Neetel Inside 文芸新都
表紙

くじで出たお題で小説書こうぜ企画
第二回10/14〜11/14

見開き   最大化      

第二回目
番号もくじ

18 ここ(もくじ)

19 記憶+倉庫+花びら/フラワーメモリー/ひょうたん
20 娼婦+逆さま+崇拝/ルナティックの歌/橘圭郎
21 娼婦+世界の終わりは君と二人で+粉末/魔法/池戸葉若
22 世界の終わりは君と二人で+記憶+花びら/彼女は重たい/泥辺五郎
23 吸血鬼+花びら+ロボット三原則/墓碑/藤原諸現象
24 吸血鬼+ロボット三原則+記憶/wadi×wadi/ピヨヒコ
25 ロボット三原則+崇拝/うた /まるや
26 記憶+世界の終わりは君と二人で+ロボット三原則+崇拝/昔話/大野 英幸
27 ラジオ+粉末/毒/つばき
28 花びら+ロボット三原則+粉末/対バイオロン法第六条/田中田
29 記憶+崇拝+粉末/消えた国の王女様/猫瀬
30 逆さま+ロボット三原則+記憶/講じろ、薫風亭初花!/ジョン・B
31 ラジオ+花びら+ロボット三原則+記憶/SHISA/あう
32 ロボット三原則+娼婦+粉末/カラクリカタリ/蝉丸
33 花びら+記憶+崇拝/血色の花/山田一人

34 おわりの話と次回について

     

◆記憶+倉庫+花びら/フラワーメモリー/ひょうたん



 彼はいつも思っていた。もう少し肩の力を抜いてテキトーにすればいいのに、と。
「どもども、今日もおつかれさんでっス」
 彼も思っていた。1日に1度とはいえ、何と不快なことだろうか、と。
「本日もご苦労様です」
 
 
 
『フラワーメモリー』
 
 
 
「いやぁ、今日もいい天気ッスね」
 軽くて薄っぺらな声。変にトーンが高く、ツンツンと鼓膜を刺激する。彼は何も答えず、錆びついた金属製の扉を開いた。そこは薄暗いが比較的清潔で、大小のダンボールが積まれている。
 ここは某通販会社の倉庫。注文が入るたびにここから取り出され、商品が作られるたびにここに搬入される、数多くある倉庫の1つ。
 彼は単なるここの倉庫番。
 彼は単なるここの運送屋。
 それ以上以下もない。ただ見張るだけで、ただ運ぶだけ。
「今日も無愛想ッスね」
 特に非難した様子もなく、トラックと倉庫を何度も往復して荷物を運び出す。彼はそれを手伝わない。自分は見張るのが仕事で運び出すのは彼の仕事、そう割り切っていたからだ。
 割り切ると言えば聞こえは良い。実際はあまり関係したくなかったのだ。小汚く染まった茶髪、ケラケラと笑みを浮かべる顔、ヨレヨレのツナギ。唯一評価できるのは、運送で鍛えられた身体ぐらいだろうか。
「ちょっとぐらいしゃべってよくないっスか? 長い付き合いっしょ?」
 彼の言う通り、彼らは昨日今日の付き合いではない。少なくとも彼がここの倉庫に来るようになってからずっと彼が守衛だった。白が混じった髪をぴちりと整え、警備員の制服もきっちりと着て、いつもぴしっと真剣な表情。
 ちょっとダンディーすぎやしねぇかい? そりゃ、楽しくない仕事かもしれないけどさ。
「はぁー、あいかわらず無視っスね、そっスか」
 彼も最初から期待していない。程なくして運び出しが終わったのか、彼は出庫手続きの書類に記入し、彼は扉を閉じた。
 いつもなら彼はさっさとトラックに乗って走り出す。彼はそれを見送り、また見張りに戻る。けれどもこの日は、彼はどかりと倉庫の壁にもたれ、その場に座り込んだ。
 さすがの彼も無視できない。用事が終わればすぐ行ってほしかった。それは個人的な理由でなく、自分の仕事的な意味が強かった。
「何をしている?」
「ちょっとおしゃべり、しません?」
 わけがわからなかった。どうして今日に限ってそんなことをするのか、まったくもって意味不明だった。
「運搬会社に通告する」
「あー、それもいいかもしれねぇ。俺、今日で最後なんスよ」
 最後。その言葉が、なぜだろう、変に引っかかった。
「やめるのか?」
「お、興味ありあり?」
 言わなければ良かった。彼は思う。そんな彼の様子に気づき、彼はあわてて取り繕う。
「あ、すんませんっ。決してバカにしたわけじゃないんス」
「構わない。ちょうどいい暇つぶしだ」
「ハハ、違いねぇス。えー、俺ね、もうすぐ結婚するスよ」
「ほう。それは良いことじゃないか」
「そうなんスけどね……それで、ヨメさんの実家の稼業、継ぐことになったんスけど……」
 なるほど、それで辞めるのか。しかし、この様子はまだ先がある。トントン拍子に良い方向に進んでいるのに、なぜそれほど悩むのか。
「俺、こんなんでいいのかなぁーて。この仕事もダラダラ続けていただけだし。結婚して婿養子になって稼業継がせてもらって。俺の生き方、こんなんでいいのかなぁーて、最近思うんスよ」
「たしかに、生かされているだけかもしれないな」
 少し厳しめのことを言ってしまった。が、迷える青年にはちょどいいぐらいだろう。
「それひどくないッスか?」
「本当のことだろう」
「まあ、そッスよ、まあ」
 すっかり元気のない彼を見て、彼は守衛所に戻る。そしてパイプイスを2つ、大きめの灰皿を1つ。缶珈琲を2つ、持って戻ってきた。
「座れ。そして飲め。煙草ぐらい吸うだろう?」
「タバコにコーヒー。すげぇもてなしっスね」
「部外者の守衛所への立ち入りには規定で禁止されているからな。あと酒も出せん」
「あんた、酒呑んでのか?」
 彼は自分の持つ彼のイメージ外のことを言われ、驚いた。そんな彼の様子を見て、彼はニヤリと笑う。
「こんな仕事、酒でもなければやってられないぞ?」
 
 缶珈琲を飲み、煙草をふかす。紫煙が2人を包むころ、彼はぽつぽつと話し始めた。
「私には妻がいた。ちょうど君ぐらいのときに結婚した、唯一の妻だ」
「案外早く結婚したんスね」
「たしかに早かったかもしれんな。私は見ての通り堅物な人間だった。昔からだ。そんな男に付いてきてくれた、妻だ」
「ははは」
「あのころは仕事一筋だった。子供もいない、ずっと仕事が生きがいだった。そんな私に文句1つ言わず、隣にいてくれたんだ」
「いいヨメさんっスね」
「当然だ。でもな……思い出が、ないんだ」
「思い出が、ない?」
「平日は当然、休日もほとんど会話らしい会話をしなかった」
「ああー、なるほど」
「私が仕事のことを考えなくなったのは、定年してからだった」
「なら、今からヨメさんとの思い出、作ればいいんスよっ」
「定年の数年前、死んだ。癌、だった」
 彼は煙草を灰皿に投げ捨てた。彼にかける言葉がない。彼は若すぎた。
「妻の趣味はなんだったのか。好物は? 旅行に行きたかったところは? 得意な料理は?
 子供、ほしかったんじゃないのだろうか。病気はいつごろ発覚したのか。私に打ち明けるまで独りで病気を抱え込み、何を思ったのか。
 私は、あまりに、知らなさすぎた」
 ごくり。缶珈琲が尽きる。
「でもな。唯一、記憶に残っているのがな、笑顔なんだ。妻の笑顔。向日葵のような笑顔だ。
 定年後、結局仕事以外に生きがいはなかった。今はこうしてくだらない倉庫番をしているが、何もない時間、妻の笑顔を思い出そうと、ずっと物思いにふけっている。
 しっかりとは思い出せない。でも、それでいい。今の私には向日葵は眩しすぎる。そこからこぼれる1枚の花びらのような、小さな記憶でもいい。それを、集めて、妻を想いたいんだ」
 彼はタバコを捨てた。缶コーヒーはとっくに空になっていた。
「少年」
「は、はいっ」
「妻を、大事にしなさい。私のことは反面教師にしなさい。私からは、これしか言えない」
 フィルターだけの煙草、空になった缶珈琲。少年をこの場に止める理由はない。この暇つぶしも、もう終わりだ。
「俺、行きます」
「ああ」
 トラックに向かう。最後の光景。今までとは違って見える光景。
「少年」
「はい?」
「結婚、おめでとう」
 彼は笑う。見たことのない、初めて見る、笑顔。
「あざっス!」
 少年も笑って応えた。トラックが走り出す。
 少年はもう来ない。でも、心配はしない。きっと大丈夫だろう。
 
 昨日まではずっと妻のことを考えていた。明日もきっとそうだろう。でも今日ぐらいは、少年の未来を祝福し、祈ろう。
 
 
 
****************************
 
 文藝新都:私とお酒の日々:http://neetsha.com/inside/main.php?id=8271
 文藝新都:書きます、官能小説。:http://neetsha.com/inside/main.php?id=9253
 

     

娼婦+逆さま+崇拝/ルナティックの歌/橘圭郎


 天にはまんまるお月様
 月にはねんごろ女神様。
 女神を仰いだ神殿は
 夜に花咲く娼婦の館。

 大陸一の神殿に
 そぞろと集う男共。
 こちらは海の向こうから
 あちらは砂の舞う地から。
 聞いた噂に釣られてね
 すごい女がいるってさ。

 晴れた空には傘を差し
 雨降る日にはびしょ濡れよ。
 だって彼女はルナティック
 月(ルナ)の名を持つ巫女だもの。

 蝶の留め金、髪に着け
 薄衣(うすぎぬ)まとって踊るのさ。
 ラライララライ ララライ ライ
 お手をどうぞと微笑んで
 ほんのり染まった頬よせて。
 蒼い瞳にゃ狂気が宿る
 サライサラライ サラライ ライ
 見つめられたらもう虜。



 ところがある日、あちこちで
 変な病が流行ったと。
 全身ぶつぶつ腫れだして
 熱に浮かされ夢心地。
 終いにゃ脳みそドロドロに
 溶けて狂って死ぬんだと。

 王様、司祭、医者、大臣
 雁首そろえて話し合い。
 病に原因あるならば
 しらみ潰しに探し出せ。
 兵(つわもの)放って草の根分けて
 集めた証言ひとしきり。
 男が揃って言うことにゃ
 皆が彼女を抱いたとさ。



 天に輝くお日様は
 汚れたものが大嫌い。
 土も空気も樹も人も
 腐れる前に焼き払え。
 手遅れになぞするものか
 疑わしきは焼き払え。

 槍持ち司祭、列を組み
 日輪(ひのわ)の旗をなびかせり。
 娼婦のルナをひっ捕らえ
 見せしめ広場に引っ立てた。

 女の妬み深いこと
 ここぞとばかりに石投げる。
 ざまあ見ろ見ろ、いい気味だ
 綺麗で若けりゃ偉いのか。

 足に縄され鞭打たれ
 夜蝶は二度と羽ばたけじ。
 杭で張り付け逆さ吊り
 真っ逆さまさ、逆さまさ。
 
 ついにそのときやってきた
 ねぶり火あぶり、猫かぶり。
 松明構えて司祭は問うた
「最期に言い残すことは?」
 けろり笑って彼女は返す
「傘を差してよ。眩しいわ」
 後はお決まり、いざ点火
 焦げて煙っておさらばさ。



 だけどだけどね、これだけで
 話が終わるわけがない。
 焼けた彼女の身体から
 灰が飛び散り宙を舞う。
 舞って落ちたるその先で
 ぞわりぞわぞわ、花が咲く。

 切って払っても減りゃしない
 どんどこ増える蒼い花。
 ルナの瞳に似た色の
 ぞっとするよな美しさ。

 いくら日輪が照ろうとも
 滅ぶことなき夜(よ)の香り。
 愛でよ讃えよ語り継げ
 ぞわりぞわぞわ、花が咲く。

     

 ◆娼婦+世界の終わりは君と二人で+粉末/魔法/池戸葉若


 ――吾輩は人である。名前はもうない。
 うろ覚えだが、小さい頃にお祖父さんが読んでいた本を盗み見たとき、たしかこんなフレーズが冒頭にあったような気がする。どこか異国の本を翻訳したものらしかったが、その国をお祖父さんは決して教えてくれなかった。ここ以外の国のことは極力知ってはいけない、と言われた。外部知識は毒。脳が腐ってしまうのだそうだ。
 ごみごみとした通りから小路に入ると、あたりは腐臭と闇の世界へと変わった。生ごみと人の区別がつかない。建物と建物のあいだに蜘蛛の巣のようにロープがかけられていて、布きれが逆さ吊りになってる。なにもかもが饐えている――けれど、これがこの国の当たり前だ。東の最果てには龍のかたちをした黄金の島があるらしいのだが、童話集に収録されている話なので信じていない。
 ――吾輩は人である。名前はもうない。
 僕はもう一度そのフレーズを口ずさみ、うすく笑った。それは、これから会いにいく僕の恋人にぴったりなような気がした。
 小路の中のとある店に入った。下卑た男が黄色い歯を見せて近づいてくる。僕は料金を払い、男に先導されて廊下を進む。いくつかある部屋、そのひとつの前で男はドアを開錠した。僕は、ごくろうさま、と言って中に入った。
 そこに僕の恋人がいた。
 浅黒い肌の、まだあどけなさの残る少女。いや、成長がとまってしまったというべきだろうか。彼女は矮躯(わいく)をベッドにあずけていた。やってきたのが僕だとわかると、泣きそうな顔で微笑み返してくれた。
 彼女との出会いはどうだったか、あまり覚えていない。酔ったついでの道楽だったと思う。あいにく酒と女には困らない地位にいる僕は、一回ぐらいは底辺の中の底辺を経験してやろうとこの売春宿に入ったはずだ。そのときの相手が彼女で、酔いなんか一瞬で醒めて僕は心を奪われてしまった。それ以来、毎週通っている。
 「ああ、今日もきれいだ。僕のいとしい人」
 そう言って彼女の一糸纏わぬからだを抱くと、アウアウアウアと弱々しく返された。聞き取りづらいが、やめてくださいそんなこと、と言いたいらしい。彼女をはじめ、ここの女たちは全員があごを砕かれていた。自分で舌を噛み切らせないため、口を使う客に粗相のないようにするため、だという。これでは言葉も交わせないじゃないか、と前に言ったことがあったが、店主に変な目で見られた。普通の客は、ただここに肉欲を吐き出しにきているだけ。肉の穴に言葉は必要ないとのことだった。
 僕は服を脱ぎ、そっと彼女のからだを汚れたベッドに押し倒した。他の客が乱暴にしすぎるため、スプリングは今にも壊れそうだ。ぎしぎしと揺れる中、僕はやさしく彼女の首筋にキスをしていった。制限された時間の中で、いつも僕はこうやって純粋に彼女を愛することに大半を費やしている。僕が持ち寄ってきているのは、劣情ではなく愛なのだ。
 なら――そこまで大事にするのなら彼女を買い取ってやればいいじゃないか、と意見する人がいるかもしれない。けれど、それは違うのだ。彼女にきらびやかな衣装を着せてやったところで、きっと僕はすぐに白けてしまうだろう。連日のように代わる代わる客の男たちに犯されて、生命の維持に必要な分だけのスープしか飲めず、薄暗いこの懲罰房みたいな部屋で穢されつづけている彼女が、なによりも美しく見える。この視神経の芯まで汚泥に浸かりきったような瞳が、美しい。
 だから、美しいものに触れたいと思うのは、罪だろうか。
 「ああ、ああ。もうだめだ。愛しているよ――」
 彼女の中に、彼女のためだけに溜めた思いを深く注ぎ込んだ。脈打つ熱はどんどん誘い出されるほうに迸っていって、あふれ出す。微細な痙攣が響き合うのを感じながら、僕は腰を引いた。まだ恋しい。今度は彼女の太股を持ち上げて、再び腰を沈み込ませた。彼女の唇をふさぐと、粘膜の感触がすべてを覆い、からだの境界線がなくなっていくような気がした。


 事を終えて、僕は彼女に虹色の小壜を見せた。
 彼女は安心したように顔をほころばせて、僕に近寄ってくる。僕は持参してきた水をコップに注いだ。一振り二振り虹色の小壜を振って、同じく虹色の粉末を水に溶かす。
 これは魔法の粉だった。
 以前に、今みたいに愛し合ったあとに彼女は僕にこう言った。相変わらずアウアウアウと、不器用に口を閉じたり開いたりして、涙を流しながら。
 ――わたしはもうここにいたくない。自由になりたい。それが無理なら、死にたい。
 愛しているのだから、あしらうわけがない。僕は彼女の願いを叶えてやろうと思った。そのために、彼女には会うたびにこの余った時間で、粉末の水溶液を飲ませることにした。願いが叶う粉だと彼女には説明すると、彼女はまるで疑うふうでもなく、うれしそうに飲み干した。たまにえづくことがあったけど、彼女は頑張った。
 そして。
 今日、彼女がこれを飲めば魔法は完成する予定だった。
 僕は彼女をじっと見つめる。彼女は潤んだ目で頷き返してきた。彼女はゆっくりと壊れたあごを震わせて言った。ありがとう、と伝えたいように思えた。
 彼女は一気に水を飲んだ。
 すると小さなからだはがくりと傾いだ。コップが床に落ちて割れる。ついでびくびくと筋肉が笑い出して、呼吸を荒げていく。僕はその様子をずっと見ていた。
 彼女の背骨が盛り上がっていき、背中がむくむくと厚くなっていく。やせ細った手足は次第に丸太ほどの大きさになっていき、地面を蹴り上げるためのかたちに変形していく。全身の細胞が凶暴なまでに活性化している。進化の過程を遡るようにからだ中に毛が生えそろっていく。噛みしめた歯が鋭さを増していって、虚ろだった瞳はたしかな意思をもって野性の輝きを宿していた。
 彼女は――大きな虎になっていた。
 彼女の人間としての世界はこの二人きりの部屋で終わりを迎え、なにものにも縛られない猛獣へと、本能だけが存在する自然の世界へとシフトしていた。
 「おめでとう。さよなら。僕のいとしい人」
 僕がそっと彼女の毛並みをさすると、彼女は地響きみたいな咆哮を上げてドアのむこうへと飛び出していった。望んでいた自由を謳歌するために。
 すぐにいたるところから悲鳴が聞こえてくる。僕はそれを背景音楽にしながら、一冊の本を取り出した。お祖父さんの異国趣味は僕にもちゃんと受け継がれている。『山月記』というタイトルの外国書籍の翻訳本をぱらぱらとめくった。
 脳が腐っていくのが気持ちよかった。

     


◆世界の終わりは君と二人で+記憶+花びら/彼女は重たい/泥辺五郎


 寿司を配達していたバイクが事故を起こし、路上に転がったドライバーを後続のトラックが撥ね飛ばした。血や肉や寿司が散らばる中で、幸い地面に落ちず、お盆の上に載ったままだったイクラの軍艦巻を彼女は拾って美味しそうに食べた。その瞬間に僕は恋に落ちたのだと思う。悲惨な光景を目の当たりにして鼓動が早くなっていたのを抜きにしても、彼女の歯でプチプチと潰されていくイクラの一粒になりたいと願う気持ちは嘘じゃなかった。

 それから一年が経ち、僕らは二人並んで思い出の道を歩いている。あの時亡くなったドライバーを悼むために置かれた花束から、赤い花びらがぽとりと舞い落ちる。以前なら、食べられる野草があれば引っこ抜いて食べ、食べられない、もしくは食べてはいけない花でも引きちぎって食べていた彼女が、手を伸ばそうとはしない。代わりに僕の指をしゃぶってもらう。舐められてふやけてしまう僕の指を、彼女は以前のように少し血が出るまで噛んだりしてくれない。
 食欲を失った彼女はゆっくりとだけど確実に死へ向かっている。

 大幅な前略と中略がある。後略をすれば話が終わってしまうので簡単に要約すると、世界が終わろうとしている。
 謎のウィルスが発生して。
 核ミサイルがいろんなところに落ちて。
 それから宇宙人がやってきて。
 それらはどれも関連していることかもしれない。たとえば、地球を狙っていた宇宙人がウィルスをばらまいたとか、核ミサイルの爆発の光を確認した宇宙人が地球を掃除しに来たとか。テレビもラジオもネットも機能していない今となっては、正確なところを知る術はない。宇宙人達は大陸に巨大な建造物を建てたり、核で荒廃した土地を改めて焼却したりしているらしいけれど、それがどんな意味を持つのか、懇切丁寧に地球語に翻訳して説明してくれたりはしない。どこかで聞きかじった彼らの外見についても、宇宙服のようなものを着ていたために、どんな姿なのかは分からないのだとか。

 漫画や映画なら多数の視点から世界の終わりが描写されるけれど、現実は小説よりずっと不親切だ。
「死んでいく肉体の髪の毛一本一本が、『今僕の生えている肉体は死のうとしている。具体的には食欲を失い、衰弱する一方だ。無理に食べ物を口に入れたり点滴を打ったりしても、吐き出してしまうか全く栄養が吸収されずに尿になるだけだ。謎のウィルスが原因というところまでは分かっているが、治療方法も薬も見つかってはいない。人類全体の、いや、宇宙人の存在が確認された今となっては、地球人の、と言った方がいいか。地球人全体のおよそ半数がこの病にやられ、残り半数も核戦争によってほとんど死滅している。もう助かる術はない。この私も、この私が生えている肉体も、地球人も』とか思ってるわけじゃないよね。何が何だか分からないまま、抜け落ちていくんだと思うよ。不親切とかいう問題じゃなくて、ただこれが『現実』ただそれだけのことなんだと思う」
 彼女はこの長い台詞を一時間かけて喘ぎながら語った。小説にする際には喘ぎ声も長い「間」も省略して書けてしまう。小説は現実よりも残酷なくらいに扱いやすい。いくらでも脚色出来てしまう。

 僕らはこの一年で二百七十回交わった。正確には半年で二百五十回交わり、後の二十回は世界崩壊のゴタゴタのうちに何とか成し遂げた。彼女は食欲だけでなく性欲も旺盛であり、上に乗った彼女に時折僕は押し潰されそうになった。僕が上になっても、彼女があまりに強く抱き締めてくれるので背骨が折れそうになった。潰れても折れても僕は構わなかったのだけれど、彼女は僕を壊してはくれず、代わりのように彼女だけがウィルスに犯された。
 僕だって放射線やら死の灰やら宇宙線やらの影響で長くはないけれど。

 人の血肉も寿司も散らばっていない、車も人も通らない道路上に座り込んで僕らは長い話をする。付き合い始めてからのこと、付き合い始めるまでのこと。僕らは忘れてしまったこと以外は全て思い出せた。どの思い出の中でも彼女は何かしら食べていた。それから、これからの二人のこと、これからこうなっていきたかった二人のこと。二人の間だけでしか意味を持たないこれらの会話をここに記す必要はない。
 僕らは時々笑って、時々泣いた。

 やがて終わりが訪れた。地球でも人類でもなく、彼女の終わりが。それはつまり僕にとっての世界の終わりということだったのだけれど。
 僕らを出会わせてくれたドライバーに捧げられた花束から、血に似た色の花びら一枚をちぎり、彼女の舌の上に乗せる。もう吐き出してくれないから、花びらは彼女の中に残り続ける。
 動かなくなった彼女を背負う。命をなくした彼女はいつもの倍も重く感じる。ただでさえ体重が僕の倍あるというのに。彼女ほどではなかったにしろ僕の命だってもう大した時間は残されていない。どこへ運ぶあてもないので彼女を背負うことを諦める。うまく地面に下ろせず、僕は彼女の下敷きになってしまう。彼女を横へ転がす体力はもう僕には残されてはいなかった。
 これもいいかな、と僕は思う。内から支えるものをなくした彼女の肉が、ゆっくりと僕を包み始める。

(了)

     

吸血鬼+花びら+ロボット三原則/墓碑/藤原諸現象


白い花 名前は知らない花 白い花
でもよく見ると ほんのり黄色い花

どこに咲いていた花だっただろうか
私が摘み取ってきた花のはずなのに
どこに咲いていたかも思い出せない

とにかく私は 十株の花を 傾いだ大地からもぎ取った
夢中になって かき集めて 私の胸に抱えて走っていた

彼女に 届けなければ

彼女が 欲したその花



彼女は私の主だった だから 彼女には逆らえない
私は彼女の従者だった なぜなら 私は 私の体は

私には血が無い 私には肉が無い 私には魂が無い
なぜなら 私は 私の体は ただの機械だったから

ただの機械でしかない私を 彼女は慈しんでくれた
まるで本物の妹のように まるで本物の娘のように
私と彼女は信頼しあった 私と彼女は繋がっていた

どんなに必死に走っても 苦しみは感じなかった
そもそも私は 何も感じないよう設計されている

なのに 不思議だった

哀しいと 感じたのだ



辿り着いた

雑草の上に 彼女は横たわっていた

はあはあ 弱々しい息音が聞こえた

傷だらけの彼女は 朝の光を浴び 苦しそうにしていた
吸血鬼は 太陽の日差しの下では生きてゆけないらしい
彼女は 夜の暗闇の生まれた 彼女は 夜の化身だった



私は彼女の名前を叫んだ

彼女は何も応えなかった



あれは昨夜のことだった

血塗れの彼女を 私は介抱しようとした
従者として当然のことをしたまでだった
けれども彼女はその私の手を振り払った

彼女はつぶやいた「私はもう助からない」

私は彼女の絶望を否定した 私は彼女を励ました

だが彼女はまたつぶやいた

「消えて無くなる前にもう一度 あの花を見たい」
「ア ノ ハ ナ ?」
「夜露を浴びて静かに咲く 白くてきれいな花だ」



夜露を浴びて静かに咲く白くてきれいな花
そんな情報だけでは 種別も特定できない

けれども私は 走った 走った 走った 走った
彼女のおぼろげな眼が「走れ」と命じていたから

どこまで走ったのかは憶えていない

だが 確かに私は見つけたのだった

夜露を浴びて静かに咲く白くてきれいな花
彼女が形容したそのままの姿形の花だった



生きているのか死んでいるのかも分からない
そんな彼女の体に 私は花びらを降り撒いた
彼女が欲していたに違いない姿形のその花を

彼女の頬に 花の一片が触れた

ほんの一瞬 彼女は 微笑んだ

微笑んだようなそんな気がした



さようなら さようなら さようなら

私が心でそんなふうにつぶやいてたら
柔らかだった朝の光は急に鋭くなった

彼女の肉体が灰色を帯びてきた
そしてやがて完全な灰になった



灰は 風に 撒き散らされてゆく

私は 反射的に 居たたまれず彼女に覆い被さった
彼女の肉体がこれ以上 風に撒き散らされないよう

けれども 彼女は私の体の隙間をすり抜けていった

そのうち私の体の下には 何も無くなってしまった
おそらく灰の一粒程はあったのかもしれないけれど
彼女が生きていた証は もう そこには無くなった



さようなら さようなら さようなら

私が心でそんなふうにつぶやいてたら
私の体はいつの間にか動かなくなった



さようなら さようなら さようなら

私の金属の体はきっと
彼女の為の墓碑として
永遠にここに在るのだ

花が舞った 花が散った ああ美しい

ありがとう ありがとう ありがとう

私の主だった彼女 私の家族だった君



-----------------------------------------------------------------------------------

<引いたお題>

吸血鬼/花びら/ロボット三原則

     

吸血鬼+ロボット三原則+記憶/wadi×wadi/ピヨヒコ


 初見のバーに入ったものの、瀟洒な名前のカクテルを頼むつもりは毛頭なく、僕はカウンター席の一番手前に座るなりジンを注文した。バーテンの若い男が戸惑い、ジン? と聞き返してくる。
 そう、ジン。
 バーテンが僕の目の前にジンの瓶を並べた。平べったいやつ、三角形のやつ、兵隊が描いてあるやつ、そして青いやつ。どいつもこいつも胡散臭い。香水を体にぶちまけた男みたいに信用ならない。ジンってのはそういう酒だ。胡散臭くて気取ってて、手軽に酔えて上手くいけば吐かない。
 僕は青いジンを指さす。これストレートでいくら? そう600円。良心的な店だった。
 グラスで出されたジンを一気に飲み干す。喉の粘膜がべらべら剥がれていく感覚に続いて胃が焼けた。半開きにした口からアルコールにまみれた息を押し出す。実に臭い。しばらく胃が波打っていたがそれも止み、血液に溶けたジンが脳の深いところへ回っていった。
「変わった飲み方をしますね」
 バーテンが言う。僕は店内を一瞥しながら(他に客は女が一人だった)それに答える。
「酒になにか混ぜる方がまともじゃない」
「ジンは混じり気が魅力の酒です」
 ああ、なるほど、違いない。僕は笑った。彼も笑った。
 もう一杯おなじ酒を飲む。嚥下の度に脳細胞が潰れていくようだった。
「作る方としては楽ですけど、強いですよ」
「何度?」
「47です」
 グラスに残ったジンを眺める。どうみてもただの水だった。こんなもんに僕は酔っているのか。
 僕は適当につまみを注文してグラスを置いた。店内を見回す。縦に細長い店内の奥にはローテーブルと真っ赤なソファが二つあった。カウンター席は七つ。どこの店にもあるありふれた酒が並ぶ棚。ギネスのビールサーバー。目の前のカウンターには使われたことの無いであろうランプ。甘く香る紫色のキャンドル。もう一人の客である女性の目の前にはおもちゃのロボット。どこをとっても無難なレイアウトだった。流れる音楽がオフビートでは無いところだけが評価できた。
 目の前にビーフジャーキーと台形のチョコレートが置かれた。なるほど、気を利かせてくれる。
 僕がビーフジャーキーを口に入れ、強めの塩気を味わったその瞬間、どこからか「アイラブユー」と声が聞こえた。バーテンに目をやると、彼は黙々と氷を砕いているだけだった。となるともう一人の客だろうか。横目で見ると、彼女は目前のロボットの頭を撫でていた。
「アイラブユー」
 またぞろ同じ音が聞こえる。彼女は口を開いていなかった。まずい、まさかたったの二杯で酔っぱらってしまったか。
「どぅーゆうらぶみぃ?」
 しかし今度は彼女の口が開いた。酒に酔った女の甘い声だった。
「アイラブユー」
 ああ、得心いった。
 アイラブユーと言ったのはおもちゃのロボットだったのだ。よく見ると、頭部の電飾が青とか緑とかに光っている。
「好き? 好き? 大好き?」
「アイラブユー」
 彼女は小さく咳き込むように笑い、それからゆっくり僕を見た。可愛らしい女性だった。大きな瞳、控えめな唇、薄く染まった頬。少しだけ開いた胸元のシャツが、付け入る余地を伺わせる。
「可愛いでしょ、このロボット」
 少し掠れた声が、バーのきな臭い空気に乗って僕に届く。
「喋るんですね」
 可愛いかどうかは別として。僕の答えに彼女は誇らしげに言う。
「この子、私の会社が作ったんですよ。話しかけた人が一番聞きたい言葉を言ってくれるロボット」
 一番聞きたい言葉を言ってくれるロボットという長い発言は、酒に酔っているであろう女性の口から出るものとしては似つかわしくなかった。
「へぇ、最近のロボットはすごいですね」
「あなたも話しかけてみますか? きっと一番聞きたい言葉を返してくれるから」
 僕は少しだけ考える振りをして、やってみましょうと言い彼女の隣に席を移動した。もちろん、グラスとつまみを持って。
「なにを言っても答えてくれるんですか?」
「ええ、まず頭を撫でてあげてください。それから、なにか言ってみて」
 彼女から甘い香りがした。酒のような、汗のような香りが。
 僕は言われたとおりにロボットの頭を撫でる。ドラえもんにコロスケを足して鉄腕アトムで割ったような外見のロボットだった。
「ハロー、一杯どうだい?」
 ロボットは答える。
「アイラブユー」
 彼女がロングタイムドリンクを一口飲んだ。角の取れた氷がグラスに響いた。
 ロボットは頭についたニキビみたいなライトを光らせて、それから死んだように黙り込んだ。



 そのロボットの名前はレインというらしかった。子供向けのおもちゃだ。音に反応して「アイラブユー」と再生するのだという。彼女曰く、百回に一度は発音が「アイラービュ」となる。それを聞けたらラッキー。惹句は「いちばん聞きたいセリフをあなたに」というのだから、センスが無いというか(ロボットの名前にしたって安易だ)ユーモアに欠けるというか、なんにせよ魅力が無い。
「レインを思いついたときは、大発明だと思ったんだけど」
 彼女がロボットの頭を撫でた。滑らかな機械の頭部を撫でる指に、夫を臭わせる金属は見えない。
「愛を語るロボットを作ったと思ったんだけどな」
 僕はジンを頼み、半分ほど飲んだ。
「愛を語ってるじゃないですか」
 彼女は僕を見て首をかしげる。
「昔ね、噛み癖のある女と付き合っていたんですよ。そいつは事あるごとに僕の指とか腕とかを噛んだ。これがまた痛くて。でもその女からしてみれば、それはある種の愛情表現だったそうです。けれど僕にしてみりゃ傷害だ。結局血が出てそれを舐め取られたことが原因で別れたんですけどね」
 血が出るまで噛まれたから別れたというのだけ嘘だった。本当はお互い面倒になっただけなのだろう。
 世の中の恋人同士が両想いだから付き合っているとは限らない。
 残った酒を飲み干す。ああ、ちょっと飲みすぎだ。
「僕が言いたいのは、愛なんて言ったもの勝ちってことです」
 いや、言ったもの負けだろうか。
 彼女はロボットの頭を撫でた。
「この子のアイラブユーも?」
「そいつのアイラブユーも」
「言っちゃったから、勝ち?」
 僕の首肯に彼女は微笑んだ。
 その笑顔はとても純粋で綺麗だった。可愛いなと感じ、抱きたいと思った。
「奢りますよ、一杯どうですか?」
 彼女はグラスの淵を指でなぞり、
「下心はありますか?」
 と僕に訊ねた。
「ウォッカを奢るような男に見えますか?」



 彼女も僕も、仕事上がりの憂さ晴らしにこのバーへ入ったようだ。僕はやりがいの無い仕事に嫌気を感じて。彼女は名前のわりに人の心を掴まないロボットに愕然として。
 僕達は意味の無い会話を楽しんだ。近所の犬の頭から、脳みそのような膿があふれ出ていること。バーに来るといつもは飲めないような強い酒を、咽ることなく飲めること。どれもこれも下らない話だった。そんな中で、彼女のアパートの壁が妙に薄く、隣人のセックスが筒抜けになるという話題ではここぞとばかりに盛り上がった。
「男の人の声も大きくて。彼女の名前を叫びながら、ベッドをガンガン揺らしてるみたいなんですよ。それが私の部屋のほうの壁にぶつかるものだから、どんなペースで動いているのかもバレバレ」
「それは災難ですね」
「ほんとですよ、独り身にしちゃ。そんなときかな、この子を思いついたのは」
 言うと彼女はロボットの頭を撫でた。
「私の寂しさを少しでも紛らわして欲しかった。それが第一条件。次に第一条件が誰にもばれないこと。その次に少しでもお金になってくれること」
「その原則は守られてますか?」
「第一条件からダメかな」
 彼女がロボットの頭部を指ではじいた。「アイラブユー」と声がした。
「だってこの子はアイラブユーって言ってくれるだけ。キスもしてくれないし、抱いてもくれない」
「セックスだけしてアイラブユーと言わない関係もありますよ」
 彼女はそっか、と呟いてそれから視線をカウンターテーブルに落とした。その沈黙の間、僕は考える。アイラブユーとだけ言って何もしない関係と、アイラブユーとは言わない肉体関係のどちらがマシか。
 僕の指を噛んだ女は、どちらかというとセックスが好きな女だった。自分から求めてきて、程なく絶頂に達し(僕にとって絶頂に達する女は珍しかったのだ)、僕自身を満足させてくれる女だった。しかし彼女はあまり僕を好きではなかったのだろう。ただ単にセックスができる異性として付き合っていただけなのかもしれない。だから僕は、彼女からアイラブユーなんて言われたことは無い。
 だがその関係も悪くは無かった。アイラブユーなんていわれても、僕はどんな顔をすればいいのか知らない。玄関を開けたら宗教の勧誘が来ていた時のように戸惑うだけだろう。それで、適当に答えて、うやむやに終わらせる。そうなるくらいなら、部屋に通した瞬間に抱くくらいの、性欲に支配された関係のほうがわかりやすい。そうだろ?
「わたしは」
 彼女は言う。
「アイラブユーって言ってくれて、セックスもできる関係がいいな」
 そうですか。
 僕は答える。
「セックスだけならできますけどね」
「しますか?」
 彼女はロボットを僕の目の前に置いた。僕はその言葉に淡い期待感を抱いたが、目の前の木偶に睨まれているような気がして返事ができない。
「アイラブユーはこの子に言ってもらいます」
「……僕とは体だけ?」
「そうなりますね」
「じゃ、僕はアイラブユーって言ってもらえないわけか」
 彼女はおかしそうに笑う。
「私、セックスは嫌いじゃないですけど、体質的に最中何かと痛いんです。あなたは気持ちいいだけでしょ?」
 こうなると男は何もいえない。
 僕は空になったグラスに埃が沈んでいるのを見つけた。
「自分だけ、いい思いするのはダメ」



 彼女は先に帰って部屋を片付けると言い残しバーを出た。ロボットを預けるから、必ず届けに来るようにと笑って。僕は最後の一杯を注文して、今日何度目ともわからないそれを少しずつ飲む。手元のコースターには彼女のアパートの名前と部屋の番号が書かれていた。それを手に取り眺める。
「行くんですか? お客さん」
 バーテンの男がタバコを吸いながら僕に訊ねた。
「行くよ」
「羨ましいですね」
「いや、ロクなもんじゃない。体だけと決めていても、どうせ後から気持ちもついてきてしまうんだよ。いずれ彼女か僕が、きちんと交際したいと言い始めるだろうね。事実僕は今までずっとそうやって彼女を作ってきた」
 バーテンの彼がタバコを一気に吸って、一呼吸置き、天井に向かって煙を吐いた。
「それって、好きだから付き合おうってことじゃないんですか? アイラブユーって言ってるような気がしますけど」
 彼女が僕に預けたロボットの頭を撫でて、
「どう思う、お医者さん」
 と聞くと、ロボットは答えた。
「アイラービュ」


以上


------------------------------------------------------

吸血鬼 + ロボット三原則 + 記憶

     

ロボット三原則+崇拝/うた /まるや

大地を駆ける龍は、命のはじまり、そして終わりへと流れてゆく。彼方に霞む水平線から残り火が空を染め、夜の帳がおりていく。この世を映す大きな鏡は紅く、紅く、一瞬の情熱に身を焦がす。景色が脳裏に焼きつくというが、きっと、この光景を目の当たりにした人が作ったのだとふと思う。
海は歌う
愛しき子よ
あなたに恵みを与えましょう
命を愛でよ
生命の調和のために

朝に濡れたつゆ草が風の助けを得て、その雫を大地に集めていく。短い季節を謳歌するかのごとき、鳥やセミの狂想曲が辺りを埋める。絶え間なく雲海を切り裂いて空がのぞき、定規で引かれたようにまっすぐ陽の光が射しこむ。あの光の柱で天使が降りてくるというが、今なら信じられる。
太陽は歌う
弱き子よ
あなたを白日のもとにおきましょう
従いたまえ
揺るがぬ正義のもとに

雲ひとつない空は小さな輝きに彩られ、木々や草花を闇一色に染めあげた。木々の間を縫うように風が走り、いつからか虫の音は鳴りを潜めている。静寂の中、風と共演する木の葉の歌声に冬の足音が聞こえるようだ。冷気に清められたこの夜空を仰げば、誰だって「月さえ手にいれられるのではないか?」と淡い幻想を抱くことだろう。
月は歌う
迷い子よ
あなたを仄かに導きましょう
安らぎたまえ
あなたの守るあなたのために



     

『記憶』『世界の終わりは君と二人で』『ロボット三原則』『崇拝』/昔話/大野 英幸



 走っていた。何も得る物はないとわかっていながら。ただひたすらに腕を振り、足を動かしていた。蹴り躓いて転んでも、また立ち上がって走る。
 後ろで何か崩れ去る音がした。それでも前だけを見て、どれだけの物を忘れてしまうだろうと、後ろを振り向かずにいた。
 
 何の痛みなのだろうか。わからない。
 何が痛くさせているのだろうか。わからない。
 どういう風に痛みが始まったのだろう。もう、覚えていない。

 そして、また走った。がむしゃらに、無限に続くと思える大地を。
 どれだけの距離があるか、どれだけの速度なのだろうか、目的地にいつ到着するのだろうか、そんなものとうの昔に考えるのをやめていた。
 それを考えるのは野暮な事だと、そう思ったからだ。

 そう思ったのは、いつの事かは忘れた。それでも、意志として残っている。
 だから走る。つかれる事も、体は忘れているように。

 
 …………。


「疲れることを知らないのは、彼らのいいところなのかもしれないな」
 いつの事だったか、記憶が蘇る。
 彼はブリキのおもちゃのような、ぜんまい仕掛けの、とても古臭い玩具だった。
 ネジを巻けばとことこと歩き出す。仕舞いにはゆっくりと動作が止まる。ネジが巻かれなければ、ずっとそのままで静かに時を過ごしていく。
 ネジが巻かれれば、また彼は歩き出す。そのときはまだ、走る事を知らなかった。考える事も、知らなかった。

 いつしか彼は動けなくなった。乱雑に扱われたなど、そういう事ではない。寿命が来たのだ。
 ネジを巻いても足は弱弱しく動き、立たされても、力がなく前へ進めなかった。
「疲れることを知らないと言って悪かった。ずっと頑張っていたんだな」
 彼は、手のひらほどのちいさな体から気がつけば、人並みほどの大きな体へとなっていた。
 まったく違うものだとはわかる。わかるという事もわかる。彼はそこから、考える事ができるようになった。

 まず聞いたのは、なぜ自分をこんな体にしたのか、だった。
「君はもう覚えていないかもしれないが、私が子供のころからずっと一緒だったんだ」
 そういわれても、覚えている事と言えば、ネジが巻かれ、どう動いていたかぐらいだったから、彼にはわからなかった。
「君には長い間楽しませてもらったから、その恩返しみたいなものだと記憶してほしい」
 そういわれると、彼はその言葉を覚えた。
 そして彼は、自分を作り出した人の言う事を聞くようになった。
 
 身の回りの世話をしたり、一緒に買い物へと出かけたり、ごく普通の生活を送った。
 たまには奇異な目で見られる事もあったが、慣れてもらえれば彼は人気者となった。

 たった一つの、たった一人しかいない人間サイズの大きさのおもちゃ。

 彼を作りだした人は、気がついてみれば老人になっていた。
 自分が作り出された時は、元気に立って、大声出して笑って、机に向かってなにかをやっていたり、怒ったり、教えてくれたりしていたのに。
 今ではもう、目を開ける事すらできないようだった。ベッドで仰向けで眠っている。
 静かに眠っていた。彼はずっとそばにいた。老人が息を引き取った時、彼の動作も一緒に止まった。唯一手入れできる老人が出来なくなってしまって、電源が切れてしまったのだ。


 次に彼が目を覚ました時は、まったく別の場所にいた。老人の姿はない。いるのはたくさんの人たちに囲まれた彼だった。
 拍手喝采。彼は何が起きているのかがわからなかった。
「ゴミ捨て場に置いてあったこの機械を見事復活させた、開発班の紹介です」
 白衣を着た人間たちが並ぶ。見た事ある人間や、知っている人間はだれひとりもいなかった。
 ひとりぼっちの世界が始まった。
 研究の成果はどうだとか、記憶できる容量を増やしただとか、たくさんの機能をつけてみただとか。
 そんな話だらけだった。
 研究室らしき場所に連れて行かれたときに窓から見えた外は、まったく知らない場所だった。
 ここかどこかはわからない、これから何をされるのかわからない。彼は、隙を見て逃げ出す事にした。
 
 逃げ出してしまえば、開放されると思ったから実行に移したが、彼を直した人たちが追いかけてきた。
 なんとしても捕まえようとする。しかし彼はそれを望んではいなかった。

 ――戻りたい。あの場所に。 

 彼は走った。街から逃げる事に成功してもなお、まだ走った。
 ここからどこに行けば、老人のいた場所につくのだろうか。方向は間違いないのだろうか。どれほどの時間がかかるのだろうか。
 それでも彼は、老人の場所へと向かって、足を進めた。

 ………………。

 どれだけの時間走っただろう。もう覚えていない。記憶容量を増やしただとか言うのは嘘だったんだろう。
 覚えている事はもう、老人の事と自分の事とそのとき過ごした時ぐらいしかない。
 自分を創りだした人に会いたい。どうなったのか知りたい。
 ぼろぼろになった足を、それでも交互に動かし、前へ進んでいく。場所がわからない。それでも彼は走るしか方法はなかった。
 人に聞けばまた捕まってしまうかもしれない。だから、彼は走る事しかできなかった。

 ……………………。

 彼の体の寿命が近くなった。
 走り回れたのは、もうだいぶ前だろうか。今では大昔の自分の体のように、とことこと歩く事しかできない。
 重量が増えたぶん、とことこなんて音はしないが、それでも前へ進んだ。

 前が見づらくなってきた。霞んで、前が上手く見えなくなった。足の動きもほとんど止まってしまっている。
 それでも、時間をかけても、前へと進んだ。

 壁にぶつかって彼は転んだ。そのとき、地面につけた腕が折れてしまった。
 それでも、立ち上がって、重い足で動き出す。気がついて周りを見渡せば、記憶にある懐かしい街だった。
 だが、見覚えのある人はいない。それに、老人の家もなかった。
 彼は途方に暮れて彷徨った。

 最後の頼りとしては、一つだけあった。彼はその場所に向かった。
 そしてついた場所は、ちいさくぽつんと立てられたお墓だった。
 間違いない、あのとき、老人は息を引き取ったのだ。
  
 彼はそれがわかると、お墓の横に座った。
 座った後、彼の体から、何かが途切れる音がした。

 彼もまた、寿命が来たのだ。
 
 ………………。

 ちいさなお墓の横に、不釣合いな、人間ほどの大きさのブリキのおもちゃがある。
 錆付いてもうガタガタになってしまっている。いつかは風化してしまうのだろう。
 でもずっとその場所にいるのだろう。横のお墓で眠っている人と一緒に。


 おしまい。

     


○ラジオ×粉末/毒/つばき


 祖母はいつも小さな音でラジオを聴いていた。
 誇らしげに祖母の部屋にたたずんでいたそのラジオは随分と古いもので、幼い美緒には御伽噺の世界の小さな機械に見えた。アーチ型でくすんだ金の縁取りが施され、つややかな飴色の木は磨きこまれてしっとり輝いている。小さなメーターの下に黒いつまみが三つ並んでいて、祖母がそのつまみを捻ると、かすかな雑音を交えながら流れる音がゆるやかに変わっていく。
 両親が言い争いを始めると、美緒はこっそり祖母の部屋に逃げ込んだ。それはいつでも突然やって来る。雨降りの前のような気配も、原因も、理由も見当たらない。大声で怒鳴りあう両親の姿を前にすると、美緒は自分がみすぼらしく汚れた生き物のように感じ、自分が知らないうちに彼らの気分を悪くしてしまったのだろうか、と罪悪感を覚えた。
 泣きながら小さな頭を混乱させている美緒に、祖母は黙ってポットからお茶を注いでくれる。美緒は湯気の立つ湯呑みを両手で包み込んで、飲めるくらいに冷めるまで待ちながら、一緒にラジオを聴いていた。
「見せてあげようか」
 唐突に祖母が言う。いつものことだ。美緒は頷く。すると祖母はラジオにいざって近づき、裏蓋のねじをゆるめて外してしまう。機械の中身があらわになる。美緒は興味しんしんで中を覗きこむ。そして毎回、どうしてこんな何かの塊と紐がつまっているだけなのに色々な音がするのかと感心する。
 装置の隙間に押し込むように、白い小さな陶器の器が隠れている。祖母は美緒にひっそりと笑いかけてからそれを取り出し、蓋を開けて、中に入っていた小さな耳かきで中身をすくい取り自分の湯呑みに入れた。そしてまた恭しい手つきで中に戻し、裏蓋を閉める。
「ねえ、それはなに?」
 美緒が尋ねる。その頬にもう涙の気配はない。
「秘密」と、祖母は何気ない感じで呟く。
「これは大人のものだから。小さな子がちょっとでも舐めてごらん、死んでしまうよ。おばあちゃんは大人の大人だから大丈夫だけどね、それでもほんの少しだけ」
「それ、おいしいの?」
「もちろん。すごくおいしい。毒だけどね。年を取るととにかく口寂しくなって、ちょっとはこういうものが必要になるんだよ」


 今まで何度、それをこっそりと舐めてしまおうと思ったか分からない。
 男の膝の間にすっぽりと収まって、大きな手で髪を撫でられながら、美緒はふとそんなことを思い出していた。男の部屋に置いてあるアンティーク風のラジオを目にしたせいだ。飽くまでアンティーク「風」でしかなく、あのラジオが持っていた風格のようなものはまったくないけれど。
「ラジオ、聴くの?」
 訊ねると、男はいったい何の話かというような顔をしてから美緒の視線の先をたどって気がつき、
「ああ、あれ。カッコいいから買ったんだけど」と言う。
 そうは言ってもチェッカー模様のベッドカバーだの、真っ赤な絨毯だの、ガラステーブルだの置いてあるこの部屋には明らかに不釣合いじゃない。美緒は思うけれど、男は別に統一感なんか気にしないのだろう。そういうタイプだ。
 そこで突然、携帯の派手な着メロが流れる。お互い無視しようと努めるけれどそれはいつまでも鳴り止まない。男はとうとう髪を撫でている手を止めて、「それ、取れば?」と無表情で言った。別に怒っているわけでもないらしい。
 携帯を見ると、実家からの着信だった。美緒は留守電が応答したのを確認してからサイレントモードにしてしまう。電源を切れば後から追及されて面倒なことになる。それから携帯を遠くのクッションに向かって投げた。
「ねぇ、ごめんね?」
 座っている男の膝の間に再び座り込む。首をかしげて男を見上げると、そのまますぐに抱きしめられた。相手の鼻先が首筋に当たってくすぐったい。その感覚に美緒は思わず笑ってしまう。そして相手の手が髪や肩、背中を撫で下ろしていくのに軽く身をよじったりしながら、男の肩口やシャツの裾に唇をつけて、ついばんだりする。落ち着きなく唇であちこちにふれるのはこういう時の美緒の癖だ。それに慣れていない男は苦笑する。
「なんだか動物みたいだな」
「そうかも」美緒もくすくす笑う。
「だって、こうしてるととにかく口寂しくなっちゃうんだもの」
 そう言ってゆったりと足を崩す。まるで写真家が細心の注意を払ってととのえたみたいに、スカートは扇情的にはだけて、そこから形のよい太ももがすらりと伸びていた。
 精巧な作り物みたい。そう考えた瞬間に、男の唇が美緒の唇をふさぐ。反射的に目を閉じると、予想通りに男の手は太ももに触れ、ゆっくりと撫で下ろしていく。
 でも仮にあの粉を舐めたところで、今の私では死ねないのだろう。
 男の唾液を飲み下しながら、美緒はそう思った。


 マンションの部屋に戻り、夕食の準備をしようとしてようやく、美緒は留守番電話のことを思い出す。携帯を開くと着信が五件あった。全て実家からだ。ざらついた嫌な予感が胸を覆う。
 一番新しい留守電を確認すると、母の硬質な声が流れてきた。
「美緒。ついさっき、おばあちゃんが亡くなりました。お通夜は明日ですが、今日帰ってきなさい。駅につく時刻を連絡して」
 おばあちゃんが亡くなりました。
 一度脳内で反芻してから、そうか、と思った。
 そして、そうか、とだけ思った自分に嫌な気分になった。でもいつか死ぬことは分かっていたのだ。

 結局、美緒が帰ったのはその翌日だった。実家では母と叔母たちがお通夜の準備で忙しく走り回り、父や叔父たちは集まって酒を飲んでいた。何もかも旧式の、田舎の家だ。葬儀も家でやる。
 祖母の遺体は奥の和室に安置されていた。大きな布団の中でドライアイスに挟まれたそれは、一人ぼっちに置き去りにされている。年下の従兄弟たちの相手も面倒だったので、美緒はずっと祖母の傍に座っていた。遺体について、恐ろしいとか気味が悪いとは思わない。寧ろここでは自分の存在が不適切なのではないかと感じて、それから思わず苦笑した。
 死人に気を遣っている。生きているときは思い出しもしなかった癖に。
 この家の誰も、祖母の死を悲しんでいなかった。お通夜も葬式も単なる儀礼に過ぎない。仮にも八十年以上生き、子どもたちを生み育て、それほどの迷惑もかけずに命を全うした人に対して、それは冷たすぎる仕打ちのように思える。
 美緒が中学生になる頃から、祖母はもう既に家中から「居ないもの」として扱われ、ほとんど置き去りにされていた。美緒自身も祖母の部屋に行くのを止めた。男の子と遊ぶようになってからは、ラジオも祖母も、古臭くてまどろっこしく退屈な存在でしかなくなってしまったのだ。そして祖母は認知症の兆候を見せ始め、老人ホームに入れられて、ほとんど何も分からないまま十年近く生き、死んだ。その死はこの家の誰にとっても重みを持たない。
 でも自分だって祖母と同じなのだ、と美緒は思う。私だって、ここでは半分「居ないもの」として扱われている。高校時代、教師にも友人にも気づかれないような形で、いつも何かしら異性との問題を起こしていた。両親は気づいていたけれど何も言わない。成績さえ優秀で表面上問題がないように見えれば、それは彼らにとって問題がないということなのだ。私が進学を機に家を出たときには、寧ろ安心したみたいだった。
 ここはそういう場所なのだ。義務と建前だけで成り立っている場所。必死で体裁をととのえているだけあって、外からは随分見映えがする。でもその内側の何もかもは、腐っていくように宿命付けられている。音もなく静かに、けれどなにひとつ漏らさず徹底的に。
 それに、自分にだって祖母を悼む資格なんかない。
 だって私は祖母が死んだその瞬間、男の子とセックスしてたんだもの。虫の知らせとかそんなものは一切なかった。それともあのラジオが目に入って記憶が蘇ったのは、虫の知らせのようなものだったのかしら。でもこの数年、おばあちゃんのことを思い出しもしなかった。たぶんこれからだって何年でも忘れていたと思う。
「私、ここに居て迷惑じゃない?」
 念のため訊いてみる。祖母からの返事はない。でも、空気は奇妙に優しい。死人にはもう本当になにもないからなのだろう。羨ましい、と美緒は思った。誰かが彼女の死を、心から悼んであげるべきなのに。そういう資格を持った何者かが。

 納骨が済んでしまうと、すぐに遺品の整理が始まる。美緒は帰ることにした。果たすべき義務は終わった。この家にいるとどうしようもなく息苦しい。そしてその息苦しさに侵食されて、どんどん無感覚になっていく気がする。ここは何も変わっていない。置き去りにしてきたつもりの何もかもが、未だそのまま維持されていることに、ひどく疲れてしまう。
「美緒」
 帰る支度をしていると、母親がやってきて生真面目な顔つきで言った。
「おばあちゃんの遺品、欲しいものがあったら持っていって。残りはこっちで処分するから」
 要らない。そう答えようとしたけれど、なんとなく面倒くさいやり取りが予想されて、美緒は黙って祖母の部屋に行った。長い間窓が締め切られていたせいだろう、むっとするようなかび臭さがたちこめている。
 机の上にはあのラジオがあった。二度だけ訪れたホームの部屋でも見たことがあるから、祖母と一緒に帰ってきたのだろう。長い間手入れをされなかったのか、すっかり艶を失っている。あるいは持ち主が他界したためにふさぎこんでいるのかもしれない。
 ラジオを引き取るべきかどうか美緒は一瞬考えて、必要ない、と思う。祖母と一緒に燃やすべきだったのだ。あれだけ大切にしていたのだから、きっと何か思い入れがあったに違いないけれど、祖母は焼かれて骨になっている今では、知る機会は永遠に失われてしまった。
 形見として引き取るには何かが重すぎる。母親が適当に処分してくれるだろう。そう思いそのまま部屋を立ち去ろうとして、美緒ははっと思い直す。
 ラジオに近寄って裏側を覗き込む。適当にネジをゆるめると、裏蓋は簡単に外れた。内部にはうっすら埃が積もっている。そして小さな陶器の器が隠されていた。
 器は汚れひとつなかった。蓋を開けてみる。そこに入っていた粉末の分量は、あの頃に比べて随分と減っているように見えた。
 いったいこれは何なのか。成長した美緒が見ても正体は分からない。砂糖や塩よりもずっと細かくて、わずかに緑がかっている。特ににおいはない。まさか本当に毒ではないだろう。ドラッグ? 祖母がそういうものを手に入れていたとは考えにくい。結局、その正体も祖母と一緒に失われてしまった。
 舐めてみれば分かるかもしれない。
 ふとそう思って、苦笑する。舐めたって分かるわけがない。なんの知識もないのに。でもその考えは消えてくれない。
 そう、分かる分からないよりも、私はただ単に、舐めてみたいだけなのだ。
 陶器の蓋を机において、小さな耳かきでそっと粉末をすくい取り手のひらに乗せる。気がつくと手は震え、呼吸は乱れている。馬鹿みたい。こんなの本当に毒であるはずがないのに。そう思っても、心臓はどきどきと高鳴っている。
 美緒は舌をそっと突き出して、先を手のひらにつけた。
 想像していたような刺激は、なかった。でもひどく苦かった。えぐみと言うべきか。舌先にその感触が強烈に残っている。
 心臓の鼓動が緩み意識が奪われる瞬間を、美緒はじっと待ってみる。でも何も起こらない。何の変化もない。やがて舌先の違和感も薄れていき、同時に緊張も緩んでいく。安心したような、残念なような。
 もう少したくさん摂れば、あるいは。
 美緒は陶器の器を手にして、一度立ち上がった。でも部屋を出る辺りで思い直し、元通りラジオの中にしまいこんで、裏蓋を閉めた。
 これこそが祖母と一緒に燃やされるべきものだったのだ、と思う。これは祖母の秘密だ。えぐく苦く、あるいは致死性を秘めた、彼女の内側に確かな位置を占めていた秘密なのだ。
 美緒は部屋に戻り手早く荷物をまとめると、そのままそっと家を抜け出した。
 歩きながら携帯で男に電話をかける。男が電話に出た。会える? と美緒は聞く。遅くなるけど、今から帰るから。
 でも、そっちは大丈夫なの? と男がらしくもなく常識的な気遣いをする。
「いいの」
 美緒は通話を切ると自嘲気味に笑った。

 静かに殺されていく人間はいつだって、とにかく口寂しくて堪らないのだ。




-------------------------
文芸新都『ロマンチックノイローゼ』
http://camellia999.x.fc2.com/sn/top.htm

     


花びら+ロボット三原則+粉末/対バイオロン法第六条/田中田



「おいとらねこたいしょう、とらねこたいしょうはいるか。はなしがある」
「なんだい10匹もそろいもそろってあらたまって。なんの用だ」
「ぼくたちはきみにリコールを請求しにきた。きみがリーダーでいたあいだ、あほうどりに働かされたり、ふくろのなかに閉じ込められたりでまったくろくなことがない。だからきみにたいしょうの座をおりてもらいたいんだ」
「なにをいってるんだいおまえたち」
 とらねこたいしょうはニヤリとわらった。
「おまえたち、まだ5つか6つの子猫だろう。選挙権なんかあるものか」
 これを聞いて10匹のねこたちはおおあわて。にゃごにゃごにゃご。まさかリコールをするのに選挙権が必要だとはおもってもみなかったのです。 かといって、このままだまりこんでしまうのもなんだかしゃくです。
「そんなこといったら、とらねこたいしょうだって似たようものじゃないか」
 そう言い返されてもとらねこたいしょうはやっぱり笑うだけでした。
「ははは、わたしか。わたしはいいんだ。なんたって、わたしはとらねこたいしょうだからな。ところであのとき*につんだ花のことを覚えているかね。じつはあれはケシの花でね、アヘンの粉をぶたどもに売ってずいぶんとかせがせてもらったよ。だからおまえたちはもう用済みなんだ。きえてもらおうか」



「そうはさせん!」



 虎猫大将がいよいよ悪としての本性をあらわしたその時、事務所の壁がガラガラと崩れ落ち、その向こうにはあの機動刑事ジバンが立っていた。
「対バイオロン法第1条」
 ジバンは驚く猫たちなどは意に介さず、ただ悠然と足を一歩踏み出した。
「機動刑事ジバンは、いかなる場合でも令状なしに犯人を逮捕することができる」
 逃げまどう猫たち。いつのまにやら室内に残るのはジバンと、デスクの前に腰掛ける虎猫大将だけとなっていた。
「第2条。機動刑事ジバンは、相手がバイオロンと認めた場合、自らの判断で犯人を処罰することができる。第2条補足!」
 虎猫大将は立ち上がった。
「場合によっては、抹殺することも許される」
 ジバンがその手に持つ銃、マクシミリアンが火をふいた。発射されたビームは正確に虎猫大将の心臓を貫く。
「ド、ドクター・ギバよ……お許しをーっ!」
 悪は倒れた。
 この世に悪の栄えたためしはないのだ。





※あのとき……名作絵本『11ぴきのねこふくろのなか』での出来事
 



     

・記憶+崇拝+粉末/消えた国の王女様/猫瀬
 
 少女は毎夜のこと、繰り返し夢をみた。
 
「○○様、おはようございます」
「今日も美しいことで、○○様」
「愛してるわ、○○」
 みんながそう言って少女に笑いかけるが、肝心の名前が思い出せなかった。
 夢の世界は温かく、眠るベッドはどこかの貴族のようだった。優しい腕に抱かれ、愛を受け、少女は笑い、何かを感じたがその感情も思い出せなかった。
 すべてが遠い、儚い。
 そして、いつも夢の最後には彼がこう言うのだ。
「○○様……君は僕が守るよ」
 
 
 
「あなたは、だあれ?」
 少女がそう口にした時には、すでに現実だった。
 夢の世界とは正反対で冷たく、風の入り込む地下室。入り口では雇い主が静かに少女を観察していた。
「起きたか、スノー」
「はい」
「早速仕事だ。外に出ろ」
「はい」
 少女は布団代わりにしていたボロボロの外套を羽織ると、錆びた鉄の扉を開ける。
「ついてこい」
「はい」
 雇い主の男は少女を見ずにそう命じ、少女も空腹を抑えてその後を追った。
 外に出るとやけに寒く、朝から雪も降っていた。まだ積もってないあたり降り始めなのだろう。
(私と同じスノー。だけど、違うスノー)
 少女は自分もこの白い雪のようなスノーならいいのに、と強く思った。
「夢を見ていたのか」
 そんなことを考えていたところに、前を歩く雇い主がそう少女に訊ねる。
「はい……たぶん、夢です」
「ふっ、過去の栄光と崇拝にでも浸っていたか? まぁ夢の中でならお前も自由だ」
 雇い主は少女の過去について何か知っているようだったが、少女は記憶がないままだった。昔の自分のことも知らされていない。少女にとっては現在がすべてだった。
「だが、現実は自由じゃない。仕事はわかっているな」
 そこで雇い主は初めて少女に向き合い、そう釘をさした。
「はい」
 少女は静かに頷くと、雇い主からひとつの皮袋を受け取る。中身は見なくても知っていた。白い雪のような粉末。少女は口にしたことがなかったが、これを身体に取り込むと気持ちよくなるそうだ。そして、とても高価なものだった。だから商売にもなる。
「黒いハットを被った西の国の男だ。嗅ぎつけられたらすぐ逃げろ。落ち合いは指定の場所だ」
「はい、失敗はしません」
 少女の返事を聞くと雇い主はよしっと軽く背中を叩き、元来た道を帰っていた。
 少女の目の前には古臭い酒呑み場。外からは営業をやっていないように見えるが、その扉を押すと軽々と開いた。
 少女の仕事は粉末を指定の相手に渡し、金を受け取る。それだけ。
 か弱い彼女がやるのは、取締官の目を少しでも油断させるためであった。
 店内にはほとんど客がいなかったが、奥の方に黒いハットを被った長身の男がみえた。
(きっと、あの人が相手だ)
 少女はそう思い、こちらへ近づいてくる男に一瞬戸惑ったが、すぐに近くの椅子に座ることにした。そして、男もすぐ少女の隣の椅子へ腰を掛ける。
「あんたが取引相手か」
「はい」
「中身を確認させてもらう」
 男は思ったより少年らしい声色でそう言い、右手を差し出した。
 少女は皮袋を渡す前に一度男の顔を確認した。黒いハットを被った、男の、西の国の人間?
「えっ……」
 少女は思わず声をあげた。男の顔つきは西のそれではなかった。そして、顔立ちも声色と同じ少年であった。
「どうした」
「ダメですっ!」
 困惑する少女へ少年が声を掛けると、少女は小さく叫び、店を出ようとした。だけど外套をしっかりと掴まれていた。
「取締官だ。一緒に来てもらおうか」
 嗅ぎ付けられていた。少女は失敗したのだと確信した。
 少女は両手を力強く掴まれ、身動きが取れなくなると、フードを乱暴に捲られる。
「あなたは……」
 少女の顔を見た少年がひどく驚いた。少女もゆっくりと顔をあげた。
 男の顔をよく見ると、それは夢の最後に出てくる彼だった。
「アリナ様……」
 そうか。あぁ、そうか。
 その時、少女はやっと昔の名前を思い出した。アリナという名前を。
 
 
 
 その後、少年はアリナの手を引いてどこまでも、どこまでも逃げた。
 アリナが「お腹が空いた」というと彼は懐から干し肉を取り出し、それをアリナにやった。
「いいの? 逃げたりなんかして」
「いいのさ! 取締官なんて国民に嫌われるような汚い職だし、イース国が侵略されてからあの国でいいことなんかひとつもなかった。アリナ様もそうでしょ?」
 アリナは少し迷ったが、すぐに頷く代わりに繋いでる手を強く握り返した。
 いいことなんてなかった。ゴミのように扱われ、薬の隠語で呼ばれ、雇い主のために働く日々。今頃雇い主は怒っているだろうか。もしかしたら捕まるかもしれないと怯えているかもしれない。
 しかし、そんなことは彼の背中を見ていると、どうでもいいことのようにアリナは思えた。
 まるで夢のように、そして現実は自由になった。
「アリナ様どこへ行きたいですか?」
「あったかいところがいい」
「そうですね、イースは冬も暖かい国でしたから」
 楽しそうな少年の言葉に、アリナは夢の中のように笑い、少年に心の中でお願いをした。
 
 ――今度は、ちゃんと守ってよね。

     

逆さま+ロボット三原則+記憶/講じろ、薫風亭初花!/ジョン・B


 リズミカルな出囃子の音と共に一人の少女が壇上に登場すると客から少ないながらも拍手が鳴る。
 観衆の注目の的であるその少女はさらに興味を惹き付けるようにゆっくりとした動作で淡い緑色した着物の裾を流しながら高座に座り、深くお辞儀をすると大きく息をして口を開いた。
「本日はお足元の悪い中、お集まり頂き――って、こりゃあ結婚式か」
 凛とした声と幼い容姿に似つかわしくない口調で少女が喋り始めると黒子がひょっこり現れて舞台脇のまくりを捲る。そこに書かれていたのは、『薫風亭初花(くんぷうてい はつはな)』という文字。高座で軽快に喋り始めた少女の高座名だ。
「結婚式のスピーチや芸人のギャグなんかの定番はもう当たり前となってますが、今の時代『ロボット三原則』などと機械にまでお決まりがあるように、落語にもお決まりってぇのがありまして。これから講じますのは落語のお決まりのような題目――つまるところ定番の『饅頭怖い』でございます。
 『饅頭怖い』といいますと、お越し頂いた皆様は先達方の演じたものをお聴きになられていらっしゃるかと思いますので簡単に言ってしましますが、逆さ言葉でございます。『饅頭怖い』は『饅頭が食べたい』。落ちであります『お茶が怖い』は『お茶が飲みたい』。思っていることと反対のことを言って他人を欺く――。まぁ、そんな話ですな。
 かくいう私も皆様が大変怖い。耳の肥えたお客様方ですからなおのことで、そりゃあ緊張もします。たかが今まで喋っただけで喉もカラカラに干からびてしまいました。あー、熱いお茶が怖いなぁ……」
 初花が左右の舞台袖を交互にちらちら見ると、客がくすりと笑いを漏らす。
「まぁ、お茶のことはさておき……。逆さ言葉は何も『饅頭怖い』に登場する男だけのものではございません。サブカル大好きなオタク様方にも耳馴染みのある『ツンデレ』も真逆の言葉や態度を駆使してあの手この手で多くの男性方を虜にする、逆さ言葉の使い手にございます」
 仕切り直すように初花は先ほどよりも深々とお辞儀をした。

「『べ、べつにあんたのために作ったんじゃないんだからねっ!』
 ツンデレのお約束な台詞を言いながら意中の男に弁当を差し出す女が一人。
 しかしながらその女、元々ツンデレなんて天邪鬼な性格じゃあない。
 昨日の今日までそんな素振りを見せたことのない、今時珍しいおしとやかな好青年――ならぬ、好少女。
 では、何故女がそんな物言いをしたかと申しますと、男の気を引こうとしたんですな。端的に言ってしまえば、ツンデレを演じているのであります。
 事情を知っていればその言動も愛らしく見えようものですが、事情を知らない男は女の態度を見て大きく口を開けるばかり。
 それもそのはずで、こちらも今時珍しく、男は生まれてこの方漫画もアニメも見たことがない。その上ゲームもしたこともないというのですから、事情どころか『ツンデレ』自体知っているわけがございません。
 たいして会話したこともなかった二人の間に流れますのは、寒くもないのに冷たい空気。
 男の反応に女は『失敗した』と思いながらも、今更止めるに止めれず、そのままツンデレを演じます。
『い、要るの? 要らないの? はっきりしなさいよ!』
 それにしてもこの女、なかなか堂に入ったツンデレっぷり。好きな男に近づく為、あれやこれやと勉強したのでございましょう――
『じ、じゃあ、要らない。学食で食べるし……』
 ――けれども、それが見当違いだったというのですから、涙を誘うじゃありませんか。
 本来生真面目な女は『己が悪い』と、胸中泣きながら、上げた拳――いや、出した弁当を引っ込めようとしますが、男も男でなかなかに生真面目でございまして。ばつの悪そうな顔を作る女を見て申し訳ない気持ちになり前言を撤回する。
『ま、待って! やっぱり貰うよ』
 実のところ男の方も、この女に好意を寄せていたのであります。
 さてさて、弁当を受け取ったものの、男からしてみれば『昨日までの彼女はいずこへ?』ってなもんで、いくら女から弁当を貰おうとも、記憶をごっそり無くしたような、さも複雑な心境でありましょう。
 男が恐る恐る弁当を開いてみれば、タコさんウインナーに一口ハンバーグ。ご飯の上には桜でんぶでハートマークが描かれている、そりゃあ可愛い弁当でございます。普通に受け渡しが出来ていたならば、なんの波乱も無く一組のカップルで出来ておったことでしょう。
 ――が、そうは問屋が卸さない。弁当受け取ってもらえたことに気を良くしたのか、女はツンデレのまま『さ、さっさと食べなさいよ』と言いながら睨むように男を見つめる。
 女はつんけんしているというのに弁当は可愛らしく、相反するものを目の前にして男の困惑もピークに達しましょう。そんな状態を長々と続けられるわけもございません。
『ああ、怖い怖い。彼女が怖いので早く食べてしまおう』
 と、男は『饅頭怖い』にもあるようなことを呟いて、流し込むように弁当を食べます。
 ガツガツ、ガツガツ――。
 女からしてみれば心地の良い食べっぷり。
 見る見るうちに弁当箱は空になり、『ご、ごちそうさまでした……』と男が弁当の蓋を閉める。それと同時に女は顔を近づけて、こう訊きます。
『ど、どうだった?』
 食べる勢いに居心地の悪さも相まって、弁当の味など分かるはずがない。
『ど、どうって言われても……』
『はっきり言いなさいよ!』
 こうも強く言われては正直に答えるしかありません。
『こ、怖かったよ』
 男は女のことを言いましたが、女が求めていたのはもちろん弁当の感想でございます。
『え? 『こわい』? お弁当の感想で『こわい』ってどういうこと? ――あっ! ご飯が硬かった?』
『いや、そういう意味じゃなくて……』
『じゃあ、『饅頭怖い』の怖い? ふ、ふーん、なら今度はもっと――』
『だから、そうじゃなくて!』――」
 有無を言わさぬ勢いで捲くし立てられていた初花の口がそこでピタリと閉じた。
 寄席はシーンと静まり返る。
 残るはオチの件だけ。
 しかし、なかなか初花の口は開こうとしない。
 一人の噺家が喋る時間は決まっており、初花の割り当てられた時間の期限が刻一刻と迫る。
 残るは一分、三十秒……十五秒……十秒……五、四、三――。
 ここで初花は今日一番の声を張り上げた。
「あー、その、えーっと……おあとがよろしいようで!」

 オチらしいオチも告げず、逃げるように舞台袖に引っ込んだ初花に黒子が声をかける。
「……お疲れさま、君の師匠が呼んでたよ」
 初花自身、何故呼ばれたかは見当がついている――誰から見ても、火を見るよりも明らかである。そう、よりにもよって『オチを忘れる』というポカをやらかしたからだ。
「……急ぎの用があるので、すみませんが師匠に伝言をお願いできますか?」
「用って……このまま帰っちゃうのかい? あれはかなり怒ってるよ?」
「はい、それは十分解ってます。ですが、多分これを伝えて頂ければおそらく大丈夫かと」
「それなら、まぁ、いいんだけど……で、なんて伝えればいいのかな?」
 問われた初花はしたり顔で言った。
「『ここらで私は、師匠が怖い』」


(了)


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 ここらで私は、感想が怖い。


     

ラジオ+花びら+ロボット三原則+記憶/SHISA/あう



「ちょ、どういうことだよ!」
「だからさっきも言ったようにもうその手配書は取り消してあるんだよ。間違いだった。そのロボットは賞金首じゃない。よって金はおまえに支払われない」
「は?!そんなのねーよ!今日食う金もねーのに!払ってもらわねーと困るンだよ!」
「知るかよ。早くそいつ連れて、出な、カイエン。次のお客が来てる」

 俺は愕然として声も出ない。
 いつの間にか俺は警察を追い出され、アホみたいな顔で雨の中を突っ立っていた。コブ付きで。


 こんなのってあるか?


 説明しよう。

 俺はカイエン。巷で噂のロボットハンターだ。略してロボハン。

 ロボット法三原則に反したロボット達を捕まえ、警察のロボット犯罪課にそいつらを持って行くのが俺の仕事だ。ただし賞金がかけられてるようなロボットだけだ。あたりめーだ、それでオマンマ食ってるんだからな。

 は? ロボット法三原則ってなんだかって?

 アイザック・アシモフ読んだことないのかよ?
 むかーしのSF作家だよ。
 ロボットの定義を初めに作った懐古の作家。
 空想の産物としてロボットの物語を書いた。
 本当に人間と見分けのつかないほどの、動く人形――ロボットを、この世に作り出すことが出来るなんて、当時の人間は思っていなかっただろうが――いや、作れると信じた奴らがいたからこそ出来たのか。

 ともかく、今の時代では当たり前のようにロボットがうろついている。

 勿論、人間と見分けがつかないような精巧なロボットは、中流家庭では買えないくらい高値で売られている。だから、殆ど街でうろついてるのは四角ばった鉄のものや、丸っこいフォルムの二足歩行ロボット、または二足歩行すらしないロボットもいる。
 しかしまあ、人間と区別がつかない訳だから、意外とこの街にも人間を装ったロボットがすまして歩いている、なんてことも否定はできない。

 で、そのむかーしむかしのアシモフさんが空想上に作った法がこれだ。

 第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また人間が危害を受けるのを何も手を下さずに黙視していてはならない。
 第二条 ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし第一条に反する命令はこの限りではない。
 第三条 ロボットは自らの存在を護(まも)らなくてはならない。ただし、それは第一条、第二条に違反しない場合に限る。

 ロボットはあくまで機械だ。家庭ロボットなんかやペットロボに愛着を持ち、「家族も同然です」なんて奴らもいるが、故障し、暴走するロボットはよくいる。そのせいで火事を起こして家を全焼させたなんてこともなくはない。まあそれは過失、事故ということになりえるが――。
 それがあまりに過ぎ、たとえばそのロボットが確信犯として事件を起こし、しかも人間から逃亡をする知能を持った奴がいると、大変なことになるわけだ。プログラムに重大なバグが出来たのかなんなのかはわからないが、そういったロボットには賞金がかけられ、市民に呼びかけられる。このロボットを見つけたら、捕まえたらいくらいくらやるってな。


「それで食ってるおかげでこれだよ」

 せっかく手配書のロボット【SHISA】を見つけて連れて来たってのによ。
 ちらりと横を見ると、どうみてもロボットに見えない、一人の少女が俯いていた。
「うっ…うう…ひ…っ」
「確かに変だと思ったんだよ、こんな泣くしかできねえ女型ロボットが指名手配ロボなんてよ」

 溜め息を吐く。
 俺がちょっとした用事である町にいった帰り、砂漠を渡っていたら、こいつが泣きながら砂漠に突っ立ってたわけだ。きちんと砂漠用コンバットブーツはいて、服もそれなりにその場にあった服を着ていたが、どっかで見たことある顔だと思い、手元の賞金首帳を見たら…まあ載ってたわけだ。かなりショボイ金額だったが、持って帰ったら生活の足しにはちょうどいいと思った。
 そしたら、間違いだってんだからなあ…。

「おい、お前指名手配じゃねーそうだ。だから用はなくなった、帰っていいよ」

 自分でもひどいと思うが仕方ないだろう。
 俺は知らなかったんだ。間違って手配書出す警察が悪いんだ。俺は悪くない。
 しかし少女は相変わらず泣いていた。
「おい、俺は行くからな」
「シサ、帰るところ、ヒッ…、ない」
「は?」
「帰るところ、ない」





 ラジオからよくわからない音楽が流れた。
 花びらがどうとか、恋がどうとか、なにやらクサい歌をねちっこく女性歌手が歌いあげている。気まずかったからこそラジオをかけたものの、さらに気まずくなった気がした。テーブルから立ちあがってラジオを消そうとすると、視線が俺に向けられた。
「消さないほうがいいのか?」
「…はい」
 女ロボット…シサはうなずいた。音楽を珍しそうに聴き入っているようだった。
「……」
 どうしてこうなったんだろう。
 どうしてロボットをとっ捕まえる側の俺が家にロボットを招き入れてるんだろう。今までロボットに情を持ったりしないようにということもこめて、家に置いたり関わったりもしないようにしていたというのに。
 俺は頭を抱えて何度目かの溜め息を吐く。
「明日…買い取り屋に売りに行くまでだからな、ウチにおいとくのは」
「…はい」
「で、お前何が出来るんだ?家庭用ロボットで掃除とか出来るのか?」
「…いいえ」
「仕事用か?IT系の事務とかの」
「いいえ」
「じゃ、なんだ?まさかセクサロイドか?」
「?」
 俺の言ったことが分からなかったようで、シサは首をかしげるような仕草をした。
「セックス用かってきいてんだよ!」
「! 違います」
「じゃあなんだよ?何のために作られたロボットだ?」
「……なんの、ため」
「単なる愛玩用か?見る専の」
「…だったと、思います」
「わかんねーのかよ。プログラムされてないのか?」
 シサは俯いて何も言わなかった。
 本当に分からないのか、もしくは言わないようにされているとか…?
 そんな変わったロボットには見えないけどな。
 高値の価値のあるロボットだろうが。
「まあいいけどよ、俺には関係ないしな。俺は疲れた、寝る」

 じっとソファに座ったまま何も言わないシサを残して、俺は寝室に逃げ込んだ。奴が睡眠をとるタイプなのか、スウィッチをわざわざ操作しスリープモードにするタイプなのか分からなかったが、いちいちそんなことを気にしてやるのも面倒なので、無視した。





 旅の疲れもあって、俺はぐっすりと眠っていた。
 誰か入って来た気配にも気付かなかった。

 気付いたら自分の胸にナイフが刺さっていた。

「?!」

 俺はびっくりして、飛び起きた。

「…血がでない」
 ぼそりと声。
「?!おまえ、」
 見ると、シサだった。
 暗い部屋にぬぼうと立っていて誰だか一瞬分からなかったが、月明かりで少しだけその顔が照らされた。
 今日拾って来たロボット、シサだ。
「カイエンさん、なんで血が出ないんですか?」
「は?」
 ふとナイフが刺さったままの自分の胸を見ると、全く血が出ていなかった。
「…え?」
 それどころか、回線と思しきひも状のものが出て、バチバチ火花を散らしている。
「…あ」


 それを見た瞬間、俺の記憶が塗り替えられた。

 光速で、なにもかも蘇る。





 なんのことはない、俺がロボットだったのだ。


 長い間、自分を人間だと思い込んでいたロボット。
 しかも犯罪を犯す壊れたポンコツ機械の尻を追い回していた。


「俺がそのポンコツ機械だったのか?」
「……気付きませんでした」
「お前、なんでこんなことしたんだ?俺の記憶を直しにきたのか?」
「いいえ」

「私は、対殺人用に作られたロボットです」


「……だからお前、泣いてたのか?」
「!」
「殺したくなくて。だからお前、今も泣いてるのか?」
「お前の設計者は何を考えてるんだろうな。殺人用に作ったのに、泣くようにプログラムするなんて。よほど鬼畜かロマンチストか」
「……」

「俺を殺すのか」
「いいえ…あなたは、人ではないようだから」
「?人だったら殺すのか?」


「…はい。私は、そういう風にプログラムされています」




 もうこの街には、人はいません、とシサが言った。

 シサの顔をじっとみると、暗がりの中彼女の頬から、はらはらと何かが散っているのが分かった。



 花びらみたいだ、と口に出そうになったが、先のラジオで流れていた歌のようで、やめた。




owari
----------------------------


言い訳
5pくらいで投げた漫画を元ネタに改変してむりやり短編にしてみました。
色々ひどい。最後のとこなんてセリフだけっていうね。
着地点を途中でめんどくなって変えたので矛盾だらけ、読み返すのも嫌なので推敲もまったくしてません。そして締切には遅刻しました!ごめんなさい。

     

◆ロボット三原則+娼婦+粉末/カラクリカタリ/蝉丸

 美濃の国、須原の宿場から中山道を外れ、山あいを七里ほど北西に進むと小ぢんまりとした城下町に出る。町の中心に築かれた城は那古野城を模しており、天守の屋根には金色の像が鎮座していた。こちらは鯱ではなく竜の姿である。
 人の立ち寄らぬ未開の山々に囲まれたこの地では、獣を狩り、肉・皮の加工を生業とする者が殆どである。為に、加工に必要な技術への関心は高い。他国者である白瓜(しらうり)が、からくり技師として藩主の覚えがよいのも、そうした風土が一因であった。

  *  *  *

「これでよいと思いますよ」

 白瓜は細い腕に釣り合わぬ、大きな皮剥ぎ包丁を手に微笑んだ。年の頃なら二十を少々過ぎて見える白瓜は、男としては何とも頼りの無い体躯をしている。着物の合わせから覗く胸板は薄く、城仕えの女の如きに白い。細く垂れた目は常に微笑んでいるようであり、眺めているだけで毒気を抜かれてしまうかのような穏やかさがあった。

「いやはや、これはなかなかのものですな。些かの仕上げは要りそうですが、ここまで研げていれば手間も大分省けましょう」

 白瓜から包丁を受け取った老人は、水の滴る刃先を指でなぞった。板張りの床に敷かれた茣蓙に胡坐をかく老人の背後には、幾本もの刃物がぶら下がっている。
 老人と向かい合い、同じく胡坐をかく白瓜の前には不可思議な木片があった。拍子木をぴたりと合わせた様に見えるその代物は、刃を簡易に研ぐためのからくりである。木片の合わせ目に刃を差し込み、数度滑らせれば、たちまちに切れ味を取り戻す。皮なめしを生業とする老人にとって、何十本もの刃物を研ぐのは非常な重労働であった。

「斯様に便利なものを頂いた以上、隠居は諦めねばなりませんな」

 老人は白瓜の隣に座る巨躯の侍――風間八五郎に向けて言った。二本の刀を手挟んではいるものの、その姿は素浪人の如きに粗末なものである。

「おお! そのお言葉、殿もお喜びになりましょうぞ! 御大にはまだまだ腕を振るってもらわねば困りますからなあ!」

 風間は豪快な笑い声を上げた。白瓜と風間が訪ねていたのは、皮なめしにかけては領内一の腕であると名高い老人の作業場である。老人は隠居を申し出ていたため、理由を問い質してみると、職人にとっては命とも言える道具の手入れが、年のせいで満足にできなくなったためとの事であった。何とかならぬかという話が風間に伝わり、風間は白瓜に相談を持ちかけたのである。
 老人の隠居を思い留まらせる事に成功した二人は丁重に礼を述べ、作業場を後にした。

  *  *  *

 老人の作業場の前には小舟がぽつりと置かれていた。水が干上がったために陸へ取り残されたかのようである。だが、この辺りに湖や川の類はない。
 白瓜は小船の舳先に近い側へ乗り込み、腰を下ろした。風間も勝手知ったる様子で艫側にどっかと座り込む。風間は窮屈そうに膝を抱えていた。

「お主のからくりは何でも小そうていかん。わしだけならまだしも、貧弱なお主ですら窮屈そうではないか」

 不平を漏らす風間に困ったような微笑みをひとつ返し、白瓜は懐から皮袋を取り出した。中にはからくりの動力となる『生命の粉』が詰まっている。血を凝縮したかのような赤い粉が振りかけられると、小舟は音もなく浮かび、地面から三寸ほどの位置で静止した。

「風間様、このままお宅までお送り致しましょうか?」
「いや、よい。『空水船(くうすいせん)』などで乗りつけたら隣近所が腰を抜かしてしまう。お主の家までやってくれ」

 かしこまりましたと告げ、白瓜は『空水船』と呼ばれた小舟に手を触れる。すると空水船は前方に向かって滑るように動き出したかと思うと、あっという間にどんな飛脚も追いつけぬ程の速度に至る。道の両側に並ぶ松の木が白瓜たちの後方へ次々と流れ去っていった。徒歩であれば四半時はかかる道のりであったが空水船であれば瞬く間である。
 白瓜は前方に見えてきた住処の前で、童女がしゃがんでいるのに気付いた。近づく空水船に気付いた童女は勢いよく立ちあがると、白瓜に向かって満面の笑みを浮かべ、大きく両手を振ってみせた。

「白瓜おかえりー。あれぇ? 八の字もいるのか」

 空水船を降りた二人に童女が駆け寄ってくる。風間は腰を屈め、からかうような顔を童女の前に突き出した。

「なんだぁ? わしが居てはいかんか?」
「八の字はうるさいから好かんのよー」

 風間から逃げるようにして、童女は白瓜の腰にしがみつく。この童女、名を葛(かずら)という。年端に見合った幼き仕草が目立つものの、揺れる黒髪に匂う艶は、お河童にしていても尚、隠しきれぬ妖しさがあり、蕩けるような目元からは、ふとした拍子に女の気配が漂い出ていた。だが、そうしたものを全く解さぬ白瓜は、胸のあたりにある童女の頭を無造作に撫でて言った。

「葛、すまないが空水船を片付けておいてくれないか」
「あいあーい」

 葛は小走りで空水船の前に立つ。小船ほどとは言え、大人二人でも運ぶには難儀する大きさだ。葛は船首を小さな両手で抱え込んだ。すると空水船を包むように、葛の腕から無数の弦が伸びていく。糸車から糸が引きずり出されるように、葛の腕からは皮と肉が消え失せてしまった。その代わりに現れたのは、鉄製の軸棒とその周りを囲む無数の歯車である。
 葛もまた、白瓜の創り出したからくりであった。好き者の藩主に乞われ、夜伽を主たる目的としたものである。すなわち葛はからくりの娼婦であった。
 軽々と持ち上げられた空水船は、工房の外壁に備え付けられた鉤爪に掛けられる。役目を終えた弦は葛の腕に戻り、再び瑞々しい肌と化した。

「風間様、よろしければ、茶でも飲んでいってください。先日、客人よりとらやの羊羹を頂いたのです」
「ほほう、では馳走になるとしようか」
「葛もおいで。お茶にするよ」

 白瓜に呼ばれた葛は、まっすぐに駆け寄ってくる。邪気のない無垢な瞳は、人の幼子そのもののようであった。

  *  *  *

 卓袱台には皿と湯呑が三つずつ。二枚の皿には何もなく、白瓜の皿にだけ羊羹が手付かずのまま残っていた。

「……今更、憐れと思うた所で致し方あるまい」

 風間は白瓜の皿に乗っていた羊羹を一口に食した。白瓜はただ俯くばかりである。葛の姿は既になかった。

『お殿様は楽しそうに葛を殴るよ。葛が泣くのが好きなんだって』

 葛の言葉が白瓜の胸に重く残る。葛は『主に背かぬ事』を第一の原則として作られている。これを破らぬ限り葛は人を傷つけず、人を傷つけぬ限り己を守るのだ。すなわち、主の命があれば、人を殺めることも、自らを壊すことさえも有り得る。

「白瓜よ、今宵、葛は壊されるやもしれんぞ」

 鈍い動作で顔を上げた白瓜に対し、風間は苦々しげに語った。
 藩主と地元の有力者たちは、時折、夜半過ぎに会合を開くことがある。表向きは領内の様子を聞くためとしているが、実の所は、藩主の嗜好に則した色事が行われているらしい。それを裏付けるかのように、藩主たちの会合が開かれた翌日は、川に女の死体が上がるという。そしてその何れもがお蔵入りの事件になってしまうのだ。

「今夜、その会が開かれる。お主に伝えるべきではないかもしれんが、黙っておると気分が悪いのでな」

 風間が腰を上げる。状況が飲み込めていないのか白瓜の反応は鈍かった。

「からくりが幼子の代わりになればよいと思ったが……けったくそ悪いものだ」

 吐き捨てるように呟き、風間は白瓜の工房を後にした。白瓜は風間の出ていった扉を呆けた目で見ていた。

  *  *  *

 空は満月であった。天守の竜が月に唸るかの如き姿である。城から離れた林に身を潜める白瓜は、遠眼鏡を使って空水船から城の様子を窺っている。
 城門は固く閉じられ、篝火の脇には門番が立っていた。奥にある詰所には更に数人の男が控えているであろう。白瓜は城の正面を離れ、高い壁に囲われた側面へと空水船を移動させた。
 遠眼鏡を左右に動かすが人の姿はない。白瓜は遠眼鏡から目を離し月を背にした天守を見上げた。狼藉を働くには明る過ぎる夜である。白瓜は胸元に忍ばせたからくりに手をやった。それは片手に収まるほどの竹筒であり、中には生命の粉が詰められていた。
 葛を動かす動力も空水船と同じく生命の粉である。そして葛は生命の粉を振りかけた者を主とみなす。白瓜は竹筒の底に取り付けられた突起物を指で撫でた。ここを押せば生命の粉が勢いよく噴き出す仕掛けになっていた。

「葛よ、私はおまえが愛しいようだ」

 白瓜は天守に向けて呟くと、空水船にそっと手を置いた。林の闇に紛れた空水船は音も無く宙に浮かんだかと思うと、次の瞬間には韋駄天の如き勢いで城に向かい、滑るように空を駆け抜けてゆく。
 城壁を越え、空に舞う空水船を詰所の男たちは頭上に見た。満月に浮かぶ黒い影は、妖怪変化の仕業であろうか。呆気に取られた門番たちがけたたましく呼子笛を鳴らし始めたのは、空水船が城内にその姿を消してからであった。

  *  *  *

 白瓜は葛の居場所を感じることができた。何故かは判らぬまま、得体の知れぬ感覚に従い、空水船は最上階に向かっていく。白瓜は次第に、葛の見ているものが見え、聞いているものが聞こえる気がした。叫ぶ藩主の姿に、慌ただしく駆け回るお付きの者。藩主がこちらに向かい何事かを告げる。
 その時、空水船の前にお付きの者達が立ち塞がり、白瓜は曖昧な感覚から注意を引き剥がした。空水船は勢いを落とさぬまま、人の群れに突っ込んでいく。ここを抜ければ葛がいる。邪魔をする者達を気遣う余裕はなかった。
 だが、思いとは裏腹に、白瓜は空水船を横倒しにして、立ち塞がる者達の頭上を越えようとした。これに最も驚いたのは白瓜自身である。己の取った動きに対応できず、舳先が大きく左右に揺れた。空水船は障子戸をなぎ倒して暴れ回る。白瓜は体勢を戻そうとしたが、刀を突き出してくる男たちを越えたところで、ついに空水船から投げ出され、目の前の襖を突き破った。

「白瓜!」

 葛の声がした。顔を上げた白瓜が見たのは葛と、怒りに身を震わせる藩主の姿であった。

「身の程を弁えぬ愚か者が……。何のつもりか知らぬが、叩き斬ってくれる!」

 藩主は大刀を抜き上段に構えると、白瓜に向けて駆け出した。壮年を越えた感のある藩主であったが、空水船を降りた白瓜など、一太刀で葬ることができるであろう。しかし白瓜は藩主を見てはいなかった。

「葛よ! 今から私がおまえの主だ!」

 白瓜は生命の粉が詰まった竹筒を葛に向け、突起を強く押した。
 あたり一面が、赤く、赤く、染まる。藩主は目を押さえ、数歩後ずさった。

「自由になれ! そして生きよ! それが私のただ一つの命だ!」

 白瓜は声の限りに叫び、そして崩れ落ちるように膝をついた。
 竹筒が白瓜の手から滑り落ちた。

「猪口才な……猪口才な! 猪口才な!!」

 激昂した藩主は再び白瓜に向かおうとする。しかし、その足はすぐに止まった。

「……か……かず……ら……?」

 葛の腕から伸びた弦が鋭い槍のような形になり、藩主の腹を後ろから貫いていた。大きく見開かれた藩主の目を見据え、葛は冷たく微笑んだ。

「お前との夜は悪くなかったよ」
「なっ……」

 葛は藩主に突き刺した弦を引き抜き、くるりと回った藩主を正面から袈裟懸けに斬り捨てた。藩主は断末魔の声さえ上げること無く、どう、と仰向けに倒れた。

「賭けは私の勝ちのようだな、父上」

 葛は白瓜の背後に向かって凛とした声を張る。その口調には幼さの欠片すらなかった。

「ふん、随分と後押ししてやった気もするが、まあいいだろう。白瓜は自分でお前を助けると決め、見事にやり遂げた。合格だ」

 白瓜はその声の主をよく知っていた。白瓜の背後に立っていたのは、風間八五郎、その人であった。

「……風間……様」
「おっと、こりゃいかん。動力が切れそうじゃないか。葛よ、さっさと白瓜に本物の粉をかけてやれ。でないと、わしのものにしてしまうぞ」
「冗談ではない。白瓜は私のものだ」

 葛は白瓜の正面に立ち、膝をついたままの白瓜を優しく抱きしめた。白瓜の耳には葛の心音がはっきりと聞こえた。

「白瓜、よく来てくれたね。ありがとう」
「葛……心の臓の音が聞こえる……」
「当たり前だろ、人間だもの。私がからくりなのは腕だけさ」

 葛は白瓜の髪を撫で、白瓜の細い目をじっと覗き込んだ。姿形は何も変わっていなかったが、葛はこれまでの葛ではなくなっていると白瓜にはわかった。葛は隠し持っていた白い粉を白瓜に振りかける。

「これが本物の『生命の粉』だよ。いろいろ騙していて悪かったね」

 みるみるうちに白瓜の身体に力が戻ってきた。葛は白瓜から身体を離すと、白瓜の腹に刺さっていた刀を抜き取る。

「刺さっているのにも気がつかなかったんだね。丁度いい、触ってごらん。お前が何者なのか分かるから」

 白瓜は言われるがままに傷口に手をやる。傷口の奥では無数の歯車が回転していた。

「白瓜を作ったのは私。白瓜に偽の記憶を入れたのも私。これは私が独り立ちする試験だったんだよ。白瓜が私を助けに来てくれたら合格。白瓜はちゃんとやってくれた」

 葛は優しく微笑んだ。白瓜は胸に鈍い痛みを覚えた。

「そら、のんびりしている時間も無いだろう。行くなら早く行け。空水船は大丈夫そうだ」
「随分と優しいな、父上」
「心外だな、わしはいつでも優しき父であり、師であったはずだ」

 葛と風間は笑いあった。白瓜はそんな葛をじっと見つめていた。

「どうした? 童女の振りをしている方が好みだったか?」

 葛はからかうように言う。白瓜はゆっくりと首を振り、重々しく口を開いた。

「……私は、今までの葛を愛しいと思っていた。けれど、何故だろうか。私は今の葛が狂おしいほどに愛しいと思う。何も知らないはずなのに」

 葛は満足気に微笑んだ。

「それはそうだ。そのままの私を好きになるように白瓜を作ったのだからな」

 葛は白瓜に手を伸ばし、髪に触れ、頬に触れ、胸板に触れた。

「そして私は、白瓜を私好みに作ったのだよ」

 葛は白瓜の手を取り、空水船へと引っ張っていく。空水船の大きさは葛にぴったりと合うものだった。白瓜も空水船へと乗りこんだ。

「白瓜、今夜はお前に女を教えてあげるよ」

 葛は微かに幼さを覗かせて言った。

 葛と白瓜を乗せた空水船は満月の浮かぶ空に溶けていく。
 天守の竜は静かにその影が消えていくのを見守っていた。

(了)

-------------------------
蝉丸です。遅刻組です。
何でも余裕を持ってやるべきだと痛感しています。

ニートノベル『速筆百物語』
http://neetsha.com/inside/main.php?id=7676
-------------------------

     


◆花びら×記憶×崇拝/血色の花/山田一人


 初めて“あの方”に出会ったのは小学生のときでした。
 学年が変わったばかりでしたから春だったと思います。まだ寒さが残る中、私は一人で下校していました。クラス替えで仲の良かった友達がみんな違うクラスになってしまいましてね。当然下校の時間も微妙にずれてしまうのですが、友人は私を待たずに同じクラスの仲間だけで帰ってしまったのです。
 当時はひどいやつらだと思ったものですが、今となってはよかったですね。ええ、一人で下校しなかったらあの方に会えなかったかもしれませんから。
 少しやさぐれた気分で歩いていた私は気分を変えていつもと違う道を歩くことにしました。一応、放課後は友人と遊ぶ約束をしていたのですが、彼らに対する憤りから遊ぶ約束を無視してしまおうと思ったのです。
 いつもとは違う場所で曲がり、見慣れぬ道を進みました。人気はなく、なんとなく薄暗さを感じる道でした。
 不気味でしたがワクワクしながら歩きました。冒険をしているような感覚だったのだと思います。 
 長い一本道でした。しばらく歩いていると前方に何やら赤い物が落ちているのが見えました。完全に冒険をしているつもりになっていた私はきっと宝物に違いないと、赤い物がある場所まで駆けました。
 ある程度近づくと異臭が鼻につきました。最初はそこまで気にならなかったのですが、近づけば近づくほどに異臭は増していきます。このまま引き返そうかとも思いましたが、私はハンカチで口元を押さえながら進むことにしました。
 その赤い物は花でした。血のように赤い花びらがとても綺麗で私は少しの間それに見とれてしまいました。
 しかし、その花が咲いている場所があまりにも異様すぎて私は我に返りました。
 猫でした。正確には猫の死体でした。腹部が裂かれて周りは血が乾いた跡で染まっていました。傷口からこぼれるように垂れている内蔵は干からびつつあります。今にも飛び出してしまいそうな眼球と顎が外れんばかりに開かれた口。その口内から血色の花が咲いていたのです。

          ◆

 刑事は自分を見下ろす男を睨みつける。強がっているが、その表情は完全に怯えきっており、男もそれを見抜いていた。
「分かったぞ……。お前は俺にも……」
「それ以上言わないでください。ただ、あなたは静かに話を聞いていればいい。すぐ終わります」
 しかし刑事はわめき続け、暴れる。だが両腕と両足が縛られて思うように動けず、もぞもぞとするだけ。
「怯えると口数が多くなるのはしょうがないことですが、話を続けるのに少し支障がありますね」
 男は銀色のそれを光らせた。だがそれは逆効果だった。刑事はさらにうるさくわめき散らす。
「しょうがないですね。このまま話を続けることにしましょう」

          ◆

 すごい……。
 私はその光景を見て思わず呟きました。
 すると、後ろから声がかかりました。「どうだい、綺麗なお花だろう」と。
 背中から私を包み込むような生温かい感触。何もないのに何かがあるような錯覚。しかしそれは錯覚などではありませんでした。なぜなら、それこそが“あの方”だったのですから。
「君が好きな花はなにかな」“あの方”は問いました。元々花に興味のなかった私は適当にバラだとかユリだとか知っている花の名前を上げました。
「では、今言った花と目の前で咲いている血色の花、どちらが綺麗だと思うかな?」
 あの花です、と血色の花を指さしながら言いました。本心からの言葉です。猫の死体を含めても、あの花の美しさは筆舌に尽くしがたいほどのものでした。
「私は美しいものが好きだ。とにかく美しいものが見たい。究極に美しいものが、だ」
 確かに、美しいものは素晴らしい。私はこの時すでにあの花の虜になっていたのかもしれません。ただ、“あの方”の言葉に頷き続けます。
「だから、私は醜いものは嫌いだ。だが世の中には美しいものは少なく、醜いものばかりが広がっている。そこに転がる動物もそうだ」
 猫は可愛い動物だと私は思っていましたが、“あの方”は容赦なく醜いと言い切りました。
「だが、動物なんてまだいい。一番醜いのは人間だ。この世界でもっとも醜い」
 私は少し怖くなりました。私も人間です。だから猫のように腹部を裂かれてしまうのではないかと考えてしまったのです。
「大丈夫だよ。君には何もしない。君のような子供はまだ穢れていない。大人のように醜くはない」
 その言葉を聞いて私はほっとしました。私は、醜くない。
「話を戻そう。動物は醜いが、美しく変貌を遂げることもできる。この猫のようにね」
 醜い猫も、今では見とれてしまうほど綺麗な花になっています。“あの方”の言うとおりです。
「私は美しいものが好きだが、ただ美しいだけのものがいいというわけではない。醜かったものが美しいものに変わる。それが至高だと思うのだ」
 気がつくと夜のように暗くなっていました。ですが学校を出てからまだ一時間も経っていないはずです。
 死んだはずの猫の目が不気味に光りました。黒いもやもやとした大きな手が優しく猫を――否、花を包み込み、持ち上げます。
 私はその言葉に同意しました。すると“あの方”は嬉しそうに言いました。「理解を得られて嬉しいよ。偶然だったが、出会えたのが君でよかった」
 私も、あなたと出会えて嬉しいと答えました。
 辺りを包みこんでいた何かが離れていくのを感じました。“あの方”は花を持ってこの場を去ろうとしていたのです。急に不安な気持ちが私の胸に広がっていきます。
 待ってください! 私は思わず叫んで“あの方”を呼びとめました。私はもっと美しいものを見たい。あの花をみたい。と思ったことを全て口に出しました。
「そんなに、この花が気に入ったのかな?」
 あの方は花を私の眼前に近づけました。既に異臭は気にならなくなっていました。ただ、その花の美しさに圧倒されるのみです。
「確かに君のような子供がこのまま醜い人間に成長してしまうのは悲しい」
 私は醜くなりたくない、あなたに嫌われたくないのです。そう叫びました。
「醜くなっても、美しくなれる。この猫のように」
 私は醜くなりたくないだけで美しくなりたいわけではありません。美しいものを見たいのです。
「よかろう」
 そう言って“あの方”は花を持ってすぅっと消えていきました。ですが、もう不安はありませんでした。私はこれから“あの方”と一緒なのですから。
 それから私は“あの方”色々なことを教えてもらいました。なぜ動物が醜いのか、なぜ花は美しいのか。だが私が知りたいのはそんなことではありませんでした。
 それから一年くらい経った頃でしょうか。ついに“あの方”は私に教えてくれました。あの花の咲かせ方を。
「これを見てごらん」
 あの方は手のひらに置いた赤い種を私に見せました。
「これが花の種だよ。醜い生き物を養分にして、花が咲く」
 あの方はこの種を持って死んだ子犬の腹部に手を潜り込ませました。あらかじめ刃物で裂いてあるため、中に手を入れるのは簡単でした。ただ、血がたくさん飛び散るのが難点です。
「まずは胃の中に種を一つ。これは絶対だ。次に中を探って他の臓器に触れるんだ。すると醜さのあまり鳥肌が立つようなものがある。その臓器の中にまた種を入れていく」
 入れる種が一つではないのが以外でした。でも今まで見てきたあの花は全て一匹につき一輪だけです。
 “あの方”は手をごそごそと動かして色々な臓器に種を植え付けます。血はあたりに飛び散り、種を植え付けなかった臓器が飛び出たりしましたが、慣れてしまったのか何とも思いません。
「これでよし」
 必要なだけ種を植え付け終えた“あの方”は子犬の腹部から手を抜くと、その場で放置しました。小さな公園の片隅、雑草に隠れて人には見つからないはずです。
「明日になればきっと綺麗な花が咲く」
 “あの方”は嬉しそうに言いました。
 子犬の傷口がびちゃびちゃと音を立てて蠢いていました。
 翌日、子犬の口から血色の花が咲きました。なんて美しい色をしているのでしょう。その花弁の一つ一つに宿る魔性が私を虜にしているような、そんな錯覚を覚えます。
「素晴らしい。あれほどまでに醜かった子犬がこんなにも美しい姿に変わるなんて」
 拍手をしながら“あの方”は言いました。手と手が触れると音と同時に周囲の空気が黒く歪みます。花はそれに同調するようにうねうねと動きました。まるで舞っているようなその光景に、私はさらに興奮しました。
「そろそろ、だな」
 なんのことでしょうか。私は“あの方”に問いました。
「次は君の手で花を咲かせるのだ」
 “あの方”は優しく私を包み込みました。

          ◆

「それがこの種ですよ」
 男は刑事に花の種を一瞬見せると、ポケットにしまった。
「おい、よく見えなかったぞ!」
 刑事は叫ぶ。
「まだ種を植える段階ではないですからね。また後で見られますよ」
 やれやれと言った感じで男は答えた。
「お前はあいつにもその種とやらを植えたのか?」
 刑事は自分より少し離れた場所で倒れている同僚の方を見ながら言う。
「ええ、とっくに植えましたよ。次はあなたです。まあ、話の続きをしながらゆっくりと作業を進めましょう」
 男は語りを再開した。

          ◆

 それから数日後、私は“あの方”と一緒に小学校に来ていました。零時を回っているため、周りには私たちを除いて誰もいません。
 私たちはウサギ小屋の扉を開けて中に入りました。放課後にこっそりと鍵を空けておいたのです。“あの方”のただならぬ雰囲気を感じ取ったのかウサギたちは一斉に隅へと逃げ出します。
「一匹選ぶのだ。なるべく醜いものが好ましい」
 私は言われた通りにウサギを一匹選ぶと、両手で持ち上げました。“あの方”と違ってウサギが醜く見えるわけではないのでどれが一番醜いかどうかなど分かりません。だから適当に選んだのですが“あの方”は特に何も言いませんでした。
 ウサギを抱えて小屋を出ると、敷地内の隅に移動しました。塀の陰で私はこのウサギに種を植えるのです。
 ナイフを取り出し右手で握ると、左手でウサギの首元を押さえます。そして腹部にナイフの刃を差し込みました。ウサギが暴れるので左手の力を強めますが予想以上に力が強く、うまくナイフを扱えません。
 なんとか握りなおすと、ナイフを下に引きました。うまく切り裂けませんが無我夢中になってナイフに力を込めました。
 気がつくと辺りは血だらけ。私の服も真っ赤になっていました。ウサギはピクリともしません。息絶えています。
「腹を開いてみるといい」
 私はナイフで切った部分を開きました。
「うまく切れなかったようだな。内臓に傷がつきすぎている。だが、初めてだからしょうがないことだ。気にせずに進めよう」
 私は傷口に手を入れると胃袋と思われる臓器に穴を開けて種を一つ植えました。次に他の臓器もゆっくりと触ります。触った瞬間にゾクリとした臓器に種を植えると、中から手を抜きました。両手とも真っ赤に染まって自分のものとは思えませんでした。
「これでいい。あとは明日を待つだけだ」
 私は水道に行き手を洗うとあらかじめ持ってきていた替えの服に着替えました。作業中に来ていたのは元々捨てる予定だった服なので帰る途中にゴミ箱に捨てました。
 翌日。学校ではウサギの死体が転がっているということで騒ぎになっていました。昼休みに遊んでいる生徒が発見したそうです。
 先生が来る前に私はウサギの確認をしに行きました。
 “あの方”が植えたものほどではないですが綺麗は花が咲いていました。少し濁った血の色でしたが、自分が咲かせたということが関係しているのか何とも言えぬ感動を覚えました。
 先生たちが来るとすぐに花を片付けてしまいましたが、気にならなくなっていました。
 それから“あの方”に教えてもらいながら何度も何度も花を咲かせ続けました。
 色々な種類の動物を花に変えたと思います。咲かせれば咲かせるほど花弁の色は洗練されたものになり、私はその美しさに酔っていきました。

          ◆

「そんなことは分かってるんだ!」
 刑事は叫んだ。
「お前が近所の動物を殺しまわって一度警察沙汰になっているのは分かり切っている」
「殺した、では少し語弊がありますよ。最終的に花になったのですから」
「殺したんだよお前は。大量の動物、そしてに――――」
 男は手に持った包丁で刑事の腹を突き刺した。断末魔の叫びが響き渡る。
「これでは私が何を言っても聞こえないかもしれませんね。だけど、続けますね」
 血に濡れながら、男はまた口を開く。

          ◆

 話は私が大学生のときに飛びます。
 “あの方”曰く、私は同年代の人間の誰よりも穢れていない、醜くない、とのことでした。
 それも全て“あの方”のおかげです。私は充実した生活を送ることができていました。
 ある日、“あの方”は言いました。
「この時を待っていた。お前はこの世に存在するどの人間よりも美しい」
 それは前にも聞きました。この時を待っていた、とはどういうことなのでしょうか。
「お前が咲かせる花には私が咲かせる花とは違う魅力がある。そんなお前が最も醜い生き物で花を咲かせたらどうなるのか……。私はそのことばかり考えていた」
 つまり人間を花に変えるときが来た、ということでしょうか。
「成長したその頭脳と体躯ならば人を花に変えることも問題なくできるだろう」
 正直、私も動物から咲かせる花の美しさに限界を感じていたところでした。“あの方”に言われる前から人間という新たな花の媒体に興味を示していた私としては願ってもない提案でした。
 私は同じゼミのNという男に目を付けました。今まで接してきた人間の中でもひと際性格の悪い男でした。“あの方”でなくてもやつが醜いことが分かります。
 美しく変えるならこの男しかない。私はそう思いました。“あの方”も同意してくれました。
 Nは普段から周りに嫌われて距離を置かれているので表向きだけでも仲良くなるのは簡単でした。何度もNと飲みに行き、彼は完全に私を親友だと思い込んでいました。
 ある日、私の家で呑もうとNを誘いました。Nは二つ返事で了承します。この時点で彼の運命は決まったも同然でした。
 Nが浴びるように酒を飲んで勝手に潰れてくれたのは好都合でした。私は風呂場に彼を引っ張ると、浴槽の中に放り込みました。
 風呂場が薄暗くなっていきます。黒いもやが充満し、私を包み込みました。“あの方”が私に包丁とハンカチ、ロープを手渡しました。
 私はNの両手両足をロープで結ぶとハンカチを丸めて口に詰め込みます。そして彼の服を包丁で切り裂き腹部を露出させました。
 さあ、もうすぐです。私が彼を花に変えるのです。“あの方”のために、そして自分のために私はNに突き刺しました。
 Nの目が大きく見開かれました。ハンカチ越しに声にならない声を上げ、身体をじたばたと動かします。私は馬乗りになってNの動きをなんとか押さえながら包丁を下に引いていきます。初めてウサギに種を植えたときのことを思い出し、感慨深い気持ちになりました。
 Nが息絶え、動かなくなったことを確認すると、私は種を持って腹部に手を入れました。今までの動物よりも大きな身体、大きな臓器に圧倒されながら胃袋に触れ、穴を開けて種を植え込みました。そして今までと同じように他の臓器の中にも種を植えると、身体を洗って寝ることにしました。
 翌朝。目を覚ますと部屋の中に異臭が立ち込めていました。動物のとき以上の臭いです。
 風呂場を見てみると、そこには今まで見た花のどれよりも大きく美しい血色の花がNの口から咲いていました。私はあまりの美しさに口をぽかんと開けながら膝立ちになって見とれていました。
 “あの方”が現れ、盛大な拍手をします。風呂場が歪み、花が舞うように揺れます。“あの方”の喜びがこれまでにないくらい私に伝わりました。
「素晴らしい……最も醜い人間を最も美しい人間が花に変える……ここまでとは……」
 私は自分が咲かせた花の美しさと“あの方”の喜びが自分の喜びとイコールになっていることに今更気付きました。
 私は、私はもっと美しい花を咲かせられる。
 それから私は対象を動物から人間に変えて花に変え続けてきました。気づけば大学にもいかなくなってしまいました。
 今までの人間の写真がありますよ。ほら、見てください。写真は八人目まで。九人目があそこで咲いている大きく美しい血色の花です。確かあなたの同僚でしたね。ほら、綺麗な花でしょう。あんなに美しいもの、他では見られませんよ。

          ◆

 男は離れた場所で倒れた刑事の同僚を指さして言った。その手は刑事の血で真っ赤に染まっていた。
「……あ……が……」
 刑事は呻く。
「あなたのお腹も切り終えましたし、次は種を植えますよ」
 男は写真をしまうと、代わりに別の何かを取り出した。
「ほら、見てくださいよ。さっきよく見えないって言ってたでしょう。ほら、これが種です」
 男は何かを摘まんだ指先を刑事の眼前に持っていく。
「な……も……ない……じゃ……」
「え? よく聞こえませんよ」
 刑事は辛そうな表情で大きく息を吸う。
「何も……ないじゃ……ない……か……!」
「何言ってるんですか。よく見てください。でも、意識が朦朧としているなら無理ですよね」
 男は指先を刑事の顔先から離した。
 刑事はぜえぜえと荒く呼吸を続けながら首を倒れている自分の同僚に向けた。
「死ぬ前に花が見たくなったのですね。よく目に焼き付けて天国に行ってくださいね。あんなに美しいものは天国でも生まれ変わっても見られないでしょう」
「……ない」
 刑事は腹部を裂かれて死にかけた状態とは思えないほど大きな声で言った。
「花なんてどこにも咲いてな…………い……――」
 血だまりの中で、全ての力を使いきったように刑事は事切れた。
「やっぱり……意識が朦朧としていたのですね。見えなかったなんて、残念です」
 男は哀れむような目で刑事を見下ろしながら言う。
「さて、種を植えましょうか。この人はどんな花を咲かせるのでしょうか」
 男は刑事の腹部に両腕を沈めた。臓器が血と混じりぐちゃぐちゃと不快な音を立てる。
 一心不乱に体内をかき回すと、男はゆっくりと腕を腹部から引き抜いた。
「さて、この人はどんな花が咲くのでしょうか」
 臓器の位置、形がめちゃくちゃになった刑事の赤黒い体内が蠢き始めた。黒さが少しずつ増していき、全てが混ざり合っていく。
 それは黒いもやに変わり、そのもやの中で二つの目が開いた。
「きっと美しい花が咲くだろう。あそこで咲いた花のように」
「そうですね」
 黒が、辺りを包み込む。



------------------------------------------------------------------------------------


  
 〆切を二時間過ぎた状態でアップしてしまいました。遅刻です。ごめんなさい。
 読んでいただきありがとうございました。

     

第二回目くじ 11/14 締め切りました。

あいさつがかなり遅れて申し訳ないです。
くじの種類は、花びら、ロボット三原則、記憶、ラジオ、崇拝、粉末
逆さま、倉庫、世界の終わりは君と二人で、吸血鬼、娼婦
の11種類でした。
今回は私のツイッターでの呼びかけにぱぱっとお題を提供してくれた方によるものや、適当に私が考えたものでした。前回のお題がアレだったので、なんとなくロマンチックなお題が多くなった中、お題の使い方も人それぞれでなかなかよい感じになったでしょうか。
今回はぴったり一カ月の締め切りだったので、すこしきつかったにもかかわらず、参加が多くて充実していたように思います。参加してくださった方、ありがとうございました。


さて次回ですが、くじの種類を変えてあみだくじになります。
12月~のスタートとなります。よろしくお願いします。

       

表紙

だれもが心に文芸新都 [website] 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha