Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 現場は惨憺たる有様だった。元々ここ最近日照りが続いていたことも乾燥に拍車をかけたのだろう。赤ん坊のような小さな火種は空也が到着した時には既に成熟しきっていた。乾燥した草は非常によく燃える。無尽蔵に並ぶ木々も炎達の格好たる獲物だ。山火事の進行速度は目を見張るものがある。火は即座に成長する。赤ん坊は貪欲に周りのもの全てを食らっていったのだ。
 生まれて初めて直に見る業火の演舞。既に悪魔は自分の背丈を悠に越えていた。灼熱が天高く聳え立つ。目が痛くなるほどの橙と白。いとも愉しげに山を蹂躙し、そこに住む無力な生物達を嘲笑うかのようにその領土を広げていた。
「もうこんなに──!!」
 戦争の舞台となった草原は炎の海と化していた。熱風が肌を焦がし、気を抜くと風に揺られ黒煙が肺の奥にまで侵入してくる。熱い。ひたすら熱い。轟々と揺らぐ灼熱が一本のケヤキを容易く飲み込む。炎が枝に宿る。紅葉が一瞬にして墨屑と化す。全ての葉が焼き尽くされ裸になった木の輪郭だけがかろうじて残るも、それもすぐに火炙りされ炎に埋もれてしまう。
 軋む音を響かせながら、どこかで木が崩れ落ちた音がした。幹を飲まれ、その身を支える力を失った大木は無念にも地面へ倒れる。──その全身を舐めつくされながら。
「落ち着いてゆっくり岩場の方に避難して下さい! 西へ! とにかく西へ避難して!」
「ハツネーーー! 岩栗の婆さんが足怪我してて動けないってよ!!」
「分かりました! ……土暦さん!」
「承知!! 瀬々、朝! お前達で行け! 鹿は足が脆い、慎重に担げよ!!」
 スイッチを切り替えた土暦は、指揮官たる猛々しさと共に指示を飛ばしていた。
 ハツネや茶部が、動物達から逐一報告を受けている。
「すまねえ……ブラザー。本当にすまねえ。俺がいながら。……一瞬だった。本当に最初は小っぽけな火だったんだ。それが──」
 多少は回復したのかルチアーノが小走りに近づいてきた。──その先は言わずとも分かる。祖父から習った。誰もがそう言うらしい。炎の成長速度など普段は学ぶ機会はないのだから。
 ルチアーノは口を噤み──やや間を置くと再び開いた。
「ブラザー。……あれは一体……一体何なんだ……」
 彼の目はハツネに向けられている。
 正確にはハツネと、その周りに群がる大小様々な動物達だ。誰が見ても分かる光景──だからこそ分からない。動物達へ言葉で指示を飛ばすハツネ。その隣には巨大なる熊。作戦司令部とでもいうのだろうか、代わる代わる動物達と対話するハツネの姿にルチアーノには言葉が浮かばない。
 こんな時に説明をしている暇はない。だから空也は一言だけ述べる。
「動物は生きているんだよ。ただそれだけだ」
 数頭の熊が取り乱した様子で土暦へと駆け寄ってきた。
「ダメです、土暦様! 火の手の勢いが強すぎます! おまけにこの風で炎がどんどん煽られて──!!」
「諦めるな馬鹿者が!!! それより千一達のグループはまだ戻ってきてないのか!? とにかく土だ! ありったけの土をかけ続けろ!! お山で一番大きな手を持っている我等が諦めてどうする!! 我等が未来を掴めねば、他の誰が掴めるというのだ!!」
 チロチロと触手を伸ばす炎が風に揺られる。
 空也の瞼に煙が染み込んだ。鼻の中への侵入も果たされる。激しく咳き込んだ。涙が搾り出された。苦しい。それ以上吸い込まないよう即座に手で口と鼻を覆う。
 黒煙が空へ昇る。不純物の混ざった煙は澄み渡った秋風を支配し陵辱していた。
 ──脳裏に浮んだのはやはりあの日のお祭りだ。
 消えていく。
 炎にまかれ、煙で覆われ、跡形もなく消滅していく。
 思い出が焼かれ、家を焼かれ、可能性を焼かれ、努力を焼かれ、橋を焼かれる。
 夢見た理想郷が悪魔によって滅ぼされていく。
「空也!!」
 切羽詰った厳蔵の声が響いた。
 振り返り答えようとして──空也は驚きのあまり言葉を失う。
「ひえええええ、何だよコレは!!」
「おい、消防車だ! 消防車を早く呼べ!!」
 そこにいたのは……厳蔵だけではなかったのだ。
 人。人。人。
 青年も壮年も老人も、何人もの見覚えのある顔が勢揃いし染野山の大地を踏みしめていた。
「じいちゃん……皆さんも──」
「ケッ! まったく、無駄な手間かけさせてくれやがってよこいつ等。やっときやがったんだよこの薄情者共が」
「……面目ない。悪かった厳蔵さん。……空也君も、すまなかったね……。小野寺の人間達に執拗に脅されていて──なんて言い訳は見苦しいな。本当にすまない」
「厳蔵さんには負けたよ。ああも毎日毎日戸を叩かれりゃノイローゼになっちまう。小野寺より、厳蔵さんの方がよっぽど恐ろしいぜ」
「違いない!」
 心に暖かいものが広がっていった。長くこびりついていた霜が、燦然と輝く太陽によってゆっくりと溶けていくかのように。瞼の開閉が途端増えたのは、決して黒煙のせいだけではないのだろう。
 ──だが感動の余韻に浸かっている時間はない。
「それよりじいちゃん、体は平気なの!? あの連中と──」
「あんな連中相手にもならんわ! それよりとっとと状況を教えんか! ここにくるまでの途中で小野寺の連中と何度もすれ違ったぞ!? 岩鷲も見た! 撃退に成功したわけだな!?」
「撃退というか──うん、まあそんな感じ。でも連中、置き土産を残していったよ」
「……ちっ。あの馬鹿共。山の基本中の基本ルール一つ守れんのか!」
 その時、厳蔵が連れてきた男達の中から叫喚が上がった。更にもう一人。それにつられまた一人と、声が波紋のように大きく広がっていく。すぐにその視線を追いかけて──納得した。
「く、く、熊だ!! 熊だ、熊があんなに沢山──」
「何だぁ!? ありゃあ一体、何やってんだ!!?」
 五十はいるだろうか。見える範囲で熊達が必死に巨大な土塊を炎の中に投げ入れていた。しかしその効力は薄い。もはや悪魔は誰の手にも負えない領域にまで進化を遂げていたのだ。
 いずれにせよ現実で見ることなどまず叶わないその光景。いくら山の近くに住む人間とて一挙に五十の熊を視界に入れた経験などあるはずもないのだ。彼等は熊の恐ろしさを熟知している。それだけにパニックが広がろうとするのは時間の問題だった。
 ハツネが、土暦がその悲鳴を聞きつけこちらを見た。彼女はきっと誤解を消すべく口を開こうとしたのだろう、しかし新たに現れた鳥達の報告を前にそれは忙殺される。
 この極限状態に更なる混乱はもはや必至だった。勇ましい染野市の男達が完全に浮き足立つ。
 空也と厳蔵がそれを諌めるべく言葉を出そうとして──
「ヘイ!!! 何怯えてんだよあんた等は!! 情けねえ、それでもタマついてんのか!!?」
 怒号が飛び交った。
 鞭のようなしなりを持ったその声は、掻き乱された脳内に凛とした光を落とす。
 男達の視線が一斉にルチアーノを向いた。
「あんた達が怯えて、そこのあんたが今逃げ出そうとしている時に、あいつ等は! ああやって必死に火を食い止めようとしているんだよ!! 本当だったら口が裂けても俺が言えた義理じゃねえが、人間がまいたタネを、あいつ等は刈り取ろうと頑張っているんだろうが!! 本来あれをやらなくちゃいけねえのは俺達なんだぞ、このクソジャップ共が!! 人間の後始末を動物がしているんだ!」
 言葉は分からずとも。
 想いは伝わる。
 ルチアーノには一言たりとも土暦の言葉は分からない。ハツネがあそこで何をしているのか、全くもって理解できてもいない。だが。
「小せえんだよ! 小せえ小せえ!! 男達がどでけえことをやっているんだ! それ見て何も伝わってこねえのかお前等は!? そんなに怖いのなら帰ってママのおっぱいでもしゃぶってろ!!」
 ただの感覚。ルチアーノにはそれだけで十分だった。
 どデカい熊が自分を殺さなかった時、そこに崇高なる意思を感じたのだ。ヤクザでも憧れのマフィア世界にもない、もっと大きな何かを。
 土暦はどこまでもBIGだった。それは熊と人間という壁を越えて確かに伝わったのだ。
「お前! 小野寺岩鷲の息子か──」
「それが今何か関係あるのかよ!!? ああ、確かに親父達がやったことだ、俺も責任はある! 謝れというなら後で土下座でも何でもしてやる!! けど今はそれどころじゃないだろ! あいつ等の背中見てみろ! 俺達の争いごとなんてあんたのナニのように小っぽけだぜ!!」
 知れずと言われた小野寺聡。この街に住む人間で顔を知らない者はいない。
 だがルチアーノの言葉は人々の琴線に確かに届いた。言葉も通じず、殺し殺される間柄だった土暦から学んだ心を、彼は敵対し敵対される間柄だった染野市の大人達に伝えたのだ。それはバトン。本来見えもしない境界線を勝手に生み出し別々の場所に身を置いていた彼等が、その何の価値もない壁をぶち壊す。誰一人気づく者はいなかったが、それは本能だったのかもしれない。
 猿も熊も昔は山にいた。同じ場所で暮らしていたのだ。
 還るべき場所にただ戻っただけだったのかもしれない。
「……そうだな。確かにその通りだ。今はあの炎を何とかしないといかん」
「消防車──ああ、くそっ! ここは圏外か。電波の入るところまで出ないと!」
 その時。
 熱弁するルチアーノの背後に、この山で最大たる生命を滾らせた四足が現れた。
 土暦の巨躯を前に街人達が一斉に後退りをする。……さすがにそれは責められない。
「おう。あんたか。参ったな、どうする?」
 そこに平然とルチアーノが語りかける。
 これには空也も度肝を抜かれた。
 夢物語をあれだけ馬鹿笑いしていた親友が、大勢の目の前で何気なく熊に話しかけたのだ。
「……」
 土暦は黙して語らない。だがもはやそこにはルチアーノに対する殺意は感じられなかった。
「……本当にお前達猿は不思議なものだ。どうしようもない愚か者であるにも関わらず、我等が不可能であると思っていたことでさえ、いとも容易くやってのけたりもする。……ああ、なるほど。今ようやく分かった。茶部殿に謝らねばならんな。これこそが茶部殿の語っていたことだったのか」
 低い唸り声は、しかしルチアーノに伝わるはずもない。
 それを当然承知しているのだろう。土暦が空也を向いた。
「橋渡しの人間よ! 電話をしたいのだろう? 我等熊を使え! 二の足で足下を気遣いながらお山を下りるより、我等に乗っていった方が遥かに早いだろう!」
「え? 熊に──乗る?」
「大電!!」
「はい!」
 土暦の呼びかけで威勢よく姿を現したのはやはり同じヒグマだ。長に比べれば僅かに背丈は低いものの、その毛並みと体躯を鑑みれば若い雄であることが窺える。
「人間を乗せ山を下りろ! ……せいぜい丁重に扱え。連中の肌は新雪のように脆いからな」
「分かりました!」
 瞼の奥にせり上がってくる膨大なる感情。熱風にさらされているにも関わらず空也は全身に鳥肌が立った。唇を噛み締める。震えようとする肩を全力で収め、一分一秒の予断を許さない今の状況を頭の中に張りつかせる。適切な言葉を探す。土山空也という少年を消し、橋渡しの人間としての両眼に切り替える。切れ目がちに沈んだ双眸が街の男達を捉えた。
「どなたか一人、このヒグマの背中に乗って下さい。山の入り口まで連れて行ってくれます。……どなたか、急いで!」
「……お、おいおい空也君……」
 真顔で冗談を語りだした空也に対し、男達の苦笑いとも畏れともつかない顔が寄せられる。
 当然だ。
 それでも今は、自分の正気と評判を海の彼方に沈めてでも優先しなくてはならないことがあった。
「テメェ等、何怖気づいているんだ。それでも染野市の男か!! ……もういい、ワシが決める。おい久保田、お前乗れ」
「げ、厳蔵さん!?」
「うるせえ!! こちとら説明している余裕はねえんだよ! とっとと乗れや!!」
「痛ッ! 分かった、乗るよ、乗るから!!」
 どこからともなく取り出した竹槍が、一人の青年の尻に無情にも突き刺さった。そこに手加減はない。厳蔵も空也と同じ気持ちなのだろう。
「な……何なんだ今夜は。お、おお俺は、夢でも、み、見てるのかぁ?」
 恐る恐る、見るも哀れな表情で青年がヒグマの背に体を預ける。両腕を首に回し、その毛むくじゃらの体躯に顔を埋めた。死地へと旅立つかのようにその顔は真っ青だ。
 走り出した。
 生命が漏れ出しているかのような悲鳴が夜空に木霊し──すぐに小さくなっていく。大電と呼ばれたヒグマはその強靭なる脚力を駆使し、男を背負うと一目散に疾風と化したのだ。土暦の部下だけあって実直だ。先程まで敵対していた人間を背負うことに一切の迷いを見せない。
 見送ることは叶わない。
 既に空也は次の行動を取るべく踵を返していたからだ。
 その向かう先にいるのは──ハツネ達。
「──どうにも──ならないか──?」
 素人目にもこの炎の渦が尋常なものでないことくらい分かっていた。波は既に草原一体を舐め終わり、より深緑と赤葉で彩られた山林の奥へと侵入していた。山にいる者全てを愚弄し、せせら笑っている。悪魔は時と共にその領土を拡大する。虹彩が焼かれそうなほどの灼熱が、距離を置いているにも関わらず隙あらば空也の体を飲み込もうと爆ぜ、腕を伸ばしてくる。
「──動物達の避難はそれほど問題はありません。ただ……」
「この炎をどうにかすることはできない……よな」
「──はい」
 ハツネの顔は炎に照らされ妖艶なる色を醸し出していた。だがその表情は優れない。金の双眸に哀しみの色が宿る。
 一息ついたのか、轟々と唸る熱を背に茶部がゆっくりと歩み寄ってくる。
「雷や自然の悪戯等、天然の炎であればまだ納得はいった。成長し過ぎたお山の、生態のバランスを崩さないよう定期的に起こる火事ならばそれは染野山の元よりの運命。だが……これは酷い……。あまりに暴力的で悲惨じゃ」
「最近は雨も降っていませんでしたから……。火の手の勢いはとどまるところを知りません。もう、こうなってしまった以上は人の力を持ってしても収めることはできないと思います。自然鎮火するのを待って、ただ遠くへと避難するしか──」
 それは一つのキーワードだった。
 雨……。空也の心に刻まれている運命の日は二つ。ハツネと共に舞い踊ったあのお祭りと──
 彼女と初めて出会った、ハツネが土山家に嫁いだ日のことだ。
 天気雨。今思えばあれは動物達の伝統だったのだろう。嫁入りの日に雨を降らし、人間達を家の中へと隠す。こそこそと嫁ぐ嫁などいない。神事たる参列は人智を越えた奇跡。そう、彼等は神のように天候を操る術を持つ。
「雨……。そうだ雨だ! 茶部さん。狐達には雨を降らす力があるんですよね!?」
「……婿殿。残念ですが、それは私もハツネも気づいていました。……許可できませぬ。まず第一に結果が見えていること。山中の狐や狸を総動員して力を合わせても、ここまで膨れ上がった炎を消すには至りますまい。そして……雨降りは決して大きな術ではありませんが、それでも力を使うのは事実。いたずらに体力を消耗し、最悪逃げ遅れる者がでてきてしまう可能性があります」
 山を預かる長の一匹として、茶部は民達の命を何よりも重んじる。
 残酷無慈悲に揺れる炎は待ってはくれない。脈動する生命の如く業火は煮え滾っていた。幻のように、しかし猛々しい色彩の中で声が上がる。絶え間なき亡者の嘆き。染野山が殺されていく。
 苦々しいものを飲み込んだ。瞼を閉じる。
 ハツネや茶部は納得しないだろう。
 だから──自分が言うしかなかった。その決断を。
 一介の高校生でなく。
 橋渡しの者として命ずる。
「ならば……命を賭して下さい。志願者だけでも構いません」
「旦那様!!」
 開かれた瞼に真っ先に入ったのは愛しき少女の──信じる者に裏切られたような顔。
 だが茶部と土暦は……すぐに空也の真意を悟った。
「業を背負うか……人間……!」
 土暦の言葉に非難はない。あるのは僅かの畏怖だ。
 身勝手な意思決定ではなく、誰かの命を捧げてでもこの山を守ろうとする決意。岩より硬く、水よりも強かで、大地のように万人の足下に宿る温もり。
「壊すわけにはいかない。絶対に。俺達の夢見た楽園はまだ始まったばかりだ。茶部さんや土暦さんが、動物達に死ねなどと言うことはできない。だから……俺が言うんです。守るんです。俺達は今、この星の歴史の始まりにいるんだ。俺を含め、命を賭してでも戦い抜く価値のある場所に!」
 一体何のための、誰のための戦いか。それを言葉にするのは難しい。
 それで構わない。感じられる者は手を取れ。感じることのできなかった者は急いで逃げればいい。
「侮るなよ──土山空也!!」
 その男はやはり偉大だった。
 何と心地よい怒りか。土暦の体内には邪悪なる憤懣が一切感じられない。未来を見据え、聖戦とも言うべき死地へ自分に誘いをかけなかった相手への純粋たる憤り。
「ヒグマを侮るな!! 貴様等猿に劣るのは頭脳と器用さのみ! 濁った文明に汚れ、驕れた猿が誇りと魂を語るなど傲慢の限り!! 我等は未来のためにならいつでも死ねる!!」
「ふむ……。……そうじゃな。……まったく大した御仁じゃ。先走る土暦に後退を教え、冷静に物事を見据える私に情動を叩き込む。丸くなったのか、足りないものが足されたのか……。本当、猿達の足掻きはいつだって常識を越えた道を生み出しおる」
 染野山という広大ながらも狭い文化に纏められた空間ではゆったりとした時が流れ行く。化学反応のように弾けるキッカケとなるのはいつだって外部要因だ。
 反転。未知なる起爆剤が白を黒に、黒を白に染め上げる。
 彼等は奮起の道を選んだ。熱にあてられたのかもしれない。長の判断としてそれを糾弾する者もいるかもしれない。だが彼等は知っている。多少の危険を顧みてでも腕を伸ばさないと、あるいは目を瞑りたくなるような高低さから飛び出さないと、枝先に実る、舌がとろけるような果実は手に入らないのだ。動物の生き方を変えるのは容易ではない。ならばそれはこうも呼べたかもしれない。
 進化、と。
「旦那様」
 先程の顔はどこに。橋を掛ける空也の心がハツネを、茶部を、土暦の心に波紋を打つ。
 熱気が我が物顔で支配する世界においては場違いなまでに清閑たる声。ハツネがやんわりと微笑を浮かべこちらを見上げてきた。その金色の瞳に塗りたくられたのは信頼という名の感情だ。
「今更──こんなことをお聞きしてごめんなさい。旦那様は、ハツネが──人でなく、狐であることについて──不気味に思いますか?」
 何の前触れもなく落ちた言葉。何か思うところがあったのだろうか。
 だから言ってやった。
「ハツネは、子供が何人欲しい?」
 山に存在するどんな赤よりも、瑞々しさと初々しさをあらん限りに詰め込んだ紅潮がハツネの顔、首、耳を一挙に支配した。残念ながらそのいじらしさは一瞬にして隠れてしまう。
 彼女は空を仰いだ。
 そして──
 声帯を震わせ、甲高い獣の鳴き声を解き放ったのだ。赤ん坊の金切り声に似た断続的な響き。それは巻き上がる炎の揺ら揺らとした呻きを切り裂いて一直線へと夜空に飛来する。
 同時に茶部がサイレンの警告音を思わせるような、心がざわつく声をそこに交差させた。
 狐と狸の合唱。汽笛のように木霊する。だがお互いにその鳴き声の根底にはどこか切羽詰ったものが感じられた。
 人間達はただひたすら呆気に取られる。意味が理解できていないのも大きいが、何より……人の身でありながら獣の声を発したハツネに畏怖と崇拝の念が浮かび上がってきたのだ。
 だがそれは十秒と持たずに新たな感情に埋め尽くされる。
 山を揺るがす軽快なる足音。
 それはヒグマの大行進に比べれば可愛いものだ。大人と子供ほどの違いがある。
 山奥から一目散にこちらに向かって駆けてくるその集団は──あまりに愛らしい。炎の余波に照らされその姿が真昼の下に存在するかのように明らかとなる。
「皆、お願い……。力を貸してほしいの」
 息を切らせながらハツネの元に登場したのは百匹以上の狐達。大人も子供もいる。
「皆聞け! 私達狸の母の母! 今こそこのお山に大恩を返すべき時がやってきた!!」
 茶部の元に馳せ参じたのはやはり百匹以上の狸達。
 だが疾駆する音は続く。それはこの軍勢へ参入しようとする動きが絶えない後付けだ。狐が狸が山中からこの場所を目指し始めた。滝水のように溢れ出す。前方から、後方から。避難していた岩場から、川のほとりから、木に登り状況を窺っていた者も、道路の脇を走っていた者も、長の呼び声を前に数千の山の民が果敢なる突撃を繰り出すかのようにして集い始めたのだ。
「決して死なないことが第一だった。それは今でも変わらん! だが、その上で!! 私は諸君等にお願い事をしたい!!」
 茶部は激を放つ。
 空也一人に咎の道を進ませない。そんな気心が声の裏に見え隠れしていた。
「お山のために死ねる者!! ここに残って雨降りの手伝いをしてほしい!! 女子供は帰れ! 未来のために生きよ! 男達よ! その勇敢な心を限界の限界まで捧げて欲しい! 無論死ぬ必要などありはしない! だが弱った体にあの暴力的な黒煙は危険だ。だから私はこう言わねばなるまい。フェアではないからな。諸君、死ぬ勇気はあるか!!?」
 歓声が染野山を揺るがした。
 大地が唸る。大気が割れる。空也の心は彼等の雄叫びに飲み込まれてしまいそうだった。
 ──誤解していた。何もヒグマだけがこの山の戦士ではなかったのだ。
 小さく、牙もなく。だが──
「お前達の顔は決して忘れん! 英雄達よ! 私達狸と狐の、一世一代の大舞台、染野山に見せてやろうぞ! そしてあの悪魔を永久に追放するのだ!!」
 何と偉大な者達だろうか。
 彼等は常に全力なのだ。歌うのも踊るのも。逃げるのも。命を懸けるのも。
 精一杯生きているのだ。
 山の民が魂を搾り出し、鬨の声を夜空に奏でた。
 ──女子供が逃げた様子はない。だが茶部はそれを二度問い質しはしなかった。炎へと向き直り、近づけるギリギリの場所まで駆けて行く。その背中は吸い寄せられそうなほどに威風たる貫禄が備わっている。……空也は根拠のない納得を得た。
 きっとこの狸は、仲間を誰も死なせないだろう。
 ハツネが、茶部が頭を垂らす。
 時を同じくして背後に集った(未だ集いつつある)数百の動物達がその動きを模倣する。
 どこかから仲間が駆けつけてくる音だけが慌しく響く。誰もが口を閉ざした。
 一体これから何が始まるのか。
 雨を降らすと言っても、そもそも彼等は何の道具も持たずに果たしてどうやって──
 ──手の甲に。
 ──落ちたのは水滴だ。
「え?」
 見上げて分かるはずもないのに、思わず墨色の空を仰いでしまった。
 途端その顔に、軽い囁きが染み込み──肌を滑って襟元に消えていく。
 一つ、二つ、三つ……
 雨粒が頬を打つ。
 空が小声で山に話しかける──そんな夢を描くような小雨が舞い落ちたのだ。
 人間達は世界に取り残された。語るべきこと、為すべきことが何一つ思い浮かばない。
 それは奇跡と呼ばれる出来事だったのだ。
 ハツネが、茶部が、大勢の狐と狸が一心不乱に祈り続けていた。頭を下げ、まるで神に祈祷するかのように自分一人の空間を各々が創り上げている。
 雨が降る。
 その密度が増し、やがて夕立のような激しさを伴い始めた。
 炎の渦に数多もの水滴が吸い込まれていく。熊達は湿った大土を何度も被せ続ける。
 大地は濡れた。水が落ちる。気づけば月は雨雲に遮られていた。
 落ちる。
 落ちる。
 大量の水が。
 願いを聞き届けた空から送られた、鎮火の浄水がぶちまけられていく。
 炎が割れる。絶え間なく注がれる水を前に、口惜しそうに道を割った。
 悪魔達は全身に水を浴び、その勢いを失速させる
 ──が。
「……足りない」
 崩れない。
 炎の揺らぎは弱まった。空也の頬を穿つように打ちつける雨は確かに業火の一部を削り取り、その足を砕いたのだ。
 だがそこまでだ。
 人間からすれば脅威となる夕立でも、ここまで成長し膨れ上がった悪魔を前には足止め程度にしかならない。
 雨は降る。炎を削る。
 だがそれ以上の速さで木々が火に飲み込まれ、その腹を肥やしていくのだ。
 茶部が瞳を閉ざしながらも無念の表情を形作る。それでも祈りを止めることはない。
 狐や狸だけでなかった。既に辺りには染野山のありとあらゆる動物達が、老若男女が顔を揃え、皆一様にしてその瞳を閉ざし祈りを掲げていた。誰もが無言。それはしじまの世界。火と水だけが対立し、乱舞し合う生き物達の世界を超えた精霊世界。
 鹿が、犬が、鳥達が、猪が──山に住む全ての者が雨を願う。
 ──否。全てではない。
「皆さんも……お願いします! 雨を……雨を願って下さい……」
 空也の声の先には、数十年の時を生きた男達。文明と叡智に頼り、妄想や昔語りの世界を離れ、草原でなくアスファルトの道を行く者達。
「お、おいおい……空也君……」
 戸惑いと苦笑い。鼻で笑われるが道理。一重にそれが起こらなかったのは、人間達の周りに集まり始めた異常な数の動物達だろう。目の前では火炎地獄の宴と、天からの采配としか思えないほどのタイミングで振り出した夕立。既に人間達は御伽話に取り込まれていたのだ。
 常識と理屈がそれを拒む。
 祈り? 願い? 
 そんな非科学的なものが一体何の価値を──
「やれ」
 あらゆる生命の存在を認めない絶対零度の世界。厳蔵が落とした二文字は男達の心臓を鷲掴みにした。老翁から発せられる異質なまでの波動に息が詰まる。竹槍で遊ばれるのとはまるで違う。一体なぜ厳蔵が怒っているのか、男達には理解できなかった。
 土山厳蔵は恥じたのだ。
 人より下と位置されている動物達がこれほどまでに一途に戦っているのに。
 それを笑おうとし、冗談の一言で済ませようとした人間達を。
 桃源郷は未だ遠い。
 やがて厳蔵の未知なる迫力に気圧されたのか、それとも自分達だけ何もしていないことを気まずく思ったのか、一人、また一人が黙祷を捧げるかのように頭を下げ始めた。
 ──今はまだ、それでいい。
「あ、雨を願うって……。心の中で思えばいいのか?」
「確かに私達には祈るくらいしかできませんしな……。それもありでしょう」
 人は純粋に願うことをいつしか忘れた。文明がそれを叶えてしまったからだ。
 原初は同じ。熊も狸も狐も人も。何かを想う心には何一つ相違はない。
「絶対夢だ。俺は……きっと夢を見ているんだ──」
「その夢を──」
 一人の男が呟いたそれを空也が継ぐ。そして未だ夢見心地な男達に一言を告げた時──
「現実にするんです」
 言葉は土砂降りのような雨音に掻き消された。
 一挙に激しさを増した夕立に茶部やハツネも内心驚きを隠せない。
 だが彼等は冷静に状況を分析していた。まだだ。それでもまだ足りないのだ。
 髪と服が水浸しになり、靴の中も水で溢れ返り、拭っても拭っても水面の中にいるかのように視界がぼやけ始めても尚、悪魔は吹き荒れる。一切の物音が叩きつけるかのような豪雨に霧散した。もはやただの重い枷と化した服が邪魔で仕方ない。水滴で泥が飛び跳ねる。それでも空也を除く全ての者達がただひたすらに祈っていた。炎が悲鳴を上げている。消えはしない。だが台風のような勢いの雨を前に確実にその勢力を縮小させていった。
 ──このままでは、こちら側が先に力尽きてしまう。
 鉄砲水のような雨が吹き荒れる。小柄なる体躯の、ましてや女子供にこの場で留まれというのは酷だ。
 だが誰も逃げようとしなかった。山の民達は死すらも超越していたのだ。
 人と──
 獣が──
 手を取り合う。
 それは如何なる難敵をも打ち砕く力が秘められている。
 炎は確実に弱まっている。だが後一押しがどうしても足りない。
 ならば。
 頭にぶちまけられる激しい水をよそに、空也は重い一歩を踏み出して行く。
 目指すその先は。
 滝のような濁流に対し、微動だにせず祈りを捧げる着物の少女だ。
「ハツネ!!」
 耳元で怒鳴った。
 そこまでしてようやく届く声。ハツネがその宝石を瞼の中から覗かせる。
 こんな小さな敵が自分達の理想を妨げることなどできはしない。
 たかが炎だ。
 人工の火だ。
 こっちには──!!
 空也はハツネを抱き寄せると、驚きで見開かれたその瞳を無視し、愛しき人の唇に自らの唇を不器用に重ね当てたのだ。
 こっちには──二つの世界を股にかけた愛がある!!
 空が破裂した。
 まるで空間が切り取られ、遠くたゆたう海原と接続されたかのように。
 天の上に住む巨人達がバケツいっぱいに溜めた水を逆さにしたように。
 冗談のような大水が、弱々しくもしぶとくその力を主張する業火に激突した。
 夕立は嵐に、嵐は台風に、そして台風は更なる災害へと進化を遂げる。
 冗談のようなピンポイント。
 炎が支配する勢力の真上に、神の奇跡としか思えない巨大なる滝が一挙に落ちたのだ。
 淘汰。
 そして湧き起こる渦潮。
 動物達が、人間達が、あまりに膨大なる水量を前に遂にバランスを崩し祈りの輪が千切れ飛ぶ。飛沫の間を突き抜ける悲鳴。泥水によるプールが土砂を押し流す。
 皆の祈りは神をも呼び起こしたのか。
 ノアの大洪水のように。
 空也はハツネと体を重ねたままきつく抱き合っていた。
 彼女は微動だにしない。ただ柔らかな体温だけが伝わってくる。
 時めく心臓。
 阿鼻叫喚の中で突っ走る青春。
 このまま死んでもいいと思えるくらいの、幾百もの感情。万色もの想い。
 そんな祈りは通じなくてもいいのに。
 濁流に押し流されそうになった動物達を必死に食い止めようとしていた一頭の熊が水中でバランスを崩す。三百キロは越えるであろう巨体。
 それが。
「旦那様!!」
 悲痛なる声は隣から。
 真っ黒の毛むくじゃらなる闇が空也の眼前を覆い尽くし──
 脳味噌がホームランを浴びて彼方へと吹っ飛んでいった。後頭部まで突き抜ける衝撃。体を支えきれず上半身から泥水の中に倒れ込む。体の半分のスイッチが突如オフへと切り替わる。抵抗。飛びかけた意識をつなぎ止める。だがそんな思いさえも実る時間が与えられず──
 残りの半分のスイッチが強制的に遮断された。
 体の感覚が消えた。
 聴覚から侵入する濁音がミュートになった。
 意識が溶けた。
 最愛の少女の姿をその闇に描こうとして──
 空也は気を失った。

       

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Neetsha