Neetel Inside 文芸新都
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吸血鬼+ロボット三原則+記憶/wadi×wadi/ピヨヒコ


 初見のバーに入ったものの、瀟洒な名前のカクテルを頼むつもりは毛頭なく、僕はカウンター席の一番手前に座るなりジンを注文した。バーテンの若い男が戸惑い、ジン? と聞き返してくる。
 そう、ジン。
 バーテンが僕の目の前にジンの瓶を並べた。平べったいやつ、三角形のやつ、兵隊が描いてあるやつ、そして青いやつ。どいつもこいつも胡散臭い。香水を体にぶちまけた男みたいに信用ならない。ジンってのはそういう酒だ。胡散臭くて気取ってて、手軽に酔えて上手くいけば吐かない。
 僕は青いジンを指さす。これストレートでいくら? そう600円。良心的な店だった。
 グラスで出されたジンを一気に飲み干す。喉の粘膜がべらべら剥がれていく感覚に続いて胃が焼けた。半開きにした口からアルコールにまみれた息を押し出す。実に臭い。しばらく胃が波打っていたがそれも止み、血液に溶けたジンが脳の深いところへ回っていった。
「変わった飲み方をしますね」
 バーテンが言う。僕は店内を一瞥しながら(他に客は女が一人だった)それに答える。
「酒になにか混ぜる方がまともじゃない」
「ジンは混じり気が魅力の酒です」
 ああ、なるほど、違いない。僕は笑った。彼も笑った。
 もう一杯おなじ酒を飲む。嚥下の度に脳細胞が潰れていくようだった。
「作る方としては楽ですけど、強いですよ」
「何度?」
「47です」
 グラスに残ったジンを眺める。どうみてもただの水だった。こんなもんに僕は酔っているのか。
 僕は適当につまみを注文してグラスを置いた。店内を見回す。縦に細長い店内の奥にはローテーブルと真っ赤なソファが二つあった。カウンター席は七つ。どこの店にもあるありふれた酒が並ぶ棚。ギネスのビールサーバー。目の前のカウンターには使われたことの無いであろうランプ。甘く香る紫色のキャンドル。もう一人の客である女性の目の前にはおもちゃのロボット。どこをとっても無難なレイアウトだった。流れる音楽がオフビートでは無いところだけが評価できた。
 目の前にビーフジャーキーと台形のチョコレートが置かれた。なるほど、気を利かせてくれる。
 僕がビーフジャーキーを口に入れ、強めの塩気を味わったその瞬間、どこからか「アイラブユー」と声が聞こえた。バーテンに目をやると、彼は黙々と氷を砕いているだけだった。となるともう一人の客だろうか。横目で見ると、彼女は目前のロボットの頭を撫でていた。
「アイラブユー」
 またぞろ同じ音が聞こえる。彼女は口を開いていなかった。まずい、まさかたったの二杯で酔っぱらってしまったか。
「どぅーゆうらぶみぃ?」
 しかし今度は彼女の口が開いた。酒に酔った女の甘い声だった。
「アイラブユー」
 ああ、得心いった。
 アイラブユーと言ったのはおもちゃのロボットだったのだ。よく見ると、頭部の電飾が青とか緑とかに光っている。
「好き? 好き? 大好き?」
「アイラブユー」
 彼女は小さく咳き込むように笑い、それからゆっくり僕を見た。可愛らしい女性だった。大きな瞳、控えめな唇、薄く染まった頬。少しだけ開いた胸元のシャツが、付け入る余地を伺わせる。
「可愛いでしょ、このロボット」
 少し掠れた声が、バーのきな臭い空気に乗って僕に届く。
「喋るんですね」
 可愛いかどうかは別として。僕の答えに彼女は誇らしげに言う。
「この子、私の会社が作ったんですよ。話しかけた人が一番聞きたい言葉を言ってくれるロボット」
 一番聞きたい言葉を言ってくれるロボットという長い発言は、酒に酔っているであろう女性の口から出るものとしては似つかわしくなかった。
「へぇ、最近のロボットはすごいですね」
「あなたも話しかけてみますか? きっと一番聞きたい言葉を返してくれるから」
 僕は少しだけ考える振りをして、やってみましょうと言い彼女の隣に席を移動した。もちろん、グラスとつまみを持って。
「なにを言っても答えてくれるんですか?」
「ええ、まず頭を撫でてあげてください。それから、なにか言ってみて」
 彼女から甘い香りがした。酒のような、汗のような香りが。
 僕は言われたとおりにロボットの頭を撫でる。ドラえもんにコロスケを足して鉄腕アトムで割ったような外見のロボットだった。
「ハロー、一杯どうだい?」
 ロボットは答える。
「アイラブユー」
 彼女がロングタイムドリンクを一口飲んだ。角の取れた氷がグラスに響いた。
 ロボットは頭についたニキビみたいなライトを光らせて、それから死んだように黙り込んだ。



 そのロボットの名前はレインというらしかった。子供向けのおもちゃだ。音に反応して「アイラブユー」と再生するのだという。彼女曰く、百回に一度は発音が「アイラービュ」となる。それを聞けたらラッキー。惹句は「いちばん聞きたいセリフをあなたに」というのだから、センスが無いというか(ロボットの名前にしたって安易だ)ユーモアに欠けるというか、なんにせよ魅力が無い。
「レインを思いついたときは、大発明だと思ったんだけど」
 彼女がロボットの頭を撫でた。滑らかな機械の頭部を撫でる指に、夫を臭わせる金属は見えない。
「愛を語るロボットを作ったと思ったんだけどな」
 僕はジンを頼み、半分ほど飲んだ。
「愛を語ってるじゃないですか」
 彼女は僕を見て首をかしげる。
「昔ね、噛み癖のある女と付き合っていたんですよ。そいつは事あるごとに僕の指とか腕とかを噛んだ。これがまた痛くて。でもその女からしてみれば、それはある種の愛情表現だったそうです。けれど僕にしてみりゃ傷害だ。結局血が出てそれを舐め取られたことが原因で別れたんですけどね」
 血が出るまで噛まれたから別れたというのだけ嘘だった。本当はお互い面倒になっただけなのだろう。
 世の中の恋人同士が両想いだから付き合っているとは限らない。
 残った酒を飲み干す。ああ、ちょっと飲みすぎだ。
「僕が言いたいのは、愛なんて言ったもの勝ちってことです」
 いや、言ったもの負けだろうか。
 彼女はロボットの頭を撫でた。
「この子のアイラブユーも?」
「そいつのアイラブユーも」
「言っちゃったから、勝ち?」
 僕の首肯に彼女は微笑んだ。
 その笑顔はとても純粋で綺麗だった。可愛いなと感じ、抱きたいと思った。
「奢りますよ、一杯どうですか?」
 彼女はグラスの淵を指でなぞり、
「下心はありますか?」
 と僕に訊ねた。
「ウォッカを奢るような男に見えますか?」



 彼女も僕も、仕事上がりの憂さ晴らしにこのバーへ入ったようだ。僕はやりがいの無い仕事に嫌気を感じて。彼女は名前のわりに人の心を掴まないロボットに愕然として。
 僕達は意味の無い会話を楽しんだ。近所の犬の頭から、脳みそのような膿があふれ出ていること。バーに来るといつもは飲めないような強い酒を、咽ることなく飲めること。どれもこれも下らない話だった。そんな中で、彼女のアパートの壁が妙に薄く、隣人のセックスが筒抜けになるという話題ではここぞとばかりに盛り上がった。
「男の人の声も大きくて。彼女の名前を叫びながら、ベッドをガンガン揺らしてるみたいなんですよ。それが私の部屋のほうの壁にぶつかるものだから、どんなペースで動いているのかもバレバレ」
「それは災難ですね」
「ほんとですよ、独り身にしちゃ。そんなときかな、この子を思いついたのは」
 言うと彼女はロボットの頭を撫でた。
「私の寂しさを少しでも紛らわして欲しかった。それが第一条件。次に第一条件が誰にもばれないこと。その次に少しでもお金になってくれること」
「その原則は守られてますか?」
「第一条件からダメかな」
 彼女がロボットの頭部を指ではじいた。「アイラブユー」と声がした。
「だってこの子はアイラブユーって言ってくれるだけ。キスもしてくれないし、抱いてもくれない」
「セックスだけしてアイラブユーと言わない関係もありますよ」
 彼女はそっか、と呟いてそれから視線をカウンターテーブルに落とした。その沈黙の間、僕は考える。アイラブユーとだけ言って何もしない関係と、アイラブユーとは言わない肉体関係のどちらがマシか。
 僕の指を噛んだ女は、どちらかというとセックスが好きな女だった。自分から求めてきて、程なく絶頂に達し(僕にとって絶頂に達する女は珍しかったのだ)、僕自身を満足させてくれる女だった。しかし彼女はあまり僕を好きではなかったのだろう。ただ単にセックスができる異性として付き合っていただけなのかもしれない。だから僕は、彼女からアイラブユーなんて言われたことは無い。
 だがその関係も悪くは無かった。アイラブユーなんていわれても、僕はどんな顔をすればいいのか知らない。玄関を開けたら宗教の勧誘が来ていた時のように戸惑うだけだろう。それで、適当に答えて、うやむやに終わらせる。そうなるくらいなら、部屋に通した瞬間に抱くくらいの、性欲に支配された関係のほうがわかりやすい。そうだろ?
「わたしは」
 彼女は言う。
「アイラブユーって言ってくれて、セックスもできる関係がいいな」
 そうですか。
 僕は答える。
「セックスだけならできますけどね」
「しますか?」
 彼女はロボットを僕の目の前に置いた。僕はその言葉に淡い期待感を抱いたが、目の前の木偶に睨まれているような気がして返事ができない。
「アイラブユーはこの子に言ってもらいます」
「……僕とは体だけ?」
「そうなりますね」
「じゃ、僕はアイラブユーって言ってもらえないわけか」
 彼女はおかしそうに笑う。
「私、セックスは嫌いじゃないですけど、体質的に最中何かと痛いんです。あなたは気持ちいいだけでしょ?」
 こうなると男は何もいえない。
 僕は空になったグラスに埃が沈んでいるのを見つけた。
「自分だけ、いい思いするのはダメ」



 彼女は先に帰って部屋を片付けると言い残しバーを出た。ロボットを預けるから、必ず届けに来るようにと笑って。僕は最後の一杯を注文して、今日何度目ともわからないそれを少しずつ飲む。手元のコースターには彼女のアパートの名前と部屋の番号が書かれていた。それを手に取り眺める。
「行くんですか? お客さん」
 バーテンの男がタバコを吸いながら僕に訊ねた。
「行くよ」
「羨ましいですね」
「いや、ロクなもんじゃない。体だけと決めていても、どうせ後から気持ちもついてきてしまうんだよ。いずれ彼女か僕が、きちんと交際したいと言い始めるだろうね。事実僕は今までずっとそうやって彼女を作ってきた」
 バーテンの彼がタバコを一気に吸って、一呼吸置き、天井に向かって煙を吐いた。
「それって、好きだから付き合おうってことじゃないんですか? アイラブユーって言ってるような気がしますけど」
 彼女が僕に預けたロボットの頭を撫でて、
「どう思う、お医者さん」
 と聞くと、ロボットは答えた。
「アイラービュ」


以上


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