Neetel Inside ニートノベル
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「おう! 土山さんのとこの坊主じゃねえか! いい梨が入ったぜ!? 見ていきな!」
「空也君よー。ちょっとこの胡瓜見てくれないか? 自信作なんだが……意見を聞かせておくれよ」
 買い物を含んだ、市街地の案内をかねてハツネと共に商店街を歩く。さすがに人通りの多いところは苦手なのか、動物達は茶部を含め無念の言葉を残し散り散りになっていった。代わりに空也に飛び交う声は青物を構えるお店の店主達だ。厳蔵を知らぬ者のいないこの街で、彼等はその孫である空也を見つけるとなかなか手を離してくれない。空也とて、その道三十年、四十年の彼等を相手に野菜や果実に意見など挟めるはずもないのだが厚意を無下にするわけにもいかず、意見を酌み交わし、勉強をさせてもらっている。
 ある程度予想はしていたが、彼等はハツネに対し皆一様に感嘆の声を漏らした。今後彼女が買い物をするにあたって顔通しはさせておかなくてはならず、一店一店回って挨拶を告げる。
「ぐわっはっはっはっは!! 空也君も隅に置けないなぁ! 何ともめんこい子じゃないか!! あんたもさ、空也君はいい男だから安心しな。真面目で誠実で、真っ直ぐな男だ!」
 当然冷やかされる。
 店の親父さんが何とも豪快な笑い声と共に奥に消え、今日何度目であろうか、熟された桃のように赤い顔をして俯くハツネと空也が店前に残される。……気まずい。
 だが、夕方賑わう市唯一の商店街が異様な空気に包まれたのはその時だ。不吉なざわめき。動物達がいたらまず本能のままに警告音を吠え立てていたことであろう。
 赤や紫のシャツ、真っ白なジャージ、金龍や虎の刺繍された青いジャンパー、ダークスーツをぴりっと着こなしている者もいる。明らかに堅気とかけ離れたその雰囲気は剣呑なる刃の風。商店街に溢れていた人々が、腫れ物を扱うかのようにその十人ほどの集団から露骨に視線を逸らし始めた。どこかで誰かがそっと囁く。
 小野寺岩鷲だ。
 帰ってきていたのか──
 噂じゃ、大阪のお上は相当おかんむりだったらしいぞ。
 嫌だねえ。またロクでもないことしてここらの金を巻き上げる気かい。
 集団の先頭を威風堂々たる態度で歩くのは、頭一つ抜きん出た角の張る輪郭の男。
 息子と違い、刈った後の芝生のようにその黒髪は短い。相変わらずの毛むくじゃらな顔。凶暴な目つきは隙あらば誰構わず食い殺す勢いを秘めた肉食獣のようだ。日頃から体を鍛えているのか、筋骨隆々たる上半身を纏うワイシャツははちきれそうだ。顎を上げ、口をへの字に結び、お世辞にも機嫌がいいとは言えない。
 数日中に帰ってくるとルチアーノから聞いていたが、まさかこんなにも早いとは。
 威嚇するように左右を見渡しながら歩いていた小野寺岩鷲が空也の姿をとらえる。
 ──厄介だ。
 酷く面倒なのは、ルチアーノの親友である以上、決して無視を決め込むわけにはいかないことだ。
「……おう。……お前か」
「……お久しぶりです」
「ああ」
 唸り声のような低音。集団が空也を前に立ち止まる。自分の背後から潮が引くように街の人々が遠ざかっていく気配を感じた。
「まだ聡に付きまとってんのか。あいつはいずれ俺の跡を継ぐ立場だ。そんなあいつが、カタギの農家のガキと昔から付き合っているなんて知れたら組はナメられるんだよ……。十八になったらあいつも本格的に俺の後ろについて各事務所へ挨拶回りだ。泥臭ぇにおいを聡につけるな」
「……はい」
 世間知らずなのか、肝が据わっているのか分からない。空也はこれまでもそうしてきたように、視線を揺るがせることなく岩鷲の眼差しを押し返した。言い返すことはしない。絶対。往来の真ん中で、組の頭の面子を潰したらどうなるかは空也でも理解している。
「聡はどうにも甘ったれている。……お前の方から、早くあいつと縁を切れ。いいな?」
「……はい」
「フン……」
 生返事ではないが、ロボットのような答えしか返してこない空也に岩鷲は露骨に鼻を鳴らした。だが自分を甘く見ているわけでないのはその瞳から窺える。祖父から受け継いだのか、堅物そうに見えて意外にも強かなその在り方には、岩鷲とて知れず舌を巻く。
「若頭。こっちの女を見て下さいよ! こいつはたまげた。この田舎町にこんな極上モンがいるなんて驚きましたぜ! この女ならいい金になるんじゃないですかい!?」
「……ああ?」
 空也がハツネを背に隠したのと、ハツネが空也の袖元をきゅっと握り締めたのは同時だ。
 部下の言葉を受け、初めてハツネの存在に気づいたらしい岩鷲が厳つい眼差しを向け、鼻白む。不機嫌なる塊を一瞬にして溶かしてしまうのだからハツネの美貌はある意味恐ろしい。
「──不景気はどの業界も同じ。親父から上納金の締め上げがきつくなってどうしたもんかと思っていたが……こりゃ凄い。お嬢さん外国の方かい? 日本語はできるのか? 大した上玉だ」
「……彼女はうちの同居人です。すいませんが、あまり変な言葉を向けないで下さい」
「お前にはきいてねえ土山。……ふむ、お嬢さん、ウチにこないかい? あんたなら、たんまり稼げるぞ。勿論、稼いだ金の一部はあんたのものだ。男ばかりのむさ苦しい世界でね、お嬢さんならどこを歩こうと、金を落とす輩がゴマンといるぞ。服も化粧品も好きなだけ買うといい。土山家で雨後の鼻がよじれそうなくさい草のにおいに塗れるより、コロンの香りの方が似合っているだろう。うん?」
「小野寺さん。お願いですから──。彼女は極道の世界には縁遠い人ですので──」
 震えが伝わってくるハツネの手。彼女を助けつつ、だが組の顔を潰さないよう、言葉を選びながら空也は必死に説得する。それにしても会ったばかりのハツネを口説くなんて、万人の目を惹く美容もここまでくると罪深い。同時にルチアーノの警告を思い出す。芙蓉組の本家がある大阪から受けた叱責というのは、どうやら予想以上に岩鷲にとって苦い一件だったようだ。人通りの絶えない商店街でここまで露骨に金の話をちらつかせるなど、それは焦燥感の表れかもしれない。
「──フッ、まあいい。……だがお嬢さん。あんたどこからきた? この街の人間じゃねえだろ。……土山、お前は答えるな。俺はお嬢さんの声を聞きたい」
「……っ」
 岩鷲自体は決して下卑た空気は纏っていない。瞳にも口にも、いつもの如くピリピリした見えない火花を弾かせているだけだ。武人たる剛毅。巨大な熊を思わせる。それに反し、背後の部下達の何人かは露骨に、舐めるような視線をハツネに向けている。ハイエナのような舌なめずり。それが癇に障る。
 言葉は宙に飛ぶことはなかった。水が滴るように、震えるその声は地に落ちるだけだ。
「……山から……です……。染野山から……参りました」
「山ぁ?」
 自分が答えなくてはならないことを察したのだろう。嘘をつくことはおろか、男をあしらう術などこの少女が知る由もない。正直にありのままを告げるだけだ。機転を利かせるべく、それ以上ハツネが何かを口にする前に空也が告げる。
「その──彼女は病気がちで、空気のいい場所を探してご両親と共に染野山の中に住んでいたんです。ご両親とじいちゃんは知り合いだったらしくて──でもつい先日、事故でご両親共に亡くなられて、じいちゃんが引き取ったんです」
 岩鷲とは違った意味で有名な厳蔵の名を出す。我が祖父ながら得体の知れない男だ。咄嗟に嘘八百が口から出たものの、岩鷲の頬が僅かに反応したのを見逃さない。自分はまだ十五年分の祖父しか知らないが、岩鷲はそれ以上に祖父という存在を知っているのかもしれない。
「嘘だな」
 積雷雲のような響き。ハツネという名の太陽が、侵入した黒雲によってその姿を追いやられる。
「あんな不便な山に住みたがる酔狂な人間などそうはいない。あそこには熊も出る。登山コースこそは人のにおいが塗りたくられているが、ひと気のない場所じゃ何かあった時に対応できるとも思えねえ。おいお嬢さん。あんまり俺にナメたこと言っていると──」
「嘘ではありません」
 凛とした鈴が鳴る。
 その強さに、完全に二人を見下していたハイエナ達の何人かが、バカにされたと思ったのか鼻息を荒く捲くし立て始めた。
「おうおう餓鬼。テメェ、若頭に何て口の利き方だ? おい」
「服ひん剥いて売り飛ばすぞアマがぁ!」
 そこはやはりヤクザ。いくら魅力ある女を前にしようとも、一般人のそれと比肩できないほどの高いプライドと志。ましてや自分達の親が一人の少女によって愚弄されるとなれば、俗なる思いなど一切切り捨て各々が命知らずの悪鬼たる兵の顔を覗かせる。
「うるせぇぞ、馬鹿共が!!!」
 そしてそれを一周するのは大鬼だ。
 商店街の隅から隅まで響き渡ったその迫力を前に、背後に控えていた部下達が一斉に体を直角に曲げて岩鷲に謝罪する。それを笑う者など誰もいない。
 嵐を目の前で受けた空也の心は荒波のように揺れ動く。音を立てないよう慎重に唾を飲み込んだ。恐れはおくびにも外に出さず、掴まれている袖と背中の少女に意識を集中する。
「あぁ、すまんねお嬢さん。……それで? 嘘じゃあないと」
「ハツネは──」
 その小さな唇で透明なる音色を乗せて言葉を紡ぐ。今度は震えていない。愚直なまでに真っ直ぐな想いが心地よく大気を浄化していく。
「ハツネは染野山が大好きです。あの大きなお山で生まれ、友達と一緒に日が暮れるまで野山を駆けるのが好きでした。西山の盆地の、岩肌を越えた奥にある滝で水浴びをするのも好きです。今の季節では、闇夜のカーテンが落ちた空の下で優しくハツネ達を照らしてくれるお月様の微笑みを受けながら、北風と、空一杯に吹雪く紅葉を浴びて踊り続けるのが好きです。こんなにも優しい地。ハツネは染野山を誇りに思っております。嘘など申しません」
 それは光芒の矢だった。物々しく濁った空気を吹き飛ばすように突き抜けた。
 全ての衣を脱ぎ捨てた裸の心。どこまでも澄み渡っている。岩鷲の御する座は決して軽々しいものではない。血と金を際限なく積み重ねた玉座だ。その岩鷲が一瞬とはいえど虚をつかれ全ての感情を失った。だがそれを決して顔に出すわけにはいかず凄惨たる面持ちを彼は崩さない。
 雑魚がその身に抱くような愚鈍なる怒りなど岩鷲に湧きはしない。だが肉を易々切らせておいて骨の一本さえ断てないようでは芙蓉組に名を連ねる下部組織の長としての面目がたたない。何より彼は決して馬鹿ではなかった。憤激に身を任せる愚行などせず、代わりにその心が手にしたのは金なる木の枝だ。
「そうかそうか! 何とも見上げたお嬢さんじゃあねえか。今時の子供と違い、そんなにも生まれ育った場所に誇りを持てるなんざ、そうそうできることじゃねえ。……おい、お前等。行くぞ」
 あまりに呆気ない終わり──そう思ったのは空也だけではなかったらしい。岩鷲の部下達が弾かれたようにワンテンポ遅れて返事を告げた。
「あぁ……ただね、お嬢さん。あんたが今、山に対するプライドを見せたように、俺達極道にも、極道として通さなくちゃいけねえ修羅道ってのがあってね。厄介なことに、こいつがまた狭い道でねえ。ボタボタボタボタ道踏み外して奈落の底にまっ逆さまに落ちていくんだわ皆。そうならないようにするため、俺達は常に足場を広く固めようと、そこら中から土砂を掻き集めて必死に道を作っていくわけだ」
「──??」
 皮肉めいた眼差しに悪意は見えない。自嘲するかのように、愚痴のようにそれは吐き出されていく。
意味がよく分からず、空也とハツネはお互い寄り添って内心で首を傾げるだけだ。
「ところがね、いい土ってのはそうそう転がっているもんじゃない。ならどうするか? 一番の理想はな、他人の歩く道の土をひょいと頂いちまうのさ。だが俺達極道にも筋はある。片っ端から無差別にあれもこれもと拾ってくるわけにはいかない。だから俺達が歓迎するのは──修羅道とすれ違おうとする他の道だ。こちらが頭を悩ませるまでもなく、手を伸ばせばすぐそこに沢山の良土がある。おまけに、俺達が誰かを知っててすれ違おうってんだ。こっちも気が楽になる。何よりカタギにナメられるわけにはいかねえ」
 空也は岩鷲の心に巣食う蛇のような執念を垣間見た。彼がハツネに向けて放った言葉は紛れもなく毒だ。輝く目を持つハツネには映らない。薄汚れた瞳だからこそ見えるものもある。
「なに、ありがとうよ。何にせよ俺達は今不況不況でどうしようか頭を悩ませていたんだ。山……か、いい着眼点だ。やっぱりたまには若い連中と話してみるもんだな。歳を食ってくると無駄に頭が固くなっちまっていけねえ。──じゃあな、お嬢さん、土山の坊主」
 ふてぶてしいまでに豪快たる笑いを残し、格闘家のような体躯が通りの中央を闊歩する。不気味ともとれるその上機嫌な態度に、遠巻きに見守っていた人達が一も二もなく道を開ける。やがて殺伐とした空気が弛緩し、所々で腹の底から息を吐き出す音が聞こえた。
 ──気になる。岩鷲は最後に、一体何を示唆したのか。方向性こそは読み取れたがそこに具体性を示す言葉はなかった。分かっていることは、金策に頭を悩ませている彼等に何かを与えてしまったということ。岩鷲は雑食だ。不動産や飲食店をも網羅している。その分持つタネは多い。
「は──ぁ──」
「ハツネ!?」
 空気の抜けた風船だ。ハツネの膝が玩具のように崩れ落ちる。その顔は疲労と緊張で生気が失われていた。
「ハツネ、大丈夫か!」
「あ……旦那様……すいません、でも……少し休めば多分大丈夫です……。ハツネは……気が抜けてしまいました」
 野獣の如き咆哮をぶちまける巨人からの圧力は相当たるものだったようだ。眼力、怒声、威風、対峙しているだけで消耗する。本人の言うとおり休めばすぐに回復する程度のものだろうが──
 気づけば辺りから敬服と好奇の視線が集まっていた。
 いずれも、今のハツネにとってはあまり居心地のよい視線ではない。
「……」
 逡巡は一瞬だった。

 染野山が真っ赤に染まっていた。手をつないで隙間なく地肌を埋め尽くした木々が乱れ咲くかのように一年最後の祭り場を森に焚き上げる。真紅、朱、黄金色が交じり合って見る者に溜息を吐かすような幻想的なる色合いを演出させていた。風と共にそれは一斉に揺れる。その度に紅葉が空へと昇る。桃源郷と呼ぶほど華に満ちているわけではなく、幽玄と呼ぶほど物悲しさとしじまが落ちているわけでもない。主張なき美。奥ゆかしい日本に相応しき深みの溢れる鮮烈な山々。つまりは見渡す限りの日本の秋景色が閑雅と立ち並んでいたのだ。
 眩い夕日を浴びて、一つに交じり合った影法師が田園の一本道の中央に伸びていた。
 コオロギ達が大合唱を奏でている。二人だけで占めるこの上なく贅沢な涼秋の音色。秋の深みを呼び寄せるその声には一抹の寂寥感をも感じる。それでも──
 空也の背中に伝わるその温もりは真っ赤に燃えていた。
「申し訳ありません旦那様……ハツネ、重い……ですよね……?」
「もうちょっと食べた方がいいんじゃないのか? まるで重みを感じないぞ」
 ハツネをおぶり、空也は茜色で埋め尽くされていく世界をゆっくりと歩く。うなじの辺りに顔を埋めたハツネからの質問は既に三度目だ。吐息が首筋をくすぐった。女の子というのは、香水等をつけずとも甘酸っぱい香しさを微量程度とはいえ肌にまきつけているものなのだろうか。旬な花の蜜のような心地よさが鼻腔をくすぐる。
 何より空也を困らせているのは──背中に所狭しと押しつけられている二つの乳房だ。潰れてしまいそうなほどに弾力を弾ませている。絹越しとはいえ、正常な脳を焼き切ってしまうかのような悪魔の如き誘惑。厳蔵のことをどうこう言えないかもしれない。自分は男として、たった今ハツネの柔らかさを言い分けなく堪能してしまっているのだから。ハツネもそれは分かっているのだろう。羞恥と艶をおびた吐息が漏れる。押し殺そうと健気に耐えている様が後押しし、男の本能を奮い立たせるような甘い芳香が断続的に空也の耳を侵す。こんな、幻想的なまでに可愛い子がどうして──
「なあ……。どうして俺なんだ? ハツネ」
「はい?」
「その、嫌とかじゃないんだ。ただ……分からなくてさ。どうしてハツネは俺のところにきたんだ?」
 夢物語を紡ぐように。
 ハツネは目を細め、恍惚たる面持ちで心を満たす。記憶が愛で彩られていることを示していた。
「──旦那様は、染野山の動物達には結構知られていたのですよ? お山の近くに住んでいらしていることもありますが、それ以上に、お爺様と共に日がな一日、山に篭って農作物を育てたり、茸取りに出かけたり、他にも──登山道のゴミを片付けたり、古い木の橋の具合を調べたり、観光客のこない滝壺にまで何か異常がないか見にいらしたりもしていたでしょう?」
「……恐れ入ったよ」
「フフ。ですから茶部様を初めお山の動物の長様達が集まり、今回の共存を目指す上で……その──人間のお相手を誰にするか、と決める際に一番に旦那様の名前があがったそうです」
 何とも勝手なことを……と思いかけて、おそらくこちらがそう思うことくらい予測しているのだろう。その上で選出したに違いない。
「立候補者は他にもおりました。だから──ハツネは──他の、他の誰にも──旦那様を取られたくなかったのです──」
 無意識だろうか、空也の首に巻かれるその細い手首に控え目な力が込められた。貞淑たる観念を持ちつつも、その心を塗り潰すかのように想いが溢れる。
「私達は人より相手の心を読むことに長けております。無機質な機械の鋼と、錆びた鉄のようなお金のにおいを持つ人達が増えていく中で、旦那様の心はいつもお日様の光を浴びた麻のようにふんわりとしていました」
「いつも? ……俺、ハツネに何度か会っていたのか?」
「ご存じないのも無理はありません。ハツネは狐の姿でしたから。覚えておりませんか旦那様? 足を怪我しながら、警戒心と共にジッと旦那様を見つめていた一匹の変な狐を」
「──あ」
 怪我というキーワードが心を過去へと誘った。思い出の欠片を掠め取る。日頃から顔を突き合わせていれば相手が動物とはいえ顔だって覚える。作物をこっそり撒く秘密の昼食会。その始まりのきっかけとなったのは──
「ビックリした……」
「フフフ。……遅れて申し訳ございません。旦那様、あの時はどうもありがとうございました」
「あぁ……えっと。……もっと早くに言ってくれればよかったのに……」
「ハツネも女です。生意気ながら、女ならば自分の恋物語に叙情をつけたいと願うのは必然です。その──今だから──こうして旦那様と触れ合っている今だから──。これまで言おうか言おうかと、ずっと昂ぶる心をなだめておりました」
 自分の全てを相手に捧げるように──ハツネは瞳を閉ざし、体と心を背中に横たえる。
「今、ハツネの全てを旦那様の背に預けております。もし重いと感じたのでしたら、いつでも置いていって下さい。共存の話を託されたハツネは旦那様と添い遂げることこそが本懐。でも、それ以上に女として旦那様を愛することをお許し下さいませ。こちらを振り向かなくとも、いつかのように開いた距離から見つめているだけでも──」
「怪我はもう治ったのか?」
 ハツネの心に悲哀の片鱗が沈み込んだのを感じた空也は即座に割り込んだ。
 空也は自分の想いは分からない。
 でも、こんなにも一途で健気な子に悲しい顔をさせるのは絶対に我慢ならなかった。
 ──夕焼けの彼方へ時が沈んでいく。静謐たる空間へ乱れた吐息が落ちた。
「はい。おかげさまで。……あの、旦那様」
「うん?」
 独占だけでは飽き足らず、束縛するかのように、ハツネの柔肌が空也の肌に密に接してくる。何かが心の琴線に触れたらしい。愛溢れる少女は想いに身を焦がす。
「ハツネをいつでも床に呼んで下さい。愛しております」
 気恥ずかしさに慣れ始めていた空也の心が燃え上がる。ハツネの熱は飛び火し、二人して愛欲の炎に身と心を炙られた。
 影法師がどこまでもどこまでも伸びていく。
 秋空の下、コオロギ達が恋物語を囃し立てた。
 それきり二人に言葉はなかった。
 染野山から届いた柔らかな風が、一つになった二人を優しく撫でていった。

       

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Neetsha