Neetel Inside ニートノベル
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キツネの嫁入り
第四話

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   四章

「この胡瓜。どうだいハツネさんや。ええ? こういうの好きだろう? ほれ、見てみい。こんなにイボイボで、固くて、尖っておる。ぐへへへへへ、欲しくて欲しくて堪らないんだろう。正直に言うてみい」
「あの──はい。ハツネは瑞々しい胡瓜は大好きです」
 エプロンを着用したハツネが一枚一枚のお皿を必死にスポンジで擦る。その隣で、心の奥底から瘴気のような吐息を撒き散らすのはやはり厳蔵だ。ニヤニヤと気持ちの悪い笑み。
「じいちゃんさあ──俺と天国のばあちゃんが疲れるからやめてよ、もう」
「うるさい!! だってお前……ワシの身にもなってみろい! ま、まままま、孫の嫁だぞ!? もしくは新妻と夫の祖父だぞ!? これ以上ないくらい整っているシチュエーションなんだぞ!!」
 そこで言葉を区切ると、厳蔵はそわそわした挙動不審な動きで、テーブルを拭く空也の隣に忍び寄る。耳元に手製のトンネルを作り興奮した態度を隠さずそっと尋ねた。
「そ、それより……! 空也、お前、きょ、今日……やるのか!? 昨日お前動かなかったろ! 馬鹿者め、ハツネさんは明け方まで緊張しながら眠らず部屋で待っていたんだぞ!! と、とりあえず、ビデオカメラは買ってきたぞ。説明書も読んだ。録画はワシに任せろ!!」
「じいちゃん……」
「つつつ、遂に!! あの人類未踏の双子大山を登るのか!!? どうなんだ!! トンネルを開通──あ、ぐぎぎぎぎぎいいいいいいいい!!?!? 違う、ばあさん!! 違うから!! ワシばあさん大好きだからやめてやめてやめてえええええええ!!!」
 代わり映えしないパターンに疲れた溜息を落とす。
 ──が。
 厳蔵がその表情を百八十度引っ繰り返した。宿るのは底の見えない翁の素顔。齢八十とは思えないほどの力強い意志が双眸に光を灯す。顔面に刻まれた緩やかなシワは急遽引き締まり、谷川を急流する水筋を思わせた。
 空也が言葉を失っている前で、厳蔵は居間のカーテンを開き戸を勢いよくどかす。
 そこへ勢い殺さず飛び込んできたのは土の塊。──茶部だった。厳蔵の聴覚の鋭さには感心を通り越して感服たる念を抱く。
「そんなに慌ててどうしました、茶部殿」
「ご老人!! すぐに人を集めてくれ!!」
「茶部様。一体何があったのです!?」
 水を止め、手を拭いながらハツネが駆け寄る。茶部の声は危機感が渦巻いていた。只ならぬ気配。
「人間だ!! 人間が山に押し入ってきた! 数十人規模で東の小川沿いから登ってきおった! 猟銃を持っている!!」
「何だと!?」
 厳蔵が怒気を膨らませたのが隣で分かった。交通事故で両親を失って十数年、空也に山の大切さ、自然の息吹きの尊さを教えてきたのは紛れもなくこの祖父なのだ。
 火に油が注がれた。そう思わせるくらいのタイミングで山の何処から、空気で膨らませた袋を破裂させたかのような乾いた高音が闇中に響き渡った。
 空也も、過去何度が耳にしたことのあるそれは──
「一体どこの馬鹿共だ!!」
 激情が拳と共に壁に叩きつけられる。厳蔵の怒り。今のは間違いなく誰かが猟銃を放った音だ。少しの間の後、断続してそれは撃ち鳴らされた。
 空を裂く飛翔音。開いた戸からやってきた次なる来訪客は、闇空の王、シマフクロウだ。酷く慌てた羽ばたき。フクロウは篠笛のような低く太い鳴き声と共に事態を告げる。
「茶部様! 熊の家族が人間達に見つかってしまいました!! 現在交戦中です!!」
「やけに早い。まさかそれが目的か!? 何年ぶりの銃声だ。何度聞いても不快な音だ! 人間達の凶器の象徴。猿達の進化は生殺与奪を振り翳す傲慢な化け物をも生み出した……!」
「犬さん、猪さん、鹿さんに連絡して下さい! 人間は夜目が利きません。小さな明かりだけに頼っているはずです。人間達を撹乱させるように、闇夜をついて足元に牽制の攻撃をしかけて! でも決して無理をしては駄目です。相手を脅かすのが目的!」
 一枚のお皿相手に奮闘していたハツネが、岩を砕かんとするほどの強固な激を飛ばした。空也は呆気にとられる。数時間前には腰が抜けてへたり込んでしまったはずの少女が、瞳を爛と輝かせ明確なる指示を下し始めたのだ。
「フクロウさん。鳥さん達からも勇士を集めて。でも女性や子供は駄目です! 翼で敵の視界を塞いで下さい。留まり続けるのはいけません。木から木に飛び移るように、勢いをつけて攻撃して。銃弾に当たらないことを第一に心がけて下さい」
「ハツネ殿。──心得た」
「東の小川。それも人目につく場所にいる熊さん達というと──おそらく木流さんのご家族だと思うんです。きっと木流さんの性格上、二人のお子さんと奥さんを逃がすため、たった一頭で自分の命を顧みずに人間達に立ち向かうはず。家族が逃げるための時間稼ぎとして。最悪の事態を迎える前に、迅速に行動して下さい!」
 シマフクロウが嵐の中に揺れる帆船の帆のように翼をはためかせる。自らの引き起こした旋風と共に闇夜の中に消えて行った。
「厳蔵殿!」
「分かっておる茶部殿。結局人間を抑えることができるのは人間のみ! すぐに警察を呼びますが、同時にワシは街の連中に連絡してこちらも有志を募ってみます! この手の件には数が一番。空也、お前は山に行け! まさか相手も人間を撃とうとは思うまい」
 危険だから家にいろ。厳蔵はそんなことは決して口にしない。
 染野山の麓に生まれ、染野山と共に八十年近い年月を過ごした老人は、無作法に敷居を跨ぐ痴れ者達に対し、家族を汚されたに等しい憤激を宿らせる。その血は孫にも受け継がれていた。何より──空也もまったくの同じ意見を持っていたのだ。
「ハツネも参ります。明かりはいりません。私の後についてきて下さいませ、旦那様」
 不思議とハツネを止めようとする気持ちはなかった。それは彼女への侮辱に等しく思えたのだ。染野山の真なる身内は茶部やハツネである。それを感じていたからかもしれない。

 夜の山を明かりなしで歩く人間がいるとすれば、分をわきまえない愚者か無知蒙昧たる愚者のいずれかだ。月明かりの届かない木々の間に一度足を踏み入れてしまえば、そこはもはや自分が踏んでいる足場以外は存在を立証することの叶わない深淵たる闇に包まれる。一歩先に大樹が聳え立っているのか、崖が大口を開けて待ち構えているのかは人の目では到底見透かせない。
 怖かった。夜の山を、夜の森を知っている空也はその恐ろしさを身に染みて知っている。
 その気持ちを察してか、ハツネは空也の手を取ると少しだけスピードを落とし、でも決して緩めずに草木の間を駆け抜けていく。道を選んでくれているのが分かる。高低さが大きくなく、枝や茂みにぶつかることもない。家を出て五分経つ頃には恐怖がほとんど消えていることに気づいた。ハツネの手から感じるのは確かなる温もり。この手を離さなければ何一つ怖いことなどない。
 山は騒がしかった。
 不吉な空気が大樹達の間に蔓延している。至る所で鳥や獣の鳴き声が右へ左へと流れて行く。
「東だ! 敵は東から攻めてくる!!」
「おい、棒丸さん家の娘さんを誰か見なかったか!? 逃げる途中にはぐれちまったらしいぞ!」
「落ち着いて下さい。皆さん落ち着いて山を登って下さい!」
「女子供を優先しろーーー!」
 人の傲慢さを知った。
 そこは街だった。染野山には多くの生き物達がこんなにも沢山息づいていたのだ。人間は他人の玄関を堂々と跨ぎ、土足で団欒を踏み荒らす。自分達の行動がどれだけ動物達に恐怖と脅威を与えているか理解していない。直なる声を聞くことのできる空也は初めてそれを知り、戦慄し、恥じた。
 闇に混乱が渦巻き、至る所で矢継ぎ早に指示が飛び交っている。これは──そう、テレビの中で似た光景を目にしたことがある。
 戦争の光景だ。
 手を引かれ疾駆に身を任せる。流れていく風が頭を冷やしていく。
 敵は密猟者とみて間違いないだろう。そしてタイミングを考えればその相手も安易に想像がつく。
 小野寺岩鷲の子飼い達だろう。
 密猟者からすれば、熊は全身に金を纏っているようなものだ。大きければ大きいほどその価値は跳ね上がる。吹雪をも凌ぐ剛毛なる毛皮は勿論のこと、美食家達の間ではその肝は宝石のように重宝される。小さいものでは数十万。山の奥深くに住む、成熟した健康たる巨躯から取れば数百万にも化ける。海を越えた闇市場に持っていけば更にその数倍にもなる。爪も牙も、当然肉も、その全てに値段がつく。倫理を捨てた不届き者は、見渡す限りの秋山から飛び込んでくる悠然たる秋色の趣など目に入らない、黄色く染まったイチョウに愚かな金の香りを嗅ぎ取ることだろう。
 銃声が星々の間へと昇った。鳥達が一斉に羽ばたき、安穏が切り裂かれていく。
「こっちだ、急げ! ……恥知らずの猿達め!!」
 茶部が先頭を行き、ハツネと空也がその後ろを駆ける。
 山の至る所から動物達の駆け回るけたたましい足音が鳴り響いていた。草木が、梢が休む間もなく忙しなく踊る。闇の中に飛び交うのは侵略を受けた動物達の叫喚だ。天災に逃げ惑う人々のように、人災を受けた街はパニックに包まれる。
 僅かな光芒が闇夜を裂いた。
「……!」
 自然のままの夜山を駆け抜けてきたからこそ分かる。その懐中電灯の光はあまりにこの場にとって場違いな文明の機器だった。眩しすぎる。あんなもの動物達は誰も喜ばない。静寂に包まれる夜が、山と動物達にとっていかに愛されているのかを知った。とても静かな夜だったのだ。それが今や、蜂の巣を突ついたような騒ぎ。
「ちくしょう、何なんだ!!」
「ああ、くそ! 撃て、撃て撃て!!」
「ナメやがって。こいつ等、クソッ!!」
 人間の男達による罵声。酷く苛ついている。懐中電灯の明かりが四方八方に、時には頭上に翳されている真っ赤な葉木を照らし出す。酔っ払いが照明を操っているかのようだ。迷惑な眩い明かりがそこら中にぶちまけられ、大気が白と黒、交互に反転する。
 彼等の周りを飛び交うのは夜に紛れた動物達だ。存在を誇示するかのように茂みの中から物音が鳴り続ける。だが姿は現さない。その中に向けて、イラつきを隠さず猟銃を構えて引き金を絞る坊主頭の男。手応えはない。男の背後から突如として猪が突進してきた。その垂れた頭がふくらはぎに激突する。悲鳴が上がった。それを見ていた別の男が即座に猪に向けて猟銃を構えるが、そこに飛来したのは紅葉の中から現れた複数の鳥達だ。視界を塞ぎ、指を突かれ、男が乱暴に腕を振り払って射撃体勢を整えた時には、とうに猪はその姿を消している。
 動物達は暗闇を味方につけていた。その動きは紛れもなく山に住む者達の戦い方だったのだ。
「きたかい。茶部さんよぉ!」
「遅くなった、熊達はどうした!?」
「避難済みだ。安心しろ、熊の旦那も家族に合流した。傷一つありゃしねえ!」
「よし!」
 舞い降りたキツツキから受けたその報告は、茶部よりハツネを大いに安堵させたようだ。張り詰めていた糸を緩めたかのような、胸に堪っていた重い息を少女は人知れず吐き出す。
「皆、引き上げろ! 勇敢な戦士達よ、ご苦労だった。各々の帰るべき場所へ戻るのだ! 諸君達はお山の誇りだ!!」
 戦況の風向きが変わる。動物達の取った行動は、見る側とて清々しくなるかのような一糸乱れぬ逃走だ。男達を取り囲んでいた不穏なる草木の擦れが一斉に遠ざかっていく。蜘蛛の子を散らすかのように動物達は闇の中へと溶け込んでいった。その潔さ、統率のとれた動きは一級の兵士。
 ──だがアクシンデントは人間問わず動物達の間でも発生するらしい。
 逃げる途中に仲間とぶつかったのか、はたまた混乱の坩堝にその優秀なる脚を飲み込まれたのか、場にそぐわない愛らしい声と共に一頭の犬が鳴いた。幾分慣れてきたとはいえ、空也の視界は墨を塗りたくったように不明瞭だ。状況が分からない。それでも男達の懐中電灯が向けられた時に全てを理解した。
 横腹を地面に擦りつけた犬が手足をバタつかせ、必死に起き上がろうとしていた。
 そこへ向けられる真なる闇の入り口。
 怒り心頭の男達が無数の銃口が一斉集中させる。
 茶部が、ハツネが腹の底から制止を呼びかける前に──
「何をしているんだあんた達!!」
 空也は滾った灼熱を噴火させるかのようにぶつけていた。
 まさか自分達以外に人間がいると思っていなかったのだろう。男達が自警の反射反応を見せる。夕方街で見たような、弛緩しきった垂れ顔はそこにはない。彼等にとって誇りは命より重い。見くびられるなど沽券に関わることだ。多少の驚きはあろうとも、相手を射殺さんとする眼が空也にぶつけられた。
 かなりの数だ。二十人はいるだろうか。猟銃に限りがあったのか、背後にいる連中の中には懐中電灯だけ持つ者もいる。
「……あぁ? こいつは驚いた。土山んトコのか。夕方会ったばかりだってのによ」
 ざっと見る限りこの場に岩鷲はいないようだ。口を開いたのは、商店街で会った時にも見かけた舎弟達の一人だ。細身の草葉を思わせるような切り傷の跡が額に流れている。
「何しているって? あぁ? その言い草はねえだろ餓鬼が。俺達は──あれだ。染野市の自警団だ自警団。お店でお気にのナナちゃんとイチャイチャしたいのを我慢して、こんなしみったれた山まできて人間様に害をなす熊共をぶち殺しにきたんだぜ?」
 控えていた男達が笑いを爆発させる。全くもって不快になる笑い方だ。分かってはいたことだが、どうやら真面目に答える気はないらしい。
「──染野山の熊さん達は、人様に危害は加えません。ハツネが保証します。ですからもう帰って下さい。お山の子供達が、硝煙のにおいと、獣を殺して喜ぶその凶暴な心に怯えています」
 臆した様子は微塵も窺えない。か弱き声で、でも確かなる存在感を見せつけハツネが立つ。
 少女の姿を目の当たりにし、男達の笑いが止まった。
「ほ! こりゃ驚いた! な、お前等? 言った通りだろ!? とんでもねえ上玉だ!!」
「はーーー! 可愛いお嬢ちゃんだ! ……お嬢ちゃん、いくらだい?」
 下卑たる爆笑。下衆達の前に晒すには、ハツネはあまりに白すぎた。人を踏みつけ、蹂躙し、骨の髄まで貪るのを生業とする男達からすれば、穢れなきその姿は聖女にさえ映るのかもしれない。
 そして、男は誰しもが女を自分色に染め上げたいと密かに願う。
「いやいや参ったね、土山の坊主はこう見えて逞しい! 女と二人で夜の山からのご登場だ! こんなひと気のない場所で、二人で何してたのかなあ? おじさんに教えてくれよー」
「若いねーーー! おい坊主! ズボンのチャック開いてるぞ!?」
 完全に肴にされている。
 空也の怒りは空回りするばかりだ。逃げ遅れていた犬は既に退場している。自分の行動に意味があったとかろうじて納得できるが──それだけだ。一人では何もできない。厳蔵の連れてくる街の人間達がくるまで、こうして馬鹿にされ続けなくてはならないのだろうか。
「──組が資金繰りに困っているからといって、何の関係もない山の動物にまで手を出すんですか!  人としての倫理はないんですか!?」
 怒りが冷静なる仮面を溶かした。
 傷の男の声はいとも愉しげだ。自分の声色が相手を苛立たせるのをよく知っている。
「だから自警団だって言ってるだろ? 自警団。ほら、よく聞く言葉があるじゃねえか。何かあってからでは遅い! てな。俺達は市の皆様方が安全に暮らせるように、こうやって危険を顧みず、体を張って頑張っているんだよ。熊は人間の敵! それにいなくなっても別に誰も困らないだろ?」
 挑発が半分。
 だが──空也は愕然とした。
 この男は、残りの半分は本気で言っているのだ。
「あぁ、ほら。今不景気だろ? 動物君達にもご協力をお願いしようじゃないか。お金に換わってもらおう! 本音を言えば俺達だって、首に縄つけて人から金を搾り取るより、獣ぶっ殺して金稼いだ方が気が楽なんだよ。人が死ぬより獣が死んだ方がいいだろ? な?」
「何だよその傲慢さは!!」
「おお、そうだそうだ。もし何だったら、お嬢ちゃん、ウチの組にくるかい? 若頭も言ってたけど、お嬢ちゃんだったらあっという間に金稼げるぞ。そうすりゃ俺達も、夜中にこんな山を登らなくて済むってもんだ」
 なぜ誰かが犠牲になることが前提なのか。なぜ誰かに依存してお金を得ようとするのか。それも生きていく上で已む無いという理由ではない。彼等が得ようとしているのは身勝手なお金だ。
 茶部の言葉が思い出される。
 最後に犠牲になるのはいつだって弱い者。それは人に限ったことではない。
 そして動物は言葉を持たない。
 即ち──人社会において発言権はないのだ。
「何だその目は? 分かってるのか坊主。俺達は今、お前から女を取り上げて好き放題もできるんだぞ? もうちっと自分の分ってモンを弁えろ」
 ハツネを自分の背後に下がらせる。……だがそれまでだ。他に自分にできることが思い浮かばない。男達の数を見れば力の差は歴然。口惜しさに腸が煮えくり返る。
「大丈夫です、旦那様」
「うむ。安心せい婿殿。──土暦がようやくやってきた」
「え?」
 遥かなる高台から。
 大気を穿つようにしてそれは放たれた。
 空也は山全体が囁く声を聞いた。それはどこかからこの様子を窺っている動物達の声。秋の夜さえも消すことのかなわない燻った火の粉。山の何処から何処へと興奮が伝播する。
 空也達と侵入者達の間に散る火花を、その大きな影は一振りで掻き消した。
 染野山を震わず大轟音。
 眼前に降ってきたのは──
 自分の背丈の倍はあろうかという巨大な熊。ヒグマだ。
 二の足で大地を踏みつけた熊は、その存在を誇示するかのように天へと吼えた。
 あらゆる生命が跪いた。
 動物達の命を、ロウソクでも吹き消すかのように軽々しく扱っていたはずの男達が言葉を失い、阿呆のように口を開けてその荒ぶる魂の存在感に見入る。
 惰弱なる人間と比べ、そのヒグマの生命の脈動は明らかに桁外れだったのだ。
「すまんな、土暦。世話をかける」
 土煙が収まるを待って、茶部が静かに告げた。
 返されたのは飢餓を思わせるかのような獰猛なる重音だ。お守りを持たなければ、空也とて自分の心臓を鷲掴みにされたような気分を味わっていたことだろう。
 土暦と呼ばれたヒグマが後ろを振り返る。
「木流はさぞ無念な面持ちだった。我等が母の宿敵と称される人間共を前にして、熊の誇りとも言うべきこの爪痕を刻んでやれなかったことをだ。人間はお山を慈悲なく傷つける。因果応報。その報いは然るべき傷痕となって連中に返るべきだ」
 土暦が再び前方と対峙する。その仕草の途中に遥か頭上に位置する顔が一瞬自分へと向けられた。墨色の瞳。その窓の中から垣間見えたのは激昂なる炎の揺らぎだ。
 かたきを見るような一瞥が、確かに空也を貫いた。
 人が日常で思う怒りなど砂粒のように小さいことを知った。ヒグマの持つ業火に触れた空也はその熱を前にただ立ち尽くした。万物の霊長が聞いて呆れる。土暦から崇高なる魂を感じたのだ。
「今のヤツの役目は愛すべき家族と共に、あるがままに生きること。ならば……この人間共に我等が熊の怒りを教えてやるのは長たる私の役目だ」
 怒気が殺意に変貌を遂げる。
 森に住む猿であった頃と比較すれば、目に見えないほどに薄まってしまった種としての警告本能が男達の間でようやく湧き上がる。
「な……な……何なんだ! 先から何なんだよ!! 動物風情がどうしてこんな──!」
 熊が四足になる。
 狩りの時間だった。
「わ──うわぁぁぁぁァァァ!!!」
 小野寺の男達が一目散に逃走を試みた。その遅すぎた防衛行動は人間の奢りだ。人とはこの世界において最も他の動物を恐れない種族である。故にヒグマからすればそんな出遅れた人間達を料理することは容易い。十五センチ以上あるその爪で一薙ぎに脆い肌を刺身にするもよし、四百キロ以上を誇る巨躯を万遍に使い、踏みつけて骨をミンチにするもよし、頭を噛み砕いて絶命させることなど目を瞑ってでも可能だ。
「だ……ダメだ!! 殺しちゃダメです!!」
 ヒグマの豪腕は祖父から学んでいる。
 恐怖に伝染し、パニック状態のままロクな明かりも持たずに夜の山を逃げていく人間達を捕えることなど造作もないだろう。
 土暦が現れたその瞬間に彼等は敗北を喫したのだ。
「黙っていろ人間! 貴様等は人間社会の掟に乗っ取って街中に迷い込んだ我等を射殺する。ならば、我等の社会に現れた人間共は、我等の掟に乗っ取って滅ぼす。道理であろう!」
 あまりに真っ当な正論に空也は反論できない。
 でも──
「お願いです土暦様。虫のいい話なのは承知です。彼等を見逃してあげて下さい! このお山で人間が死んだとなれば、間違いなくより多くの勢力と人間の上部社会が染野山に介入してくることでしょう。山狩りで追い立てられるのは私達の方になってしまいます」
 土暦からすればあまりに不条理なその現実は、空也の口から出る前にハツネから語られた。
「うむ……。幸か不幸か、身なりからして連中はヤクザと呼ばれる者達だろう。力を振り翳し勢力を拡大する、人間社会の中からも忌み嫌われる存在だ。だがそれ故に尻尾を巻いて逃げ出すことなど本来許されない者達。殺しさえしなければ、今日ここであった出来事を、連中が自ら街中に広めるようなことはせんだろう」
「茶部。……母たるお山に恥ずかしいと思わんのか。お前も分かっているはずだ。人間共はまたくるだろう。連中は知略に富むくせに自らを省みることだけはしない」
「だったらまた逃げればいい」
「茶部!!」
「それが一番の方法だ。それに人間達が本気になれば、私達を根絶やしにすることなどそう難しいことではない。お前こそ分かっているだろう土暦。──追いかけるなよ? 連中を追い払うためにもうすぐ人がやってくる。私達の出番は終わりだ」
 蒸気を吹き出すかのような熊の鼻息。彼等の僅かな対話で、お互いがどのような展望を抱いているかが空也には伝わった。狸も熊も、意見こそは違えどお互いを嫌悪しているわけではない。
 ただ──必死なのだ。
 大切なものを守ろうと。
「……」
 足取りは乱暴に、暴走機関車が無言のまま夜の闇に消えていく。先行してスタートダッシュを切った人間達の方向へとその脚は向けられていた。
「あの──!」
「大丈夫、心配いらんよ婿殿。土暦はとても賢い熊なのだ。ただ……熊の魂であるあの爪に誇りを持ちすぎておってな。戦える者の少ないこのお山で力を持つ希少な存在。それ故にヤツは誰よりも強い責任感を持っているのじゃよ。声はきちんと伝わっておる。まったく……。人間共を追いかけて恐怖を見せに行ったのだろう。悔しいがそれくらいしか私達にはできんからな」
 どうやら空也はおろか、厳蔵が画策していた街人達ももはや必要ないようだ。結局自分は何もできなかった。染野山の平和は、染野山に住む者達の決死の働きにより守られたのだ。では人間である自分に何かできることはないのだろうか──と思い、ああ、と納得が心に落ちる。
 だからこそ彼等は嫁を嫁がせたのだ。
 人と、動物の間に生まれる子供。
 共存への架け橋。
 おそらくあの様子では土暦はそれに反対しているのだろう。現にこの騒ぎを収めたのは動物達だ。人間など不要だった。そのことを掲げて勝ち誇るような男でもないのだろうが……だからこそ逆に空也は居た堪れなくなる。安っぽい正義感と嘲笑われてもいい。偽善と誹られても構わない。
「ちょっと俺、下の方まで様子を見てきます!」
「旦那様──!」
 幾つか転がっていた懐中電灯の一つを掴むと空也は駆け出した。何かできないのだろうか。そんな悄然たる心が広がっていく。彼等が未来へ橋を架けるなら、人間として、この染野山の麓に住む者として、反対の岸からも手を伸ばしてやりたかった。

 夜の街を通り行くパトカーのサイレンはよく響く。
 だが、そこに妙な違和感を覚えてしまった自分に対し首を傾げた。雲のように掴みどころのなかったそれは、頭の中でこね回しているうちに形が浮かんでくる。
 山を荒らそうとした不届き者達が人間なら、それを取り締まろうとしているのも人間なのだ。今までそこに疑問など覚えたこともなかった。動物達と共に行動をしたからだろうか。空也の二つ持つ眼のうち、片方には別世界が映るのだ。耳も同じ、片側からは動物達の息づかいが聞こえる。
 人と動物が争うのは分かる。だがなぜ人と人が争うのか。そんな子供のようなことを真面目に考えてしまった。それはもしかしたら、茶部や土暦も常々抱いている疑問なのかもしれない。
 ──知らずして人と動物の間に身を置き始めたことに本人は気づかない。
 土暦の駆けて行った方角と、この辺りに走る県道の位置を考えれば自ずと小野寺の部下達が向かった行き先は割れる。道中、不気味なほどに辺りから生命を感じない。動物も鳥も存在しない山林は怖いくらいに物悲しい。
 眠りから叩き起こされたタイヤが急発進する音が黒の帳を切り裂いた。鮮烈なる白光が目を焦がす。落ち葉を踏みしめながら空也は車が駐輪してある場所へと駆けた。額に傷跡のあった男がこの集団のリーダーなのだろう。せめて一言二言、言葉を交わしたかった。無駄だと分かっても、今後こんな馬鹿げたことは一切やめてもらうようお願いをしたかった。自分にはそれくらいしかできない。そんな小さなことしかできない。ならばその小さなことに全力を尽くしたい。
 ようやく木々の間を抜け切った。山と人里の境界線、道路に出る。男達が次々と車に乗り込み、脇目も振り返らずに全力で車を発進させていた。その動きには全く余念がない。土暦に追い回され死への恐怖が心に巣食ったのだろうか。残っていた数台の車に、懐中電灯を消して空也は忍び寄る。だがこの混乱の最中であの男を発見するのは難題であることをすぐに思い知らされた。そもそも、既に発進した車の中にくだんの人物はもう収まっているのかもしれないのだ。
 やや離れた道の先にバンが止めてあるのが目についた。夜目では不確かだが、人影が近くに佇んでいるのが朧に月明かりに映る。車内に戻ろうとする様子はない。ただ外で立ち尽くしているのだ。しんがり、というヤツだろうか。凶暴な大熊が出たというのに、そんな混乱の最中に逃げ出さずにしっかりこの場に残っているというのも敵ながらに肝が太い。敵のリーダーかもしれないとの望みを抱きつつ空也は人影に近づいていった。
「誰だ!?」
「染野山に住む者です! 撃たないで下さい。怪しい者じゃありません」
 敵の神経もかなり過敏になっていたようだ。十メートルは開いているというのに気配を察知され凄まれる。相手を刺激する気はない。空也は即座に両手を上げて無抵抗の意を示した。
「──え?」
 相手の、どこか戸惑ったような無防備なる呟き。
 突如当てられた眩い光を前に、反射的に眼前に手を翳す。
 何とか視点を確保して懐中電灯を持つ主の顔を目の当たりにした空也は、予期していなかったその人物を前に、刹那あらゆる思考が消し飛んだ。
「……ブラザー」
「ルチアーノ……?」
 高校生らしかぬ、あまりに特徴的な一分の隙もない企業家のような髪型。その双眸が不自然な挙措を見せているのは決して光の具合だけによるものではないだろう。
 呆けた自分に叱咤を飛ばす。
 ルチアーノの父親が抱えているならず者の集団。ならばそこに、あの男の息子である以上、ルチアーノが参加していても何ら不思議なことではなかったのだ。
「よ……よう。ブラザー。俺のハートを焦がすような月明かりに誘われてな……。ニューヨークの腐ったスラムから見上げた夜空をつい思い出して……」
「ルチアーノ……お前!!」
 爪が食い込むほどの強さで空也は親友の両肩を掴んだ。荒波のような猛る心が腕を媒介してルチアーノの体にぶつかっていく。牙を掲げるかのような空也の顔は縄張りを侵された狼のようだ。
「……お前、この山が俺にとってどれだけ大切か知っているはずだよな。知ってて──知っててきたのか!?」
「ブラザー……分かってくれ」
 学校ではまず見せない諦念と憂いを含んだルチアーノは首を振る。下がった目尻は演技には見えない。我が物顔で不敵に微笑んでいた学校の顔とは対照的なる相貌。疲れた声。
「親父の命令なんだ」
 結局は──
 結局はそこに行き着いてしまうのだ。
 やるせない思いがルチアーノに渦巻いているのが伝わってくる。空也とて頭で分かってはいる。経済的観念からも、力でも、子供が父親に逆らえるはずがないのは。ましてやルチアーノの家柄を考えれば、父親は神にも等しい。下の人間の腕をへし折るのも、青痣を好きなだけ作るのも、小指を切り取るのも、全て岩鷲の意思一つで自由に行われる。
 今までルチアーノはあからさまなる犯罪行為に加担したことなどなかったと聞いている。
 ──昼間に会った岩鷲の言葉を思い出す。
 つまりは……何か。こうやって、少しずつ、経験をつませていこうとでもいうのか。
「やめろよ……やめろよルチアーノ! これからこうやって、お前色々なことをやらされて──」
「親父に逆らえるわけねえだろ。安全なところから物言うな──!」
 汚泥を食わされ、鬱屈してしまった心が滲み出す。
「ブラザー。お前は親父の怖さを知らねえんだ……。俺はもう餓鬼の頃から覚悟はしていた。これからどんな道を行くかも分かっている。俺も二十年後は親父のようになってなくちゃいけねえ」
 震えていた。
 ルチアーノは顔を背けながら、しこりを吐き出すかのように乱暴に告げる。真っ白な正当なる理屈などこの場では何の役にも立たない。だから空也はそれ以上親友にかけるべき言葉を持たない。
「HAHAHA! なに、慣れだ慣れ! キングコングはアメリカ史上最大の怪物だ! それを越えてこそBIGなる道が開けるってもんだぜ!」
 痛々しいその台詞も、数年後にはそれなりの貫禄と共に口にできるようになっているのだろうか。
 ──嫌だった。
 肩から手を離す。あれだけ昂ぶっていた熱が秋風に吹かれて呆気ないくらいに霧散していく。残ったのは晩秋の薄ら寒さだけだ。
 我が物顔で大いなるマフィア道を語っていた親友の周りに落ち葉が吹き荒れる。積もっていく。こびりついた血のように真っ赤な色で埋もれていく。アメリカ全土を支配しようと、目を輝かせて大言壮語を吐く親友の方がずっと輝いていた。商店街で出会ったチンピラ達を思い出す。ルチアーノが今後あのように化けていくことを想像すると苦痛が針となって心に刺さった。
「夢だったんじゃないのかよ……。BIGになるんだろ……」
「だからよ。まず親父を越えてからだ。日本の極道をしっかり勉強してからじゃないと海は渡れねえ。志と気合と度胸を身につけて、忠実な兵隊を従えて乗り込むんだ!」
 一人安全なところから物を言う自分の言葉には世間体という名の価値しかつかない。ルチアーノの世界において最も不要であり、唾棄すべきほど矮小なる障害。
 学友である土山空也にもはや言葉はなかった。山の代理人として目の前の男と向き合う。
「──ルチアーノ。染野山を荒らすような真似はもうやめてくれ。俺だけじゃない、山の皆が怒っている。お前達の命を奪おうとする者だって数多くいる」
「HAHAHA! 突然何言い出すんだオイ! 逃げてきた連中から聞いたぜ? 動物達に追い回されたとか何とか。──ふざけるな! そんな報告親父にできるわけねえだろ! ここはハリウッドじゃねえ。映画が観たけりゃポップコーン買ってシアターにでも行きやがれってんだ!」
「やめてくれ! 本当に怒っているんだ。あの様子じゃ、多分次は抑えられない!」
「──金が必要なんだよ金が。分かってくれブラザー。お前の家が近いのは当然知ってた。だが邪魔しなければ手出しはしねえ。次は亀のようにお家に閉じこもってろよ。俺だって親友を撃ちたくはねえんだ。お互いクールにいこうぜ」
 口から世に生まれてきたかのように日頃中途半端なジョークを飛ばすルチアーノには、取ってつけたような凄味はどうしても見る者に青臭さを与える。それが好きだったのだ。小学校入学当時から共に過ごしてきた要因はそのデタラメなホラに愛すべき愚鈍さが混じっていたからである。
 真顔で、真剣に語られるヤクザな道は、空也はこれから笑って聞き流すことはできない。
「坊っちゃん! 全員ずらかりましたぜ! 後は俺達だけで──な、何だテメェ!!」
「やめろ! そいつは関係ねえ!!」
 闇の中現れた中年ヤクザが空也を見るなり恫喝するかのような声を殺気と共に飛ばしてきた。しんがりグループの一員か。気づけば辺りの車はその姿を消していた。ルチアーノが発した戒めは、ドスの利く声とは程遠い学生レベルの怒鳴り声だ。
「──いいんですかい? ……熊はどこかへ行っちまいました。今のうちに俺達も行きましょう」
「ああ。分かった」
 背を向けたルチアーノのシャツに描かれていたのは雷神風神だ。刺青の代用のつもりなのか。
 それきり振り返ることはなかった。空也の見守る前でルチアーノは助手席に乗り込むとほどなくして車が発進する。二つ目のお化けが猛スピードで染野山から逃げ出していく。見送る空也の胸には何の感慨も湧いてこなかった。あまりに極端に別れてしまった自分達。空也は山へと、ルチアーノは人間の街へと帰っていく。今夜のできごとは一体何だったのだろう。相手は親友であるというのに、染野山はおろか自分の声など届きもしなかった。結果を見せつけられた気がした。どこかで感じていたではないか、これは戦争であると。
 人は人。動物は動物。着飾った幕など焼け落ちた。この大空の下では皆平等だ。戦争ではただ在るがままの現実が露呈されるのだと知る。
 茂みが音を立てて動いた。
「こんなところにいたのか、婿殿」
 最低だ。茶部の言葉に白々しささえ覚えてしまった。何もできなかった自分の八つ当たり。
「ふむ──?」
 背後から現れ、放心する空也の前へと回りこまれた。月明かりに照らし出された狸の愛くるしい顔には似つかわしくない厳しさが張りついていた。
「茶部さん。……婿って呼び名は……俺には合わないのかもしれません。今ここに俺の親友がいました。連中を率いていたわけじゃないですけど、それでも……密猟に加担していたんです。人と動物の架け橋にならなくちゃいけないのに、俺の言葉はまるで届きませんでした……」
「猿らしいのう。その意見。はっはっは」
 その言葉にはさすがの空也も不快をあらわに眉を寄せた。内容もさることながら、あまりに能天気な声色。更に茶部の言葉はそんな空也の心さえも見透かしているように聞こえる。
「猿は昔からとにかく悩む。あれもこれもとな。他の動物がさっさと諦めてしまうことでさえ、一時間二時間と悩み、我々が予想だにしない答えを出すものじゃ。高い所にぶら下がった果実。細い幹の奥に転がった木の実。どう取るか悩んで悩んで……気づいたら美味しそうにそれを食べている」
「……お言葉ですけど、ことはそんなに単純じゃありません」
「婿殿。ジジイの戯言ですがな。私が思うに──猿達は進化しすぎました。結果として尾を初めとし様々なものを失った。文明に依存し本能を捨てたのです。獣というのはですな、婿殿。魂でぶつかり合うものなのです。土暦がいい例だ。火や道具に頼っていくうちに、貴方達はそれを忘れてしまったように見える。ぶつかりなさい。子供でもできる。強い弱いではない。心をぶつけ合った暁には──少なくとも今の婿殿のような、消化不良な顔など残りませぬよ。はっはっは」
 まだ悩み足りないと。まだ喧嘩をし足りないと。
 その結果何かが変わるとでもいうのだろうか。
「ハツネが心配しておりましたぞ。多分今頃は、他の動物達に強引に背中を押され、祭り会場にでも向かっている頃でしょう。案内しますので婿殿も早くきなされ」
「祭り……ですか?」
「ただの馬鹿騒ぎですよ。久しぶりの戦争。それも無傷で全員過ごせたとなれば、何かと娯楽の乏しいこの山では理由をつけて祝いたくなるのは必至。あぁ、そうだ婿殿。年寄りの知恵でもう一つだけ。──不快が泥のように心にこびりついている時は、嫁の奉仕で溶かしてもらうのが一番ですぞ」
「──」
 奉仕と聞いて甘美な連想をした空也は答えを返せない。だが茶部のくぐもった笑いは、どうやら空也が真っ先に思い浮かべたものを見抜いているようだ。無論それを承知で口にしたのだろう。
 タヌキだ。
「夫の心を受け止めるのも嫁の仕事。ハツネなら献身的なる慰めを施してくれることでしょう」
 老獪なる言葉は青少年の心を巧みに操る。健全なる男子たる空也の頭にハツネの膨らんだ双丘が思い浮かび──すぐに掻き消した。
「さあさあ参りましょう! 祭りじゃ祭りじゃ。はっはっは!」
 放心した心に煩悩という名の艶美が居座る。茶部は狡猾だ。手の平で踊らされた空也。先程まで全身から生じていた刺々しい針の先に実ったのは桃の果実。
 四足で機嫌よく駆けて行く茶部に苦笑せざるを得なかった。

       

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Neetsha