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 座り心地は抜群に、しかし居心地の悪いソファだった。腰が深々と沈み込む紫紺色のクッション。厳蔵を中央に、空也とハツネは家の主を待つ。客間には赤茶色のカーペットが隙間なく敷き詰められており、眼前には脚に意匠を凝らした玻璃の玲瓏たるテーブルが。壁にはとても来客を歓迎しているとは思えないほどに悪鬼たる形相でこちらを睨む高価そうな虎の色紙が並んでいる。部屋の隅には主を失った茜色の日本甲冑が抜け殻のように佇んでおり、こちらもその存在自体から音のない迫力が滲み出ていた。色調といい古物といい、いずれも家主の性格がよく表れている。
 震えているのならハツネの手を握ってやりたい──と思ったが、中央に座する厳蔵に憚られそれは叶わない。雑談に興じられる部屋ではない。息苦しく、唾を何度も嚥下する。
 部屋には三人だけだ。しかし、待たされてきっかり十分。空也達が潜った扉がようやく開かれる。一番に顔を覗かせたのは──岩鷲だ。今日は嫌味なくらいに艶の出ている白い上下のスーツ。厳つい四角顔が一瞬にして三人を睨みつけた。挨拶一つない。山男のような髭を撫で、相手を吟味しながら時間をかけてゆっくりと空也達の対面側へ向かう。値踏みするかのようなその態度は明らかに空也達に不信感を植えつけた。無論承知の上での行動なのだろう。
 続いて姿を見せたのはルチアーノ。そして……護衛だろうか、岩鷲に負けず劣らずといった体躯の男達が二人入室する。──いずれも表情は険しい。
 ソファにどっかりと座る岩鷲。その隣に腰をかけるルチアーノ。二人の背後には、顎を上げ毅然と立ついずれも三十代前半ほどの舎弟達。
 空也に大人の常識は分からない。このような場合、どこで挨拶を切り出すのか、そもそも立ち上がって一礼でもするべきなのか──しかし一つ分かっているのは、相手はこちらを歓迎していないということだ。十分待って茶一つ出てこないのはそれ自体が岩鷲のメッセージなのだろう。
「──フン。本当に綺麗なお嬢さんだ。だがそんなに怯えなくてもいい。昨日会った時はよく耐えたな。見かけによらず気丈なモンだ。ウチの若い奴等にも見習わせてやりたいぜ」
 岩鷲はタバコを吸わない。早速話が切り出された。
 ハツネは何も答えない。
 岩鷲の立場に要求されるのは瞬時に相手を見抜く慧眼だ。誰に逆らってはならないか、また誰から金を搾り上げるか。弱みを常に探し、隙あらばそこに噛みつき相手が死ぬまで二度と離さない。
 ハツネという少女の内面を岩鷲は既に見抜いており──そして賞賛した。
「見習わせるのは結構。ですがその前に、おたくの若い連中には覚えてもらいたいことが多すぎますな。まず第一に、軽装での素人による夜登山は絶対にやめて頂きたい。道など簡単に見失う。日中、老人がハイキングがてらに散歩しているコースでさえ、夜はその顔を真逆に変えるのです。人が歩けるのは人が作った世界のみ。大自然の前では人間の命などマッチ一本の火よりも儚く消え去る」
 岩鷲は厳蔵の言葉に最初眉を潜めていたが──
 豪快な笑いを部屋中に奏でた。そこに演技めいたものは一切見えない。
「わっはっはっはっはっは!! こいつは驚いた! 俺達ヤクザは一般市民の皆様から例外なく疎まれ、避けられ、後ろ指を指される存在だ! 俺達がいない方がこの街は平和。いなくなれば誰もが喜ぶ。なのに……土山の爺様よ、あんたは俺達悪党の心配をしてくれるってのか!? 染野市で知らぬ者はいない正義のヒーロー、土山厳蔵が! はっはっはっは、こいつは傑作傑作!!」
 遮二無二叫びだしてしまいそうなほどに淀んだ空気を一人の豪傑が吹き飛ばす。ルチアーノと二人の部下は表情を一ミリたりとも変えず──小野寺組の若頭はただ一人抱腹する。
「貴方達とて家族を持つ方は多いでしょう。もし亡くなれば悲しむ者はきっといる。今この場で坊主のような説法を説くつもりはありませぬ。それに正直ね。……寝覚めが悪いんですよ。我が家の近くで命を落とされては」
「なぁにご心配めされるな。俺達の中にはメタボリックのヤツも多くてな。それに最近は、出歩かず電話一本だけで働いているヤツも多い。慢性的なる運動不足がこの家には充満している。そんな俺達が山登りを試みたって、十分で根をあげて帰ってくるよ。死にはしない」
「そうですか。それにしたって登山靴もはかず、弁当や雨具の入ったリュックも背負わず、カメラをぶら下げるわけでもなく──手に持つのが物騒な猟銃一本とは。変わったピクニックだ」
 慣れ親しんだ祖父の姿は既にそこにはない。
 厳蔵はその手に銃を持つことはなかった。眼窩で獲物への照準を定め、その口からは毒弾を発射する。染野市農林業共同組合会長として若手を率いて卸業者に商談に向かう姿も何度か目にしたことがあるが、その背中とも異なる。厳蔵の体内に滾っている熱を隣で感じる。翁は間違いなく怒りを燻らせていた。そして当然の如く岩鷲はそんな厳蔵の心など見抜いている。
「何しろ素人なモンでね。おまけに図体ばかりはデカイが肝は小さかったと見える。野犬の類を恐れて武器を持って行ったら──そうそう、何でも凶暴な大熊が現れたそうじゃあないですか。あの手のは普段は山奥に生息しているんでしょう? 市民の皆様に何かあってからでは遅い。そうだそうだ。俺達が代わりに対処してやりますよ。……街の連中からは自警団──集まらなかったんでしょ? わっはっはっはっは! まったく農作物を汗水垂らしながら朝晩育てているくせにどうにも根性がねえなぁ! しようのない連中だ!」
「──」
 厳蔵は口内で歯を噛み締める。
 岩鷲の言葉には嘲笑と侮蔑がふんだんに塗りたくられていた。厳蔵の表情を肴に口が風車のように回る。この男は夜空に浮かぶ月を愛でる情緒はないのだろう、徳利を傾け心に風を浸すのは、蜘蛛の巣で弱者がもがくマリオネットのようなダンスの観賞時だ。
「いやいや! 俺達も自分が悪者であることは承知していますよ。だからね、ここで一つ汚名返上といきたいわけです。凶暴な熊は荒事に長けている俺達にお任せ下さいよ爺様。そしてこれを機に、染野市の皆様方と深く深く、末永くお付き合いしていきたい。街の平和は是非、小野寺にお任せ下さい。なに、勿論金なんて要りません! これは善意での申し出ですからね!」
「ただの密猟じゃないですか!! 昨夜だって、貴方達が仕掛けてきたから熊達だって攻撃せざるを得なかったんです!!」
 小馬鹿にされ続け、遂に空也が横から言葉を割り込ませる。厳蔵のように回りくどいことはしない──できなかった。直球の言葉。
「おいおい土山の坊主よ。見回りと、純粋に登山を楽しもうとした俺達に対し、それは失礼じゃねえか? 昨夜遅くにうちに警官が尋ねてきたよ。きちんと説明して誠心誠意を伝えておいた。お前と違って、俺達の怪我の心配をしてくれてな。やっぱり正義の味方は優しいもんだぜ」
「──上から、お金の件で辛辣な言葉を浴びせられたともっぱらの噂です。貴方にはお金が必要なんじゃないですか?」
 空気に亀裂が入る。
 それまで無言で三人に睥睨を送っていた部下達のこめかみに青筋が浮かび上がった。裂帛なる憤怒の情が言葉以外の全てを使い空也に向かって放たれる。
「まあ待てやお前等。──坊主、お前は昔から俺へ対する口の利き方は優等生のように立派だったじゃねえか。今のは下手くそだったぞ。何だ、珍しく怒ってるのか? はっはっは、お前も聡と同じで十五。餓鬼なりに大切なモンができたってわけか」
 振り向きもせず岩鷲は空気の変化を読み取り、諭す。軽侮と紙一重の言葉を浴びながらも岩鷲は顎髭を擦り笑みを浮かべる。──情のこもっていない笑みを。
「大人の事情は子供には関係ねえ。ご心配には及ばねえよ、坊主」
「染野山の動物達は、お金に換算すると幾らほどになるんですか?」
「さあなぁ? あぁ、だがよ。俺達はこんな商売だからな。見た目ってヤツは意外と重要でな。だから、でっけえ虎や熊の剥製を持ちたがる人間は結構多いんだぜ? 客間に置いておくだけで相手が持つ心象が大分違う。……おいおい睨むなよ。たとえばの話だよ、たとえばの」
 肩を上下させ、くっくと笑う。だが岩鷲が落とした頭を再び上げた時、その眼の奥に巧みに隠された光が色を持った。
「よく分からんがつまりお前達は、自警団をかねた俺達の登山をやめさせたいと。……ひでえ話もあったもんだ。俺達もせっかくお天道様の下で真っ当なことができると思ったのによ。我が家に乗り込んできてまでやめさせてえ。そういうことか?」
「そうじゃ。安心せい、お前が何もしなければ彼等は人に危害を加えたりせんよ。見回りをする必要はない。そして登山なら真昼間に堂々と行ってくれ」
「ならそっちのお嬢さんを貰おうか」
「──なっ!!」
 あっけらかんと言い放った岩鷲に素っ頓狂な声を上げたのは空也だ。一瞬にして脳内を掻き混ぜられた。当のハツネは一言も発さず、先から人形のように身じろぎせずに腰掛けていた。
「俺は何も雑談するためにお前達をここに通したわけじゃねえ。坊主、俺達にもな、世間様のようにイメージってモンがあるんだよ。どっかの爺様と餓鬼相手に小野寺岩鷲が善意で持ちかけた話を取り付く島もなしに断られた、なんて知れてみろ? 明日っからは別の意味で背中を指されちまう。お前が先程言ったようにお上からケツ叩かれているんだ。これ以上無様な醜態を晒したら、俺の首が飛ぶ。……マジでな」
 ──皮の下に蠢いていた毒が。ほとんど隠すこともしなかった本性が遂に剥き出しになる。
「俺達の家紋に泥を塗るんだ。女一人なんて安すぎるくらいだぜ? ──それが嫌ならなぁ」
 壮絶。
 口内に覆われた牙が哂う。瞳孔開いた瞳はまさに鬼。めいっぱい開かれた目と口は鳥肌が立つほどに不気味な相貌を形作っていた。巨岩が掠れた声で呪詛を飛ばす。
「俺達のやることに口を出すんじゃねえ。……いいか、二度は言わねえぞ。これ以上俺の視界でお遊戯みてえな言葉抜かしたら、その女を攫う」
 息もできないほどに狂った風が吹き荒れた。
 それを受けたのは肌ではない。心を縦横無尽に陵辱する。突如込み上げる嘔吐感。
 ──たまらずに。
 ハツネが駆け出し空也の胸へと飛び込んだ。
 流れる黒髪が顔を覆う。吹雪く夜に薄着で出歩いたかのようにその肌は凍え、震えていた。
 怖くないはずがない。
 商店街の時とは違う。
 金を得るために数多もの人間の肌をツルハシで、ドリルで片っ端から掘り進む男なのだ。生暖かい金脈を得たとなれば生かさず殺さずで飼い殺す。ボロ雑巾のようになるまで使い尽くし──最後の血の一滴を舐め終わったら投げ捨て、また新たな金脈を探す。
 それが小野寺岩鷲という男なのだ。
 垣間見せた闇の深淵は深く、寒い。ハツネが耐え切れずに空也の暖を求めたのも頷けるほどに。悪に染まった人間は魔物へと堕ち行く。蛇のような不気味なる瞳を捉えた瞬間、ハツネは果たしてどのような思いを抱いたのか。
 明確なる返答だった。
 小野寺は山を侵す。あらゆる物を奪いつくすその血に染まったツルハシは、次には墓標のように染野山に突き立つことだろう。
 一介の学生である空也がいかに他の同級生達と比べ確固たる意思を確立させていようと、魔物の前から吹き荒れる威風を前には口が開かない。情けないがそれこそが現実だった。
「ハツネさんは空也の嫁。染野山は作物の母。いずれもワシの大切な家族じゃ。はいそうですかとお前にくれてやるわけにはいかんな」
 真っ向から。
 岩鷲の脅しに立ち向かう剛毅。厳蔵の口から間隙を許さない絆を燃料に込めた猟銃が巨大な岩に飛び交った。息を飲んだのはルチアーノと背後の部下達だ。彼等はこれまで何度も、岩鷲がそっと心の闇を見せる度に相手が萎縮し顔を青くする様を見てきたのだ。堅気の老人が何なくその瘴気を打ち消し、真っ直ぐな瞳で小野寺組の若頭をとらえた。
「ほう? ……流石だな土山の爺様。本当にウチの若い衆に見習わせてやりてえぜ。あんたのその目。──小指一本取ろうが、苦痛を飲み込んで言葉一つ出さないんだろうな。見上げた根性だ」
「ワシの指一本で引いてくれるのかな? どうせ指など天国には持っていけん」
「冗談。あんたにそんなことしたら、抑えつけている街の連中が暴れだすかもしれねえ。何より、老人の指が金に化けるわけでもないしな」
 言葉で火花を散らす。
 だが岩鷲はどこか楽しげにその興に応じていた。詰まるところ、甚だ理不尽な取捨選択を前に敗北するのは厳蔵であることが確定しているのだ。盾を翳すだけで勝利できる戦いなどない。厳蔵には守るべきものが多くあり、それは逆を言えば付け入る隙が数多く存在していることでもある。
 両者共にそのことを理解しているのだろう。
 だから──大きな鼻息を一つ吐くと、厳蔵はこれまでその膝に鎮座させていた黒皮のケースをこれ見よがしに持ち上げ真水のように煌く透明な机の上に置いた。
 岩鷲の眉が持ち上がる。背後に控える部下達が一瞬その身を強張らせた。
 テーブルはきちんと清掃が行き届いているのか実によく滑った。向きを百八十度変え、小野寺側に正面を向けると厳蔵はそのまま軽快な音を鳴らし指で鉄製の留め具を外す。
 ケースの蓋を開いた瞬間、岩鷲の顔が強張った。
 空也でさえ生まれて初めて見る表情だった。蓋が開かれると同時に、獰猛な肉食獣と奸知な猛禽類の両方が備わったかのような瞳が完全に消失したのだ。残されたのは完全無防備なる驚愕の眼。しかし岩鷲も然る者。自らの纏う邪気の衣をすぐさま覆い直す。瞳がすぐにいつもの剣呑と怜悧を取り戻した。
「──こいつは驚いた。あぁ、本当にこいつは驚いたよ……」
 岩鷲の眼前に置かれたケースの中にぎっしり詰まっていたのは万札の束だ。金か偽札か、すぐにその瞳が識別を始める。同時に空也達三人にかつてないほど冷徹な眼差しが送られた。挙動、表情、瞳の動きから唇の動き、喉元、肩、膝や手足、満遍なく蛇の舌が這う。舐め尽くす。嘘の味がどこかから漏れないか丹念に穿り返す。震えながら背を向けているハツネを除き、土山の二人に目立った色は見えない。空也は先程の一喝から変わらず緊張を隠そうとし、厳蔵は表情こそは怒気をあらわにしているがその心は見事に霧に包まれている。何の狙いも読めない。案外その表情もフェイクなのかもしれない。
「ブラザー……これは、マジかよ……?」
 ルチアーノが乾いた舌を動かし言葉をゆっくり搾り出した。小野寺の総意である。
「……どうやら既に鑑定は終えているようだが……まぁ、嘘と思うなら後で好きなだけ調べるがいいだろう」
「土山の爺様よ。こいつは全部でいくらある?」
「二千万じゃ」
「──ほう」
 岩鷲は取り立てて驚かない。これより山積みの万札を見る機会も決してないわけではないのだ。
 だが問題はそこではない。
 厳蔵は彼等の流儀をよく分かっていた。
「これが今のワシにできる最大限の誠意じゃ。あんた達の世界で金と同じくらい重いのが義という通貨。金額の問題ではない。土山厳蔵の願いをここに示す」
「誠意ね──。ちょいと失望だぜ爺様。正義のヒーローのあんたが、金持ってきて頭下げるとはね。確かに理にかなっている。だがそれは俺達の世界の理だ。あんたの人道からはかけ離れているんじゃあねえのかい?」
 無論、資金難で苦しむ岩鷲からすれば目の前の大金は喉から手が出るほど欲しい物だ。しかしそれ以上に腑に落ちない。目の前の老翁が易々と大金を積んだことに違和感と警告を感じる。
「家族の命など、金で賄えるのなら安いものだ」
「一つ聞く。野暮だが答えてもらおう。──これは、どこから出た金だ?」
「──」
 釣り糸にぶら下げられた餌を咥えたくて仕方ないのは岩鷲の方である。だからこそ、谷底から吹き上げる亡者の唸りを連想させるような若頭の声を悠々と厳蔵は聞き流すことさえできる。
 面倒臭そうに答えた。
「こちらのハツネさんが我が家にくる時に一緒に持ってきたお金じゃよ。しかし、おかしなことを聞くのう? 貴方からすれば、綺麗な金も、誰にでも見破れない巧妙なる偽札も同じ価値があろうに」
「お嬢さんが持っていた金を、俺達に丸々差し出すと。──らしくねえなあ爺様」
 空也はハツネの肩をきつく抱き締めた。
 対面ではルチアーノの顔が血の気を失い、その吐息が見る見るうちに激しくなっていく。
 岩鷲が殺意の全てを解き放った。
 空気に筋が入りそのたゆたう流れが止まる。窓硝子にヒビが入ったかのように大気が割れた。空也の身体は一本の物言わぬ木へと変わる。動かない。意志の力は全て目の前の魔物に吹き飛ばされた。骨を溶かされ、脳はみじん切りにされる。
「人生の先輩にこんなこと言うのはアレだけどなあ、土山の爺様──」
 殺される。
 全身の毛が逆立った。流れを失った空気が淀み、腐り始めた。ヘドロのように不快なにおいが体中の穴に侵入し、汚水のような色に体内を染め上げていく。空気が重力を持った。頭が重い。見えない圧力が体を押し潰し臓器をバラバラにしていく。
「俺達をナメる、ってのがどんなことか──分かっているよなあ?」
「信じられんのなら──」
 それでも厳蔵は態度を崩さない。裂けた様な口元と、麻薬中毒者のように焦点の定まらない不気味な瞳を向けられても尚、老人は淡々と喋るだけだ。
「その二千万を持って用心棒でも雇おうかの?」
 欠けない。
 岩鷲からどれだけナイフを突き立てられようと、厳蔵の体から零れ落ちるものはなかった。
 空也やルチアーノはおろか、護衛の二人さえも場の空気にのまれたかのように固唾を飲んで二人のやりとりを見守っている。
 睨めっこ。
 瞳を逸らした方が負けか、今ある顔を微塵にも曇らせた方が負けか──
 数秒か、数十秒か。感覚のなくなった張り詰めた時が経過する。
「……フッ! くっくっく……はっはっはっは! 本当大した豪傑だ!! はっはっはっはっはっは!!」
 一転して曇りなき高笑い。愉悦を孕んだ瞳と満足気に歪んだ唇を前に、濁った空気が霧散していく。厳蔵の首元にあてがわれていたギロチンの刃は消え、代わりに送られたのは花束だ。
「あんたの言う通りだ。本物だろうが偽物だろうが関係ない。ただ軽く見られるのだけは我慢ならなくてな。死よりも誇りを優先するのが俺達の稼業だ。そこまで言ってもらえるのならこの金にも重みが宿ったってモンだ。上等上等。ありがたく受け取らせてもらおう」
「なら、これ以上ワシ等と山に手出しはしないと約束してもらいましょうか」
「分かった分かった。いいだろう。あんたと俺との間での契約は成立だ。善意での元だったんだが自警団による染野山の見回りはやめよう。……契約書類と印鑑は必要か?」
「──いや、必要ありませんな。貴方とて重い看板を背負っている身。それがある限り約束を違えるなどできんことでしょうからな。長として部下には武人たる背を見せねばならない」
「嬉しいねえ、俺達のことをよく分かっていらっしゃる。流石は土山の爺様だ」
 茶部が掻き集めてきてくれたという二千万円。言い換えれば動物達から提供された資金。つまりそれはハツネのものであるとも言える。空也は最初仰天した。落ち葉と枯れ木しか存在しないはずの山のどこにあのような埋蔵金が埋まっていたのかと。厳蔵は最初渋い顔でその札束を眺め何やら考え込んでいたが──最終的には含み顔で頷いたのだ。実は空也にも金の出所が分かっていない。それでもどうやら偽札でないらしいことは岩鷲の鷹の様な瞳が既に鑑定済みだ。無論これから精密機器で穴が開くほどに調べられるのだろう。……それにしてもなぜ金をまいて岩鷲に尻尾を振らねばならないのか……。既に空也と厳蔵の論議は今朝方に終わっている。安全は何物にも代えがたいという結論だ。空也自身、そこにハツネの名前を出されては唸るより他なかった。
 厳蔵が立ち上がる。退出の意だった。
 空也はハツネを優しく抱き留めながら一緒にソファから腰を浮かせた。無色たる暴力の波はハツネの心を削り取った。空也は温もりに満ちた手でそっと欠片を拾い修復にあたる。それでも、支えられながらでもハツネは立ち、前を──岩鷲へと向き直った。
 誰もが分かるほどに震えながら、その小さな口で巨漢へと言い放つ。
 山の民としての言葉を。
「……動物達は……熊さん達は皆とても怒っています。どうか、もう二度とあのようなことはなさらないで下さい……。今度はきっと……もう止められません。熊さん達は、容赦なくここにいる全ての人達の命を奪うことでしょう。そして自らも死ぬ。……荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、皆様のためにも、どうかご自愛下さい」
「はっはっはっはっは!! そうかそうか、熊さんが怒ってるか! そりゃ悪いなお嬢さん! 蜂蜜でもあげて機嫌を取っておいてくれ!!」 
 哄笑が部屋に木霊した。岩鷲はおろか背後の二人さえも思わず失笑する。認めた相手に敬意を示す対等の位置からの笑みではない。それはハツネに対するただの嘲りだった。
 気丈に立ち上がり、真面目な顔をして何を言うかと思えば熊さん達のお怒りについて。
 幼稚園児が声高に歌う合唱のように可愛らしい内容。森の中で歩く少女が熊と出会い共に歌い合う、そんな歌詞が聞こえてきそうなほどに夢見がちな言葉だったのだ。
 ハツネはそれ以上何も言わなかった。空也とて同じだ。自分は今でこそ特殊な立ち位置にいるものの、動物の言葉が聞こえるなどとルチアーノがある日言い出したら、やはりCIAなりNASAなりに解析してもらえと言葉を飛ばしていたかもしれないのだ。
 何にせよどうやら全員無事にこの部屋から出られるらしい。
 緊張が解かれ、全身を疲労と倦怠感が襲う。
 最後まで茶はでなかった。
 媚びるのは性に合わないが、それでも岩鷲が上機嫌のまま丸くおさまったことはよしとするべきだろう。こんな場所に長居は無用だ。背後で聞こえてくる笑い声を無視しドアを潜る。同じ笑いながら、昨夜の宴のそれと何と質が異なることか。
 そして三人は気づかなかった。笑い声は隠れ蓑であったことに。
 鋭利なる刃物をこれ見よがしに晒す者はいない。いつだって懐の奥に隠されているものなのだ。
 空也は振り返らない。一刻も早くあの泣き出してしまいそうなほど色鮮やかな紅葉の間にその身を浸かりたい気分だった。小野寺の家はあまりに空気が汚れすぎていたのだ。

「それじゃあな。……まあ、俺が言うのも何だが安心しろよブラザー。親父はきちんと約束を守る男だ」
 小走りに追いかけてきた見送り役のルチアーノが正門にて別れの言葉を投げかける。その顔には外の空気を吸えてどこか安堵しているような表情が見え隠れしていた。
 空也はハツネの手をつなぎながら親友へと向き直る。たった三十分の間で自分の気持ちが随分寂れてしまっていることに気づく。口を開いたら飽くなき恨み言が延々と飛び出そうな気がしたのだ。
 吹き荒れた暴風は大地に瓦礫を運んできた。空也は探す。その中に埋もれてしまった二つの新芽を。それが見つかった時は安らぎと共に──戦慄を抱いた。
「あれが、お前の目指す道なのか?」
 だからその一言は単なる皮肉ではない。
 怖かった。
 何よりこれから親友があの男のように金を追いかけ始め、そのために必要な脅しや凄み、相手を尻込みさせる相貌の作り方から一挙に小物を握り潰す残忍さ、その全てを学び、身につけていくのかと想像すると居た堪れなかったのだ。
 ルチアーノは──空也がしばらく待っても言葉を発さなかった。
 二人はまだ子供だったのだ。先程正門前で言い合った時の気概が、ヤクザという、大人も素足で逃げ出す者達の長が振り翳したいかずちを前に完全に消し飛んでいた。現実だった。
「だから──分かったろ──?」
 親友の口調にも熱が欠けていた。投げやりでもない。
「従うしか、ないんだよ……」
 泣き腫らした後のような、心の仮面をかなぐり捨てた素顔。
 至極単純なる本音が落ちる。そしてそれを拾い、彼方へ蹴飛ばす力は空也にはない。
 誰があの暴君を静められるというのか。ただの高校生である空也やルチアーノにはどうにもできないほどの存在感。座っているだけで全身の汗が絶えず吹き出された。
 今度は何も言えなかった。
 ──臆病風は正当なる逃げ道を作る。
 その時、つながれたハツネの左手がキュッと空也の手を握り返してきた。まるで何らかのメッセージを伝えるように。
 金槌で頭を叩かれたかのように目が覚める。
 ルチアーノは全てを諦めようとしているのだ。そのあまりに巨大な壁を前に。もしその中で……空也までもが膝をついてしまったら──
「ルチアーノ!!」
 その大声を前に呼ばれた方は肩が跳ね上がる。
 なるほど、確かに空也自身は小さい。何も持たない男だ。
 それでも──
 昨夜のお祭りを思い出す。あれだけの仲間があの山にはいるのだ。
「何かあったら頼れ! 馬鹿な真似をするくらいなら山に逃げろ! 食い物くらいどうとでもなる!! 俺達はお前の味方だ!」
 ハツネには後で感謝を伝えないといけない。新芽は確実に太陽から目を背けようとしていたのだ。あやうく自分がトドメを刺すところだった。
 初めは能面のような無の顔。
 やがて瞳孔に水が宿り、それは僅かな波をうつ。
 最後に唇が僅かに持ち上がり──
 唯一無二の親友の顔に小さな花が咲いた。
「……サンキュ。……ブラザー」
 そして二人は別れた。
 空也は前へ、ルチアーノは背後へと進む。
 別々の足音が奏でられる。
 それでも。
 晩秋にしては寒さを感じない山から吹いた心地よい風が、その時二人の心を結んだのだ。
「──空也、ワシは商店街に寄って行く。ハツネさんと一緒に先に帰っておれ」
「じいちゃん?」
 小野寺家から歩いて数十秒。
 ただの買い物にしては只ならぬ気配。厳蔵の内側は名称の持たない熱で炙られていた。
「……これは本来人間と人間の問題なのじゃ。気づけばハツネさん達と連中とで話が進んでしまっている。だが本来は、ワシ等人間がそれを食い止めなければならぬのに、誰もがそ知らぬ顔を通している。街の連中が岩鷲に何を握られているのかは知らん。だがこのままでは永遠に事態は変わらぬ」
 その生涯を染野市と共に歩んだ男は、現在街の在るべき姿に危惧を抱く。だが濁流の激しさは巨大だ。一人の老人がもがいたところで何も変わらない。
「これではワシも死ぬに死に切れんわ。……まったく、婆さんが成仏できずにそこらをウロついているのも頷ける。空也、ワシは街に行って若い連中のケツを竹槍で突っついてくる」
 言葉を返す間もなく厳蔵は足早に駆けて行った。先程の会談で仮初の平和はもたらされたが、源となる憂いは変わらず存在しているのだ。
 無意識に、ハツネを握る手に力がこもる。
 自分は何もできないのか? ただの学生だからと言い訳をつけて。厳蔵もハツネも、茶部も土暦も自分達の考えで山を守ろうとしているのに。岩鷲の強圧を前に膝を抱えて蹲っているだけ。せっかく選定してもらったのに。自分には大した力もないが、それでも動物達からハツネのパートナーとして指名してもらえたのに。
 ルチアーノのことは大切だ。
 染野山だって大切だ。
 この日何度目だろうか、またしても土暦の言葉が甦ってくる。
 人と動物、土山空也はどちらの側に着くのだろう。そもそも人命を何よりも尊ぶ法の下で、自分は真の意味で染野山の味方をすることが本当にできるのだろうか。大いなる矛盾を抱えている気がする。天秤は最初から傾いていたのかもしれない。だが、それなら自分の存在意義とは何なのか。
 寂しい夕暮れだった。
 広漠たる緋色が目に染みる。
 金と引き換えとはいえど、訪れた平和だけがせめてもの救いだった。
 その甲斐あって、ハツネの旦那として振舞うべき采配を決めかねていることが許されるのだから。
「旦那様は、人の側について然るべきです」
 ぽつりと落ちたその言葉には煩雑さは一切感じられない。空也は慌てて振り向く。
「ですから、どうかそんなに苦しそうに悩まないで下さい。人のままで私達を理解してくれる、それだけで他には何も要りません。旦那様は既に十分私達を愛して下さっております」
「ハツネ……」
 心得た妻だった。
 空也が懊悩している事象を看破し、その震える体を愛で包む。
 美しかった。自身とてまだ恐怖の片鱗が体にこびりついているであろうに。
 華美たる眼球は愛しさで溢れている。それは空也もだ。見詰め合っているうちに、きつく結ばれていた心の紐がそっと解けていくのを感じていた。
「ありがとう」
 空いた手でハツネの頬をそっと撫でる。睫毛がそっと、優しく瞳に被さった。
 それでも──
 決断を迫るべき時はすぐにやってきた。

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Neetsha