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 今度の騒がしさには心躍る陽気が満ち溢れていた。
 大自然が一体となって奏でる原初の音楽。鬱蒼たる森を進むごとに動物達の笑い声が山奥から漏れてくる。
 空也には一つだけ気になっていることがあった。歩きながら茶部にそれを尋ねる。
「茶部さん。何か、地面がいやに濡れていませんか? 昨日の天気雨にしては随分──」
「ああ。先程婿殿が我々の元から離れた後に、ここら一帯だけ雨を降らせたのですよ。猟銃の火薬だけでなく、タバコを咥えている者もおりましたからな。どこに火種が眠っているか分かりませんので、念のための措置です」
「雨を降らせたって──え? あの──どうやって──?」
「異なことを。狐に狸十八番の幻術といえば雨呼びでしょう。ハツネは特に幻術の成績は優秀でしたが、他の連中でも雨を降らせることくらい容易いものです。皆で集まって、お空に協力を仰いだまで」
 確かに古くの物語では狐や狸は人を化かす。雨さえも降らす。昔話がよい例だ。
 しかしそれを心から信じている大人が、果たしてこの日本に何人いることか──
「ですが婿殿。雨呼びはさほど難しいものではありませんぞ。貴方達人間とてその力はある。昔から人間は雨乞いの儀式を行ってきました。それに、数百年前に大阪では人と狐の混血たる人間が陰陽と称した幻術を意のままに扱っていたのも有名です。──これも、道具を手にした猿達が失ってしまった遺物の一つですかな」
 ルチアーノと話している時に山の一部では雨が降っていたというのだろうか。天気予報を度外視するような、ほんの小さな一帯のみに。
 ぬかるんだ土に含まれるのは紛れもなく真新しい水だ。
 ──どうやら人間は、自分達で思っているほど動物のことを理解していないらしい。
「ああ、ほらこの先です。見えてきましたな」
 夜の宮殿を抜ける。神々の巨像の代わりに立ち並ぶは数百年間染野山を見守ってきた木々の長老達。その偉大な大樹の幅は人の比ではない。万物として存在の差がそこにはあった。彼等は皆生きていた。空を埋め尽くす真っ赤な紅葉が空也の心に応えるように揺れる。風のさす方向へと誘うようだ。年寄りは年寄りで楽しむ、子供は奥で遊んできなさい。そんなことを思っているのかもしれない。気づけば地面を踏む落ち葉から水滴は消えていた。空也は知らず足が速まる。祭りの在り方はどこも変わらない。立ち並ぶ屋台の奥にこそ本命が待ち構えているのだ。木々の先にぽっかりと開いた空間があることに気づいた。駆け出す。宮殿の深奥にあるものを見たかった。そして──見えぬ扉を開いた先に待ち構えていたのは──
「お! 旦那がきたぞ旦那が!」
「おーーーいハツネ! ……あれ? おい、ハツネはどこ行ったーーー?」
「よくきた、よくきた! 踊ってけ踊ってけ!」
 狸に連れられその先に広がっていた光景は動物の王国。
 これは何というタイトルの御伽話なのか。
 開けた空間は円形状。数える程度しか木が存在しない、芝生が敷き詰められた舞踏会場。月明かりが差し込んでいた。懐中電灯のような、他の存在を上塗りする暴力的な光ではない。闇を持て成し、共に溶け合い、協力して朧な優しさを生み出している。
 四本足の動物達が力いっぱい飛び跳ねていた。滑稽なのは同種族の組み合わせでないことだ。鹿と犬が、兎と猫が共に宙へと上がりそこで片手をタッチし合ってる。円陣は二列一組に。方や時計回りに、方や反時計周りに。渦は中心に至るまでほとんど隙間なく広がっていた。
 動物達の声を更に凌駕するのは木々の上に留まる鳥達の合唱だ。こちらは真に美しい。森の中を歩く登山者達とて、何処からか聞こえる鳥の鳴き声には耳を澄ませてその旋律に浸るものだ。ではもしその旋律に指揮があり、抑揚なる歌を奏でていたら。今まで空也は考えたこともなかった。麗しいほどに透き通ったハーモニー。彼等はオペラ歌手に似ていた。喉を震わせ、遥か遠くまで美声を余す所なく伝えるのだ。決して甲高いだけではない。わびさびを組み込み、水滴の滴りのような寂寥感をも表現する。赤葉の傘にその身を埋め、蛍のように瞳が浮かび上がる幾百幾千もの動物達が小さな歌い手達の調べに聞き惚れる。あとの動物達は元気いっぱいの踊り子達を尻目に、木々に腰かけ談笑に花を咲かせていた。
 それは正にお祭りだった。
 熱気と笑いに満ち溢れ、音楽と踊りが終わりのない輪のようにいつまでもいつまでも繰り返される。誰もが生を全力で謳歌していた。お金も屋台も必要ない。仲間が集まればそこに談笑の渦が巻き起こる。そして月見と紅葉を肴にできる機微は人も動物も同じらしい。
 一際大きなケヤキの下には家族と思われる四頭の熊が、様々な動物達から肩を叩かれ、頭を撫でられ、祝辞の言葉に忙しなく返事を返していた。今回襲われた木流という熊の家族だろう。
「浅ましい奴等だぜ! 今度きたら尻を噛み千切ってやる!」
「逃げていくあいつ等の顔見たか? 土暦様、本気で怒ってからな。お漏らしでお山が汚れていなければよいがな!」
 どこもかしこも動物だらけだ(当たり前だが)。自分はどこに座ればいいのだろう。立ち尽くす空也の頭に肩に鳥達が留まり、狐の集団が足元へと鼻先を押しつけ始めていた。
「おい、空也!」
「じいちゃん!?」
 聞き慣れた声に安心するも──その先に視線を向けた空也は思わず息を飲む。
 自分と同じに招待されたのだろう。厳蔵が茶や黒の動物達の間に埋もれていた。まるで榾木から椎茸が隙間なく生えたかのようだ。揉みくちゃにされている厳蔵は、手だけを虚空に伸ばし空也を手招きする。
「そういえば街の人達はどうしたのじいちゃん。パトカーがくるのだけは見えたけど」
「ブハァッ!!」
 顔面から狸を引っぺがし、髭を擦りながら厳蔵は忌々しげに吐き捨てた。
「街の腰抜け共はまったく集まらんかった! 今回の密猟者が小野寺の連中だったことは知ってるか? いやらしいことに、どうやら奴等事前に街中に恫喝連絡網を回していたようでな。自分から噂を垂れ流していたんじゃよ。今日明日辺り、小野寺が大きく動く、とな」
 つまり先手を打たれていたということだろう。予め恐怖を街中に伝播させていたのだ。
「商店街の若い連中など、おしゃぶりを咥えている時からワシが面倒を見てやっていたというのに! すっかり縮こまっていやがったわい! 誰が野菜のイロハを教えてやったと思っておるか。……警察も警察でどうにも動きがトロかった。寄越したのも二人だけ。臭い息がかかっていなければいいがな」
「だからよー土山の爺さん。今回のヘマは白菜で手ェうってやるってんだ」
「ニンジン! 僕はニンジンが食べたい!」
「いいや蜂蜜だな。爺さん、蜂蜜でチャラにしてやる」
 ……どうやらたかられていたらしい。
「それじゃあじいちゃん。……今後も街の人達の助けは期待できないってこと?」
「いいや、竹槍でケツを突っついてでもこさせるわ! 今日のあらましは全部聞いた。まったく情けないわ! 人の所業を人が抑えず、全部動物達にツケを払わせるなど言語道断。ワシ等はワシ等にできる範囲できっちりやることはやらねばならん。この二本の手には武器だって握れるのだ」
 どうやら一家揃って無力感を感じていたらしい。だが祖父は人生という荒波の中で、息継ぎを空也の数倍上手に扱えるようだ。次に浮かんだ表情は含みを持たせた破顔。
「はっはっは、まあそう暗い顔するな空也! 今回は綺麗に収まったんじゃ! ……それよりほれ、奥さんが迎えにきたようだぞ? そんな顔しててどうする」
 賑やかな宴の会場に口笛のような俗なる音が飛び交った。
 奥から現れたのは、兎や狐達を従者のように連れた──ハツネだ。
 この二日間で何度目か──異性を前に高鳴る青臭く歯痒い心臓の鼓動。
 薄闇の世界から抜け出すように、一歩進むごとに彼女の肌白い手首と、美しい相貌が照らし出される。いつもと異なるのはただ一点。その黒髪と溶け合っている金赤の冠だ。誰が作ったのか。傍らにいる動物達が皆で頑張って作り上げたのかもしれない。しなやかで張りのある枝が輪に。特に映えるものを精選したのだろう、芸術的なまでに色鮮やかで、なのに目を焦がさない紅色の葉。花の冠──を模した、紅葉の冠と呼べばいいのだろうか。着物の色にも馴染んでいる。初心なる思いからか、睫毛で瞳を被った紅の姫が誕生していた。
 あれだけ凛々しく、先頭を率いて戦の指揮を取ったハツネの姿はとうに消えている。
 硬い皮に覆われ、しかし開いたその中に詰められているのは甘く初々しい果肉。
「ハツネ。婿殿はどうにも鬱屈した思いがたまっているようでな。お相手をして差し上げなさい」
「は、はい! ──旦那様、お手を」
 どこからか聞こえた茶部の声。その内容を耳にしたハツネは、自らの行動を束縛しようとする恥じらいを封じ込め、頭一つ分ほど背丈の高い空也に小さな手を差し出す。
 気づけば踊りと音楽が示し合わせたかのように止まっていた。かつてないほどの数の視線を感じる。潜まった陽気は消失ではない。より大きな「爆発」のために溜め込んでいるのだ。全ての獣達が空也とハツネを見守っていた。囁き声さえも聞こえない。二人だけの主役。観客はニヤニヤ笑いながら行く末を黙って見守る。
 俳優に台詞の台本は与えられなかった。
 これは難題だ。
 女の子とロクに言葉を交わしたことのない実直なのだが無骨な少年。しかし幾千もの住民達が見守る前で言葉を違えるわけにはいかない。
 でも──
 考えるよりも早く口が動いていた。
 だってそれは至極当たり前のことだったから。
 正解か間違いかを思うことなど愚昧。
 夜空に月が浮かぶのと同じくらい世の摂理に則った現実だったのだ。
「その冠、とても似合っている。綺麗だよハツネ」
 今度こそ完全な沈黙が広間を支配した。
 頑張ってどんな未熟な言葉を出すのかを、今か今かと待ち構えていた観衆は虚をつかれたのだ。
 あ、と。
 空也は自分の言葉を振り返る。
 ──自分は今、女の子に対し何と言った?
 爆弾が弾け飛んだ。
 一斉に言葉という言葉が洪水のように空也に押し寄せた。飲み込まれる。歓喜の嵐。湧き起こった歓声は沸騰した更なる祝い言葉に掻き消される。
 獣が祭り太鼓を囃し立てた。ある者は吠え、ある者は地響きを鳴らす。
 鳥が木々を揺らした。一羽一羽ではたかが知れるその細い足も、数百羽が同時に羽ばたけば岩をも動かす。祝福の赤い落ち葉が雪のように舞い落ちる。それでは飽き足らず、草原の上に積もっていく落ち葉をフクロウ達が足でつまみ上げ二人の頭上で解き放った。お山が贈呈する花束だ。
 羽毛のように赤と黄の欠片が落ちてくる幻想世界の中心で、ハツネはこれ以上ないくらいに顔を真っ赤に変えて俯いてしまった。
 既に何度となく繰り返された奥手二人による不器用なるお見合い。
 その時、空也を突き動かしたものは何だったのだろう。
 ハツネの手を取った。
 駆け出した。
 背後から戸惑いと驚きの言葉が微かに耳に届くが──
 ──聞こえない。
 木の葉が舞い踊る空の下で、少年は少女の手を取り広場の中央へと走る。
 動物達が道を開けた。
 吸い込まれるかのように円の中心へと向かう。
 ハツネがようやく顔を上げた。
 頬の紅潮はそのままに──笑っていた。
 一歩を踏み出した空也に敵はない。あれだけ自分を戒めていた羞恥も不思議と消え去っていた。
 覚悟を決めた男とは、この世の如何なる敵よりも手強い。逃げ道がなかったというのもある。それでもハツネの手を取り駆け出したのは紛れもなく空也の意思だ。
「よし。……踊ろうか、ハツネ」
「旦那様。あの……お誘いしておきながら……申し訳ありません。ハツネは、人の姿で踊るのは初めてなのです。教えて下さいますか?」
「俺も知らない。でも別に音頭も何もないんだ。──二人で探していこう」
 肌を密着させ、空也は自らの右手で結んだハツネの左手を空に掲げる。僅かの躊躇いの後に、残った左手を少女の腰に回した。
「確かこんな感じだよ。ハツネは左足からね。一、二、三、四──一、二、三、四──。そして手を離して──二人で回転でもしてみようか」
「──はい。仰せのままに」
 音楽は再開していた。
 渦のように二人を取り囲む踊り手達も同様だ。
 祭りが再開される。恋の爆弾という、この世で最も熱く最も興奮する刺激を中心に宴の密度が高まっていく。誰もが微笑み、中央にいる二人の余波を受けていた。不恰好に、誰に教わるわけでもなく二人だけで練習し、二人だけで紡ぐワルツ。何度か転びそうになる少女の体を少年はその度に支え、焦ることなくゆっくりとリズムを刻んでいく。
 心地よく、溶かされてしまいそうな安らぎと温もりが両の手から溢れ出す。その手を離そうなどとは絶対に思わなかった。空也は自然と顔を綻ばせ、ハツネは恥ずかしげにそっと笑う。
 秋一色を散りばめたイチョウともみじの葉が柔らかな雨のように降り注ぐ。唯一の光は空から注がれる淡く控え目な射光のみ。奇しくもそれはハツネを際立たせていた。冠と着物は少女の愛溢れる生命を浴びて活き活きと舞い踊る。夜空の女王の名をほしいままに、世界を下に置く銀の月と言えどハツネの微笑みの前では引き立て役だ。ハツネは美しかった。化粧品もアクセサリーも小物も、全てを宝石のように輝かしい艶で包んだ魅せる美ではない。校内の女子達には多い。燦然と煌く異性には憧憬と畏怖を抱く。金銀輝くネックレスやピアスの光輝は、慎みあるお日様の光に比べるとあまりに眩い。
 男としての気概もある。でもそれ以上に空也の心を掴んで離さなかったのが、ハツネのあまりに透明なその悠久たる姿だった。月明かりの下で、薄暗い光の中で踊る彼女を見ているとそれがよく分かる。これが真昼間の空の下だったら自分はいつものように目を合わせられなかったかもしれない。
 何度でも何度でも思う。
 ハツネは美しい。
 だから空也はその手を握っても頬を染めることはなかった。
 腰を抱き、お互いの吐息が感じられるほど間近に顔を寄せようが、脳が震えることもない。
 頭では勿論理解している。自分が、これまで見たことのないほどの美少女と踊っていることを。
 美しすぎて助かった。まるで森の妖精や精霊と対話しているかのような錯覚さえ覚える。夜の山で、沢山の動物達に囲まれ、色眩い幻想世界の住人となったかのように。
 広場に強い北風が流れ込んだ。木々と落ち葉が一斉に踊り出す。……どうやら山もこの宴に加わりたいらしい。
 艶やかな黒髪を風にたなびかせ、ハツネは小さくステップを踏みながら言った。
「旦那様がお山を大切に思っていることは存じております。染野山は私達皆にとっては母なる存在。ですから、ハツネは二番目でも構いません。旦那様の寵愛を一身に受けるべきは私如きでは本来恐れ多いのですから」
 まさか空也の考えていることを読み取ったわけではないのだろう。それでもハツネは一点の曇りも見せずに言ってのけた。その音色は、岩陰にそっと落ち続ける清水のように滑らかだ。
「価値観は同じ。俺もハツネもこの染野山が大好きなんだ。でもさ、そんな順位をつけるとか……寂しいことはやめないかな。ずるい答えなのかもしれないけど、大切なものは幾つあってもいいと思う。そしてその理由だって、別に一つだけじゃなく色々な理由がついてても悪くないよ」
「あの──! 旦那様。ハツネのこと──大切──なのですか?」
「む?」
 今夜御伽話に迷い込んでしまった時からどうにも空也の心は軽くなっている。恥ずかしいような言葉が次々と口から出てくるのだ。でもそれは全て事実なのだから否定できるはずもない。
 ハツネが感極まったかのような面持ちで、期待に満ちた眼差しを送ってくる。
 小動物達と戯れるハツネ。お山で遊ぶことに至福を感じると明言した時の慈しみに満ちた顔。緊急時にはその柳眉をつり上げて威風凛々と立ち敵と対峙する。染野山を何よりも愛する少女。
 面食いでなければいいと思う。
 でも、ハツネが今と違う顔で現れても同じ感想を抱いたと思う。
 お互いを知るには、きっとあまりに短すぎる時間。でもあと一週間経とうが一ヶ月経とうが、空也が彼女に抱く想いにはさほど大差はなかったであろう。ハツネの心は常に透明だったのだ。彼女は最初から全てを空也に見せていたのだから。
「大切だよ。ハツネは俺にとって大切な人だ」
「~~~!!」
 出会ったばかりでよく言えたものだと空也は奇妙な感心を持つ。でも事実なのだ。そしてハツネは夫の言葉に全面的なる信頼を寄せる。前よりも、その前よりも、どんどん好きになっていく。
 空也は思う。ハツネを騙すのはきっと簡単だ。
 だから自分は彼女に嘘をついてはならない。
 ──そしてそれは、紛れもなくハツネが空也にとって特別な存在であることを意味していた。
 手が強く握られる。肌がより深く密着していく。
 芽生えた恋心は神秘なる泡に包まれる。この世の果てに広がる、狂おしいほどに雄大な緑の自然の摂理を見たらこんな気持ちになるのだろうか。
 空也にとって少女は女神だったのだ。
 滲むように広がっていったその心に全身の身を任せていたその隣で、真冬の朝のように透き通った空気で満ち溢れていたハツネの心が突如火事に包まれる。その甘美なる優しい火はハツネから体の自由を奪った。
「きゃっ」
 足がもつれ、地面に崩れ落ちる。つながれた手はそのままだ。故に、空也もバランスを崩してハツネに被さるようにして倒れこんだ。
 紅葉の絨毯がハツネをそっと抱き受ける。湧き立つ心そのままのように、二人に押しやられた赤い葉が宙へと飛び跳ねる。
 天然織り成すベッドの上で二人は見つめ合っていた。
 見上げるハツネの瞳に映るのは精悍な空也の顔。
 組み伏せるように影に覆われるのは蕩けたかのように上気するハツネの顔。
 左手はハツネの背に回されたままだ。右手は汗が滲むほどに固く結ばれている。
「旦那様……」
 夢見心地にハツネが呟いた。
 愛しげにその言葉を撫でる。空也のうなじに細い腕が回された。ハツネは香水をつけているわけでもないだろうに、相変わらずの微量なる甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。
 空也はハツネの愛らしい唇に目が吸い寄せられていた。
 未熟なる蕾のようだ。
 その無垢なる桃色の果実を存分に味わいたいと、男の本能が呼び覚まされていく。
 夫がどこにもいかないように、その顔に腕を絡めたのはハツネの意思。でもそこまでだ。彼女はそれ以上のことをしようとはしなかった。一方空也の心は足が生えてどこかに行ってしまったかのように四肢が命令を受けつけない。瞳が──少女の唇から離せない。
「ハツネの、初めの唇は──旦那様に──貰って頂きたいです──」
 小さな声で。まるで息も絶え絶えと言わんばかりに、頬を染めながら、努力の末にハツネは紡いだ。
 もぞり、と着物の中に収められている素足が動いた。現実を把握した空也の鼓動が体全身を震わせる。自分の右太腿がハツネの両足の間に差し込まれていたことに気がついたのだ。転んだ偶然とはいえ、いつの間にか自分は少女の領域に侵入を果たしていた。ハツネはそれに気づいてながらも──咎めない。
 恍惚の意を浮かべ、それ以上の侵犯を待ち焦がれる。
 腕の中の少女は、既に我が身を物として夫に捧げていたのだ。
 蜂蜜のように甘い空気が酩酊感を植えつける。静寂溢れる海原の、しかし一番深い場所に彼等はいた。脳を麻痺させるかのように深層水が雪崩れ込む。二人は一つへと溶け合う。
 魂を魅了してやまないその唇を空也が犯しそうになった時──
「ふむ。随分静かな祭りだな。何かあったのか皆?」
 地響きを思わせるような唸り声が情熱なる空間に飛び込んできた。
 だあーーー!! と二人を取り囲み、固唾を飲んで見守っていた動物達がずっこけるように地面に崩れ落ちた。
「土暦!! 母より頂いた自慢なるその鼻はお山の隅々まで届くのではなかったのか!? お前はその鼻に何のにおいを嗅いでここにきた!!!」
 怒鳴った茶部の言葉が、いつの間にか静まっていた空間に響き渡る。
 ──夢から覚めた。
 ハツネも同様らしい。
「ご、ごごご! ごめん!! ハツネ!!」
 数千の眼差しが揃うど真ん中で、自分は一人の少女を組み敷き、あまつさえ──その、唇を奪おうと──
「い、いえ! いえ! そんな、そんなことはありません!! ハツネは……平気です。ハツネは大丈夫です旦那様!」
 バネのように飛び退いた。
 全てが反動となって二人に襲いかかってきていた。ようやく気づく。音も踊りもなくなった世界の全てが、視線で穴を開けるかのように二人を一部始終見守っていたことに。先程までの勇ましき二人は何処へ。お互い顔を見れず背を向け合ってへたり込む。ハツネは着衣の乱れを直していた。
「土暦様!!」
「何やってんすか旦那!! 空気読んでくだせえな!!」
 辺り一面から湧き起こるのは動物達の大ブーイングだ。見れば、ヒグマの長である土暦には言葉だけでは飽き足らず、石が、枝が投げ込まれる。おおよその事情を察したヒグマは、言葉を失って非礼の唸りを無念そうに喉から発していた。
 知らずして祭り一番の見世物になっていた、そのクライマックスというべきところで入った茶々。人も動物も色恋に関しての野次は変わらず。更には人である空也と狐であるハツネの未熟な恋。その初々しさに身を捩じらせていた動物達からは怒りの声さえも上がっていた。
 宴もたけなわ。
 小突かれながらも土暦は堂々たる足取りで空也の元へと向かってきた。空気を壊した僅かな気まずさは感じられるものの、その雰囲気からは決して野暮用などでない、このヒグマの体躯に相応しいほどの重い何かを感じ取る。
「邪魔をしたことは詫びよう。……橋渡しの人間よ、少し話がしたい。ここでは何だ、向こうまできてくれんか」
「……はい」
 身が竦む僅かなる威圧。それは意図的に空也に向けられた。ハツネや茶部と行動を共にすることで熊への本能的な恐怖はなくなっていたが、それでも世界最大級の暴君と名高いヒグマから不穏なる眼差しを受ければ如何なる屈強な人間といえども息をすることさえ忘れてしまうだろう。
 土暦の宿す風格から何かを感じ取ったのか、野次を飛ばしていた動物達の半数が口を閉ざした。燠火となった火種を煽るのは若い子供達だけだ。
「すまんな皆。大したことではないのだ、気にせず続けてくれ」
 申し訳なさそうに出た土暦の言葉のためにも再び動物達は固まって踊りと歌に専念し始めた。空也が──ハツネが、茶部が、更には厳蔵がそれを追いかけていく。山に有る全ての陽気を一箇所に集めたかのような心躍る音色が背中に流れて行く。土暦の体毛が闇に溶けていった──

 油の切れた機械を作動するかのようにコオロギ達が濁音を歌う。時折風に乗って祭りの声が流れてくるが、それを除けば完全に染野山は眠っていた。空に被さるは枝にびっしり敷き詰められた秋色の葉。土暦は足を止めて振り返ると、喉を低く鳴らしながら空也に告げる。
「フクロウ達から報告を受けた。人間よ。お前は……此度襲撃してきた連中の一人と、言葉を交わす仲だそうだな」
「ルチ──小野寺聡のことですね。……そうです」
「どういうことだ、茶部!」
 怒りだった。
 辺りに小鳥達が羽を休めていたら、間違いなく全ての羽が空に舞っていたことだろう。牙を剥き出しに、土暦は大気を轟と震わせた。その矛先を老狸へと変える。
「お山を荒らす下衆なる人間共は昔から存在した。それは分かる。納得できるはずもないが、傲慢な人間の態度について今更論じるつもりはない。だが……!」
 巨神が震える。
「なぜ、そんな連中と知己の仲である人間を、橋渡し相手に選んだのだ!! そこにいる人間の知り合いは我等が怨敵である密猟者! お前のことだ茶部。知っていたな!!?」
「勿論じゃ」
 飄々と茶部は口にする。空也、厳蔵、ハツネさえもが怒気が渦巻く空気の中で四肢の動きを奪われている。口を開くのも一苦労だろう。だが茶部は事も無げに語った。
「ヤクザ。人間の中でも後ろ指を指される部類だ。婿殿の親友は、ここら一帯の街中を我が物顔で跋扈する芙蓉組傘下の一つ、小野寺組の一人息子。実質跡取りじゃな。だがそれがどうした。確かに真っ当な職業ではないが……友人がお天等様の影に隠れて仕事をする人間だからとて、それで婿殿の品格が変わるわけでもあるまい。そんなつまらないことで鬼の首をとったかのように振る舞いたがるのはおそらく人間だけだぞ」
「怨敵とつながっているのだぞ!? 茶部、貴様そんな男にハツネを孕ませようとしているのか! 生まれてくる子供が鬼子になる可能性がありながら、あえてそれを見過ごしているのか!!」
「土暦様!」
 聞く者の身を裂くような、ハツネの鋭い声に混ざるのは哀願と抑制だ。
「小さいぞ土暦。お山に挑戦するかのような巨漢を誇りながら、なぜ心にもそれだけの山を築けぬか。我等が婿殿の心は秋空に負けぬくらい澄み広がっておるぞ? 子は親を選べぬ。小野寺聡はその家に生まれたというだけで、昔から周りに友達がいなかったそうだ。教師とて彼の背後にいる親のことを考えると恐怖心から注意できん。学校の親御達は、小野寺に近づくなの一点張り。土暦、この広大なるお山に一人ぼっちになった自分を想像してみろ」
 何年も前の記憶を洗うかのような茶部の言葉に空也は驚きを隠せなかった。
 彼が話していることは真実だったのだ。小学校に入学し初めてルチアーノと出会った。同じクラス。だが教室で常に一人で過ごすヤクザの息子に話しかける人間は皆無だった。イジメではない。誰もが彼を認知していた。その上で腫れ物のように扱っていたことを思い出す。
「婿殿は人として大きい。下らない人間社会の楔など打ち切って、小野寺聡と話し、気が合ったからこそ現在に至る。土暦よ。どこに恥ずかしい部分がある? 大多数の人間意見に流されようとしながらも、しっかりと根を地面に張っている婿殿の何がおかしいか」
「くっく……」
 忍び笑いは厳蔵だ。何年も前に、「きょうしつでいつも一人ぼっちのやくざのむすこ」について相談を受けたのを思い出したのだ。厳蔵なりにアドバイスはしたが、行動に移したのは空也である。
「……そうか。……その心意気はよし。なるほど……橋渡しの人間よ、お前を侮辱したことは今この場で謝罪しよう。……だが茶部。お前はお山の長として最も大切なことを忘れている。縁談に目を向けすぎて至極単純なことに目を向けておらん!」
「ほう?」
「我等の仲間があやうく命を落とすところだったのだぞ!! 木流の一家が全員無事だったからこそ笑っていられるのだ! 母の定めならともかく、欲塗れの人間達によってなぜ我等が命を落とさねばならない!? そんなもの、私は運命とは認めんぞ。茶部。我等は生きている。生きているのだぞ! その命をなぜ、誰かの悦楽のためなどに失わねばならない!!?」
 その時はまた逃げればいい。
 ──それはただの結論。
 正しいが中身が抜け落ちていると言われても否定はできない。
「人間。お前はあの者を止められるのか? よしんば止められたとしても、連中の群れのボスに話をつけることはできるか? ……無理だろう。このままいけば、近い未来に我等の誰かは命を落とす。その時、親を失った子に、私は何と言ってやればいい!? そしてその子は、お前と小野寺が談笑している姿を見て果たして何と思うか!?」
 その言葉には誰もが沈黙を落とした。土暦達は決して人間を攻撃してはならない。だが相手は何度でも狩りに挑戦でき、常に安全が保障されている。馬鹿馬鹿しいほどに偏った戦いだった。
「お前に問おう、人間。……我等が染野山の民と、友人を含め街中で暮らす人間。お前はどちらの側につく?」
「──!」
 息を飲んだ。
 頭の中を探しても答えはない。自分が何も考えていなかったことに気づき、恥じた。
 人間と動物。どちらの味方をするのか?
 適当な回答は許されず──だからこそ空也の口からは吐息しか出てこない。
「そうだ。お前は人間なのだ。人間の法こそが指針となる。故に、我等の誰かが死ぬことより、人間の誰かが死ぬことの方がお前にとっては重い。無論その真逆に私は立っているわけだ」
 土暦に空也を問責する様子はない。ただありのままの事実を話していた。
 再び熊の闇色の双眸が空也から茶部に移る。
「茶部。やはり無駄だったのだ。……勘違いするな。橋渡しの人間に異を唱えているのではない。私も賢獣会議の決定に流されてしまった部分がある故責任がある。しかし今回の件で私は目が覚めた。もしこれで……あの熊の親子の誰かが殺されていたら、私は自分を一生許せなくなるところだった」
「馬鹿者! 子を宿すことはおろか、まだ始まって一日しか経っておらんぞ!」
「だからこそだ! 人と交わっていない今だからこそ引き返せるのだ! 奴等を見ただろう? 茶部! 我等のことを金としか見ていないのだ。人間とは所詮、この世で最も自惚れた種族! そんな種族と同化して生きていくなどやはり母に対する侮辱でしかない。……言い訳を作るつもりはないが、元々この案件に否定的だった我等熊達の間では、再び不信の炎が膨れ上がっている。戦って死ぬ。そのためにこの牙と爪はあるのだ!」
「混ぜっ返すでない。命を取るか、誇りを取るか。またその議論を延々と繰り返すのか……!?」
「お前は熊に対し、戦わず死ねと言っているのだぞ。お山で唯一ともいえる武器を持つ我等に、その爪を振り下ろすなと言っているのだぞ! 我等の矜持を、魂を、軽んじるな!!」
 多少なりとも頭に血が上っているのは確かだ。それでも土暦の言葉には、現代の人間社会では失われて久しい誇り高き生への叫びが切に込められていた。
 空也の横では、己の命を投げ打って他国の戦艦へと飛行機で特攻し散っていった人間を目の当たりにしたことのある厳蔵が、何とも言えぬ表情で歯を噛み締めていた。
「待って下さい!!」
 そんな厳蔵が堪らず言葉を放つよりも早く、熾烈なる意思同士をぶつけ合っている土暦と茶部の間に空也が割り込む。
「明日、明日小野寺聡と話をしてみます! 俺みたいな子供が何を言ったところでヤクザ組織の決定が動くわけないのかもしれない。でも、俺もやれるだけのことはやりたい! 土暦さん。確かに俺は人間です。でも人間の中にだって、山を大切に思っている人はいます! どうかもう少しだけ時間を下さい!」
 ここが名も知れぬ山で、自分が動物達と何の関わりもない人間だったら。
 確実に目の前の熊に頭を砕かれていただろう。
 土暦の全身から湧き立つマグマのような灼熱たる闘気は触れずして伝わってくる。まるで巨大な隕石だ。ヒグマの長の血は人間のそれと比較すればあまりに濃密だったのだ。
「奴等の狙いは熊だ! そんな悠長なことをしている間に仲間が撃たれたらどうする!?」
「貴方はきっと、俺なんかより何倍もこの山のことを知っているはずです。熊達全員を人の足では踏み入れられない場所に少しの間だけ匿えばいい。……土暦さん。お願いです。人間である俺には、武人である貴方達の気持ちが分かるなんて言葉は口が裂けても言えない。でも攻撃なんて手段、最後の最後でもできるはずです。だからもう少しだけ待って下さい」
「……そうだな。すまんが土暦殿。相手が人間である以上、ワシ等人間に責任を負わせてほしい。ワシも空也に同行する。この老いぼれの顔を立てて、ここは一つ引いてはもらえんかね」
 ただ力任せに特攻するだけならば熊の長など誰にでも務まる。土暦は賢い。単にそれ以上に血の気が多いのだ。荒れ狂うの熱波の中で頭を冷やすのはかなりの意志力が必要とされる。
「土暦様、どうか私からもお願いします。私達が渡ろうとしているのは、大雨で水嵩の増した川。そこに橋を掛けることが決して容易なことでないのは承知。でも、身を削られるほどの流れに耐え抜き、翻弄されずに一歩を踏み出すからこそ岸に辿り着けるのです。一つ橋を掛けてしまえば、土暦様の子供だって今後は岸を行き来できるようになることでしょう」
 ハツネの援護。
 土暦が人間との共存に反対であったことは熊として当然なる思想だ。だが彼とて闇雲に死を望むわけではない。ハツネの言った通り、彼自身にも、そして仲間内にも、沢山の子供がこの染野山の腕に抱きかかえられているのだ。誰も傷つかずに済むのなら、当然それに越したことはないのだ。
「……理想論だ」
 噴火する前の火山口のようだ。土暦は爆発を腹に溜め、溶岩を飲み込み必死に抑える。静かに答えるのは茶部の言葉。──その言葉は空也の脳裏にも深く刻まれる。
「だが理想を掲げて行動せねば、理想を掴むことはできん」
「……」
 沈黙は爆発の引き金だった。
 突如土暦は頭上を見据え、体内で燻る熱を全て搾り出して発散するかのような一喝を無人の山に木霊させたのだ。その振動は大気を伝って空也達の体に吸い込まれていく。見えない津波のようだ。体が痺れた。一瞬全ての意志を流され、残った裸の心に恐怖が入り込んだ。気合でそれを振り払う。土暦は鬱憤をぶちまけ多少は楽になったのか、憑き物が落ちた顔──とまではいかないが、それでも憤怒を抑えることには成功したらしい。意思の光を感じさせる声が落ちた。
「……やってみるがいい。だが言っておくぞ。あのような連中に正道を説いたところで愚の骨頂。私は愚昧が美徳であるとは思わん。だがお前達に免じてもう少しだけ様子を見よう。……おそらく無駄だ。あれだけ意気揚々たる面持ちで狩りを行おうとしていた連中だ。目の前にぶら下げられた人参。自ら目を逸らすことなどできはしまい。だが忘れるな。二度目はないぞ!」
 土暦は四本の足で木々の間へと消え行こうとする。月光の届かない場所へ。踏みしめられた落ち葉が乾いた物音を立てた。土暦が歩を進める度に、どこか物悲しい旋律がその足元から擦れる。
 空也はその姿が見えなくなるまで、声一つなく巨大なる背中を見送っていた。この山に生息するありとあらゆる生命を背負っているようにも感じる。やはり彼は山の長の一頭なのだ。
 陽気な笑い声はヒグマが向かった先とは真逆から。
 まだ宴は続いているらしい。
 自分がいつか大人になり、山の恒久的なる平和が守られ──
 土暦と肩を並べて酒を飲み交わす。
 ルチアーノもいればいい。あいつの架空武勇伝は、真の武勇伝を幾つも持っているであろう土暦に聞かせるにはうってつけの話題に違いない。
 ヤクザと、動物と、自分と。
 勿論、ハツネも茶部も厳蔵も同席だ。
 果たしてそんな光景は幻なのだろうか。
 違う。
 それを現実に置き換えることこそが自分の役目なのだ。橋渡し、と土暦は自分を呼んだ。文字通り、染野山と人間社会の間に立つ者を指しているのだろう。
 幸運だ。自分がその役を司ったことは。何と名誉ある立場だろう。
 しっかりしなくてはならない。
 ハツネがそっと空也の腕に触れた。澄んだ眼差しで見上げてくる。空也の眼差しは、心に着火したゆらめきの火影だ。彼女は何を言わずともその心を察したのだろう。
 ──そうだ。
 愛の契りを交わし子をもうける。
 それは最後の結論だ。人間の空也。狐のハツネ。双方の力を合わせてこの苦難を乗り切るのだ。きっと幾つもの試練を乗り越えた暁には、子供の一人や二人、自然とハツネに宿っているに違いない。
 予期せぬ場所から降ってきた未来予想図。その進路は決して楽な道ではない。
 袖を掴んでいたハツネの手をそっと解き、すぐにそこに自分の手を重ねた。ハツネの蕩けるようないじらしい顔が幸せを語る。
 彼女のためにも、染野山の平和をこれ以上乱してはならない。
 そう思えた空也は、もはや子供を持つことにさえ何の抵抗もなくなったのを感じていた。

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Neetsha