Neetel Inside ニートノベル
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キツネの嫁入り
第七話

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   七章
 
 人はいつだって能動的だ。
 動物は山の営みを撫でるように薙いでいくが、街で暮らす人間はどうしても全ての行動に意味を持ち、不器用なまでに物理的にならざるを得ない。
 だからその物音はひどく目立った。風そよぐ紅葉と、鱗状に空から降り注ぐ光芒の中を突き進んでいた空也は思わず立ち止まる。奥からだ。この先に広がるのは木々のない丘。多少の土色は見え隠れするが、昼にくれば広漠たる牧場のように草の息吹きを堪能できる場所。
 暴力的な衝撃音。故意に重い物を何かに向けて振り下ろしたような。次いで摩擦音が草原を滑る。それは明らかに人が生み出す醜い騒音だった。夜の山にはあまりに不釣合いな。
「最近の教育ってヤツはどうにも温くていけねえ。……とは言っても聡、お前が教員から指導なんてされているわけがねえか。小野寺の名を冠するお前に手を出すヤツなんて学校なんぞにはいまい」
 這いつくばっていた。ルチアーノは岩鷲に自慢の髪型を無造作に掴まれ、顔だけ強引に引き上げさせられる。その顔から漏れるのは不明瞭なる呻きだけだ。
「おまけに土山の坊主と遭遇して、喧嘩に負けて帰ってきた? お前ヤクザナメてんのか? あぁ? 獣一匹撃ち取れず、同級生にも負け、どのツラ下げた戻ってきたんだ。聡ゥ!!?」
 顎に爪先が突き刺さった。サッカーボールを蹴飛ばすかのように岩鷲は革靴を蹴り上げる。ルチアーノの体は軽々しく吹き飛び大地に重々しい音を立てて打ちつけられた。
 岩鷲から四肢を乱暴に嬲られる。軋む激痛がルチアーノの口から逃げ出そうと濁音となって流れ落ちた。……防衛本能が無意識に体を芋虫のように捩る。
「逃げるくらいなら死ねや!! テメェの背負っている苗字は何だ、聡ッッ!!!」
 岩鷲の背後には幾十人もの舎弟が眉一つ動かさず事態を眺めていた。
 空也はなぜか金縛りにあったかのように足が動かなかった。何と薄情なのか。心が脳を叱咤する。だが理由は腑抜けだからではない、足は震えていないのだから。
 ではなぜ動けないのか。
 双眼がルチアーノから離れない。ゴミのようにボロボロになっている親友が申し訳程度に動かす手足から、奇矯なる意思を感じたのだ。付き合いの長い空也だからこそ理屈で納得するより早く直感がそれを悟る。常に言葉だけは大きく、その内容も滅裂で仰々しい身振り手振りで飄々たる態度を取り続けた学校内のルチアーノに近い感覚。
 木々の中の空也と、伏せたルチアーノの瞳が交差した。
 息を飲む。
 コンマ一秒程度の出来事だった。
 片側が相手から何かを感じ取った反面、相手も片側の存在を空気で感じたとでも言うのだろうか。
 シンクロするように──いや、ただの偶然と呼んだ方がしっくりくる。
 立ち上がる。十二ラウンド戦い抜き、全エネルギーを放出し終えたボクサーのように足取りは心許ない。切り株に座り、それを見ていた岩鷲が初めて僅かに感嘆の吐息を漏らした。
 ルチアーノが父親の前に立つ。うな垂れている。息は不自然に荒い。脇腹を抱えている。それは到底BIGなマフィアなどとは呼べないくらいの小物臭を漂わせた、惨めな敗者だった。
「殺してこい。……いきなり人間は難しいだろうからな。獣でいい。徐々に堕ちていけ。落としても消えない血のにおいをその体に吹きつけろ。今の年齢からやっていけば、将来は目を瞑ってでも人間の頭を撃ち抜けるようになる」
 生きた屍のように生気を失い、もはや佇立するだけでも意識の全てを集中させなくてはならないルチアーノがぼそぼそと何かを呟いた。
「あん? どうした」
 一言一言をゆっくりと紡ぎながら、ルチアーノが岩鷲に言葉を並べる。
「親父……手付金は貰ったじゃないか……。どうして……こんな……」
「あぁ?」
 続いて飛ぶはずだった怒号は憫笑に取って代わる。息子への教育よりも目先の楽しみに気持ちを奪われたらしい。
「手は出さないって約束か? はっはっはっはっは!! 守ったじゃないか。二週間。俺はきちんと二千万円分の働きはしたぜ? 平穏を与えてやった。等質たる対価だ。更に時間が欲しいならもう二千万、三千万持ってくればいい。聡、お前も湧き水は全部飲み干せよ? 残すな、一滴もな」
 土暦の予言通り、岩鷲の口からはどうでもいい理屈が吐き出された。あまりに下らない、子供以下の戯言。
 だが──そんな戯言に自分達は縋るしかなかったのだ。
 今更怒りは湧いてこない。平穏など最初から存在しなかった。
「さっさと行ってこい」
「……」
 ルチアーノは動かない。
 再度岩鷲が呼びかける。
 まさかとは思うが立ったまま気を失ったのか? そんなことを憂慮した何人かの舎弟がルチアーノの顔を覗き込み──僅かに息を飲んだ。
「……嫌だよ……もう……」
 泣きべそのようなその一言は、震える肩の間から搾り出された。
 沈黙。
 舎弟達が知らず表情を殺す。そして目を向けることさえ恐れ多いとでも言わんばかりにそっと岩鷲の顔色を窺った。
 ──彼等は戦慄する。
 その顔では悪魔が踊っていた。
「……聡。……もう一度……言ってみろ……」
 地響きのような唸り声。光の届かない地割れの闇底に全てを誘い込む恐怖の呼び声。
 岩鷲がゆっくりと立ち上がった。
「俺は──俺はもう嫌だ──! 約束も守らず、弱い者イジメをして、こんなの、カッコよくも何ともなくて、何より──友達の大好きなものをこんな大勢で奪いにき──」
 張り飛ばされた。
 全力で。
 ルチアーノの体が数メートル吹き飛ばされる。
「!!!」
 まだ──だった。
 まだ空也の体は動かない。
 プロレスラーのような巨躯が、丸太のような腕から放つ拳は凶器そのもの。
 さすがに舎弟達が色めき立つ。彼等は暴力に関してはちょっとした知識人。誰が、どこを、どの程度殴れば人が壊れるかをよく熟知している。
 ルチアーノは起き上がれない。月を仰ぎ見ながら、咳のように痰を数度吐き出す。
 波のように緩慢たる動きで岩鷲がその距離を詰める。
「驚いたぜ聡。いつからお前はこんな反抗的な男になった? 逆らったら俺がどんなことをするか、その程度は学んであるはずだよな。うん? 震えてるじゃねえか」
 呼吸器官さえ捻じ曲げたボディーブローの一撃はそれ以上に暗澹たる絶望を相手にもたらす。絶対的なる暴力。激痛を上回る恐怖がルチアーノの体を麻痺させた。歯が噛み合わない。血液が凍りついたかのような異様な悪寒の嵐。
 悪魔が近づいてくる。
 涙が零れ落ちた。
 もはやそこにBIGなマフィアの姿は欠片たりとも存在しなかった。
「勝てない相手になぜ逆らう……。あぁ──まさかテメェ、お友達の影響かぁ? くそっ、土山の連中、いらんことをお前に吹き込んだんだろう。違うか聡!?」
「親父──」
 隷属は生を保証される。
 残忍な岩鷲の性格など息子である彼はとうに熟知していた。
 なぜ自分はこんなことを口走ってしまったのだろう。自殺行為にも等しいそれを。
 ……心が疼く。ここ最近は空也から貰った言葉がずっと心の壁を軋ませていた。
 ……その空也から頬に受けた一撃が痛む。なぜだろう、不思議と岩鷲からもらった一撃よりも重い。それは虫歯のように、脳の中にまで到達するかのような鋭さを内包していた。
 怖くて堪らなかった。体力が残っているなら脇目も振らず逃げ出したかった。
「俺を……解放してくれよ……。俺は親父のようにはなりたくない──!」
 生命の叫びだった。
 首輪でつながれたままの生でなく、尊厳ある死をルチアーノは望んだとも言える。
 岩鷲は無言だった。
 ──だからこそ余計に皆が畏れを抱いた。
 返答はない。父親は息子の体を掴み上げると、易々とその体を肩に担ぎ上げたのだ。
 空也は木立ちの中でそっと移動を開始する。もはや岩鷲の内面は火を見るよりも明らかだ。あれだけ悪辣なる言葉を吐き出していた暴君が、そのお得意の口を貝のように閉ざしたのだ。息の詰まる空気は小野寺の人間達の間にも漂っている。できるかどうか分からない。それでも最悪の事態が起こる気配があったら飛び出していく覚悟が固まっていた。
「教育ってのは難しいぜ。教員の皆様方が頭を悩ませているのがよく分かる。……カタギの連中を近づけさせないためには、もっと早くから聡に証を植えつけておくべきだったかもしれねえな」
 乱暴にルチアーノの体を下ろす。荷物のようだ。ぞんざいに扱われた体が固い地盤に受け止められた。岩鷲は息子の左腕を万力のような力で持ち上げた。そして自身が先程座していた切り株の真上にルチアーノの左手を押しつけ固定させる。
 岩鷲の懐辺りから何かが落ちた。
 ──鞘、だった。
 魔物は白銀を夜空に掲げる。全身が粟立つほどに艶かしく鈍色に光り輝く小ぶりの短刀が夜風に撫でられた。
「親父、何するんだ!! やめろ、やめてくれ!!」
 骨に食い込ませるほどの勢いで五本の指がルチアーノの左腕を締めつける。だが巨岩はビクともしない。それでも恐怖にかられ、ルチアーノは残った手で、両足でもがき始める。
「チッ。……おいお前等、抑えつけろ」
 静観──というより言葉を発することを忘れていた舎弟達が遅れて反応を返す。心を殺し、厳めしい顔を保った男達が数人がかりでルチアーノの四肢を封殺した。
 空也は驚愕の淵に立たされていた。
 だがそれも一瞬。直に見るのは初めてであったが、この先に岩鷲が何をしようとしているのかは知識だけで理解している。
 飛び出すべき時だった。
 嘘でもハッタリでも並べ立てて何とかするしかなかった。
「聡ー。手ぇめいっぱい広げとけ? それからあんまり動くな。他の指も切り落としちまっても責任は持てねえからな? ……最初からこうしておくべきだったな。所詮人間の第一印象は外見だ。小指のない男と進んで親しくなろうとする酔狂なヤツなんざこの世にはいねえだろう」
「あんたは……あんたは……最低だ──!!」
「ほう? なかなか将来楽しみだぜ聡。大の大人だってこの状況では泣き喚くもんだ。流石は俺の息子だな。よくこの状況で俺にそんな口がきける」
 逆さ刃に柄が握られた。
 夜空の月が刃文を眩く照り返す。不吉なる閃光。
 憎悪とも歓喜ともつかない、堕ちた人間の表情が狂気で埋め尽くされる。
 ──空也は──遂にその場を飛び出した。
 短刀がルチアーノの小指目掛けて振り下ろされる──
 空也が腹の底から上げた声は。
 巨神が大地を叩きつけた轟音を前に完膚なきまでに霧散した。
「何だッ!!?」
 それは誰の声だったのか。
 地響きのような大振動は人間の重心を易々と奪っていった。かろうじて空也は踏ん張ることができたものの、発生源に近い場所にいた男達が揃いも揃って無様に腰を打つ。岩鷲の手から短刀が転がり落ちた。予期せぬ敵の襲撃か。と、即座に頭を切り替えた小野寺組の若頭の胆力は流石と言えよう。短刀に手を伸ばす。
 そこへ影法師が落ちた。
 大きな大きな影だ。
 見上げる。
 息を止めた。
 先程までは存在していなかったソレが、薄明るい光を背に受け、何百年を生きた樹齢のように無言で佇んでいた。
 魔物を越えた魔物。
 釜の底から沸き上がるような重厚なる吐息。鬼のように尖閣なる無数の牙。覆われた闇色の毛は夜と同化するかのような漆黒だ。岩鷲の二倍近いほどの背丈。両の手から突き出るはドスなどよりよほど凶悪な煌きを宿す十の爪。
 人は生涯怪物と対峙をすることはない。故に、本物の怪物から間近で睨まれた時、想像や予想などといった雲を掴むような予防策など一切無価値と化す。原始的なる本能は正直だ。数で勝り──そもそも目的のための獲物が眼前にいるというのに、誰一人としてまともに猟銃を持ち上げた者はいなかった。一切の思考停止。
 土暦が雄叫びを上げた。
 体と思考の働きが停止する。人間がヒグマに勝るのは脳と手先だけだ。鍛えようのない本能はどうしようもない。
 ──冷静とは言い難くも、そこで適切なる判断を下せるのは見事である。
「クソッ!! おい、一旦引くぞ! テメェ等、寝てんじゃねえ!! 死にたくなかったら立てや!」
 岩鷲は猛者だ。
 舎弟の腰が完全に砕かれていることを看破し撤退を指示。自分は勿論、誰か二、三人が目の前のヒグマに殺られれば恐怖が伝染し一気に場が混乱すると見る。荒事に慣れている男達とて、人間以外の相手による意表をついた登場には一挙に心に混迷を打ちつけられたらしい。
 怒号のような号令は縋るべき糸となる。闇の中に落ちた一筋の光。それを元に男達は自我を取り戻す。何人かは冷静な判断を取り戻したが、何人かは猟銃を投げ捨てて一目散に踵を返す。
 岩鷲は忌々しげに舌を打つと土暦から離れ──思い出したかのようにルチアーノを見下ろした。息子が立てる状態にないのは一目瞭然だった。即座に判断。
「じゃあな聡。俺のためにせいぜい時間を稼げや」
 それが親から子に送る最後の言葉だった。
 山道を担いで逃走するのはリスクが大きく──逆に一人が敵の注意を惹きつければ、他の全ての人間が無傷で助かる。
 透徹にて冷酷な判断。親が子を捨てた瞬間。
 空也が口を間抜けのように開いてしまうくらい、あまりに呆気なく走り去って行く。
 土暦はなぜか彼等を追わず制止していた。
 彼が凝視するのは、切り株に体を預け生気を出し尽くした一人の少年。
 ルチアーノだ。
 ヒグマは一度獲物と定めたものは地の果てまで追って行く。相手が生きていようが死んでいようが、そこが人里であろうが何十キロも走り続ける。
 ぼろきれのように捨てられた少年は、既に土暦に一度銃を放っていたのだ。
「土暦さん、ダメです」
 今度は声が届いた。
 ルチアーノも空也の存在は気づいていたようだ。迫る親友の姿を一顧だにしない。
「くるなブラザー」
 それは危険を制止する声ではなかった。ルチアーノはもしかしたら、空也と土暦の関係にも漠然と気づいていたのかもしれない。
「人間よ。強い者に蹂躙され、心と誇りを潰された気持ちが分かったか」
 当然ルチアーノに土暦の言葉が聞こえるはずもない。獰猛な唸りは人間を萎縮させるのが関の山だ。現にヒグマの口からは飽くなき灼熱が言葉と共に吐き出されていたのだ。
「──分かっていた、なんて……言えない。でも──改めて──分かったぜ──」
 なぜか怯えはない。
 ルチアーノは独白するように紡ぐ。土暦の言葉と繋がったのは偶然だろうか。その奇妙な因果律を前に空也は思わず足を止めた。自分が踏み込めば、ルチアーノと土暦の間に結ばれた不可視なる空洞が消えてしまいそうな気がしたのだ。
「逆らえねえ……。暴力には逆らえねえ……。ぶん殴られ、指を切り落とされそうになり……HAHA、本場のキングコングだってもうちっとは理性があるぜ……。弱いヤツを踏みつけ……」
 切り株にもたれ、親友が真っ直ぐな瞳で土暦を見上げた。
「まさに……俺があんた達にやろうとしたことだ……。いや……もっとタチが悪ぃか。指だけじゃねえ、殺そうとしたんだからな……」
 全ての物音が死んだ。
 重なる葛藤と生死の狭間、唾棄されるように捨てられた少年はどんな悟りを開いたのか。
 人が動物に話しかけていた。
 狂人の行いと誹られても反論できない光景。
「……あんたに……殺されるのなら……HAHAHA、納得だぜ。……自然の摂理のような気がする。殺し……殺され。俺はあんたを殺そうとしたんだからな。でも、あの連中に殺されるのは……ごめんだ。あんな何も考えてないヤツに。シットゥ、ダセェぜ。残してきた女達を悲しませちまうな」
 酩酊しているようにその言葉はおぼつかない。死を前にして狂ったのかもしれない。
 なのに不思議とその言葉には強い情念がこめられている。
「どうしてこんなことになっちまったのか……て考えて、一秒で結論が出たぜ。……こっちが仕掛けなきゃ何も起こらなかったんだ。そんな……当たり前のことが浮かんできやがった。なぁ……あんたよ……」
 ──土暦が、目を見開いた。
「悪かったな」
 頭を下げた。
 猿が人に対し芸を披露するかのように。
 人が熊に対し首をもたげたのだ。
 笑ってしまうほどに滑稽な絵図。
 人は人を誹謗し、時には拳さえも打ちつける。
 もっと些細な争いもある。肩がぶつかった。遅刻した。進行を妨げた。そこで人が行うのが謝罪。
 これは人間同士の喧嘩ではない。あまりにユーモアに富んだ喜劇。それなのに──
 それは至極当然のできごとだった。
 いつから人は動物に口で謝罪することをやめてしまったのか。
 喧嘩して謝るのは当然のこと。物心ついた子供が初期に学ぶあまりに単純な常識。
「……」
 ヒグマが言葉を失っていた。
 彼もきっと空也と同じだ。呆気に取られたのだ。
 動作こそは単純ながら、そこには深い誠意が込められていた。
 謝罪は誠意となり、誠意は相手への敬意でもある。
 理由は複雑だ。紆余曲折を経て染野山に落ちた言葉。
 だがそれは、ルチアーノが土暦を。
 人が動物を対等に扱った瞬間だったのだ。
「……」
 だからこそヒグマの長は何も言えなかった。
 自然へ対する敬意は、彼が日頃から一番に遵守している心だったのだ。一度殺意を向けられ、対等なる死気をはべらせ相手に叩き込むことだけに頭を埋め尽くそうとも、熊の心は常に純真たる涼気が風吹いているのだから。怒りを受け入れることも、自然の摂理を受け入れることも、一切傾斜することなく平等にその巨躯は扱うのだ。
「ブラザー。俺の死を見届けてくれや。俺はここで散ることにするぜ」
「な──何言っているんだ!!」
「お前のおかげなんだぜ? HA、放っておいていいのに……何度も何度も食いついてきやがって。親父の……作った階段を……ロボットみてえに上って行った……。でもよ……お前の情けねえ泣き顔がここ最近ずっと消えねえんだ……。気持ち悪いぜちくしょう。お前の顔を浮かべるくらいなら……イースター島に行ってモアイと熱烈なキスでもしてた方がまだマシだぜ……」
 土暦の腕が持ち上がる。そこから繰り出される一撃は岩鷲の比ではない。
 即死なら救われる。中途半端に傷を負ったら死よりも辛い苦しみが待っている。
 だからルチアーノは身じろぎしない。
「勘違いするな? 投げ出すんじゃねえんだ。これが一番いい気がしてな……。あんな親父になんざ……なりたくねえ……。俺は……あぁ、ちくしょう……俺は、お前とバカ言い合いながら……下校している時の方が……ずっと楽しいんだ」
「ビッグなマフィアになるんだろうが!! こんな──!!」
 空也は走り出した。
「HAHAHA、何にもできなかったが、せめて死ぬ時くらいはマフィアらしく格好よく、な」
「──若気の至り。死を望むのは構わぬが、後に後悔することは叶わぬぞ!!」
 ギロチンの刃が降りた。
 全力疾走する人間の努力を嘲笑うかの如く。
 土暦が空を裂いて振り下ろした右腕が夜空に破砕音を木霊させる。
 砕け散った。
 中身が弾け飛んだ。
 裂け、ひしゃげ、押し潰されたものが月光の下で黒いシルエットとなって踊る。
 惰性で空也は走り続けていた。言葉も出ない。一幕が幻想であることを夢想し駆ける。
 既にその両足に意識はなかった。
 ゴールに辿り着く。滑るようにして両膝から草の上に崩れ落ちる。
 横たわる親友。
 辺りにぶちまけられていたのは。
 ──幹から粉々となって散った木片だ。
 ヒグマの一撃を浴び、ささくれだった木屑が切り株の上から噴き上がったのだと知る。
「……は……は……」
 水泳時の息継ぎを思わせるような深い呼吸は、変わらず切り株に背を預ける親友から。
 飛び出そうな目玉が土暦を凝視している。失禁しなかったのは奇跡かもしれない。死が頬を掠め避けていったのだ。
「──おそらく貴様等人間に、光を示せと言ったところで何ができるわけでもないだろう」
 厳かに。
 人間二人の真上から、天から声が降ってくる。
「図式的に我等の生存数を調べ、過去と現在の統計を計り、我等の好む事柄、苦手なもの、侵してはならぬ禁忌を理解しそれを徹底させる。人間は我等を箱庭で飼う」
 土暦が──四足に戻る。
「間違いではない。だが我等の心には何も響かん。恐怖で気が狂っただけかもしれんが……それでもこの土暦の心を一瞬とて奪ったその言葉には敬意を評する。我等は本来対等なる生き物。熊と猿。お前達ヤクザで呼ぶところの義だ。それを示された以上は私も矛を引かねばなるまい」
 引き金を引いたのがルチアーノならば、頭を下げてそれを治めたのもルチアーノ。誰も傷を負っていない以上、帳消しとなり全てはゼロへと収束する。
 透過なる山の風を久しぶりに吸い込んだ気がした。秋の味。寂々たる田舎の街のにおい。
「手を引こう。……お前だけは」
 しかし空也の安穏はすぐに瓦解する。土暦の声色は何も変わってはいなかったのだ。
「そいつを連れて早く行った方がいいぞ橋渡しの人間。……フン、仲間と合流し、連中も数の強さを得たわけか。ようやく心が安定したと見える。猿は群れるが基本。それは今も昔も変わらぬということか」
「土──」
「ここは戦場になる。何度も言わせるな人間。見逃してやるのはその男だけだ。他の連中とは争う理由が百はある。……どうやら遠くから狙撃をするつもりはないらしいな。愚か者達め。銃を手にしながら近づいてくるなど慢心以外なにものでもない。先程の敗走劇で誇りを傷つけられたか」
 まず嗅覚が。そして聴覚がそれを補佐する。
 熊が人の気配を察知し、的確にその状況を事細かに分析していた。
「何だ? 聡、お前生きているのか」
 ぞんざいなる口調。その言葉にルチアーノを安否する感情は含まれていない。
 悪人の集団。
 動物はおろか、同じ人間であるはずの彼等に言葉一つ届かない。
 不意に無力感に包まれる。人と熊が敵対しているこの瞬間。
 いつか自分とハツネの間に子供が生まれたとして、こんな世界でその子はどう生きていけばいいのだろう。岩鷲は物珍しさから札束を見るような目で見つめてくるだろう。土暦は憎き人の血が混じったその子に爪を振るうかもしれない。
 絶望が夜の草原に広がっていた。
 一頭の巨大な熊に対し、武装を済ませた百人近い男達が姿を現したのだ。

     

 新たに現れた男達に動揺は見られない。熊に襲われれば通常は興奮か錯乱状態に陥るはずであろうに、その面影がないということはハツネや茶部の情報かく乱が功を奏したのだろう。軽く視界に入るだけでも何人かの男達が煙草を口に咥え、呑気な面持ちで紫煙を味わっていた。
「親父──! 何だよ……帰ったんじゃ──」
「馬鹿かお前は。動物如きに追われ逃げ帰るのかぁ!? 明日からどのツラ下げて街中歩くつもりだ。──しかし驚いたぜ。こんなどデカい熊が日本にいたなんてな。金があるからといって、この世の全てが手に入るわけじゃあねえ。あいつを剥製にでもして大阪に送れば、上は大層喜ぶぜ。金や宝石以上に希少な価値がある」
 岩鷲の余裕は周りの男達を密かに勇気づける。一対百。何より小野寺の人間のうち、既にかなりの数が熊を目の当たりにしている。当初受けたような衝撃に対し耐性が生じ始めていた。そして目の前には視界の開けた瑞々しい大地。月明かりも存在する。暗闇と遮蔽物から動物達が現れることもない開けきった一帯。自信と優越が人間達には渦巻いていた。
「よし、お前等。よく見とけ。俺がライフルの撃ち方を教えてやる。五十メートル先の心臓を貫けないようじゃ話にならねえぞ」
 笑い声を含んだ威勢のいい声が次々に上がる。
 まるでボーリングで順番が回ってきたかのような気楽さだ。部下が上司へ送る激励。
 気配を察し土暦が岩鷲から取った距離はおよそ二十メートル足らず。
 もし相手が襲い掛かってきたら数十丁の銃口が同時に火を噴くことになる。それが分かっているからこそ岩鷲も不敵に、舎弟達も安心して笑っていられるのだろう。
 ──おかしい。あれだけ沢山いた熊達は今どこに?
「旦那様!!」
「ハツネ!?」
 悲鳴のような金切り声は空也が先程通ってきた木立ちの間から。
 全速力で駆けてきたのか、息を切らし両手で幹に持たれかかる着物の少女が出現した。
「危ないです! すぐそこを離れて下さい。ダメでした、もう止められません!!」
「何を言っているんだ!?」
「婿殿! 早くこっちへ、そこは危険ですぞ!!」
 茶部までもが、らしくもなく抑制を失った声を飛ばす。土暦の警告も、ハツネ達の言葉もまるで理解できなかったが、一様にして切羽詰った声に空也は突き動かされた。ルチアーノを背中に抱える。
「おい、ブラザー。俺は……」
「いいから、こい! 生きろ! ……やるじゃないかよルチアーノ。お前、さっきの行動は生きた伝説になるぞ。ビッグマフィアの始まりだ」
 人一人を抱えて走る速度などたかが知れている。
 そういえば岩鷲は追いかけてこないのだろうか。……それ以前に妙に静かだ。そもそもハツネが現れたのならば連中はもっと色めき立つはず──
 背後を振り返った。
 誰一人とて空也達の方を見る者はいなかった。
 百の視線が草原の彼方へと吸い寄せられていた。
 空也も見る。
 距離を置いて立つのはヒグマの長。土暦。威嚇するように二の足で立つものの、その口は静かに閉ざされていた。あの誇り高い熊が、一見すると生を諦め観念したかのようにも見えてしまう。
 ──その背後。そこから百メートルほど離れた後方。盛り上がった丘に──
 一頭の黒影が月に照らされ現れた。二足歩行で立っている。だが人ではない。妙に短い手足。その四肢は人のそれとは比肩すべきもない頑強さと濃度が備わっている。
 熊だった。
 なぜあんなところに? 傾げた首が凍りついたように固まる。
 丘の頂上にぽっかり浮かんだ熊のシルエット。その両隣に更に二頭の熊が現れたのだ。やはり二足だ。そして間を置かず更にその両隣にも現れた。
 その更に隣にも現れた。
 その隣にも。
 隣に、隣に──
 山林地方には平原や山野が多い。故にそこは、本来街中に揚々と開拓できないものが並ぶ。
 彼等を見て空也の頭に浮かんだのはお墓だ。小高い丘には万を越える墓石が悠々と、幽玄たる世界を構築する。
 ──また熊が出現する。横いっぱいに一頭、また一頭と将棋の歩のように並べられていった。
 ──お墓がまた一つ。また一つと山に並んでいく。
 土暦はただの一度たりとも背後を振り返らなかった。既にどんな状況下にあるのかを、おそらくこの中で一番理解しているのだろう。彼はいつの間にか仲間を呼んでいたのだ。いつ? 岩鷲と相対した時に発した雄叫びだろうか。散らせた仲間を集結させた。
 何のために? 
 ……愚問だ。考えるまでもない。その理由は一つしかないではないか。
 闇夜の丘が熊達に埋め尽くされた。二百頭はいるだろうか。だがおそらくその背後には更に熊が控えているのだろう。
 人間達はその光景に誰一人とて言葉を発することが叶わなかった。
 彫刻と化した誰かの口元から煙草が呆気なく転がり落ちた。
 何人かが猟銃をその手から零していた。
 これは──そう。
 戦争。
 遥か昔の武将達は、敵の騎馬群が丘一面に並ぶのを見て何を思ったのだろう。
 少なくとも現代の人間達は昔と比べると闘争本能は格段に薄まっていたらしい。
 その呆けた脳からは戦意喪失以外のものを読み取れない。
「聞け!! 勇猛なる我が仲間達よ!!」
 土暦が小野寺と向かい合ったまま獰猛なる唸り声を発する。
 その音色を前に、何人かがたまらず腰を折った。
 ……本来それを叱責するはずの岩鷲でさえ、今はただ目の前の圧倒的なる存在を前に全ての機能を停止させている。
「目の前にいる愚か者達はもはや猿ですらない! 猿より退化した。自らの快楽と欲望のために母なる大自然の螺旋を金塗れの手で汚そうとする屑共だ!! 人から疎まれ、我等からも憎悪される。そんな連中のために、誇り高く生をまっとうしている我等がなぜ無残に散らなければならない!?」
 ──気配を感じた。
 空也が慌てて常闇の森林へ目を向けると、そこにはいつの間にか染野山の民達が沈痛なる雰囲気を纏わせて集まってきていた。鹿や犬、兎、猪、狐に狸に猫、フクロウにムクドリ──気配の数は尋常でない。闇の中に数え切れないほどの生命を感じる。彼等の心は──問うまでもないだろう。目の前の狂騒に参加するのであればこんな場所にはいない。
 止められない。
 十匹以上の虎と戦わせても完膚なき勝利をするとされている成熟したヒグマを前に、この山で本気になった彼等を止めることのできる者などいないのだ。
「戦え!! そして大地に朽ちよ!! 今こそ我等熊は、熊として命をお山に刻む時! 全てを母に還す時! この牙で敵の首を噛み千切り、この爪で心臓を貫く! 我等は──熊だ!!!」
 そして──
 何千年、何万年と変わらず受け継がれてきた哺乳類最古の武たる魂が、やはり何千年、何万年と大地を見守ってきた煌々たる月へと戦の始まりを告げる。
 吼えた。
 毛一本、血の一滴全てを捧げ──
 呼応が破裂する。
 染野山が揺れた。
 二百を越える熊達が一斉に空へと怒号を放ち──
 その足並みを揃え、四つの足に蓄えられた力を惜しみなく解放する。全速力で丘を下る彼等の速度は時速五十キロを越えた。
 丘の上に陣取っていた兵士達が、遂に怒涛の進撃を開始したのだ。
 赫怒が大地を揺るがす。
 雪崩。落石。噴火。洪水。地震。
 いずれにも劣らないその激流音は、熊達の突進が災害にも匹敵すること意味している。土砂崩れのように絶えることないその響きは耳を聾し、暴力のように鼓膜を突き抜けていく。
 落盤のシャワーに人が押し潰されるように──
 丘の上から迫りくる熊達の群れに秘められた力は、既に一介の動物を越えていた。
 災害ではない。
 紛れもなく人の所業。
 これは人災だった。
「おい……おい! 何だよありゃあ。……何だよありゃあ!!」
 誰かが叫んだその声には、もはや強面としての威厳を保つ気概など存在しなかった。自らのボスが近くにいることも忘れ、慄きに取りつかれたパニック寸前の相貌。
 彼等は今尚動けなかった。
 戦争が始まっているというのに。
 土煙を上げて山の軍隊が敵を殲滅せしめんと轟音と共に駆け下りてくる。
 吠えて吼えて咆える。強引に被せていた蓋が熱を抑えきれずに弾け飛んだ。牙を噛み鳴らし、殺意全開に全ての熊が鬼神の如き形相で迫りくる。
 怒っていた。
 法の抜け道を探るか、弱者から金を搾り取るかを主たる仕事とする彼等からすれば、その敵は純粋すぎた。金も快楽も関係ない。機械のように完全。濃度百パーセントの敵意。
「うわあああああああああああ!!!!!!」
 遂に一人が逃げ出した。
 それを待ち焦がれていたかのように六人が同時に。
 それで免罪符を得た人間が七人後を追う。
「テメェ等、何やってる!! 撃て!! 撃て!!!」
 岩鷲は自ら銃を構えながらも怒鳴る。だが誰もそれに追随する人間はいなかった。
 誰もが悟っていたのだ。災害にライフルを撃ち込んだところで何の効力もないと。
 もはや熊達は止まらない。
 どのみちヒグマ相手に一発二発浴半端に浴びせたところで倒すことなどできない。
「ぶっ殺すぞテメェ等!! 立ち止まって死に様晒さんかいッッッ!!!」
 常に人を食ったように見下していた岩鷲が遂に仮面をかなぐり捨てた。熱烈なる怒気。
 だがそれで立ち止まったのは本当にごく少数だ。
 女子供のような悲鳴をあげ、腰が抜けたのか、中には四つん這いの姿勢でヤクザ達が逃げて行く。恥も外聞もなかった。号令を受け一度は立ち止まった人間も、間近に迫る熊の群れを前に今度こそ尻尾を巻いて逃げ出す。その脳裏に浮かぶのは数秒間を無駄にした後悔だけだ。
「獣風情がァァァァァッッッ!!!!!」
 ようやく一発の銃声があがった。
 戦闘開始からゆうに三秒が経過した後のこと。
 あまりに遅すぎる、中途半端な決意。
 一頭の熊がその速度を一瞬止める。被弾箇所は分からずともその巨躯に凶弾が命中したのだ。
 だが。
 構わず再び走り出す。
 自己を満たすためだけの、焼け石に水と呼べるほどに虚しい行動だった。
 増援なのだろうか、丘の上に更なる熊達が姿を見せた時、その数を前に再び空也は絶句した。
 ──が。
 走駆する彼等と比べ、いずれもそのシルエットは僅かに小柄。
 すぐに理解する。彼等は雌、もしくは年端もいかない子供。夫の、父親の勇壮を見守るべくその戦を見守っている。人間と同じ。兵士達には守るべき家族があるのだ。
 紅蓮の波が押し寄せる最中で。
 それまでずっと傍観してきた長が動き出す。
 土暦が殺意に塗り潰されていく。巨大なる体躯を大地に預ける。駆け出す。走り出す。トップスピードは一瞬にして訪れる。土暦を先頭に熊の集団が雪崩れ込む。
 秋山に相応しくない狂騒たる宴の幕が開いた。
 既に小野寺の人間達は四方八方へと散在していた。恐怖に憑かれ、邪魔な猟銃を投げ出し木々の間へと逃亡する。それはつい先程までの流れを再現するかのように、あまりに愚かで、成長を感じさせない行動の繰り返しだった。
 空也は無力感に襲われながらも思考の停止をやめない。
 どうして自分には何もできない。
 見ろ。
 結局人と動物は相容れない。
 目の前で起きている構図は、古今東西に共通する人間とそれ以外の者達の縮図だ。
 自分が幸せに胸を弾ませていくその傍らで、土暦はずっと苦悩し続けてきたというのに。
 きっとそれも縮図だ。
 安穏とした日々を送るその床下で、常に彼等は犠牲になり続けてきたのだ。
 人知れず。ひっそりと。
 繰り返されてきた殺戮。
 ならば彼等の怒りは正当なる感情から成り立っているのではないか。
 ここで熊達が人でなしを屠ったところで一体何の問題があるというのか。
 ──空也はルチアーノを下ろすと駆け出した。
「……そんなわけあるか!」
 偽善でも構わない。
 平然と悪行を振りかざすなど鬼畜所業。だが連中が死ぬのを見て見ぬフリすることも同義。
 土暦が踏み潰したくなるほど小っぽけな山を築いてもよいではないか。そこは楽園。花吹雪く桃源郷。理想とは、夢見ることからスタートするのだから。
 暴走車の激突。
 疾走する勢いをその体重に余すところなく乗せた土暦の体当たりが岩鷲に炸裂した。
 ぶっ飛ぶ。
 猟銃が旋回し彼方へと消え去った。二メートルを誇る大男が人形のように軽々しく宙を滑り、背後に聳え立つ幹に激突する。脳に損傷を与えないために頭を庇う挙措は流石だ。肺から空気が搾り出された。肋骨を粉砕する破壊槌。起き上がろうとしつつも激痛が流れたのか呻きを上げると崩れ落ちる。土暦は止まらない。人の体など蝶も同然。走るヒグマの前では障害物にもならない。傷を負い体勢を崩した岩鷲にトドメをさすべく、自然の生み出した最強凶悪たる刀刃を豪壮たるがなりと共に突き出す。
 そこへ割り込んだ。
「……!!!」
 ヒグマたる気性故か土暦は常に炎を全身に燻らせている。だがそれに支配されず、流されないのが長たる所以。怒りの裏側に張りついているのは沈着たる不動心。
 大地を滑走する体躯が、熟練したスキープレイヤーを思わせる急ブレーキをかけた。
 空也にも土暦の性格は段々と掴めてきていた。
 この相手の場合、中途半端な行為は巨岩のようなその手で簡単に弾き飛ばされる。
 やるなら全力で。心と魂をぶつける。
 奇しくもそれはルチアーノが見せたことでもあった。
「何のつもりだ人間!! これ以上邪魔するならお前とて容赦はせんぞ!! 誇り高き戦争に無粋に足を踏み入れるというのならば、その足を踏まれ、砕かれるのも承知しているのだろうな!!?」
「何が誇り高き戦争だ!! 自分に酔うな!!」
「……そうかよく分かった! お前は私達に死ねというのだな!! 無様に撃ち殺されろと!!」
「何度でも逃げればいい!! こんな連中の熱意なんてたかが知れている! 百回追い回されたのなら、百一回逃げればいい! この山を汚すな土暦!!」
「橋渡しィ──!!」
 その時、獰猛なる津波が土暦の背へと追いついた。
 戦争の最中に始まった一頭と一人の口論に、熊の数だけの視線が注がれる。
「お前達はこのまま行け!! 連中をこの山から帰すな!! せめてもの慈悲だ、猿の故郷である山の中に躯を眠らせてやれ!!」
 長の一喝。
 彼等は赤い布を親の仇のように見立て串刺しにする闘牛達だ。
 土暦と空也、岩鷲の両横を荒々しい足音と土煙を上げて幾百もの熊達が走り過ぎる。
 人と動物の立場は逆転した。
 狩人は追われる。獲物が駆ける。命懸けの鬼ごっこ。
 気が触れてしまいそうなほどの殺意が両サイドを通り抜けて行く。大地を踏み鳴らす音が心臓の中心を穿ち続けた。獣のにおい。興奮剤のような甘美なる熱にあてられる。
 突如空也の背中が乱暴に突き飛ばされた。つんのめりになり土暦の前に両手をつく。背後からは毒を吐くように唾を吐き捨て岩鷲がずれた足取りで駆けて行く音。……ルチアーノの次は空也というわけだろうか。土暦に生贄を差し出し、咀嚼している間に逃げ出そうというのだろう。部下が消えたからか、それとも逃げ出す算段がついたのか、攻撃から逃走へと転じる。
 愚者を見据える瞳だ。
 あまりにも愚かな人間達を前に、皮肉にも微量ながら気概が削がれてしまった土暦。
「……なぜそこまで連中を生かそうとする。……人間、お前のことは知っている。ハツネが嫁ぐにあたって人選は選びに選び抜かれた。お前は優しい。そして逞しく強い。勇気もある。染野山の麓で育ち、畑を耕し山や滝壺を見回り、大地と水と緑の中でお前は生きてきた」
 遊園地の絶叫マシンのようだ。
 風に乗ってあられもない悲鳴が届いてくる。そこに断末魔が混じってないのが今のところの救いか。
 山は地獄へと変わる。
「だが。それはあくまで人間レベル。人が自然を保護するのと同じ観点だった。私の予想する土山空也とは、一般論を兼ねる男。悪党が死のうが最終的にはよしとする。動物が苦しむことは自身の心を苛むが根本に割って入るほどのものでもない。──それがよき人の心。常識人。お前は異常だ。なぜここまで介入しようとする。その細い腕では何もできんだろうに!」
「何度も言っているでしょう土暦さん。俺はこの山を血に染めたくなんかないんだ。だって……」
 心は移ろったのだ。
 もともと変わり者であったが、一つのキッカケを経てそれは飛び抜けて変貌した。
 原因はたった一つ。
 男であれ女であれ、人間であれ、きっと動物であれ共通して言えること。
「ここは俺の妻が育った故郷なんだ。死んでも守り抜きたいと思うのは当然だろう!」
 ハツネが呼吸を忘れた。両手で口元を覆う。
 ──やがてその金の瞳が潤み始める。
 火種は空也の心で未だ燻っている。
 それは憎悪の種ではない。祭りの残滓だ。
 手を取り合った。
 踊った。
 輪になって動物達が飛び跳ねた。
 紅葉が紙吹雪のように降り注いでいた。
 月明かりが優しかった。
 風が俗世を攫っていった。
 歌と踊りは動物が覚えた原初の記憶。心揺さぶられる魂のリズム。生が溢れ、とぐろ巻く幻想世界の時間はあの夜からずっと空也の胸で時めいている。
 恋か愛かも曖昧だ。
 だがそこに境界線を越えた美しい花が開いた。それは虹色の輝きを振り撒く、この世のどんな可憐なる花よりも心奪う奇跡。
 空也は既に橋を渡っていた。
 土山空也は人間でありながら動物の世界へ身を浸る。
 両の世界を行き来する。二つの世界を知る。ルチアーノの発芽のように逞しい心も、ハツネや茶部、土暦の尊さも。その世界の中央で、橋のど真ん中で行われたのがあの日の祭り。空也は人間世界を壊したくない。妻が住む世界を壊したくない。そして二つが重なり合った理想郷を垣間見た。
 だから止めるのだ。
 それを汚す行為を。
 その至高なる輝きの前では、自分の身一つ程度どうでもよいと本気で思うまでに。
「土山……空也……」
 躁狂は続いていた。あの日以上に今夜は酷く山が騒がしい。土暦の唸り声は風に流された。
 ──離れた場所からそれを見据えていた茶部は密かに思い、身を震わせる。
 やはり自分の見立ては間違ってはいなかった。
 このような結果となり、二種族が共に進むべき道に障害が発生してしまったものの、空也ならばハツネとの間に聡明なる子供達をもうけることだろう。それは人と動物との在り方を少しずつ変えていける希望の光となることだろう。
 ハツネは涙を堪える。駆けて行き夫の胸にその身を埋めたかった。
 だが今は女の欲情は封じ込めなくてはならない。橋渡しの片割れとして。
「見事だ。よくぞそこまで言い切った」
「土暦さん!」
 期待に胸を抱いた空也は、しかし無情にも奈落へ落とされる。
「もしこの山から熊が消えたら、後のことは任せる。お前と茶部殿とハツネで素晴らしい世界を築き上げてくれ。──その世界を邪魔するあの連中は私達が命にかえても殲滅しよう」
 跳躍。土暦は一切の助走をつけずに軽々と空也の頭上を飛び越える。
 話の終わりを告げられた。人が熊と競争して勝る要素はない。土暦は岩鷲達が消え去った方向へと、身軽に大木達の間をすり抜けて駆けて行った。踊っている時は情緒溢れる傘であったのに、この時ばかりは頭上に散らばる紅葉の赤が不吉なものを連想させた。
「貴方も生きなくちゃダメなんです!!」
 追いつけるはずがない。それでも空也は全力で駆け、怒鳴るかのように闇に声を飛ばす。
 人間達を土暦が追いかけ、その土暦を空也が追いかける。
 だが空也はもはや土暦の姿を目視することは叶わない。熊は夜陰に消えた。
 木立ちの迷路に声だけが木霊する。
「……私の背後には妻と子供達がいる。お前もいつか親になるのなら覚えておけ人間。猿であろうと熊であろうと人間であろうと、生命として世に誕生したからには、我が子は父の背を見て育つ。お山のサイクルと同じに誇りもまた循環されていくのだ。受け継がれ、不変の現象と化す」
「それが自分に酔っているのではないのですか!!? ……俺だって両親はいない。ずっとじいちゃんの背中を見て育った! じいちゃんは馬鹿でスケベで、貴方とは比べようもないくらい恥ずかしい親だ。でも──!」
 この二週間の追想。
 厳蔵はほとんどと仕事をしていない。駆けずり回っていた。
「貴方とは違う!! 安易に拳に頼ろうとはしなかった! あんな男にお金を持って行って、頭を下げて……今なら分かる。じいちゃんは俺なんかよりずっと大人だったんだ、て! 土暦さんが染野山を想うのと同じくらい、じいちゃんだってこの山が大好きなんだ! もし貴方が死んだら、貴方の子供は人間に復讐を誓う敵対者になる! 貴方が誇りやプライド、伝統を重視することによって子供の生き方さえも決めてしまうんだ!!」
「そんな甘い考えで母を守れるものか!! これまでお前達人間がお山に何を施した!?」
「何もしてない。……でもそれは『まだ』だ。未来を潰しさえしなければいくらだって可能性はある!何より……家族さえ守れないような男が、こんな広大な山を守れるはずない!!」
 いくらだって夢を見てやる。何度だって奇麗事を吐いてやる。
 空想世界の産物と思われたあの祭り。絵本の中の出来事であろうと決めつけていた世界に。 
 確かに自分は触れたのだから!
 ヒグマがその気になればいくらでも人間の足など撒くことなど可能なはずだった。もっともそれ以前に、空也の言葉に律儀に言葉を返す必要性さえないのだ。
 馬鹿な長だった。
 馬鹿なくらい真っ直ぐなヒグマ。死地に赴く前に清算させておきたかったのかもしれない。
 一定の距離を保ち土暦は駆けて行く。その口は沈黙したままだ。
「まだ……まだ間に合う!! 貴方が一言号令を飛ばしてくれさえすれば、夢の橋はかけられる! お願いです、土暦さん!!」
 熱と氷の鬩ぎ合い。それは両者共に正しく、だからこそどちらも捨てられない。
 しかし生物が持てる心の容量など限られている。溶け合ったものが唸りとなって滲み出す。
 依然として悲鳴と慟哭のオーケストラが不気味に夜の森に響き合っていた。もはやここまできては彼等の命が残っていることをただ祈るのみだ。
 空也の断続的な荒い息がいよいよ滔々たるものへと変化を帯びてきた頃──
「……ッ!?」
 前方の暗がりに逡巡が生じた。それまで飛び跳ねしていた巨体の気配が突如停止したのだ。
 ──何だ?
 自分との討論は関係ないのだろう。何か不測の事態が起きたかのような緊急さ。思わず空也も繰り出していた足の速度を緩め、緊張と共にそこへ駆け寄っていく。強風の唸りに支配されていた聴覚に新たな物音が飛び込んできた。
 それは鳥の羽音だ。一羽だけではない。
 枯れ木を踏み岩肌を越え、ようやく土暦が目視できる位置まで辿り着く。
 熊は空也の側を向いていた。一瞬体に緊張が走るが、すぐにその瞳が自分の背後にある何か別のものを捉えていることが分かる。
「このにおいは……」
 巨躯が一人心地に呟いたそれは、かろうじて耳に届く。
 何だ?
 土暦の殺意が消えて──いや違う。まったく別の何かに上塗りされているのだ。
「婿! 婿! 大変ですぞ!!」
「あんたもだよ土暦! 追いかけっこしている場合じゃないわよ!!」
 けたたましく空から降ってきたのは数十羽の鳥達だ。いずれも切羽詰っている。羽ばたきが妙に忙しない。
「このにおいは……まさか……!」
 巨躯が落としたその言葉を覆っていた感情を前に、空也は得体の知れない恐怖に全身が包まれた。このヒグマに最も似つかわしくない声色だったのだ。
 土暦が戦慄していた。
 疑問を投げかけるよりも早く鳥達が捲くし立てる。
「火事よ!! 火事なの!! 山火事が起きているのよ!!」
 耳を疑った。
 あまりに唐突。悪意に満ちた冗談としか思えないほどだ。
「あのお馬鹿な連中が吸っていたタバコに違いないわ!! 土暦、急いで戻ってきて!! 怪我で動けない動物も沢山いるの! こっちにきて指揮を執って!」
 今度こそ真なる恐怖が心臓を貫いた。
 後悔はいつだって後からやってくる。
 自分は何を見ていたのだ! 連中の何人が火を咥えていたと思っている。そこへ起きた戦争。
 命の灯火を守ることだけで精一杯の彼等が、落としたタバコの火など気にかけるものか!
 ──決してあってはならない、山にとって最悪の災害。最も恐れるべき悪魔。
 山火事。
 山地ほど可燃物が密集されている場所はない。一度産み落とされた悪魔が糧とするべき供物はそこら中に転がっている。枯れ葉を枝を食い成長し、木を大樹を飲み込み山へと君臨する。
 数ヘクタールがごっそり食われたその地形は見るも無残な山の死に様。
 ──土暦は血管が千切れ飛びそうなほどに苦悩する。我慢に我慢を重ね、何度も神経が擦り切れそうな思いを経て突撃の号令をかけたというのに、そこへ降って湧いたのは染野山の息の根を止めようかというほどの未曾有の危機。
 人を欲望のままに踏み潰したいという滾りと、お山を守らねばならぬという使命。
 何も考えずに人間を狩ればいい。
 野生のままに正当なる怒りをぶつければいい!
 自分はもう十分に屈辱に耐えた。
 なぜ天は自分が人を殺戮する機会をことごとく邪魔しようとするのか!
 あの土暦が……お山に背を向ける。
 僅かに漂ってくる煙のにおいを無視し、獲物を追い回す至福に想いを馳せた。
 ──空を見上げる。
 山全土に響き渡るのではないかと思えるほどの最大砲撃を頭上に飛ばした。
 空也は咄嗟に耳を覆った。鼓膜が破れるほどの激。肌がビリビリと震え、脳がシェイクされる。先までの鬨の声とは異なる雄叫び。熊達に何らかの合図を出したのが空也にも分かった。
 土暦は再度耐えたのだ。
 牙と爪を存分に怨敵に突き立てる魅惑なる機会を鋼鉄の意志で封じ込め、彼が最も愛してやまないそれを救うべく立ち上がる。……結果的には空也の望む方向へと。
 やはり愚かしいほどに真っ直ぐ。それが土暦が山の民全てから慕われている所以だったのだ。
「次から次へと……!」
 枚挙に暇がないほどの愚痴がたまっていることだろう。だからその一言が最後だった。
 土暦はきたばかりの道を全速力で戻って行く。今度はもう空也への気遣いは皆無だ。
 風に乗って爆ぜた煙が届いた。
 鼻を麻痺させるようなつんとしたにおい。瞳の奥で涙がせりあがってくるほどの衝撃。
 何かが燃えている。
 鳥肌が立つ。
 再び風が吹いた。その中に込められている煙は濃度が更に増していた。
 走り出す。
 間違いない。
 染野山が泣いていたのだ。

     

 現場は惨憺たる有様だった。元々ここ最近日照りが続いていたことも乾燥に拍車をかけたのだろう。赤ん坊のような小さな火種は空也が到着した時には既に成熟しきっていた。乾燥した草は非常によく燃える。無尽蔵に並ぶ木々も炎達の格好たる獲物だ。山火事の進行速度は目を見張るものがある。火は即座に成長する。赤ん坊は貪欲に周りのもの全てを食らっていったのだ。
 生まれて初めて直に見る業火の演舞。既に悪魔は自分の背丈を悠に越えていた。灼熱が天高く聳え立つ。目が痛くなるほどの橙と白。いとも愉しげに山を蹂躙し、そこに住む無力な生物達を嘲笑うかのようにその領土を広げていた。
「もうこんなに──!!」
 戦争の舞台となった草原は炎の海と化していた。熱風が肌を焦がし、気を抜くと風に揺られ黒煙が肺の奥にまで侵入してくる。熱い。ひたすら熱い。轟々と揺らぐ灼熱が一本のケヤキを容易く飲み込む。炎が枝に宿る。紅葉が一瞬にして墨屑と化す。全ての葉が焼き尽くされ裸になった木の輪郭だけがかろうじて残るも、それもすぐに火炙りされ炎に埋もれてしまう。
 軋む音を響かせながら、どこかで木が崩れ落ちた音がした。幹を飲まれ、その身を支える力を失った大木は無念にも地面へ倒れる。──その全身を舐めつくされながら。
「落ち着いてゆっくり岩場の方に避難して下さい! 西へ! とにかく西へ避難して!」
「ハツネーーー! 岩栗の婆さんが足怪我してて動けないってよ!!」
「分かりました! ……土暦さん!」
「承知!! 瀬々、朝! お前達で行け! 鹿は足が脆い、慎重に担げよ!!」
 スイッチを切り替えた土暦は、指揮官たる猛々しさと共に指示を飛ばしていた。
 ハツネや茶部が、動物達から逐一報告を受けている。
「すまねえ……ブラザー。本当にすまねえ。俺がいながら。……一瞬だった。本当に最初は小っぽけな火だったんだ。それが──」
 多少は回復したのかルチアーノが小走りに近づいてきた。──その先は言わずとも分かる。祖父から習った。誰もがそう言うらしい。炎の成長速度など普段は学ぶ機会はないのだから。
 ルチアーノは口を噤み──やや間を置くと再び開いた。
「ブラザー。……あれは一体……一体何なんだ……」
 彼の目はハツネに向けられている。
 正確にはハツネと、その周りに群がる大小様々な動物達だ。誰が見ても分かる光景──だからこそ分からない。動物達へ言葉で指示を飛ばすハツネ。その隣には巨大なる熊。作戦司令部とでもいうのだろうか、代わる代わる動物達と対話するハツネの姿にルチアーノには言葉が浮かばない。
 こんな時に説明をしている暇はない。だから空也は一言だけ述べる。
「動物は生きているんだよ。ただそれだけだ」
 数頭の熊が取り乱した様子で土暦へと駆け寄ってきた。
「ダメです、土暦様! 火の手の勢いが強すぎます! おまけにこの風で炎がどんどん煽られて──!!」
「諦めるな馬鹿者が!!! それより千一達のグループはまだ戻ってきてないのか!? とにかく土だ! ありったけの土をかけ続けろ!! お山で一番大きな手を持っている我等が諦めてどうする!! 我等が未来を掴めねば、他の誰が掴めるというのだ!!」
 チロチロと触手を伸ばす炎が風に揺られる。
 空也の瞼に煙が染み込んだ。鼻の中への侵入も果たされる。激しく咳き込んだ。涙が搾り出された。苦しい。それ以上吸い込まないよう即座に手で口と鼻を覆う。
 黒煙が空へ昇る。不純物の混ざった煙は澄み渡った秋風を支配し陵辱していた。
 ──脳裏に浮んだのはやはりあの日のお祭りだ。
 消えていく。
 炎にまかれ、煙で覆われ、跡形もなく消滅していく。
 思い出が焼かれ、家を焼かれ、可能性を焼かれ、努力を焼かれ、橋を焼かれる。
 夢見た理想郷が悪魔によって滅ぼされていく。
「空也!!」
 切羽詰った厳蔵の声が響いた。
 振り返り答えようとして──空也は驚きのあまり言葉を失う。
「ひえええええ、何だよコレは!!」
「おい、消防車だ! 消防車を早く呼べ!!」
 そこにいたのは……厳蔵だけではなかったのだ。
 人。人。人。
 青年も壮年も老人も、何人もの見覚えのある顔が勢揃いし染野山の大地を踏みしめていた。
「じいちゃん……皆さんも──」
「ケッ! まったく、無駄な手間かけさせてくれやがってよこいつ等。やっときやがったんだよこの薄情者共が」
「……面目ない。悪かった厳蔵さん。……空也君も、すまなかったね……。小野寺の人間達に執拗に脅されていて──なんて言い訳は見苦しいな。本当にすまない」
「厳蔵さんには負けたよ。ああも毎日毎日戸を叩かれりゃノイローゼになっちまう。小野寺より、厳蔵さんの方がよっぽど恐ろしいぜ」
「違いない!」
 心に暖かいものが広がっていった。長くこびりついていた霜が、燦然と輝く太陽によってゆっくりと溶けていくかのように。瞼の開閉が途端増えたのは、決して黒煙のせいだけではないのだろう。
 ──だが感動の余韻に浸かっている時間はない。
「それよりじいちゃん、体は平気なの!? あの連中と──」
「あんな連中相手にもならんわ! それよりとっとと状況を教えんか! ここにくるまでの途中で小野寺の連中と何度もすれ違ったぞ!? 岩鷲も見た! 撃退に成功したわけだな!?」
「撃退というか──うん、まあそんな感じ。でも連中、置き土産を残していったよ」
「……ちっ。あの馬鹿共。山の基本中の基本ルール一つ守れんのか!」
 その時、厳蔵が連れてきた男達の中から叫喚が上がった。更にもう一人。それにつられまた一人と、声が波紋のように大きく広がっていく。すぐにその視線を追いかけて──納得した。
「く、く、熊だ!! 熊だ、熊があんなに沢山──」
「何だぁ!? ありゃあ一体、何やってんだ!!?」
 五十はいるだろうか。見える範囲で熊達が必死に巨大な土塊を炎の中に投げ入れていた。しかしその効力は薄い。もはや悪魔は誰の手にも負えない領域にまで進化を遂げていたのだ。
 いずれにせよ現実で見ることなどまず叶わないその光景。いくら山の近くに住む人間とて一挙に五十の熊を視界に入れた経験などあるはずもないのだ。彼等は熊の恐ろしさを熟知している。それだけにパニックが広がろうとするのは時間の問題だった。
 ハツネが、土暦がその悲鳴を聞きつけこちらを見た。彼女はきっと誤解を消すべく口を開こうとしたのだろう、しかし新たに現れた鳥達の報告を前にそれは忙殺される。
 この極限状態に更なる混乱はもはや必至だった。勇ましい染野市の男達が完全に浮き足立つ。
 空也と厳蔵がそれを諌めるべく言葉を出そうとして──
「ヘイ!!! 何怯えてんだよあんた等は!! 情けねえ、それでもタマついてんのか!!?」
 怒号が飛び交った。
 鞭のようなしなりを持ったその声は、掻き乱された脳内に凛とした光を落とす。
 男達の視線が一斉にルチアーノを向いた。
「あんた達が怯えて、そこのあんたが今逃げ出そうとしている時に、あいつ等は! ああやって必死に火を食い止めようとしているんだよ!! 本当だったら口が裂けても俺が言えた義理じゃねえが、人間がまいたタネを、あいつ等は刈り取ろうと頑張っているんだろうが!! 本来あれをやらなくちゃいけねえのは俺達なんだぞ、このクソジャップ共が!! 人間の後始末を動物がしているんだ!」
 言葉は分からずとも。
 想いは伝わる。
 ルチアーノには一言たりとも土暦の言葉は分からない。ハツネがあそこで何をしているのか、全くもって理解できてもいない。だが。
「小せえんだよ! 小せえ小せえ!! 男達がどでけえことをやっているんだ! それ見て何も伝わってこねえのかお前等は!? そんなに怖いのなら帰ってママのおっぱいでもしゃぶってろ!!」
 ただの感覚。ルチアーノにはそれだけで十分だった。
 どデカい熊が自分を殺さなかった時、そこに崇高なる意思を感じたのだ。ヤクザでも憧れのマフィア世界にもない、もっと大きな何かを。
 土暦はどこまでもBIGだった。それは熊と人間という壁を越えて確かに伝わったのだ。
「お前! 小野寺岩鷲の息子か──」
「それが今何か関係あるのかよ!!? ああ、確かに親父達がやったことだ、俺も責任はある! 謝れというなら後で土下座でも何でもしてやる!! けど今はそれどころじゃないだろ! あいつ等の背中見てみろ! 俺達の争いごとなんてあんたのナニのように小っぽけだぜ!!」
 知れずと言われた小野寺聡。この街に住む人間で顔を知らない者はいない。
 だがルチアーノの言葉は人々の琴線に確かに届いた。言葉も通じず、殺し殺される間柄だった土暦から学んだ心を、彼は敵対し敵対される間柄だった染野市の大人達に伝えたのだ。それはバトン。本来見えもしない境界線を勝手に生み出し別々の場所に身を置いていた彼等が、その何の価値もない壁をぶち壊す。誰一人気づく者はいなかったが、それは本能だったのかもしれない。
 猿も熊も昔は山にいた。同じ場所で暮らしていたのだ。
 還るべき場所にただ戻っただけだったのかもしれない。
「……そうだな。確かにその通りだ。今はあの炎を何とかしないといかん」
「消防車──ああ、くそっ! ここは圏外か。電波の入るところまで出ないと!」
 その時。
 熱弁するルチアーノの背後に、この山で最大たる生命を滾らせた四足が現れた。
 土暦の巨躯を前に街人達が一斉に後退りをする。……さすがにそれは責められない。
「おう。あんたか。参ったな、どうする?」
 そこに平然とルチアーノが語りかける。
 これには空也も度肝を抜かれた。
 夢物語をあれだけ馬鹿笑いしていた親友が、大勢の目の前で何気なく熊に話しかけたのだ。
「……」
 土暦は黙して語らない。だがもはやそこにはルチアーノに対する殺意は感じられなかった。
「……本当にお前達猿は不思議なものだ。どうしようもない愚か者であるにも関わらず、我等が不可能であると思っていたことでさえ、いとも容易くやってのけたりもする。……ああ、なるほど。今ようやく分かった。茶部殿に謝らねばならんな。これこそが茶部殿の語っていたことだったのか」
 低い唸り声は、しかしルチアーノに伝わるはずもない。
 それを当然承知しているのだろう。土暦が空也を向いた。
「橋渡しの人間よ! 電話をしたいのだろう? 我等熊を使え! 二の足で足下を気遣いながらお山を下りるより、我等に乗っていった方が遥かに早いだろう!」
「え? 熊に──乗る?」
「大電!!」
「はい!」
 土暦の呼びかけで威勢よく姿を現したのはやはり同じヒグマだ。長に比べれば僅かに背丈は低いものの、その毛並みと体躯を鑑みれば若い雄であることが窺える。
「人間を乗せ山を下りろ! ……せいぜい丁重に扱え。連中の肌は新雪のように脆いからな」
「分かりました!」
 瞼の奥にせり上がってくる膨大なる感情。熱風にさらされているにも関わらず空也は全身に鳥肌が立った。唇を噛み締める。震えようとする肩を全力で収め、一分一秒の予断を許さない今の状況を頭の中に張りつかせる。適切な言葉を探す。土山空也という少年を消し、橋渡しの人間としての両眼に切り替える。切れ目がちに沈んだ双眸が街の男達を捉えた。
「どなたか一人、このヒグマの背中に乗って下さい。山の入り口まで連れて行ってくれます。……どなたか、急いで!」
「……お、おいおい空也君……」
 真顔で冗談を語りだした空也に対し、男達の苦笑いとも畏れともつかない顔が寄せられる。
 当然だ。
 それでも今は、自分の正気と評判を海の彼方に沈めてでも優先しなくてはならないことがあった。
「テメェ等、何怖気づいているんだ。それでも染野市の男か!! ……もういい、ワシが決める。おい久保田、お前乗れ」
「げ、厳蔵さん!?」
「うるせえ!! こちとら説明している余裕はねえんだよ! とっとと乗れや!!」
「痛ッ! 分かった、乗るよ、乗るから!!」
 どこからともなく取り出した竹槍が、一人の青年の尻に無情にも突き刺さった。そこに手加減はない。厳蔵も空也と同じ気持ちなのだろう。
「な……何なんだ今夜は。お、おお俺は、夢でも、み、見てるのかぁ?」
 恐る恐る、見るも哀れな表情で青年がヒグマの背に体を預ける。両腕を首に回し、その毛むくじゃらの体躯に顔を埋めた。死地へと旅立つかのようにその顔は真っ青だ。
 走り出した。
 生命が漏れ出しているかのような悲鳴が夜空に木霊し──すぐに小さくなっていく。大電と呼ばれたヒグマはその強靭なる脚力を駆使し、男を背負うと一目散に疾風と化したのだ。土暦の部下だけあって実直だ。先程まで敵対していた人間を背負うことに一切の迷いを見せない。
 見送ることは叶わない。
 既に空也は次の行動を取るべく踵を返していたからだ。
 その向かう先にいるのは──ハツネ達。
「──どうにも──ならないか──?」
 素人目にもこの炎の渦が尋常なものでないことくらい分かっていた。波は既に草原一体を舐め終わり、より深緑と赤葉で彩られた山林の奥へと侵入していた。山にいる者全てを愚弄し、せせら笑っている。悪魔は時と共にその領土を拡大する。虹彩が焼かれそうなほどの灼熱が、距離を置いているにも関わらず隙あらば空也の体を飲み込もうと爆ぜ、腕を伸ばしてくる。
「──動物達の避難はそれほど問題はありません。ただ……」
「この炎をどうにかすることはできない……よな」
「──はい」
 ハツネの顔は炎に照らされ妖艶なる色を醸し出していた。だがその表情は優れない。金の双眸に哀しみの色が宿る。
 一息ついたのか、轟々と唸る熱を背に茶部がゆっくりと歩み寄ってくる。
「雷や自然の悪戯等、天然の炎であればまだ納得はいった。成長し過ぎたお山の、生態のバランスを崩さないよう定期的に起こる火事ならばそれは染野山の元よりの運命。だが……これは酷い……。あまりに暴力的で悲惨じゃ」
「最近は雨も降っていませんでしたから……。火の手の勢いはとどまるところを知りません。もう、こうなってしまった以上は人の力を持ってしても収めることはできないと思います。自然鎮火するのを待って、ただ遠くへと避難するしか──」
 それは一つのキーワードだった。
 雨……。空也の心に刻まれている運命の日は二つ。ハツネと共に舞い踊ったあのお祭りと──
 彼女と初めて出会った、ハツネが土山家に嫁いだ日のことだ。
 天気雨。今思えばあれは動物達の伝統だったのだろう。嫁入りの日に雨を降らし、人間達を家の中へと隠す。こそこそと嫁ぐ嫁などいない。神事たる参列は人智を越えた奇跡。そう、彼等は神のように天候を操る術を持つ。
「雨……。そうだ雨だ! 茶部さん。狐達には雨を降らす力があるんですよね!?」
「……婿殿。残念ですが、それは私もハツネも気づいていました。……許可できませぬ。まず第一に結果が見えていること。山中の狐や狸を総動員して力を合わせても、ここまで膨れ上がった炎を消すには至りますまい。そして……雨降りは決して大きな術ではありませんが、それでも力を使うのは事実。いたずらに体力を消耗し、最悪逃げ遅れる者がでてきてしまう可能性があります」
 山を預かる長の一匹として、茶部は民達の命を何よりも重んじる。
 残酷無慈悲に揺れる炎は待ってはくれない。脈動する生命の如く業火は煮え滾っていた。幻のように、しかし猛々しい色彩の中で声が上がる。絶え間なき亡者の嘆き。染野山が殺されていく。
 苦々しいものを飲み込んだ。瞼を閉じる。
 ハツネや茶部は納得しないだろう。
 だから──自分が言うしかなかった。その決断を。
 一介の高校生でなく。
 橋渡しの者として命ずる。
「ならば……命を賭して下さい。志願者だけでも構いません」
「旦那様!!」
 開かれた瞼に真っ先に入ったのは愛しき少女の──信じる者に裏切られたような顔。
 だが茶部と土暦は……すぐに空也の真意を悟った。
「業を背負うか……人間……!」
 土暦の言葉に非難はない。あるのは僅かの畏怖だ。
 身勝手な意思決定ではなく、誰かの命を捧げてでもこの山を守ろうとする決意。岩より硬く、水よりも強かで、大地のように万人の足下に宿る温もり。
「壊すわけにはいかない。絶対に。俺達の夢見た楽園はまだ始まったばかりだ。茶部さんや土暦さんが、動物達に死ねなどと言うことはできない。だから……俺が言うんです。守るんです。俺達は今、この星の歴史の始まりにいるんだ。俺を含め、命を賭してでも戦い抜く価値のある場所に!」
 一体何のための、誰のための戦いか。それを言葉にするのは難しい。
 それで構わない。感じられる者は手を取れ。感じることのできなかった者は急いで逃げればいい。
「侮るなよ──土山空也!!」
 その男はやはり偉大だった。
 何と心地よい怒りか。土暦の体内には邪悪なる憤懣が一切感じられない。未来を見据え、聖戦とも言うべき死地へ自分に誘いをかけなかった相手への純粋たる憤り。
「ヒグマを侮るな!! 貴様等猿に劣るのは頭脳と器用さのみ! 濁った文明に汚れ、驕れた猿が誇りと魂を語るなど傲慢の限り!! 我等は未来のためにならいつでも死ねる!!」
「ふむ……。……そうじゃな。……まったく大した御仁じゃ。先走る土暦に後退を教え、冷静に物事を見据える私に情動を叩き込む。丸くなったのか、足りないものが足されたのか……。本当、猿達の足掻きはいつだって常識を越えた道を生み出しおる」
 染野山という広大ながらも狭い文化に纏められた空間ではゆったりとした時が流れ行く。化学反応のように弾けるキッカケとなるのはいつだって外部要因だ。
 反転。未知なる起爆剤が白を黒に、黒を白に染め上げる。
 彼等は奮起の道を選んだ。熱にあてられたのかもしれない。長の判断としてそれを糾弾する者もいるかもしれない。だが彼等は知っている。多少の危険を顧みてでも腕を伸ばさないと、あるいは目を瞑りたくなるような高低さから飛び出さないと、枝先に実る、舌がとろけるような果実は手に入らないのだ。動物の生き方を変えるのは容易ではない。ならばそれはこうも呼べたかもしれない。
 進化、と。
「旦那様」
 先程の顔はどこに。橋を掛ける空也の心がハツネを、茶部を、土暦の心に波紋を打つ。
 熱気が我が物顔で支配する世界においては場違いなまでに清閑たる声。ハツネがやんわりと微笑を浮かべこちらを見上げてきた。その金色の瞳に塗りたくられたのは信頼という名の感情だ。
「今更──こんなことをお聞きしてごめんなさい。旦那様は、ハツネが──人でなく、狐であることについて──不気味に思いますか?」
 何の前触れもなく落ちた言葉。何か思うところがあったのだろうか。
 だから言ってやった。
「ハツネは、子供が何人欲しい?」
 山に存在するどんな赤よりも、瑞々しさと初々しさをあらん限りに詰め込んだ紅潮がハツネの顔、首、耳を一挙に支配した。残念ながらそのいじらしさは一瞬にして隠れてしまう。
 彼女は空を仰いだ。
 そして──
 声帯を震わせ、甲高い獣の鳴き声を解き放ったのだ。赤ん坊の金切り声に似た断続的な響き。それは巻き上がる炎の揺ら揺らとした呻きを切り裂いて一直線へと夜空に飛来する。
 同時に茶部がサイレンの警告音を思わせるような、心がざわつく声をそこに交差させた。
 狐と狸の合唱。汽笛のように木霊する。だがお互いにその鳴き声の根底にはどこか切羽詰ったものが感じられた。
 人間達はただひたすら呆気に取られる。意味が理解できていないのも大きいが、何より……人の身でありながら獣の声を発したハツネに畏怖と崇拝の念が浮かび上がってきたのだ。
 だがそれは十秒と持たずに新たな感情に埋め尽くされる。
 山を揺るがす軽快なる足音。
 それはヒグマの大行進に比べれば可愛いものだ。大人と子供ほどの違いがある。
 山奥から一目散にこちらに向かって駆けてくるその集団は──あまりに愛らしい。炎の余波に照らされその姿が真昼の下に存在するかのように明らかとなる。
「皆、お願い……。力を貸してほしいの」
 息を切らせながらハツネの元に登場したのは百匹以上の狐達。大人も子供もいる。
「皆聞け! 私達狸の母の母! 今こそこのお山に大恩を返すべき時がやってきた!!」
 茶部の元に馳せ参じたのはやはり百匹以上の狸達。
 だが疾駆する音は続く。それはこの軍勢へ参入しようとする動きが絶えない後付けだ。狐が狸が山中からこの場所を目指し始めた。滝水のように溢れ出す。前方から、後方から。避難していた岩場から、川のほとりから、木に登り状況を窺っていた者も、道路の脇を走っていた者も、長の呼び声を前に数千の山の民が果敢なる突撃を繰り出すかのようにして集い始めたのだ。
「決して死なないことが第一だった。それは今でも変わらん! だが、その上で!! 私は諸君等にお願い事をしたい!!」
 茶部は激を放つ。
 空也一人に咎の道を進ませない。そんな気心が声の裏に見え隠れしていた。
「お山のために死ねる者!! ここに残って雨降りの手伝いをしてほしい!! 女子供は帰れ! 未来のために生きよ! 男達よ! その勇敢な心を限界の限界まで捧げて欲しい! 無論死ぬ必要などありはしない! だが弱った体にあの暴力的な黒煙は危険だ。だから私はこう言わねばなるまい。フェアではないからな。諸君、死ぬ勇気はあるか!!?」
 歓声が染野山を揺るがした。
 大地が唸る。大気が割れる。空也の心は彼等の雄叫びに飲み込まれてしまいそうだった。
 ──誤解していた。何もヒグマだけがこの山の戦士ではなかったのだ。
 小さく、牙もなく。だが──
「お前達の顔は決して忘れん! 英雄達よ! 私達狸と狐の、一世一代の大舞台、染野山に見せてやろうぞ! そしてあの悪魔を永久に追放するのだ!!」
 何と偉大な者達だろうか。
 彼等は常に全力なのだ。歌うのも踊るのも。逃げるのも。命を懸けるのも。
 精一杯生きているのだ。
 山の民が魂を搾り出し、鬨の声を夜空に奏でた。
 ──女子供が逃げた様子はない。だが茶部はそれを二度問い質しはしなかった。炎へと向き直り、近づけるギリギリの場所まで駆けて行く。その背中は吸い寄せられそうなほどに威風たる貫禄が備わっている。……空也は根拠のない納得を得た。
 きっとこの狸は、仲間を誰も死なせないだろう。
 ハツネが、茶部が頭を垂らす。
 時を同じくして背後に集った(未だ集いつつある)数百の動物達がその動きを模倣する。
 どこかから仲間が駆けつけてくる音だけが慌しく響く。誰もが口を閉ざした。
 一体これから何が始まるのか。
 雨を降らすと言っても、そもそも彼等は何の道具も持たずに果たしてどうやって──
 ──手の甲に。
 ──落ちたのは水滴だ。
「え?」
 見上げて分かるはずもないのに、思わず墨色の空を仰いでしまった。
 途端その顔に、軽い囁きが染み込み──肌を滑って襟元に消えていく。
 一つ、二つ、三つ……
 雨粒が頬を打つ。
 空が小声で山に話しかける──そんな夢を描くような小雨が舞い落ちたのだ。
 人間達は世界に取り残された。語るべきこと、為すべきことが何一つ思い浮かばない。
 それは奇跡と呼ばれる出来事だったのだ。
 ハツネが、茶部が、大勢の狐と狸が一心不乱に祈り続けていた。頭を下げ、まるで神に祈祷するかのように自分一人の空間を各々が創り上げている。
 雨が降る。
 その密度が増し、やがて夕立のような激しさを伴い始めた。
 炎の渦に数多もの水滴が吸い込まれていく。熊達は湿った大土を何度も被せ続ける。
 大地は濡れた。水が落ちる。気づけば月は雨雲に遮られていた。
 落ちる。
 落ちる。
 大量の水が。
 願いを聞き届けた空から送られた、鎮火の浄水がぶちまけられていく。
 炎が割れる。絶え間なく注がれる水を前に、口惜しそうに道を割った。
 悪魔達は全身に水を浴び、その勢いを失速させる
 ──が。
「……足りない」
 崩れない。
 炎の揺らぎは弱まった。空也の頬を穿つように打ちつける雨は確かに業火の一部を削り取り、その足を砕いたのだ。
 だがそこまでだ。
 人間からすれば脅威となる夕立でも、ここまで成長し膨れ上がった悪魔を前には足止め程度にしかならない。
 雨は降る。炎を削る。
 だがそれ以上の速さで木々が火に飲み込まれ、その腹を肥やしていくのだ。
 茶部が瞳を閉ざしながらも無念の表情を形作る。それでも祈りを止めることはない。
 狐や狸だけでなかった。既に辺りには染野山のありとあらゆる動物達が、老若男女が顔を揃え、皆一様にしてその瞳を閉ざし祈りを掲げていた。誰もが無言。それはしじまの世界。火と水だけが対立し、乱舞し合う生き物達の世界を超えた精霊世界。
 鹿が、犬が、鳥達が、猪が──山に住む全ての者が雨を願う。
 ──否。全てではない。
「皆さんも……お願いします! 雨を……雨を願って下さい……」
 空也の声の先には、数十年の時を生きた男達。文明と叡智に頼り、妄想や昔語りの世界を離れ、草原でなくアスファルトの道を行く者達。
「お、おいおい……空也君……」
 戸惑いと苦笑い。鼻で笑われるが道理。一重にそれが起こらなかったのは、人間達の周りに集まり始めた異常な数の動物達だろう。目の前では火炎地獄の宴と、天からの采配としか思えないほどのタイミングで振り出した夕立。既に人間達は御伽話に取り込まれていたのだ。
 常識と理屈がそれを拒む。
 祈り? 願い? 
 そんな非科学的なものが一体何の価値を──
「やれ」
 あらゆる生命の存在を認めない絶対零度の世界。厳蔵が落とした二文字は男達の心臓を鷲掴みにした。老翁から発せられる異質なまでの波動に息が詰まる。竹槍で遊ばれるのとはまるで違う。一体なぜ厳蔵が怒っているのか、男達には理解できなかった。
 土山厳蔵は恥じたのだ。
 人より下と位置されている動物達がこれほどまでに一途に戦っているのに。
 それを笑おうとし、冗談の一言で済ませようとした人間達を。
 桃源郷は未だ遠い。
 やがて厳蔵の未知なる迫力に気圧されたのか、それとも自分達だけ何もしていないことを気まずく思ったのか、一人、また一人が黙祷を捧げるかのように頭を下げ始めた。
 ──今はまだ、それでいい。
「あ、雨を願うって……。心の中で思えばいいのか?」
「確かに私達には祈るくらいしかできませんしな……。それもありでしょう」
 人は純粋に願うことをいつしか忘れた。文明がそれを叶えてしまったからだ。
 原初は同じ。熊も狸も狐も人も。何かを想う心には何一つ相違はない。
「絶対夢だ。俺は……きっと夢を見ているんだ──」
「その夢を──」
 一人の男が呟いたそれを空也が継ぐ。そして未だ夢見心地な男達に一言を告げた時──
「現実にするんです」
 言葉は土砂降りのような雨音に掻き消された。
 一挙に激しさを増した夕立に茶部やハツネも内心驚きを隠せない。
 だが彼等は冷静に状況を分析していた。まだだ。それでもまだ足りないのだ。
 髪と服が水浸しになり、靴の中も水で溢れ返り、拭っても拭っても水面の中にいるかのように視界がぼやけ始めても尚、悪魔は吹き荒れる。一切の物音が叩きつけるかのような豪雨に霧散した。もはやただの重い枷と化した服が邪魔で仕方ない。水滴で泥が飛び跳ねる。それでも空也を除く全ての者達がただひたすらに祈っていた。炎が悲鳴を上げている。消えはしない。だが台風のような勢いの雨を前に確実にその勢力を縮小させていった。
 ──このままでは、こちら側が先に力尽きてしまう。
 鉄砲水のような雨が吹き荒れる。小柄なる体躯の、ましてや女子供にこの場で留まれというのは酷だ。
 だが誰も逃げようとしなかった。山の民達は死すらも超越していたのだ。
 人と──
 獣が──
 手を取り合う。
 それは如何なる難敵をも打ち砕く力が秘められている。
 炎は確実に弱まっている。だが後一押しがどうしても足りない。
 ならば。
 頭にぶちまけられる激しい水をよそに、空也は重い一歩を踏み出して行く。
 目指すその先は。
 滝のような濁流に対し、微動だにせず祈りを捧げる着物の少女だ。
「ハツネ!!」
 耳元で怒鳴った。
 そこまでしてようやく届く声。ハツネがその宝石を瞼の中から覗かせる。
 こんな小さな敵が自分達の理想を妨げることなどできはしない。
 たかが炎だ。
 人工の火だ。
 こっちには──!!
 空也はハツネを抱き寄せると、驚きで見開かれたその瞳を無視し、愛しき人の唇に自らの唇を不器用に重ね当てたのだ。
 こっちには──二つの世界を股にかけた愛がある!!
 空が破裂した。
 まるで空間が切り取られ、遠くたゆたう海原と接続されたかのように。
 天の上に住む巨人達がバケツいっぱいに溜めた水を逆さにしたように。
 冗談のような大水が、弱々しくもしぶとくその力を主張する業火に激突した。
 夕立は嵐に、嵐は台風に、そして台風は更なる災害へと進化を遂げる。
 冗談のようなピンポイント。
 炎が支配する勢力の真上に、神の奇跡としか思えない巨大なる滝が一挙に落ちたのだ。
 淘汰。
 そして湧き起こる渦潮。
 動物達が、人間達が、あまりに膨大なる水量を前に遂にバランスを崩し祈りの輪が千切れ飛ぶ。飛沫の間を突き抜ける悲鳴。泥水によるプールが土砂を押し流す。
 皆の祈りは神をも呼び起こしたのか。
 ノアの大洪水のように。
 空也はハツネと体を重ねたままきつく抱き合っていた。
 彼女は微動だにしない。ただ柔らかな体温だけが伝わってくる。
 時めく心臓。
 阿鼻叫喚の中で突っ走る青春。
 このまま死んでもいいと思えるくらいの、幾百もの感情。万色もの想い。
 そんな祈りは通じなくてもいいのに。
 濁流に押し流されそうになった動物達を必死に食い止めようとしていた一頭の熊が水中でバランスを崩す。三百キロは越えるであろう巨体。
 それが。
「旦那様!!」
 悲痛なる声は隣から。
 真っ黒の毛むくじゃらなる闇が空也の眼前を覆い尽くし──
 脳味噌がホームランを浴びて彼方へと吹っ飛んでいった。後頭部まで突き抜ける衝撃。体を支えきれず上半身から泥水の中に倒れ込む。体の半分のスイッチが突如オフへと切り替わる。抵抗。飛びかけた意識をつなぎ止める。だがそんな思いさえも実る時間が与えられず──
 残りの半分のスイッチが強制的に遮断された。
 体の感覚が消えた。
 聴覚から侵入する濁音がミュートになった。
 意識が溶けた。
 最愛の少女の姿をその闇に描こうとして──
 空也は気を失った。

       

表紙

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Neetsha