第二話

   二章

 はぁはぁ、と断続的に鳴らされる荒い吐息は飢えた獣と何ら変わらない。舌なめずりをしつつ、老いを一切感じさせないその敏捷的に動く黒瞳が横目で獲物を補足する。
 あとついでにお茶を三つ卓袱台の上に置く厳蔵。
 謎の行列の役目は送迎だったらしい。ハツネと名乗った少女を土山家に送り届けると、彼等はきた時同様のゆったりとした足並みで踵を返していった。魂が抜けたように白袴達の背中を見届けていた空也は、最後の一人が秋の枝葉の中に消えて行ったのを境にようやく心が戻ってきた。
 不思議と──彼等が立ち去ったと同時に、今まで降り注いでいた天気雨がやんだ。
 厳蔵の提案でひとまず少女を家の中に招き、話を伺おうと席を設けた次第である。
 木目が均一に並ぶ円形の卓袱台で空也はハツネと対面していた。横に座った厳蔵がそっと耳打ちしてくる。
「い……いいか空也……! ここは山の中だ。助けなど誰もこない! 逃がすなよ。うへへへへ。あの可愛いお嬢さんを我々でたっぷりねっちょりともてなしてやろうじゃないか! うっひひひひひひひ」
 首根っこを掴んで床下に叩きつけた。何やら潰れた声が老人の口から飛び出たが、照れ隠しをかねた空也のその行動に容赦はない。同時に「あ」と思う。厳蔵を倒してしまったら、自分が会話をしなくてはならないのだ。正座し、清楚に膝の上で手を組んだ目の前の美少女に対し。
「……」
「……」
 空也はハツネの顔をそっと窺い──同様の仕草で空也の顔を覗き込もうとしていた少女と目が合い、両者が慌てて顔を不自然な動きで逸らす。
 未だ二人の間にただの一言も会話がない。ハツネの顔は玄関で会った時と比べて、更に紅色が広がっているようだった。だがそれは空也も同様だ。クラスの女子達とは全く異なる少女。何しろ相手は造形美のように顔が整っているのだ。やや白みを帯びたその肌が、羞恥のために滲むように赤くなっていくのが見ていて堪らなく可愛いと思う。嗜虐心さえも彷彿とさせてしまうほどに。
「あ、あの!!」
「あ、あの!!」
 体中の勇気を振り絞り発した空也の一言は相殺された。結果、気概がすっからかんになる。それはハツネも同じだったのか、両者共に相手の顔を見ることが叶わず各々の膝に目を落とす。
 うわー、何この人達ベッタベタなことやってんのー? 今時信じらんねー。
 厳蔵は床に熱烈な口づけを交わしつつもそんな表情を独り作っていた。声を出すことを無粋としたその行いは、今日初めて見せた翁たる寛大な心の一片だ。
 空也の心はバラバラに砕け散る寸前だ。ツギハギだらけの縫い目に糊をつけてかろうじて補修する。汗が全身からとめどなく流れ出ていた。無意識のうちに拳はきつく握られている。顔を上げることができない。相手の美貌を目の当たりにして正気を保っていられないのだ。とはいえ、客人相手にいつまでも自分の膝頭と睨めっこしているわけにもいかない。
 どうする。もう一度勇気を出して呼びかけてみるか。
 未だ玄関で落とされたあの一言も尾を引いていた。真意を問い質さねばならないだろう。
 汽笛のような穿つ唸りが居間に響き渡ったのはその時だ。
 厳蔵は顔を上げ、空也とハツネは背中に喝を入れられたかのように身を震わせた。
 それは鳴き声だった。発生源を探ると、入り口の開いたドアの隙間から栗色の毛を纏った愛くるしい動物が四足で侵入を果たしていたのが目についた。
 狸である。
「あ! ちゃ、茶部様! え……あ。そ、そうでした。はい」
 天気雨が降ってからずっとまやかし溢れる世界に足を踏み入れていたせいか、動物を家から追い出すという当たり前の思考さえ浮かばない。それより奇妙なのはハツネだ。鼻息をフンフンと怒ったように鳴らす狸を前に、まるで会話するかのように独り言を紡ぎ始めたのだ。
 ──茶部? どこかで聞いたような名前だ。
「あ……あの。あの! だ、旦那様!」
「はい!!」
 必要以上に大声を出す少年少女。後でその呼び方についても確認しておかなくてはならない。いつの間にか空也は正座していた。緊張をそのまま言葉にしたかのようなぎこちない口調。弓のように不自然に伸ばされた背筋。もはや一昔前のコテコテなるお見合い風景だ。
 厳蔵が人知れず「うげー」と言わんばかりに舌を出し、明後日の方向を向いて外人のように肩を竦めていた。
「申し訳ありません。わ、私の説明では日が暮れてしまうと。茶部様がお話をしたいとのことですので、お手数ですがこちらを首にかけてもらえませんか?」
 後半部分の言葉は理解できた。相変わらず赤みが消えないその顔は、しかし新たな会話のタネを得たことで活き活きとしている。ハツネの小さな手の平から差し出されたのは、神社の販売所等で見かけるお守りだ。格子模様が縫われた橙色の本体に赤い丸紐が括りつけてある。差し出された以上は受け取らなくてはいけない。これ以上失礼にならないよう、空也は自分の中で熱を滾らせ、奮迅たる態度でハツネの手の平に戦を臨む。その手はもう震えてはいない。強固たる意志で固めているからだ。同じお守りが二つ乗せられていたので。二つ同時にそっと手に取る。
 ちょっぴり──ほんのちょっぴりだけハツネの肌に空也の手が触れた。
「──ぁ」
 堪らない、といった面持ちで。でも決して不快な素振りは見せず、ハツネは顔を背け、着物の袖で口元を被った。耳に朱が差し長い睫毛が細まった瞼を隠す。
 男を見せた空也は全身の血が逆流しそうになるのを必死に隠し、こんなの全然大したことないぜ! との気骨を見せるかのように堂々たる態度でお守りを首にかけた。梅雨のように湿ったジト目を送ってくる祖父も、受け取ると同様に首にお守りを回す。
「い、言われた通りにかけたけど? これが一体何だって──」
「やれやれ。日進月歩が猿達の特筆すべき点であると言えども、これではどれだけ時が経とうとも月はおろか空さえ飛べませんぞ。それ以前に子供が誕生せず種族が消えてしまう」
 晴天の霹靂。今度は家の中で起こったそれは、空也の身を震わせる。低く渋みを帯びた、少し枯れ気味の老人の声は決して厳蔵のものではない。横を見ると、今までのちゃらけた態度を一掃するかのような威容たる眼差しで厳蔵が部屋の隅々に視線を隈なく走らせていた。
「あぁ、ここですぞここ。私です。驚かせて申し訳ない。だが当人達に任せていては、私の老い先短い命が尽きてしまう。でしゃばらせてもらいますが堪忍して下さい」
 声に呼応するように、身軽に机の上に飛び上がったのは闖入者である狸だった。この中で唯一驚きを見せないハツネが、おずおずと補足を始めた。
「こちらの方が、染野山の狸さん達を統括する立場にある、長の茶部様です。……今、旦那様にお渡ししたお守りの中に、キツネの幻術を込めてすり潰した葛の葉を混ぜておきました。これで、人間である皆様にも、茶部様を初め動物達の言葉が伝わると思います」
「人社会には存在しない原語化かし術です。戸惑うかと思いますが、できるだけ早く理解を示して頂けると助かります。でないとここから話が進みませんからな。どうかな婿殿?」
 生徒にものを教える教師に似ていた。自分達の言葉がきちんと相手に伝わっているかを確かめるかのように狸がこちらの瞳を凝視して様子を窺ってくる。
「……はっはっは! いやはや驚いた驚いた! 長生きはするものだな空也。ワシ等は揃って狸に化かされているのか、それともどこかの昔話に入り込んでしまったようだぞ。こんな姿は街の連中に見せられんな、動物と大真面目に話をしているのを見られたらいよいよボケを疑われるわ。はっはっはっはっは!!」
「じ、じいちゃん!!」
「ほう。流石はご老人。受け入れて下さるのが早くて助かりますな」
「いや失敬。狸ではなく茶部殿でしたな。それで、失礼ですがどのようなご用件で? 随分ご立派なるお見送りを受けていたようでしたが──」
「はい。それではお話をさせて頂きます」
 目を合わせることさえも困難な子供二人をおいてけぼりに、老人二人はお互いの心の裾を広げ始める。それでも空也は内心安堵の息をついていた。自分達だけでは話が一向に進まなかったのだから。横で屈託なく笑う厳蔵の血を授かっているせいか、度重なる霊妙宿る出来事を受けても空也の心は少しずつではあるが安定し始めてきた。
「この山には多彩なる顔ぶれが揃っております。無論我々獣のことです。古くからこの山に住む者、住処を追われここに辿り着いた者。母なる染野山の懐は、お空に浮かぶ円環のように眩く暖かい。全てを平等に照らし、あるがままに私達を見つめてくれる。その御心の下で私達は生きてきました。湧き水が枯れ果てようと、木枯らしが吹き荒れようと、それもまた母の意志。この地で死に逝くことはお山の腕に抱かれて眠ること。土に還り木々の養分となって実をもたらし、枝から落ちたそれを誰かが食べる。私達はそうやって永遠に生きていくのです」
 茶が冷めることも忘れ、そっと語られた静かな連環の内側を空也は澄んだ頭で聞いていた。偶然だろうか、少し前にその話で厳蔵から戒めを受けたばかりだったのだ。
「それでも──限界が訪れました。いや、もう私の祖父の祖父のずっと前の代からその問題は起こっていたのです。ただ、誰もがそれを天命ととらえ、己の誇りを保ったまま見守ってきただけ」
「問題と言いますと?」
「種族としての危機。つまるところ、人間社会で言うところの絶滅の危機というヤツです。人の作る文化とは、何かを得る代わりに何かを捨てるもの。そしていつでも最後の帳尻合わせに使われる端役は力のない者達。ですがそれはこの場でくどくどと語るべきものでもありますまい」
 土山家の二人には、それが何を指し示す言葉なのか説明など不要だった。恩恵を受けている身では何も言えるべきことはない。山のど真ん中を通る線路や、永遠に眠らない高架上高速道路は、染野山の頂から一望すれば森への侵略者の如く無粋に乱入している様が目に飛び込んでくる。
 茶部は、ハツネが一向に手をつけない湯飲みを両手で器用に掴むと温くなった緑茶を茶柱ごと喉に押し込んだ。人のように苦々しい顔をその表情にシワとして刻む。
「身も蓋もない言い方をするなら責任は確実に人間にあるでしょう。ですが、逆を言えば私達も何もしてこなかった。お山お山と、全てを母の揺り篭任せにして与えられた乳を飲み続けるだけでした。今思えば、それすらも母の意志だったのかもしれません。獣達が言い訳のままに滅ぶのも、未来のために自らで新しい道を切り開くのも自由とのことだったのでしょう」
「つまり茶部殿。貴方達染野山の民達は、運命をただ受け入れるのでなく、人に対し──」
「牙を向こうなどとは思っておりません。ま、正直に申し上げるなら、私達の中でも血の気が多くそれを宿願と掲げている者もおります。挑み、滅び、誇りを骨と大地に残そうと。ですが私は──私達は試験的な意味合いもかねてですが、共存をはかるために一つの決断を下したのです」
 いよいよ本題に入るのだろう。老狸の黒瞳が真っ直ぐに空也を射抜く。
 茶部の隣で、落ち着きを取り戻しかけていたハツネがあからさまに視線を落とした。なぜかその顔は煙が昇りそうなほどに茹で上がっている。
「婿殿。ハツネに子を孕ませてやって頂きたい。沢山、沢山の子を。山一杯の子宝をもうけることに励んでもらいたいのです」
 体内を巡る血管という名の回線があらゆる箇所でショートした。その火花は脳にまで届く。意識が飛びかけ視界に闇の帳が落ちたところで──焼き焦げを免れた脳の一部が奇跡的にまともな指示を送ってくれた。空也は人知れず放出しかけた魂を体内に押し戻す。
 あやうく正座したまま気絶するところであったが、つまりこれは、狸流のジョークというヤツなのだろう。空也は日本とアメリカン(エセ)ジョークしか馴染みがないので分からなかったのだ。
「猿が木から落ちたような顔をされても困りますぞ婿殿。言っておきますが私達は至って真面目です」
 目と目を交わした最中に岩清水のような透明な心が飛び込んできた。和やかなる物言いとは裏腹に、茶部からは狸の長である自尊とほんの小さな焦燥感が見えたのだ。
「婿殿。昨晩私達が送った夢文──あぁ失礼、夢はご覧になりましたでしょうか?」
「夢って──? あ! まさかあの動物達の夢は──!」
「ご覧になったようですな。あれは獣達の長が集まる賢獣会議。私を中心に推した案は今ご説明した通り。染野山一同の総意を得ております」
 その言葉をスイッチに、ようやく記憶が溢れた。
 空也の身の丈の倍近い巨躯を誇るヒグマと──おそらく対峙していたのは今目の前で茶を啜っている狸だったのであろう。思い出す。茶部。確かにそんな名前で呼ばれていた気がする。夢の中には熱が滾っていた。途端、ジョークで済ませようとした自分が恥ずかしくなる。彼等は己の主張を真っ向からぶつけ合い、あんなにも命を、種を、自尊心を論じていたではないか。
「人の社会に溶け込む。それは言葉の通りです。このまま純種のまま生きて数百年後に滅びるか、恒久的に続いた伝統を捻じ曲げてでも子孫を残すか。もはや私達山の民が何もせずに悠々と暮らしていくことなど不可能! どこかで決断を下さないと待つのは破滅。私達は母なるお山を愛しておりますが、その定めに対し自らの手で道標を立てて二本の足で歩くことを決意したのです」
「むう!? では茶部殿。話を統合し推測するのなら、まさかとは思いますがそちらのハツネさんは──人ではないと!?」
「その通りです。ハツネはホンドギツネと呼ばれる日本の代表的な狐。今の姿も、彼女が研鑽の末に会得した狐特有の幻術に過ぎません。ですがご安心を。これから先、婿殿と過ごす数十年の期間程度ならばさしたる苦心もせずに姿を保っていられるでしょう。土山空也殿。私達が望むのはあくまで共存。特別なことは何一つ要りません。ただ、心許す限りハツネと仲よくしてやってほしい。私達獣に今一番必要なのは可能性という雫。それを見出したいのです。山の獣達が、心を震わせながら二人の行く末を昨晩から案じているのです」
 聞けば聞くほどそれは心の奥底に落ちていく。疑惑という網にすくわれることはなかった。奇妙な納得。目鼻が美術的な美しさを持って整えられたハツネの相貌にもそれならば説明がつく。彼女は人ではなかったのだ。立て続けに迷彩色にぼかされた景色を見せられている身としては、もはやそれを迷い事と哂う言葉さえも浮かんでこない。……何より、目の前で狸が喋り続けているのだ。
 ──ならばひょっとして今この瞬間は、人知れずして歴史的瞬間を迎えているのではないだろうか? 家畜でも愛玩動物でもない。動物達は、真の意味で人間に「共存」を訴えかけているのだ。冗談のような話。だが夢から溢れ出た動物達の生への念願が空也に真理を呼びかける。
「以上です。婿殿とハツネの未来によって染野山の動物達の世界も大きく変わってくることでしょう。総意は得ましたが、心の中で納得していない者達が数多くいることも事実。婿殿の契りが今後私達への架け橋となりましょう。そして今後様子を見ては、ハツネだけに留まらず、山の民の足場をお山から人間社会へ着々と広げて行きたい──婿殿、どうか、どうか──」
 茶部が厳粛たる空気を纏わせながら、その小さな頭を垂らした。同時に隣でずっと言葉を聞いていたハツネも、そっと床に両手をつけて恭しく清廉たる川のような流れで頭を下げる。
「ハツネを宜しくお願いします」
 全ての物音が止まった。
 小鳥の囀りも、秋風の調べも、染野山の体内で息づく全ての生命がその活動を停止した。
 土山空也の口から出る言葉を戦々恐々と彼等が待っているかのような錯覚。誉れ高き王の言葉は従者全ての生死を左右する。
 厳蔵がいつものような飄々たる眼差しを──しかし確かなる心事を秘めた眼光を持って孫の返答を催促した。時を動かせるのは空也だけなのだ。時計の針を進ませるも、後退させるも、はたまた永遠に止めておくも──
「俺は──。でも、その──急に──子供なんて言われても──」
 不思議と羞恥はなかった。空也は頭を全力で回転させて茶部の言った言葉を分析する。下世話な想いなどない。自分を頼ってくれた老狸に、偽らざる誠心誠意の心を返したかったのだ。しかしそこはまだ一介の学生。しっかり答えなくてはと思って心を手繰り寄せるも、形が見えてこない。
「頭をお上げなさいな。あぁ──ハツネさんや。それじゃあ早速我が家を案内しよう」
 清濁合わせ事象を想定し、本質を見抜く。頬宝を生成し日本全国に広めた男、厳蔵からすれば空也の心など実りたてのトマトより小さい。透過しその中身を覗くなど造作もないこと。世話の焼ける作物は育て甲斐がある。
「ほれ。早くきなさい。旦那だ婿だ言うからには、ここに住むつもりなのだろう? 風呂場もトイレも場所さえ分かんのに住めるのかい」
「お、お爺様──」
「おお……。厳蔵殿。一方的なる私達の願いであり、そちらにはメリットもないでしょうに──」
 選択した答えは染野山に住む者に相応しき結論だ。山は全てのものを受け入れる。枯葉一つをとって、それを寝床にして暖かく眠るか、食物ではないと言って泣くかは本人次第。そして春夏秋冬を越えた暁には、春の深緑も夏の小川も、秋の紅葉も冬の深雪も、全ての色が肌に染みついている。もし馴染めなければ──出て行くしかない。
「じいちゃん……」
 厳蔵の声には厳しさといたわりを備えた心があった。同時に悟る。今はっきりと答えを出せない自分の代わりに、助けてくれたのだと。空也は歯痒い思いをしてそれを受け入れた。だがいつかははっきりとした結論を自分で出さねばならない。それが厳蔵へ対する礼となることだろう。
「それからハツネさんや。この家では女性は裸になるしきたりがありましてな。まずはそれを徹底してもらわんといかん」
「え──ぁ──」
「そんなのあるわけないだろ!!」
 尊敬すべき背中は蜃気楼だったようだ。狸に真を説かれ、人間に化かされるとは酷く滑稽である。思わずハツネの方を見てしまい──またしてもその瞳が交差した。
 だが今度は逸らさなかった。
 ハツネも同様であった。
 年齢は自分と同じか、一つ二つ下か。……人間の基準に沿って言えば、であるが。
 純真無垢たる美貌。心にも同じ色が広がっているようだ。澄み切っているのだろう。俗世で汚れず、穢れを知らない真白な淡雪。そこに無粋な足跡を刻まねばならない。勝手だとは思うが、きっとハツネもそれを望んでいる。ならばそれは男の役目だ。
「ハ……ハ……ハチュ……ハツ……」
 少女は待つ。男が差し出すその手を。恥ずかしげに身じろぎをしながら。でも逃げず。
「ハツネ──!」
「は、はい!」
 格好悪くても構わない。元より、ファッション誌の表紙を飾るようなセンスある服装と髪型など自分には無縁のものだ。話題性に優れ、異性とも上手に話せるクラスの人気者のようになる必要もない。土塗れ泥塗れでも、自分は自分のやり方でしっかりと言葉を告げればいい。
「正直、俺はまだ戸惑っている。茶部さんやハツネには申し訳ないけど、考えることが多すぎるし、簡単に結論が出せそうにない。どうしていいか分からない。ガッカリさせたらごめん。でも、俺は自分を隠したくない。よく見せようとも思わない。ハツネはもしかしたら、俺に失望するかもしれない」
「旦那様」
 目は口ほどに物を語ると言う。
 空也は──圧倒されそうになった。
 ハツネの金色の瞳は人のものではない。だが、そんな目の色の違いなど懸想を前には塵芥に等しい。
 湖面のように慈しみが輝いている。あまりに優しい。そっと浮かべられた微笑と相俟って、彼女の双眸は永久なる愛で溢れていたのだ。
「旦那様がどのようなお方か、ハツネは存じております。お優しい方。やっぱりハツネは旦那様を好きになってよかった。いつもお傍におります。でも、邪魔だと感じたら遠ざけて下さい。不要と思われたら捨てて下さい。そして気が向いた時で結構です──ハツネを可愛がって下さいませ」
 愛の告白だった。
 少女は固く口にしたのだ。空也にもその想いが届いた。
 茶部の説明した「共存」。勿論それは目的であり彼等の願いであるのだろう。
 だがハツネはそれ以上に強い空也への想いを打ち明けた。それは明確なる順位とも言える。染野山からの使いである前に、ハツネ個人の感情をさらけ出したのだ。
 夢から覚めるかのようにハツネが瞼を瞬かせた。
 氷点から沸点までは一瞬だ。
 着物の袖を持ち上げて、 ハツネは両の手を頬に当てる。
「~~~~~~~~~!!」
 どうやら空気に乗せられ、心の奥に仕舞っていた感情を何の躊躇いもなく吐露していたらしい。空也を見ることができなくなったのか、その顔は床の木目へと向けられた。
 ──彼女の持つ逞しさの一片を垣間見た気がした。いかに細く脆弱に見える一本の竹でも、人の目に見えない地中深くでは信じられないほど極太の根を張っているものだ。
「はっはっは! 敬服敬服! 見目麗しいのは外貌だけではないようだ! ──ふむ、となると家事やら掃除やらも期待してよいものですかな? 掃除機の使い方はお分かりかね」
「は、はい!」
 新妻としての器量を試されたせいか、ハツネは真っ直ぐに顔を上げて厳蔵に返事を返す。そして細身の眉を寄せて頭の中の知識を総動員するように思考に耽り始めた。
「掃除機……掃除機とは、えっと──コンセントを差し込んでリモコンで電源を入れて──あ、違います、それはテレビ。受話器を耳に当てて──あぁ、それは確かレンジだから──」
 泰然たる態度を沈み込ませていたハツネの顔から憂いが浮かび始める。テストに出てくる設問を丸暗記して答えが混ぜこぜになってしまった時の自分によく似ている。
 哲学と倫理の問いかけに、ロクな叡智も持たずに一人挑戦していた空也の心が思わず緩んだ。
 これから一つ一つ覚えていけばいい──と、口をついて出そうになった言葉は厳蔵に掻き消される。
「かァッッツ!!! ハツネさんや、そんな取ってつけた知識では土山家でやっていけませんぞ!!」
「お……おいおい、じいちゃん! 何もそんなに言わなくても──」
 雷が落ちたかのような物言いにハツネが肩を震わせて怯える。空也のフォローを無視し、厳蔵は厳しく戒告たる縛りを落とす。
「この様子では──お胸にあるそのご立派な二つのスイカも本物かどうか怪しいもんですなぁ。うっひっひっひっひ。そこの壁に竹槍が掛かっているでしょう? それを使ってじっとりしっぽりと調べさせてもらいましょうかの。家族に偽りを持たれては敵いませんからなぁ。なに、上から押せば感触で真偽が分かるでしょう!」
「た……竹槍……ですか。あの──痛い──のでしょうか──」
 どうやら、ただ難癖をつけて己の欲望を昇華させたかっただけのようだ。
 嫁いだばかりのうら若き少女が、家の長が下す命令に背ける道理はない。ハツネは胸を守るかのように身を縮こませ悲哀たる瞳に揺らぎを生じさせた。
「痛いかもしれませんなぁ。おお、そうだ! ワシとて鬼ではありません!! もし竹槍が嫌なら、ワシの下についている槍でも──あがあああんんべえええええ!!?」
 空也が放とうとした渾身のミドルキックは寸前でその力を飛散させた。
 ……厳蔵が急に腹を押さえて床に蹲ったのだ。慌ててそれに駆け寄ろうとするハツネよりも早く、俊足たる脚力で厳蔵は一つの小部屋を目指す。言うまでもなくつい先程彼が篭っていた場所と同じ部屋のことだ。
「……とりあえず、家にトイレは一つ。今のじいちゃんについていけば分かるよ」
 何はともあれ、空也と厳蔵だけが住むにはやや広いこの土山家に、新たな家族が加わった。彼女の目的はしれっと看過できるものではない。何より──譬えようのない可愛らしさは純然たる空也の手には負えるものではない。嫌ではないのだ。ただ土壌や土木で汚れた手で触るにはあまりに純白すぎるのだ。だがそんな個人的な困惑は努めて顔に出ないように頬の筋肉を結ぶ。しばらくは様子を見るしかないだろう。厳蔵の異常な退出に右往左往しているハツネを安心させるべく空也は呼びかける。まずは家の案内だ。同時に頭の奥で、自分の部屋の中にハツネに見られて困るものがないか高速サーチを開始するのだった──