第七話

   七章
 
 人はいつだって能動的だ。
 動物は山の営みを撫でるように薙いでいくが、街で暮らす人間はどうしても全ての行動に意味を持ち、不器用なまでに物理的にならざるを得ない。
 だからその物音はひどく目立った。風そよぐ紅葉と、鱗状に空から降り注ぐ光芒の中を突き進んでいた空也は思わず立ち止まる。奥からだ。この先に広がるのは木々のない丘。多少の土色は見え隠れするが、昼にくれば広漠たる牧場のように草の息吹きを堪能できる場所。
 暴力的な衝撃音。故意に重い物を何かに向けて振り下ろしたような。次いで摩擦音が草原を滑る。それは明らかに人が生み出す醜い騒音だった。夜の山にはあまりに不釣合いな。
「最近の教育ってヤツはどうにも温くていけねえ。……とは言っても聡、お前が教員から指導なんてされているわけがねえか。小野寺の名を冠するお前に手を出すヤツなんて学校なんぞにはいまい」
 這いつくばっていた。ルチアーノは岩鷲に自慢の髪型を無造作に掴まれ、顔だけ強引に引き上げさせられる。その顔から漏れるのは不明瞭なる呻きだけだ。
「おまけに土山の坊主と遭遇して、喧嘩に負けて帰ってきた? お前ヤクザナメてんのか? あぁ? 獣一匹撃ち取れず、同級生にも負け、どのツラ下げた戻ってきたんだ。聡ゥ!!?」
 顎に爪先が突き刺さった。サッカーボールを蹴飛ばすかのように岩鷲は革靴を蹴り上げる。ルチアーノの体は軽々しく吹き飛び大地に重々しい音を立てて打ちつけられた。
 岩鷲から四肢を乱暴に嬲られる。軋む激痛がルチアーノの口から逃げ出そうと濁音となって流れ落ちた。……防衛本能が無意識に体を芋虫のように捩る。
「逃げるくらいなら死ねや!! テメェの背負っている苗字は何だ、聡ッッ!!!」
 岩鷲の背後には幾十人もの舎弟が眉一つ動かさず事態を眺めていた。
 空也はなぜか金縛りにあったかのように足が動かなかった。何と薄情なのか。心が脳を叱咤する。だが理由は腑抜けだからではない、足は震えていないのだから。
 ではなぜ動けないのか。
 双眼がルチアーノから離れない。ゴミのようにボロボロになっている親友が申し訳程度に動かす手足から、奇矯なる意思を感じたのだ。付き合いの長い空也だからこそ理屈で納得するより早く直感がそれを悟る。常に言葉だけは大きく、その内容も滅裂で仰々しい身振り手振りで飄々たる態度を取り続けた学校内のルチアーノに近い感覚。
 木々の中の空也と、伏せたルチアーノの瞳が交差した。
 息を飲む。
 コンマ一秒程度の出来事だった。
 片側が相手から何かを感じ取った反面、相手も片側の存在を空気で感じたとでも言うのだろうか。
 シンクロするように──いや、ただの偶然と呼んだ方がしっくりくる。
 立ち上がる。十二ラウンド戦い抜き、全エネルギーを放出し終えたボクサーのように足取りは心許ない。切り株に座り、それを見ていた岩鷲が初めて僅かに感嘆の吐息を漏らした。
 ルチアーノが父親の前に立つ。うな垂れている。息は不自然に荒い。脇腹を抱えている。それは到底BIGなマフィアなどとは呼べないくらいの小物臭を漂わせた、惨めな敗者だった。
「殺してこい。……いきなり人間は難しいだろうからな。獣でいい。徐々に堕ちていけ。落としても消えない血のにおいをその体に吹きつけろ。今の年齢からやっていけば、将来は目を瞑ってでも人間の頭を撃ち抜けるようになる」
 生きた屍のように生気を失い、もはや佇立するだけでも意識の全てを集中させなくてはならないルチアーノがぼそぼそと何かを呟いた。
「あん? どうした」
 一言一言をゆっくりと紡ぎながら、ルチアーノが岩鷲に言葉を並べる。
「親父……手付金は貰ったじゃないか……。どうして……こんな……」
「あぁ?」
 続いて飛ぶはずだった怒号は憫笑に取って代わる。息子への教育よりも目先の楽しみに気持ちを奪われたらしい。
「手は出さないって約束か? はっはっはっはっは!! 守ったじゃないか。二週間。俺はきちんと二千万円分の働きはしたぜ? 平穏を与えてやった。等質たる対価だ。更に時間が欲しいならもう二千万、三千万持ってくればいい。聡、お前も湧き水は全部飲み干せよ? 残すな、一滴もな」
 土暦の予言通り、岩鷲の口からはどうでもいい理屈が吐き出された。あまりに下らない、子供以下の戯言。
 だが──そんな戯言に自分達は縋るしかなかったのだ。
 今更怒りは湧いてこない。平穏など最初から存在しなかった。
「さっさと行ってこい」
「……」
 ルチアーノは動かない。
 再度岩鷲が呼びかける。
 まさかとは思うが立ったまま気を失ったのか? そんなことを憂慮した何人かの舎弟がルチアーノの顔を覗き込み──僅かに息を飲んだ。
「……嫌だよ……もう……」
 泣きべそのようなその一言は、震える肩の間から搾り出された。
 沈黙。
 舎弟達が知らず表情を殺す。そして目を向けることさえ恐れ多いとでも言わんばかりにそっと岩鷲の顔色を窺った。
 ──彼等は戦慄する。
 その顔では悪魔が踊っていた。
「……聡。……もう一度……言ってみろ……」
 地響きのような唸り声。光の届かない地割れの闇底に全てを誘い込む恐怖の呼び声。
 岩鷲がゆっくりと立ち上がった。
「俺は──俺はもう嫌だ──! 約束も守らず、弱い者イジメをして、こんなの、カッコよくも何ともなくて、何より──友達の大好きなものをこんな大勢で奪いにき──」
 張り飛ばされた。
 全力で。
 ルチアーノの体が数メートル吹き飛ばされる。
「!!!」
 まだ──だった。
 まだ空也の体は動かない。
 プロレスラーのような巨躯が、丸太のような腕から放つ拳は凶器そのもの。
 さすがに舎弟達が色めき立つ。彼等は暴力に関してはちょっとした知識人。誰が、どこを、どの程度殴れば人が壊れるかをよく熟知している。
 ルチアーノは起き上がれない。月を仰ぎ見ながら、咳のように痰を数度吐き出す。
 波のように緩慢たる動きで岩鷲がその距離を詰める。
「驚いたぜ聡。いつからお前はこんな反抗的な男になった? 逆らったら俺がどんなことをするか、その程度は学んであるはずだよな。うん? 震えてるじゃねえか」
 呼吸器官さえ捻じ曲げたボディーブローの一撃はそれ以上に暗澹たる絶望を相手にもたらす。絶対的なる暴力。激痛を上回る恐怖がルチアーノの体を麻痺させた。歯が噛み合わない。血液が凍りついたかのような異様な悪寒の嵐。
 悪魔が近づいてくる。
 涙が零れ落ちた。
 もはやそこにBIGなマフィアの姿は欠片たりとも存在しなかった。
「勝てない相手になぜ逆らう……。あぁ──まさかテメェ、お友達の影響かぁ? くそっ、土山の連中、いらんことをお前に吹き込んだんだろう。違うか聡!?」
「親父──」
 隷属は生を保証される。
 残忍な岩鷲の性格など息子である彼はとうに熟知していた。
 なぜ自分はこんなことを口走ってしまったのだろう。自殺行為にも等しいそれを。
 ……心が疼く。ここ最近は空也から貰った言葉がずっと心の壁を軋ませていた。
 ……その空也から頬に受けた一撃が痛む。なぜだろう、不思議と岩鷲からもらった一撃よりも重い。それは虫歯のように、脳の中にまで到達するかのような鋭さを内包していた。
 怖くて堪らなかった。体力が残っているなら脇目も振らず逃げ出したかった。
「俺を……解放してくれよ……。俺は親父のようにはなりたくない──!」
 生命の叫びだった。
 首輪でつながれたままの生でなく、尊厳ある死をルチアーノは望んだとも言える。
 岩鷲は無言だった。
 ──だからこそ余計に皆が畏れを抱いた。
 返答はない。父親は息子の体を掴み上げると、易々とその体を肩に担ぎ上げたのだ。
 空也は木立ちの中でそっと移動を開始する。もはや岩鷲の内面は火を見るよりも明らかだ。あれだけ悪辣なる言葉を吐き出していた暴君が、そのお得意の口を貝のように閉ざしたのだ。息の詰まる空気は小野寺の人間達の間にも漂っている。できるかどうか分からない。それでも最悪の事態が起こる気配があったら飛び出していく覚悟が固まっていた。
「教育ってのは難しいぜ。教員の皆様方が頭を悩ませているのがよく分かる。……カタギの連中を近づけさせないためには、もっと早くから聡に証を植えつけておくべきだったかもしれねえな」
 乱暴にルチアーノの体を下ろす。荷物のようだ。ぞんざいに扱われた体が固い地盤に受け止められた。岩鷲は息子の左腕を万力のような力で持ち上げた。そして自身が先程座していた切り株の真上にルチアーノの左手を押しつけ固定させる。
 岩鷲の懐辺りから何かが落ちた。
 ──鞘、だった。
 魔物は白銀を夜空に掲げる。全身が粟立つほどに艶かしく鈍色に光り輝く小ぶりの短刀が夜風に撫でられた。
「親父、何するんだ!! やめろ、やめてくれ!!」
 骨に食い込ませるほどの勢いで五本の指がルチアーノの左腕を締めつける。だが巨岩はビクともしない。それでも恐怖にかられ、ルチアーノは残った手で、両足でもがき始める。
「チッ。……おいお前等、抑えつけろ」
 静観──というより言葉を発することを忘れていた舎弟達が遅れて反応を返す。心を殺し、厳めしい顔を保った男達が数人がかりでルチアーノの四肢を封殺した。
 空也は驚愕の淵に立たされていた。
 だがそれも一瞬。直に見るのは初めてであったが、この先に岩鷲が何をしようとしているのかは知識だけで理解している。
 飛び出すべき時だった。
 嘘でもハッタリでも並べ立てて何とかするしかなかった。
「聡ー。手ぇめいっぱい広げとけ? それからあんまり動くな。他の指も切り落としちまっても責任は持てねえからな? ……最初からこうしておくべきだったな。所詮人間の第一印象は外見だ。小指のない男と進んで親しくなろうとする酔狂なヤツなんざこの世にはいねえだろう」
「あんたは……あんたは……最低だ──!!」
「ほう? なかなか将来楽しみだぜ聡。大の大人だってこの状況では泣き喚くもんだ。流石は俺の息子だな。よくこの状況で俺にそんな口がきける」
 逆さ刃に柄が握られた。
 夜空の月が刃文を眩く照り返す。不吉なる閃光。
 憎悪とも歓喜ともつかない、堕ちた人間の表情が狂気で埋め尽くされる。
 ──空也は──遂にその場を飛び出した。
 短刀がルチアーノの小指目掛けて振り下ろされる──
 空也が腹の底から上げた声は。
 巨神が大地を叩きつけた轟音を前に完膚なきまでに霧散した。
「何だッ!!?」
 それは誰の声だったのか。
 地響きのような大振動は人間の重心を易々と奪っていった。かろうじて空也は踏ん張ることができたものの、発生源に近い場所にいた男達が揃いも揃って無様に腰を打つ。岩鷲の手から短刀が転がり落ちた。予期せぬ敵の襲撃か。と、即座に頭を切り替えた小野寺組の若頭の胆力は流石と言えよう。短刀に手を伸ばす。
 そこへ影法師が落ちた。
 大きな大きな影だ。
 見上げる。
 息を止めた。
 先程までは存在していなかったソレが、薄明るい光を背に受け、何百年を生きた樹齢のように無言で佇んでいた。
 魔物を越えた魔物。
 釜の底から沸き上がるような重厚なる吐息。鬼のように尖閣なる無数の牙。覆われた闇色の毛は夜と同化するかのような漆黒だ。岩鷲の二倍近いほどの背丈。両の手から突き出るはドスなどよりよほど凶悪な煌きを宿す十の爪。
 人は生涯怪物と対峙をすることはない。故に、本物の怪物から間近で睨まれた時、想像や予想などといった雲を掴むような予防策など一切無価値と化す。原始的なる本能は正直だ。数で勝り──そもそも目的のための獲物が眼前にいるというのに、誰一人としてまともに猟銃を持ち上げた者はいなかった。一切の思考停止。
 土暦が雄叫びを上げた。
 体と思考の働きが停止する。人間がヒグマに勝るのは脳と手先だけだ。鍛えようのない本能はどうしようもない。
 ──冷静とは言い難くも、そこで適切なる判断を下せるのは見事である。
「クソッ!! おい、一旦引くぞ! テメェ等、寝てんじゃねえ!! 死にたくなかったら立てや!」
 岩鷲は猛者だ。
 舎弟の腰が完全に砕かれていることを看破し撤退を指示。自分は勿論、誰か二、三人が目の前のヒグマに殺られれば恐怖が伝染し一気に場が混乱すると見る。荒事に慣れている男達とて、人間以外の相手による意表をついた登場には一挙に心に混迷を打ちつけられたらしい。
 怒号のような号令は縋るべき糸となる。闇の中に落ちた一筋の光。それを元に男達は自我を取り戻す。何人かは冷静な判断を取り戻したが、何人かは猟銃を投げ捨てて一目散に踵を返す。
 岩鷲は忌々しげに舌を打つと土暦から離れ──思い出したかのようにルチアーノを見下ろした。息子が立てる状態にないのは一目瞭然だった。即座に判断。
「じゃあな聡。俺のためにせいぜい時間を稼げや」
 それが親から子に送る最後の言葉だった。
 山道を担いで逃走するのはリスクが大きく──逆に一人が敵の注意を惹きつければ、他の全ての人間が無傷で助かる。
 透徹にて冷酷な判断。親が子を捨てた瞬間。
 空也が口を間抜けのように開いてしまうくらい、あまりに呆気なく走り去って行く。
 土暦はなぜか彼等を追わず制止していた。
 彼が凝視するのは、切り株に体を預け生気を出し尽くした一人の少年。
 ルチアーノだ。
 ヒグマは一度獲物と定めたものは地の果てまで追って行く。相手が生きていようが死んでいようが、そこが人里であろうが何十キロも走り続ける。
 ぼろきれのように捨てられた少年は、既に土暦に一度銃を放っていたのだ。
「土暦さん、ダメです」
 今度は声が届いた。
 ルチアーノも空也の存在は気づいていたようだ。迫る親友の姿を一顧だにしない。
「くるなブラザー」
 それは危険を制止する声ではなかった。ルチアーノはもしかしたら、空也と土暦の関係にも漠然と気づいていたのかもしれない。
「人間よ。強い者に蹂躙され、心と誇りを潰された気持ちが分かったか」
 当然ルチアーノに土暦の言葉が聞こえるはずもない。獰猛な唸りは人間を萎縮させるのが関の山だ。現にヒグマの口からは飽くなき灼熱が言葉と共に吐き出されていたのだ。
「──分かっていた、なんて……言えない。でも──改めて──分かったぜ──」
 なぜか怯えはない。
 ルチアーノは独白するように紡ぐ。土暦の言葉と繋がったのは偶然だろうか。その奇妙な因果律を前に空也は思わず足を止めた。自分が踏み込めば、ルチアーノと土暦の間に結ばれた不可視なる空洞が消えてしまいそうな気がしたのだ。
「逆らえねえ……。暴力には逆らえねえ……。ぶん殴られ、指を切り落とされそうになり……HAHA、本場のキングコングだってもうちっとは理性があるぜ……。弱いヤツを踏みつけ……」
 切り株にもたれ、親友が真っ直ぐな瞳で土暦を見上げた。
「まさに……俺があんた達にやろうとしたことだ……。いや……もっとタチが悪ぃか。指だけじゃねえ、殺そうとしたんだからな……」
 全ての物音が死んだ。
 重なる葛藤と生死の狭間、唾棄されるように捨てられた少年はどんな悟りを開いたのか。
 人が動物に話しかけていた。
 狂人の行いと誹られても反論できない光景。
「……あんたに……殺されるのなら……HAHAHA、納得だぜ。……自然の摂理のような気がする。殺し……殺され。俺はあんたを殺そうとしたんだからな。でも、あの連中に殺されるのは……ごめんだ。あんな何も考えてないヤツに。シットゥ、ダセェぜ。残してきた女達を悲しませちまうな」
 酩酊しているようにその言葉はおぼつかない。死を前にして狂ったのかもしれない。
 なのに不思議とその言葉には強い情念がこめられている。
「どうしてこんなことになっちまったのか……て考えて、一秒で結論が出たぜ。……こっちが仕掛けなきゃ何も起こらなかったんだ。そんな……当たり前のことが浮かんできやがった。なぁ……あんたよ……」
 ──土暦が、目を見開いた。
「悪かったな」
 頭を下げた。
 猿が人に対し芸を披露するかのように。
 人が熊に対し首をもたげたのだ。
 笑ってしまうほどに滑稽な絵図。
 人は人を誹謗し、時には拳さえも打ちつける。
 もっと些細な争いもある。肩がぶつかった。遅刻した。進行を妨げた。そこで人が行うのが謝罪。
 これは人間同士の喧嘩ではない。あまりにユーモアに富んだ喜劇。それなのに──
 それは至極当然のできごとだった。
 いつから人は動物に口で謝罪することをやめてしまったのか。
 喧嘩して謝るのは当然のこと。物心ついた子供が初期に学ぶあまりに単純な常識。
「……」
 ヒグマが言葉を失っていた。
 彼もきっと空也と同じだ。呆気に取られたのだ。
 動作こそは単純ながら、そこには深い誠意が込められていた。
 謝罪は誠意となり、誠意は相手への敬意でもある。
 理由は複雑だ。紆余曲折を経て染野山に落ちた言葉。
 だがそれは、ルチアーノが土暦を。
 人が動物を対等に扱った瞬間だったのだ。
「……」
 だからこそヒグマの長は何も言えなかった。
 自然へ対する敬意は、彼が日頃から一番に遵守している心だったのだ。一度殺意を向けられ、対等なる死気をはべらせ相手に叩き込むことだけに頭を埋め尽くそうとも、熊の心は常に純真たる涼気が風吹いているのだから。怒りを受け入れることも、自然の摂理を受け入れることも、一切傾斜することなく平等にその巨躯は扱うのだ。
「ブラザー。俺の死を見届けてくれや。俺はここで散ることにするぜ」
「な──何言っているんだ!!」
「お前のおかげなんだぜ? HA、放っておいていいのに……何度も何度も食いついてきやがって。親父の……作った階段を……ロボットみてえに上って行った……。でもよ……お前の情けねえ泣き顔がここ最近ずっと消えねえんだ……。気持ち悪いぜちくしょう。お前の顔を浮かべるくらいなら……イースター島に行ってモアイと熱烈なキスでもしてた方がまだマシだぜ……」
 土暦の腕が持ち上がる。そこから繰り出される一撃は岩鷲の比ではない。
 即死なら救われる。中途半端に傷を負ったら死よりも辛い苦しみが待っている。
 だからルチアーノは身じろぎしない。
「勘違いするな? 投げ出すんじゃねえんだ。これが一番いい気がしてな……。あんな親父になんざ……なりたくねえ……。俺は……あぁ、ちくしょう……俺は、お前とバカ言い合いながら……下校している時の方が……ずっと楽しいんだ」
「ビッグなマフィアになるんだろうが!! こんな──!!」
 空也は走り出した。
「HAHAHA、何にもできなかったが、せめて死ぬ時くらいはマフィアらしく格好よく、な」
「──若気の至り。死を望むのは構わぬが、後に後悔することは叶わぬぞ!!」
 ギロチンの刃が降りた。
 全力疾走する人間の努力を嘲笑うかの如く。
 土暦が空を裂いて振り下ろした右腕が夜空に破砕音を木霊させる。
 砕け散った。
 中身が弾け飛んだ。
 裂け、ひしゃげ、押し潰されたものが月光の下で黒いシルエットとなって踊る。
 惰性で空也は走り続けていた。言葉も出ない。一幕が幻想であることを夢想し駆ける。
 既にその両足に意識はなかった。
 ゴールに辿り着く。滑るようにして両膝から草の上に崩れ落ちる。
 横たわる親友。
 辺りにぶちまけられていたのは。
 ──幹から粉々となって散った木片だ。
 ヒグマの一撃を浴び、ささくれだった木屑が切り株の上から噴き上がったのだと知る。
「……は……は……」
 水泳時の息継ぎを思わせるような深い呼吸は、変わらず切り株に背を預ける親友から。
 飛び出そうな目玉が土暦を凝視している。失禁しなかったのは奇跡かもしれない。死が頬を掠め避けていったのだ。
「──おそらく貴様等人間に、光を示せと言ったところで何ができるわけでもないだろう」
 厳かに。
 人間二人の真上から、天から声が降ってくる。
「図式的に我等の生存数を調べ、過去と現在の統計を計り、我等の好む事柄、苦手なもの、侵してはならぬ禁忌を理解しそれを徹底させる。人間は我等を箱庭で飼う」
 土暦が──四足に戻る。
「間違いではない。だが我等の心には何も響かん。恐怖で気が狂っただけかもしれんが……それでもこの土暦の心を一瞬とて奪ったその言葉には敬意を評する。我等は本来対等なる生き物。熊と猿。お前達ヤクザで呼ぶところの義だ。それを示された以上は私も矛を引かねばなるまい」
 引き金を引いたのがルチアーノならば、頭を下げてそれを治めたのもルチアーノ。誰も傷を負っていない以上、帳消しとなり全てはゼロへと収束する。
 透過なる山の風を久しぶりに吸い込んだ気がした。秋の味。寂々たる田舎の街のにおい。
「手を引こう。……お前だけは」
 しかし空也の安穏はすぐに瓦解する。土暦の声色は何も変わってはいなかったのだ。
「そいつを連れて早く行った方がいいぞ橋渡しの人間。……フン、仲間と合流し、連中も数の強さを得たわけか。ようやく心が安定したと見える。猿は群れるが基本。それは今も昔も変わらぬということか」
「土──」
「ここは戦場になる。何度も言わせるな人間。見逃してやるのはその男だけだ。他の連中とは争う理由が百はある。……どうやら遠くから狙撃をするつもりはないらしいな。愚か者達め。銃を手にしながら近づいてくるなど慢心以外なにものでもない。先程の敗走劇で誇りを傷つけられたか」
 まず嗅覚が。そして聴覚がそれを補佐する。
 熊が人の気配を察知し、的確にその状況を事細かに分析していた。
「何だ? 聡、お前生きているのか」
 ぞんざいなる口調。その言葉にルチアーノを安否する感情は含まれていない。
 悪人の集団。
 動物はおろか、同じ人間であるはずの彼等に言葉一つ届かない。
 不意に無力感に包まれる。人と熊が敵対しているこの瞬間。
 いつか自分とハツネの間に子供が生まれたとして、こんな世界でその子はどう生きていけばいいのだろう。岩鷲は物珍しさから札束を見るような目で見つめてくるだろう。土暦は憎き人の血が混じったその子に爪を振るうかもしれない。
 絶望が夜の草原に広がっていた。
 一頭の巨大な熊に対し、武装を済ませた百人近い男達が姿を現したのだ。