Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 新たに現れた男達に動揺は見られない。熊に襲われれば通常は興奮か錯乱状態に陥るはずであろうに、その面影がないということはハツネや茶部の情報かく乱が功を奏したのだろう。軽く視界に入るだけでも何人かの男達が煙草を口に咥え、呑気な面持ちで紫煙を味わっていた。
「親父──! 何だよ……帰ったんじゃ──」
「馬鹿かお前は。動物如きに追われ逃げ帰るのかぁ!? 明日からどのツラ下げて街中歩くつもりだ。──しかし驚いたぜ。こんなどデカい熊が日本にいたなんてな。金があるからといって、この世の全てが手に入るわけじゃあねえ。あいつを剥製にでもして大阪に送れば、上は大層喜ぶぜ。金や宝石以上に希少な価値がある」
 岩鷲の余裕は周りの男達を密かに勇気づける。一対百。何より小野寺の人間のうち、既にかなりの数が熊を目の当たりにしている。当初受けたような衝撃に対し耐性が生じ始めていた。そして目の前には視界の開けた瑞々しい大地。月明かりも存在する。暗闇と遮蔽物から動物達が現れることもない開けきった一帯。自信と優越が人間達には渦巻いていた。
「よし、お前等。よく見とけ。俺がライフルの撃ち方を教えてやる。五十メートル先の心臓を貫けないようじゃ話にならねえぞ」
 笑い声を含んだ威勢のいい声が次々に上がる。
 まるでボーリングで順番が回ってきたかのような気楽さだ。部下が上司へ送る激励。
 気配を察し土暦が岩鷲から取った距離はおよそ二十メートル足らず。
 もし相手が襲い掛かってきたら数十丁の銃口が同時に火を噴くことになる。それが分かっているからこそ岩鷲も不敵に、舎弟達も安心して笑っていられるのだろう。
 ──おかしい。あれだけ沢山いた熊達は今どこに?
「旦那様!!」
「ハツネ!?」
 悲鳴のような金切り声は空也が先程通ってきた木立ちの間から。
 全速力で駆けてきたのか、息を切らし両手で幹に持たれかかる着物の少女が出現した。
「危ないです! すぐそこを離れて下さい。ダメでした、もう止められません!!」
「何を言っているんだ!?」
「婿殿! 早くこっちへ、そこは危険ですぞ!!」
 茶部までもが、らしくもなく抑制を失った声を飛ばす。土暦の警告も、ハツネ達の言葉もまるで理解できなかったが、一様にして切羽詰った声に空也は突き動かされた。ルチアーノを背中に抱える。
「おい、ブラザー。俺は……」
「いいから、こい! 生きろ! ……やるじゃないかよルチアーノ。お前、さっきの行動は生きた伝説になるぞ。ビッグマフィアの始まりだ」
 人一人を抱えて走る速度などたかが知れている。
 そういえば岩鷲は追いかけてこないのだろうか。……それ以前に妙に静かだ。そもそもハツネが現れたのならば連中はもっと色めき立つはず──
 背後を振り返った。
 誰一人とて空也達の方を見る者はいなかった。
 百の視線が草原の彼方へと吸い寄せられていた。
 空也も見る。
 距離を置いて立つのはヒグマの長。土暦。威嚇するように二の足で立つものの、その口は静かに閉ざされていた。あの誇り高い熊が、一見すると生を諦め観念したかのようにも見えてしまう。
 ──その背後。そこから百メートルほど離れた後方。盛り上がった丘に──
 一頭の黒影が月に照らされ現れた。二足歩行で立っている。だが人ではない。妙に短い手足。その四肢は人のそれとは比肩すべきもない頑強さと濃度が備わっている。
 熊だった。
 なぜあんなところに? 傾げた首が凍りついたように固まる。
 丘の頂上にぽっかり浮かんだ熊のシルエット。その両隣に更に二頭の熊が現れたのだ。やはり二足だ。そして間を置かず更にその両隣にも現れた。
 その更に隣にも現れた。
 その隣にも。
 隣に、隣に──
 山林地方には平原や山野が多い。故にそこは、本来街中に揚々と開拓できないものが並ぶ。
 彼等を見て空也の頭に浮かんだのはお墓だ。小高い丘には万を越える墓石が悠々と、幽玄たる世界を構築する。
 ──また熊が出現する。横いっぱいに一頭、また一頭と将棋の歩のように並べられていった。
 ──お墓がまた一つ。また一つと山に並んでいく。
 土暦はただの一度たりとも背後を振り返らなかった。既にどんな状況下にあるのかを、おそらくこの中で一番理解しているのだろう。彼はいつの間にか仲間を呼んでいたのだ。いつ? 岩鷲と相対した時に発した雄叫びだろうか。散らせた仲間を集結させた。
 何のために? 
 ……愚問だ。考えるまでもない。その理由は一つしかないではないか。
 闇夜の丘が熊達に埋め尽くされた。二百頭はいるだろうか。だがおそらくその背後には更に熊が控えているのだろう。
 人間達はその光景に誰一人とて言葉を発することが叶わなかった。
 彫刻と化した誰かの口元から煙草が呆気なく転がり落ちた。
 何人かが猟銃をその手から零していた。
 これは──そう。
 戦争。
 遥か昔の武将達は、敵の騎馬群が丘一面に並ぶのを見て何を思ったのだろう。
 少なくとも現代の人間達は昔と比べると闘争本能は格段に薄まっていたらしい。
 その呆けた脳からは戦意喪失以外のものを読み取れない。
「聞け!! 勇猛なる我が仲間達よ!!」
 土暦が小野寺と向かい合ったまま獰猛なる唸り声を発する。
 その音色を前に、何人かがたまらず腰を折った。
 ……本来それを叱責するはずの岩鷲でさえ、今はただ目の前の圧倒的なる存在を前に全ての機能を停止させている。
「目の前にいる愚か者達はもはや猿ですらない! 猿より退化した。自らの快楽と欲望のために母なる大自然の螺旋を金塗れの手で汚そうとする屑共だ!! 人から疎まれ、我等からも憎悪される。そんな連中のために、誇り高く生をまっとうしている我等がなぜ無残に散らなければならない!?」
 ──気配を感じた。
 空也が慌てて常闇の森林へ目を向けると、そこにはいつの間にか染野山の民達が沈痛なる雰囲気を纏わせて集まってきていた。鹿や犬、兎、猪、狐に狸に猫、フクロウにムクドリ──気配の数は尋常でない。闇の中に数え切れないほどの生命を感じる。彼等の心は──問うまでもないだろう。目の前の狂騒に参加するのであればこんな場所にはいない。
 止められない。
 十匹以上の虎と戦わせても完膚なき勝利をするとされている成熟したヒグマを前に、この山で本気になった彼等を止めることのできる者などいないのだ。
「戦え!! そして大地に朽ちよ!! 今こそ我等熊は、熊として命をお山に刻む時! 全てを母に還す時! この牙で敵の首を噛み千切り、この爪で心臓を貫く! 我等は──熊だ!!!」
 そして──
 何千年、何万年と変わらず受け継がれてきた哺乳類最古の武たる魂が、やはり何千年、何万年と大地を見守ってきた煌々たる月へと戦の始まりを告げる。
 吼えた。
 毛一本、血の一滴全てを捧げ──
 呼応が破裂する。
 染野山が揺れた。
 二百を越える熊達が一斉に空へと怒号を放ち──
 その足並みを揃え、四つの足に蓄えられた力を惜しみなく解放する。全速力で丘を下る彼等の速度は時速五十キロを越えた。
 丘の上に陣取っていた兵士達が、遂に怒涛の進撃を開始したのだ。
 赫怒が大地を揺るがす。
 雪崩。落石。噴火。洪水。地震。
 いずれにも劣らないその激流音は、熊達の突進が災害にも匹敵すること意味している。土砂崩れのように絶えることないその響きは耳を聾し、暴力のように鼓膜を突き抜けていく。
 落盤のシャワーに人が押し潰されるように──
 丘の上から迫りくる熊達の群れに秘められた力は、既に一介の動物を越えていた。
 災害ではない。
 紛れもなく人の所業。
 これは人災だった。
「おい……おい! 何だよありゃあ。……何だよありゃあ!!」
 誰かが叫んだその声には、もはや強面としての威厳を保つ気概など存在しなかった。自らのボスが近くにいることも忘れ、慄きに取りつかれたパニック寸前の相貌。
 彼等は今尚動けなかった。
 戦争が始まっているというのに。
 土煙を上げて山の軍隊が敵を殲滅せしめんと轟音と共に駆け下りてくる。
 吠えて吼えて咆える。強引に被せていた蓋が熱を抑えきれずに弾け飛んだ。牙を噛み鳴らし、殺意全開に全ての熊が鬼神の如き形相で迫りくる。
 怒っていた。
 法の抜け道を探るか、弱者から金を搾り取るかを主たる仕事とする彼等からすれば、その敵は純粋すぎた。金も快楽も関係ない。機械のように完全。濃度百パーセントの敵意。
「うわあああああああああああ!!!!!!」
 遂に一人が逃げ出した。
 それを待ち焦がれていたかのように六人が同時に。
 それで免罪符を得た人間が七人後を追う。
「テメェ等、何やってる!! 撃て!! 撃て!!!」
 岩鷲は自ら銃を構えながらも怒鳴る。だが誰もそれに追随する人間はいなかった。
 誰もが悟っていたのだ。災害にライフルを撃ち込んだところで何の効力もないと。
 もはや熊達は止まらない。
 どのみちヒグマ相手に一発二発浴半端に浴びせたところで倒すことなどできない。
「ぶっ殺すぞテメェ等!! 立ち止まって死に様晒さんかいッッッ!!!」
 常に人を食ったように見下していた岩鷲が遂に仮面をかなぐり捨てた。熱烈なる怒気。
 だがそれで立ち止まったのは本当にごく少数だ。
 女子供のような悲鳴をあげ、腰が抜けたのか、中には四つん這いの姿勢でヤクザ達が逃げて行く。恥も外聞もなかった。号令を受け一度は立ち止まった人間も、間近に迫る熊の群れを前に今度こそ尻尾を巻いて逃げ出す。その脳裏に浮かぶのは数秒間を無駄にした後悔だけだ。
「獣風情がァァァァァッッッ!!!!!」
 ようやく一発の銃声があがった。
 戦闘開始からゆうに三秒が経過した後のこと。
 あまりに遅すぎる、中途半端な決意。
 一頭の熊がその速度を一瞬止める。被弾箇所は分からずともその巨躯に凶弾が命中したのだ。
 だが。
 構わず再び走り出す。
 自己を満たすためだけの、焼け石に水と呼べるほどに虚しい行動だった。
 増援なのだろうか、丘の上に更なる熊達が姿を見せた時、その数を前に再び空也は絶句した。
 ──が。
 走駆する彼等と比べ、いずれもそのシルエットは僅かに小柄。
 すぐに理解する。彼等は雌、もしくは年端もいかない子供。夫の、父親の勇壮を見守るべくその戦を見守っている。人間と同じ。兵士達には守るべき家族があるのだ。
 紅蓮の波が押し寄せる最中で。
 それまでずっと傍観してきた長が動き出す。
 土暦が殺意に塗り潰されていく。巨大なる体躯を大地に預ける。駆け出す。走り出す。トップスピードは一瞬にして訪れる。土暦を先頭に熊の集団が雪崩れ込む。
 秋山に相応しくない狂騒たる宴の幕が開いた。
 既に小野寺の人間達は四方八方へと散在していた。恐怖に憑かれ、邪魔な猟銃を投げ出し木々の間へと逃亡する。それはつい先程までの流れを再現するかのように、あまりに愚かで、成長を感じさせない行動の繰り返しだった。
 空也は無力感に襲われながらも思考の停止をやめない。
 どうして自分には何もできない。
 見ろ。
 結局人と動物は相容れない。
 目の前で起きている構図は、古今東西に共通する人間とそれ以外の者達の縮図だ。
 自分が幸せに胸を弾ませていくその傍らで、土暦はずっと苦悩し続けてきたというのに。
 きっとそれも縮図だ。
 安穏とした日々を送るその床下で、常に彼等は犠牲になり続けてきたのだ。
 人知れず。ひっそりと。
 繰り返されてきた殺戮。
 ならば彼等の怒りは正当なる感情から成り立っているのではないか。
 ここで熊達が人でなしを屠ったところで一体何の問題があるというのか。
 ──空也はルチアーノを下ろすと駆け出した。
「……そんなわけあるか!」
 偽善でも構わない。
 平然と悪行を振りかざすなど鬼畜所業。だが連中が死ぬのを見て見ぬフリすることも同義。
 土暦が踏み潰したくなるほど小っぽけな山を築いてもよいではないか。そこは楽園。花吹雪く桃源郷。理想とは、夢見ることからスタートするのだから。
 暴走車の激突。
 疾走する勢いをその体重に余すところなく乗せた土暦の体当たりが岩鷲に炸裂した。
 ぶっ飛ぶ。
 猟銃が旋回し彼方へと消え去った。二メートルを誇る大男が人形のように軽々しく宙を滑り、背後に聳え立つ幹に激突する。脳に損傷を与えないために頭を庇う挙措は流石だ。肺から空気が搾り出された。肋骨を粉砕する破壊槌。起き上がろうとしつつも激痛が流れたのか呻きを上げると崩れ落ちる。土暦は止まらない。人の体など蝶も同然。走るヒグマの前では障害物にもならない。傷を負い体勢を崩した岩鷲にトドメをさすべく、自然の生み出した最強凶悪たる刀刃を豪壮たるがなりと共に突き出す。
 そこへ割り込んだ。
「……!!!」
 ヒグマたる気性故か土暦は常に炎を全身に燻らせている。だがそれに支配されず、流されないのが長たる所以。怒りの裏側に張りついているのは沈着たる不動心。
 大地を滑走する体躯が、熟練したスキープレイヤーを思わせる急ブレーキをかけた。
 空也にも土暦の性格は段々と掴めてきていた。
 この相手の場合、中途半端な行為は巨岩のようなその手で簡単に弾き飛ばされる。
 やるなら全力で。心と魂をぶつける。
 奇しくもそれはルチアーノが見せたことでもあった。
「何のつもりだ人間!! これ以上邪魔するならお前とて容赦はせんぞ!! 誇り高き戦争に無粋に足を踏み入れるというのならば、その足を踏まれ、砕かれるのも承知しているのだろうな!!?」
「何が誇り高き戦争だ!! 自分に酔うな!!」
「……そうかよく分かった! お前は私達に死ねというのだな!! 無様に撃ち殺されろと!!」
「何度でも逃げればいい!! こんな連中の熱意なんてたかが知れている! 百回追い回されたのなら、百一回逃げればいい! この山を汚すな土暦!!」
「橋渡しィ──!!」
 その時、獰猛なる津波が土暦の背へと追いついた。
 戦争の最中に始まった一頭と一人の口論に、熊の数だけの視線が注がれる。
「お前達はこのまま行け!! 連中をこの山から帰すな!! せめてもの慈悲だ、猿の故郷である山の中に躯を眠らせてやれ!!」
 長の一喝。
 彼等は赤い布を親の仇のように見立て串刺しにする闘牛達だ。
 土暦と空也、岩鷲の両横を荒々しい足音と土煙を上げて幾百もの熊達が走り過ぎる。
 人と動物の立場は逆転した。
 狩人は追われる。獲物が駆ける。命懸けの鬼ごっこ。
 気が触れてしまいそうなほどの殺意が両サイドを通り抜けて行く。大地を踏み鳴らす音が心臓の中心を穿ち続けた。獣のにおい。興奮剤のような甘美なる熱にあてられる。
 突如空也の背中が乱暴に突き飛ばされた。つんのめりになり土暦の前に両手をつく。背後からは毒を吐くように唾を吐き捨て岩鷲がずれた足取りで駆けて行く音。……ルチアーノの次は空也というわけだろうか。土暦に生贄を差し出し、咀嚼している間に逃げ出そうというのだろう。部下が消えたからか、それとも逃げ出す算段がついたのか、攻撃から逃走へと転じる。
 愚者を見据える瞳だ。
 あまりにも愚かな人間達を前に、皮肉にも微量ながら気概が削がれてしまった土暦。
「……なぜそこまで連中を生かそうとする。……人間、お前のことは知っている。ハツネが嫁ぐにあたって人選は選びに選び抜かれた。お前は優しい。そして逞しく強い。勇気もある。染野山の麓で育ち、畑を耕し山や滝壺を見回り、大地と水と緑の中でお前は生きてきた」
 遊園地の絶叫マシンのようだ。
 風に乗ってあられもない悲鳴が届いてくる。そこに断末魔が混じってないのが今のところの救いか。
 山は地獄へと変わる。
「だが。それはあくまで人間レベル。人が自然を保護するのと同じ観点だった。私の予想する土山空也とは、一般論を兼ねる男。悪党が死のうが最終的にはよしとする。動物が苦しむことは自身の心を苛むが根本に割って入るほどのものでもない。──それがよき人の心。常識人。お前は異常だ。なぜここまで介入しようとする。その細い腕では何もできんだろうに!」
「何度も言っているでしょう土暦さん。俺はこの山を血に染めたくなんかないんだ。だって……」
 心は移ろったのだ。
 もともと変わり者であったが、一つのキッカケを経てそれは飛び抜けて変貌した。
 原因はたった一つ。
 男であれ女であれ、人間であれ、きっと動物であれ共通して言えること。
「ここは俺の妻が育った故郷なんだ。死んでも守り抜きたいと思うのは当然だろう!」
 ハツネが呼吸を忘れた。両手で口元を覆う。
 ──やがてその金の瞳が潤み始める。
 火種は空也の心で未だ燻っている。
 それは憎悪の種ではない。祭りの残滓だ。
 手を取り合った。
 踊った。
 輪になって動物達が飛び跳ねた。
 紅葉が紙吹雪のように降り注いでいた。
 月明かりが優しかった。
 風が俗世を攫っていった。
 歌と踊りは動物が覚えた原初の記憶。心揺さぶられる魂のリズム。生が溢れ、とぐろ巻く幻想世界の時間はあの夜からずっと空也の胸で時めいている。
 恋か愛かも曖昧だ。
 だがそこに境界線を越えた美しい花が開いた。それは虹色の輝きを振り撒く、この世のどんな可憐なる花よりも心奪う奇跡。
 空也は既に橋を渡っていた。
 土山空也は人間でありながら動物の世界へ身を浸る。
 両の世界を行き来する。二つの世界を知る。ルチアーノの発芽のように逞しい心も、ハツネや茶部、土暦の尊さも。その世界の中央で、橋のど真ん中で行われたのがあの日の祭り。空也は人間世界を壊したくない。妻が住む世界を壊したくない。そして二つが重なり合った理想郷を垣間見た。
 だから止めるのだ。
 それを汚す行為を。
 その至高なる輝きの前では、自分の身一つ程度どうでもよいと本気で思うまでに。
「土山……空也……」
 躁狂は続いていた。あの日以上に今夜は酷く山が騒がしい。土暦の唸り声は風に流された。
 ──離れた場所からそれを見据えていた茶部は密かに思い、身を震わせる。
 やはり自分の見立ては間違ってはいなかった。
 このような結果となり、二種族が共に進むべき道に障害が発生してしまったものの、空也ならばハツネとの間に聡明なる子供達をもうけることだろう。それは人と動物との在り方を少しずつ変えていける希望の光となることだろう。
 ハツネは涙を堪える。駆けて行き夫の胸にその身を埋めたかった。
 だが今は女の欲情は封じ込めなくてはならない。橋渡しの片割れとして。
「見事だ。よくぞそこまで言い切った」
「土暦さん!」
 期待に胸を抱いた空也は、しかし無情にも奈落へ落とされる。
「もしこの山から熊が消えたら、後のことは任せる。お前と茶部殿とハツネで素晴らしい世界を築き上げてくれ。──その世界を邪魔するあの連中は私達が命にかえても殲滅しよう」
 跳躍。土暦は一切の助走をつけずに軽々と空也の頭上を飛び越える。
 話の終わりを告げられた。人が熊と競争して勝る要素はない。土暦は岩鷲達が消え去った方向へと、身軽に大木達の間をすり抜けて駆けて行った。踊っている時は情緒溢れる傘であったのに、この時ばかりは頭上に散らばる紅葉の赤が不吉なものを連想させた。
「貴方も生きなくちゃダメなんです!!」
 追いつけるはずがない。それでも空也は全力で駆け、怒鳴るかのように闇に声を飛ばす。
 人間達を土暦が追いかけ、その土暦を空也が追いかける。
 だが空也はもはや土暦の姿を目視することは叶わない。熊は夜陰に消えた。
 木立ちの迷路に声だけが木霊する。
「……私の背後には妻と子供達がいる。お前もいつか親になるのなら覚えておけ人間。猿であろうと熊であろうと人間であろうと、生命として世に誕生したからには、我が子は父の背を見て育つ。お山のサイクルと同じに誇りもまた循環されていくのだ。受け継がれ、不変の現象と化す」
「それが自分に酔っているのではないのですか!!? ……俺だって両親はいない。ずっとじいちゃんの背中を見て育った! じいちゃんは馬鹿でスケベで、貴方とは比べようもないくらい恥ずかしい親だ。でも──!」
 この二週間の追想。
 厳蔵はほとんどと仕事をしていない。駆けずり回っていた。
「貴方とは違う!! 安易に拳に頼ろうとはしなかった! あんな男にお金を持って行って、頭を下げて……今なら分かる。じいちゃんは俺なんかよりずっと大人だったんだ、て! 土暦さんが染野山を想うのと同じくらい、じいちゃんだってこの山が大好きなんだ! もし貴方が死んだら、貴方の子供は人間に復讐を誓う敵対者になる! 貴方が誇りやプライド、伝統を重視することによって子供の生き方さえも決めてしまうんだ!!」
「そんな甘い考えで母を守れるものか!! これまでお前達人間がお山に何を施した!?」
「何もしてない。……でもそれは『まだ』だ。未来を潰しさえしなければいくらだって可能性はある!何より……家族さえ守れないような男が、こんな広大な山を守れるはずない!!」
 いくらだって夢を見てやる。何度だって奇麗事を吐いてやる。
 空想世界の産物と思われたあの祭り。絵本の中の出来事であろうと決めつけていた世界に。 
 確かに自分は触れたのだから!
 ヒグマがその気になればいくらでも人間の足など撒くことなど可能なはずだった。もっともそれ以前に、空也の言葉に律儀に言葉を返す必要性さえないのだ。
 馬鹿な長だった。
 馬鹿なくらい真っ直ぐなヒグマ。死地に赴く前に清算させておきたかったのかもしれない。
 一定の距離を保ち土暦は駆けて行く。その口は沈黙したままだ。
「まだ……まだ間に合う!! 貴方が一言号令を飛ばしてくれさえすれば、夢の橋はかけられる! お願いです、土暦さん!!」
 熱と氷の鬩ぎ合い。それは両者共に正しく、だからこそどちらも捨てられない。
 しかし生物が持てる心の容量など限られている。溶け合ったものが唸りとなって滲み出す。
 依然として悲鳴と慟哭のオーケストラが不気味に夜の森に響き合っていた。もはやここまできては彼等の命が残っていることをただ祈るのみだ。
 空也の断続的な荒い息がいよいよ滔々たるものへと変化を帯びてきた頃──
「……ッ!?」
 前方の暗がりに逡巡が生じた。それまで飛び跳ねしていた巨体の気配が突如停止したのだ。
 ──何だ?
 自分との討論は関係ないのだろう。何か不測の事態が起きたかのような緊急さ。思わず空也も繰り出していた足の速度を緩め、緊張と共にそこへ駆け寄っていく。強風の唸りに支配されていた聴覚に新たな物音が飛び込んできた。
 それは鳥の羽音だ。一羽だけではない。
 枯れ木を踏み岩肌を越え、ようやく土暦が目視できる位置まで辿り着く。
 熊は空也の側を向いていた。一瞬体に緊張が走るが、すぐにその瞳が自分の背後にある何か別のものを捉えていることが分かる。
「このにおいは……」
 巨躯が一人心地に呟いたそれは、かろうじて耳に届く。
 何だ?
 土暦の殺意が消えて──いや違う。まったく別の何かに上塗りされているのだ。
「婿! 婿! 大変ですぞ!!」
「あんたもだよ土暦! 追いかけっこしている場合じゃないわよ!!」
 けたたましく空から降ってきたのは数十羽の鳥達だ。いずれも切羽詰っている。羽ばたきが妙に忙しない。
「このにおいは……まさか……!」
 巨躯が落としたその言葉を覆っていた感情を前に、空也は得体の知れない恐怖に全身が包まれた。このヒグマに最も似つかわしくない声色だったのだ。
 土暦が戦慄していた。
 疑問を投げかけるよりも早く鳥達が捲くし立てる。
「火事よ!! 火事なの!! 山火事が起きているのよ!!」
 耳を疑った。
 あまりに唐突。悪意に満ちた冗談としか思えないほどだ。
「あのお馬鹿な連中が吸っていたタバコに違いないわ!! 土暦、急いで戻ってきて!! 怪我で動けない動物も沢山いるの! こっちにきて指揮を執って!」
 今度こそ真なる恐怖が心臓を貫いた。
 後悔はいつだって後からやってくる。
 自分は何を見ていたのだ! 連中の何人が火を咥えていたと思っている。そこへ起きた戦争。
 命の灯火を守ることだけで精一杯の彼等が、落としたタバコの火など気にかけるものか!
 ──決してあってはならない、山にとって最悪の災害。最も恐れるべき悪魔。
 山火事。
 山地ほど可燃物が密集されている場所はない。一度産み落とされた悪魔が糧とするべき供物はそこら中に転がっている。枯れ葉を枝を食い成長し、木を大樹を飲み込み山へと君臨する。
 数ヘクタールがごっそり食われたその地形は見るも無残な山の死に様。
 ──土暦は血管が千切れ飛びそうなほどに苦悩する。我慢に我慢を重ね、何度も神経が擦り切れそうな思いを経て突撃の号令をかけたというのに、そこへ降って湧いたのは染野山の息の根を止めようかというほどの未曾有の危機。
 人を欲望のままに踏み潰したいという滾りと、お山を守らねばならぬという使命。
 何も考えずに人間を狩ればいい。
 野生のままに正当なる怒りをぶつければいい!
 自分はもう十分に屈辱に耐えた。
 なぜ天は自分が人を殺戮する機会をことごとく邪魔しようとするのか!
 あの土暦が……お山に背を向ける。
 僅かに漂ってくる煙のにおいを無視し、獲物を追い回す至福に想いを馳せた。
 ──空を見上げる。
 山全土に響き渡るのではないかと思えるほどの最大砲撃を頭上に飛ばした。
 空也は咄嗟に耳を覆った。鼓膜が破れるほどの激。肌がビリビリと震え、脳がシェイクされる。先までの鬨の声とは異なる雄叫び。熊達に何らかの合図を出したのが空也にも分かった。
 土暦は再度耐えたのだ。
 牙と爪を存分に怨敵に突き立てる魅惑なる機会を鋼鉄の意志で封じ込め、彼が最も愛してやまないそれを救うべく立ち上がる。……結果的には空也の望む方向へと。
 やはり愚かしいほどに真っ直ぐ。それが土暦が山の民全てから慕われている所以だったのだ。
「次から次へと……!」
 枚挙に暇がないほどの愚痴がたまっていることだろう。だからその一言が最後だった。
 土暦はきたばかりの道を全速力で戻って行く。今度はもう空也への気遣いは皆無だ。
 風に乗って爆ぜた煙が届いた。
 鼻を麻痺させるようなつんとしたにおい。瞳の奥で涙がせりあがってくるほどの衝撃。
 何かが燃えている。
 鳥肌が立つ。
 再び風が吹いた。その中に込められている煙は濃度が更に増していた。
 走り出す。
 間違いない。
 染野山が泣いていたのだ。

       

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Neetsha