Neetel Inside 文芸新都
表紙

くじで出たお題で小説書こうぜ企画
Funeral/葬送の窓/蝉丸

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 ――雨と、教会の鐘の音が聞こえる

 微睡んでいたフランツは静かに瞼を開いた。だが、既に日は落ちていて、光のない、暗闇そのものであった部屋には、何ひとつとして目に見えるものはない。雨の音。かすかな鐘の音。そして、今にも途絶えてしまいそうな、か細く乱れた息遣い。とても近く、とても遠い音の重なりは、フランツの意識から、肉体の存在を希薄にした。
 中を窺うように重い扉がそっと開かれ、滲み出す蝋燭の炎が闇を退けていく。粗末な燭台を手にした母は、部屋のランプに火を灯した。
「フランツ、司教様がみえるから出迎えにおいで」
 母はそれだけを告げ、部屋を出ていった。まるで、義務は果たしたとでも言わんばかりに。
 明かりに照らされたフランツは、天使画から抜け出したかのような美しさだった。金色の巻き毛をした、大人になる一歩手前の少年は、ベッドで苦しげに喘ぐ幼い弟、エーリヒに虚ろな瞳を向けていた。
「……おみず……おみず、ほしい……」
 エーリヒは僅かにフランツへ顔を向け、途切れ途切れに言った。高熱を出すエーリヒの顔には発疹ができ、そのほとんどが潰れ、黄色い膿が垂れ出ている。空のように青かった瞳は色合いを薄くし、白目は澱んで濁っていた。焦点の定まらないエーリヒの目は、残酷なほど鮮明に忍びよる死を映し出していた。
 汲み置きの水を掬おうと、フランツが木のカップを手にした時、父が部屋に入ってきた。フランツの前に立った父は、ものも言わずにフランツを拳で殴り付けた。座っていた椅子ごとフランツは倒れ、カップが床を転がった。
「来い」
 父はフランツの腕を取り、無理矢理に立たせた。
「待って、エーリヒが水を欲しがってる」
「後にしろ。オイゲン司教の馬車が近くまで来ている」
 有無を言わさず、父はフランツを引き摺っていく。フランツは扉の前でエーリヒを振り返った。エーリヒは力無く口を動かしていたが、紡ぐ言葉はフランツには届かなかった。

  †  †  †  †  †  †  †

 オイゲン司教は緑の司教服に身を包み、顔に深く刻まれた皺の奥から、慈愛に満ちた眼差しをフランツたちに向けた。背後に控える四人の従者は、皆、雨に濡れていたが、オイゲンには水滴ひとつかかっていない。昼であれば畑を見渡すことのできる窓には、風に吹かれた雨粒が斜めに流れていた。
「ご子息の具合はどうですか?」
 優しく、けれど、張りのある声で司教は父に尋ねた。
「はい、まだ息をしております。ですが、もう長くはないでしょう」
「そうですか。天は善き者を早く召すと申します。肉体の死は永遠の別れではありません。どうぞ、お気を落とさぬように」
 オイゲンはフランツに顔を向ける。フランツは委縮し、脅えるばかりだった。
 本来、司教の職位にある者が、一農民の家を訪れることなど、まずない。だが、オイゲンとフランツの一家には特別な繋がりがあった。そのために、流行り病でエーリヒが死にかけていると聞いたオイゲンは、心ばかりのミサを執り行おうと考えたのだった。
「では、始めましょうか」
 オイゲンの言葉に父が頷き、エーリヒのいる部屋の扉を開いた。

  †  †  †  †  †  †  †

 聖書の一編を唱え、説教を行う形でミサは進んだ。苦しさからか、エーリヒは身体の向きを幾度も変える。呼吸は先よりも力を失くし、時折、身体が痙攣を起こした。命の尽きかけたエーリヒを前に、オイゲンは常と変わらぬ口調で説教を続けていた。
「……我らが人に許す如く我らの罪を許し給え。我らを試みに引き給わざれ。我らを悪より救い給え。アーメン」
 オイゲンが十字を切り、押し黙っていた他の者達もこれに倣う。ランプの光が揺れ、部屋に落ちた影が歪んだ。
 静寂が訪れる。オイゲンはエーリヒに語りかけた。
「エーリヒ、怖れることはありません。あなたは神のおわす国に近づいているのです」
「……おみず……おみず……」
 信仰心に満ちたオイゲンの言葉にエーリヒは応えなかった。フランツはオイゲンが機嫌を損ねたのではないかと怖れた。
「フランツ、エーリヒに水を」
 変わらぬ口調のオイゲンに安堵し、フランツは石壁まで転がっていたカップを拾い上げ、水を汲んだ。エーリヒは口元に運ばれたカップに吸い付き、渇いた喉を潤そうとする。だが、エーリヒは既に水さえも飲むことができず、身をよじり、激しく咳き込むばかりだった。フランツはエーリヒの手を強く握りしめる。二人の姿にオイゲンが再び十字を切った。
「おにいちゃん……たすけて……
 かみさまのくになんていきたくない……たすけて……」
 絞り出されたエーリヒの言葉に、オイゲンの動きが止まる。神の否定、それは神への冒涜であり、教会への冒涜である。只ならぬ気配に振り返ったフランツは、怒りに我を忘れ、憤怒の形相を顕わにするオイゲンを目の当たりにした。
 ――サタン?
 フランツはオイゲンの姿に、礼拝で知った悪しき存在を重ね合わせた。
「聞いたな、皆の者よ! この者は穢らわしき口で神の世を否定した悪しき異端である! ただちに排除せよ!」
 オイゲンの命を受け、従者はエーリヒの元へ近づき、腕を掴んでベッドから引き摺り出した。抗う力の残っていない身体は、冷たい床に滑り落ち、肩の骨の外れる音が鈍く響く。フランツはエーリヒに向けて手を伸ばした。だが、その手首をオイゲンが強く掴んだ。
「あっ」
 フランツの声が漏れる。
「触れてはなりません。この美しい手が穢れてしまう」
 傷ひとつないフランツの手をオイゲンは執拗に撫で回した。
 悲痛な叫びを上げ続ける母を、父は強張った表情で抑えていたが、ついにはその手を振り払い、母はエーリヒを追って雨の夜に駆け出していった。
 オイゲンはベッドの部屋を出て、隣の部屋へと移る。皆、オイゲンの後に続いた。
「窓を開けよ」
 オイゲンが命じ、畑に面した窓が開かれた。暗闇の先に従者の持つ明かりが見える。母は従者に縋りついては、殴られ、蹴られ、地に倒れた。襟首を掴まれているエーリヒは何の反応も見せず、既に息絶えているようだった。
 騒ぎを聞きつけ、近隣から明かりを持った人々が姿を見せる。
「その異端者を畑に打ち棄てよ!」
 オイゲンは窓辺に立ち、エーリヒに集まる明かりに向け、高らかに声を上げた。
「その少年は悪魔に魅入られ道を誤った! 従って、神の許しがあるまで、何人といえども触れることを禁ずる! この禁を破りしものも異端とみなす! しかと心得よ!」
 エーリヒは雨でぬかるむ土の上に仰向けで転がされた。人々のもとに雨は落ち、やがて、明かりはそれぞれの場所へと去っていった。
 オイゲンは震えて座り込むフランツに微笑みかけた。フランツは恐ろしさのあまり、声を上げて泣くことさえできなかった。

  †  †  †  †  †  †  †

 エーリヒが息絶えてから七日目の朝は快晴だった。畑に面した窓のある部屋で、フランツたちは朝食のパンを食べている。外の畑では小麦を育てているが、いまの時期は休耕地となっていて、水分を無くし、所々がひび割れた灰色の土があるばかりだった。
 畑の、道に程近い場所に、エーリヒの遺骸は放置されていた。身体の右側を家に向け、仰向けで転がされている。あの夜から何も変わらない体勢であったが、皮膚の表面には紫の死斑が浮かび、肉は柔らかさを失って硬直していた。
 物言わぬエーリヒの姿は、粗末な食事が並べられたテーブルからはっきりと見えた。しかし、父と母はそこにエーリヒの遺骸など存在しないかのように、麦のパンを噛み、とうもろこしのスープを啜っている。フランツも両親に倣っていた。エーリヒのことを口にすれば父に殴られるからだった。フランツは頭にいくつもの瘤を作り、母は顔に痣を作っていた。
 オイゲンの言葉に脅え、道行く者もエーリヒが見えぬ振りをする。エーリヒの御魂は既にその肉体に無く、誰もがエーリヒの存在を認めない。個々の心にその存在があったとしても、確かめ合えぬ認識はおぼろげで、エーリヒの姿が見えているのは自分だけではないのだろうかと、フランツは思うことがあった。
 それが只の夢想であり、エーリヒの遺骸は間違いなくそこにあると、フランツは知ることになる。事件はその日の夜に起こった。

  †  †  †  †  †  †  †

 外から男たちの騒ぐ声が聞こえ、フランツはベッドを降り、部屋を出た。父と母も自分たちの寝室から、畑に面した窓のある部屋に出ていた。
 フランツたちが窓から外を見ると、隣家の父と三人の息子がエーリヒの遺骸の周りに集まり、屍肉の臭いに寄って来た野犬を、手にした棒で追い払っていた。
「とっとと出て来い! この疫病神どもが!」
 フランツたちに気付いた隣家の長男が叫んだ。父は火かき棒を手に外へ出る。フランツと母はその後を追った。
 野犬は六匹だった。エーリヒと隣家の男たちを取り囲み距離を取っている。父は最も手近の野犬に火かき棒を振り下ろした。背を打たれた野犬は甲高い声で啼き地面に転がる。父はその脳天を火かき棒で叩き割った。
 戸惑いを見せる野犬に、隣家の男たちが声を上げ、襲い掛かる。さらに一匹を屠ると、残りの四匹は西へと逃げていった。
「犬どもが食い付いてたんだ。見ろよ、はらわたが引き出されてる」
「元どおりに詰め直せよ! 俺たちまで異端扱いされるだろうが!」
 隣家の男たちはフランツたちに言い放った。その言葉通り、月光に照らされたエーリヒの遺骸は、腹部を裂かれ、腸を引き摺り出されていた。母は身を震わせ、エーリヒの遺骸と隣家の男たちとの間で視線を行き来させていたが、両手で自分の髪を掴むと、絹を裂くような叫び声を上げ、家へと駆け出してしまった。
「とにかく、野犬がこいつを引っ張ってっちまうようなことがあったら、俺たちが何かしたと言われかねねぇ」
 隣家の父が言う。血の気の多い長男がフランツを指差して叫んだ。
「この、おかま野郎に見張らせとけばいいんだ!! そもそも、司教がこんなところまで来たのは、こいつのせいだろう!!」
 喚く隣家の長男に、フランツの父は静かに告げた。
「お前の言葉をそのまま、司教に伝えるとしよう。司教の行為を、すなわち教会を侮辱したとみなされなければいいがな」
 長男は黙った。だが、その顔は激しい憤りに紅潮していた。フランツの父は隣家の父に向けて言った。
「夜はフランツに見張らせる。これから迷惑はかけん。それでいいな」
 隣家の父は頷き、息子たちを引き連れ、家に戻っていった。フランツと父も家に戻る。中に入ると、両親の寝室の扉が開け放たれていた。常とは違う気配を感じ、フランツと父は寝室に入り息を飲んだ。天井の梁から首を吊った母がぶら下がっていたのだ。
 父はしばし言葉を失い、やがてベッドに座り込んで頭を抱えた。フランツは寝室の入り口で、ただ、立ち尽くしていた。
「異端、自殺に男娼か。俺の周りは不信心者ばかりだな」
 父が呻くように言った。フランツは罪の意識に苛まれていた。

  †  †  †  †  †  †  †

 エーリヒが息絶えてから四十日が過ぎた。畑に面した窓のある部屋にはフランツのベッドが運び込まれ、いつでもエーリヒの様子が目に入るようになっている。
 フランツは痩せ細っていた。夜は一睡もせずにエーリヒの遺骸を見張り、昼、父が畑に出ている時だけ、目を盗むようにして眠った。眠っているところを父に見つかれば、容赦なく殴られた。これまでは手を出されなかった顔や身体も殴られるようになった。
 時折、野犬が姿を見せれば、火かき棒を持ち畑に飛び出した。野犬はフランツに襲い掛かることもあり、そのたびにフランツの傷が増えた
 母の遺体は父が人知れず処分した。キリスト教徒にとって自殺は大罪である。母があの後どうなったのか、フランツにも知らされることはなかった。
 フランツはベッドに座り、窓から外を眺めた。まもなく日暮れを迎える時刻だったが、空は厚い雲で覆われ、太陽はその姿を見せていない。エーリヒの遺骸は、雨の日も風の日も、ただそこにあった。時の流れは緩やかにエーリヒを包み、少しずつ、少しずつ、その肉体を土へと還していく。いつしかフランツは、その穏やかな変化を羨むようになっていた。
 東に馬車の姿が見えた。緻密な装飾が施されたオイゲン司教の馬車だった。フランツは身体を強張らせ、近づく馬車を見据えていた。
 畑に出ていた父の横で馬車が止まる。御者台から降りた従者が父に近付き、銀貨の入った袋を手渡した。父は黙って袋を受け取ると、再び土を耕し始めた。
 家の前に馬車が止まった。しばらくして扉が開き、オイゲン司教が姿を見せた。フランツはシーツを強く握り締めた。
「ずいぶんと痩せましたね」
 オイゲンはゆっくりとフランツに近付きその頬を撫でた。
「この痣はどうしました?」
 まばたきをしないオイゲンの目が、フランツの目を覗き込む。何もかもを暴き出されてしまいそうで、フランツは顔を背けた。オイゲンはフランツの上着のボタンに手を伸ばし、ひとつひとつ時間をかけて外した。フランツの白い肌にはいくつもの痣があり、それを見たオイゲンは微かに眉根を寄せた。
「服を脱ぎなさい」
 フランツはオイゲンに従った。オイゲンが何を望んでいるかをフランツは理解している。それはフランツにとって、殴られるよりも嫌な、心を削られていく行為だった。
 一糸纏わぬ姿になったフランツは、ベッドに仰向けで寝かされた。
「……ここでするのですか? 外に、声が聞こえてしまいます」
「ここにベッドがあるのだから仕方がないのですよ」
 オイゲンはフランツの中心に顔を埋めた。生暖かい感触が絡みつき、望まぬ快感に襲われたフランツは、目を潤ませ、漏れそうになる声を必死に堪える。だが、抑え切れぬ声がすぐに漏れ始め、涙とともにフランツは声を上げ、果てた。
 オイゲンは顔をフランツから離し、口中の液体を飲み込むと、力の抜けたフランツの腰を手で打った。フランツは四つ這いになり、オイゲンに向けた尻を高く上げる。オイゲンは薄笑いを浮かべ、その尻を何度も何度も手で打った。
 尻を打つ手が止まり、フランツはオイゲンの荒い息と衣擦れの音を背後に聞いた。オイゲンはフランツの腰を両手で掴み、自らの陰部をフランツの内部へと押し込んだ。異物の衝撃に大きく仰け反ると、窓の外で畑に佇む父が見え、フランツはきつく目を閉じた。
「神の恵みを!」
 オイゲンは叫び、果てた。

 オイゲンから開放されたフランツはベッドに顔を押し付け、声を押し殺し、涙を流していた。たったこれだけのことで、父が畑を耕して得られる収入の何倍もが手に入る。しかし、これはオイゲンの心持ちひとつで、消えてしまうものであった。
「ああっ!」
 フランツが声を上げる。オイゲンは法衣のスカーフで、フランツの首を後ろから締めていた。
「なぜあなたは神から頂いた美しさを邪険にしたのですか? 神の寵愛を蔑ろにする者は、神の罰を受けねばならないのです」
 オイゲンは恍惚の笑みを浮かべている。フランツという玩具を、最後の一瞬まで、楽しみ尽くそうとしているかのようであった。父はフランツを見て見ぬ振りをしている。エーリヒの遺骸は朽ちた身体を横たえているばかりだった。
「……僕も……僕も、神様のいない世界に行きたい……」
 フランツの視界は闇に飲まれていった。

 その時、

 一条の光が、厚い雲を抜けてエーリヒの遺骸に射し込んだ。
 光は薄闇を退け、辺りを金色の輝きに包んだ。

 皆、光を見やり、我知らず十字を切った。
 父も、隣家の男たちも、オイゲンも、死の淵にいたフランツでさえも。

 光に包まれたエーリヒの遺骸は、その輪郭を薄め、溶けるように消えた。
 エーリヒは天に召されたのだと、誰もが思った。

 光は緩やかに細くなり、やがて消えた。
 後には曇天の空と、深くなった闇が残った。

 放心していたオイゲンは、地獄の存在を思い出した幼子のように震え出し、取る物も取り敢えず家を飛び出すと、馬車を走らせ、元来た方角へと逃げ出していった。
 フランツはエーリヒのいた場所を見つめていた。確かに存在していたエーリヒは、もういない。エーリヒは選ばれ、遺された自分は選ばれなかったのだと思った。

 闇が世界を包む。曇天の空には雷鳴が轟き始めた。

(了)

       

表紙

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Neetsha