってこようかと思って。三十分くらい」
「それってちょっとなんですか?」
「え? そうだよ。サッカーやってるなら、毎日もっと走らない?」
「いえ。日々の練習やってたら、とても走る体力なんか……」
「そっか。私が中学でバスケやってた頃は練習三時間の後にいつも走ったりしたけどな」
「すごいですね。素直に尊敬します」
「まぁ練習量の違いとかもあるだろうしね。負荷を掛けすぎても良くないから、一概にそういう練習が良いとは言えないから」

 彼と会話しながら、私はキッチンに入った。まだ湯気の出ているヤカンが一つ、コンロにあるだけで、その他は昨日ユミコさんが片付けたままだ。

「朝ご飯まだだよね? 何か作ろうか?」
「昨日ユミコさんに、朝とお昼のお弁当を作って頂いたから大丈夫です!」
「あ、そうなんだ。流石ユミコさん」
「そうですね。あの人は母のように何から何まで面倒をおかけしてます」
「私もかな。夕飯なんて、手伝えることないくらい手際も良いし」

 朝食でも作ろうかと意気込んでいたのに、肩すかしをもらった気分になった。仕方なくヤカンのお湯で、ティーバックの紅茶を入れた。ティーバックなのに、何やら形は三角錐状で、茶葉は豊かだった。味も上品で美味しい。私の知ってる庶民用ティーバックと違う。

 イチタロー君と暖かい飲物を片手に談笑し、彼を見送った。あんな礼儀正しくて素直な応対が出来る子だとは思わなかった。中学生男子というものの認識を改めるべきかと考えたが、どう考えても彼が特例のように思えてならなかった。

 紅茶で体も暖まった所で、私は走りに出た。近所とはいえ、この辺りは不案内なので、分かりやすい道を選んでゆっくりと走った。閑静な住宅街に、早朝人はほとんどおらず、気持ち良くランニングすることが出来た。

 走るのは気持ち良い。何も考えなくても良いし、なにか考えている時は、いつの間にか息苦しさに任せて何も考えなくなってしまうから。考えなければならない大事なこともあるけれど、それと同じくらい考えてもどうしようもないこともあると思うから。そんな時は、こんな気持ちの良い朝に走りに出るのだ。

 部活を引退して、高校受験を前に、ほとんど走らなくなっていた私の体は随分鈍(なま)っていたけど、それでも三十分程度は走りきることが出来た。現役の頃のペースにはまだまだ及ばないが、思ったほどではない。こんなに気持ち良く走ることが出来るのなら、また走りにくることにしようか。

 鳩山邸の大きな門の前で、息を整えながら柔軟で体をほぐしていると、部活をやっていた時のことを鮮明に思い出した。

 ああ、あの時の私が、今の私に続いているんだ。そんな当たり前の実感が、少しだけ、ほんの少しだけ湧いた。

 家に戻ってシャワーを浴びて、着替えをすませた。さぁ、お仕事まであと二時間と少し、勉強をするとしよう。今日はお仕事も四時には終わるのだから。その後の夕飯は、ユミコさんの美味しい手料理が食べられる。

 そうして、こんなささやかな幸福を享受して、私はあの光景を忘れていくのだろうか。あの、小泉の家の日常を。私を見捨てた両親がいたあの風景を。私を愛してくれた両親がいた、あの追憶の情景を。

 私は、まだそれを躊躇っている。理由も、はっきりと掴めないまま。

       

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