Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
百万円の虚無

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 私は成功者だった。人生のゲームに打ち勝ち、欲しいものを全て手に入れた。地位、名誉、金。誰もが羨み苦悩するものが当たり前のように掌のなかを転がる暮らし。私は満足していた。この栄光にふさわしいだけの労苦を積みもした。私は貧困から生まれた。貧困が私を育て、苦痛が私の母だった。しかしそれも過ぎ去ったこと。私は成功したのだ。金曜の夜に自宅へ帰り、静かなクラシック(誰が作曲者なのかもわからないし、欠片も興味が湧かない)を流していわゆる情動的、誰もが羨む金曜日を作り出した。人間工学にもとづいて設計されたソファに腰かけ、宇宙船のキャノピのようなビッグスクリーンにお気に入りの映画を映し出す。それを二時間見てから、私は眠る。誰かの隣で。しかし、その夜、私は映画を見なかった。スイッチを落としたスクリーンの暗闇に、私以外の男が映っていたから。
 私は振り返った。
 そこには道化師がいた。
 いや、道化師といってもピエロのような格好はしていなかった。どこにでもいる普通の若い男でしかなかった。くたびれたジーンズを履き、シャツはアイロンにあてられたこともなくシワが寄り、おまけにサイズが間違っていた。懐かしくも忌まわしい貧民のなりをした若者が、私の住まいの中で、腕組みをし、にやにや笑っていた。私がもしまだ想像力に富んでいたら、この光景を悪夢のようだと表現しただろうか。悪夢? ついぞそのようなものを見た憶えがない。かつては毎夜のように私を苛んだというのに。
「お前は誰だ? 何をしている?」
「俺が誰で、何をしていたって、べつに誰かが死ぬわけじゃない。あんたはもっとマシなことを考えるべきだ」
 不思議なことに、私はその道化のような雰囲気をした男のセリフに納得してしまった。機先を制され、矛先を抜かれてしまった。敵意の槍はただの棒きれと化して、私はそれを間抜けな顔で見下ろすしかなかった。私はワインを男に勧めた。男はそれをにやにやしながら断った。私は言った。
「確かに、君が誰であろうとどうでもいいことだ。私はいま金曜の夜で、つまり自由だ。機嫌がいい。べつに知らない男が家のなかをうろついていたって、それがなんだというんだろう。私には金曜日がある。それに酒も」
 私は誰もが羨む酒をつまみも出さずに飲み尽くした。百万円の酒が私の手のなかで無になった。赤い露が仲間を探してグラスの縁から伝い落ちる。その先には底しかない。私は言った。
「君は私に言いたいことがあって来たんじゃないかね」
「へえ、どうしてわかる?」
「危害を加える気ならもうやっているだろう。それともこれからお楽しみといくかね」
「いや、暴力は嫌いだ。あれはなにも生み出さない」
 道化のような男が、私の部屋のあちこちに飾ってある丸や四角やなにがなんだかよくわからないものを持ち上げては眺め始めた。それはかつて私が織りなした作品たちのレプリカだ。思い出となっていまもまだ部屋に飾ってある。本物はもう売り払った。私はこの才能で、この金曜日を作り上げたのだ。それは私の価値そのものだった。
「ほしいかね? レプリカならいくらでもある。手に入れれば友達が羨むだろう」
「そうか? レプリカなのに。ま、本物だろうと不要だけどな。あんたの作品は俺の心のなかにある」
 その一言で、私は彼が私のファンなのだと悟った。どうやって忍び込んだのか知らないが、信奉者と過ごす夜も悪くない。私はネクタイを緩めて、胸襟を開いた。ここに敵はいないのだ。
「心の中にある、か。陳腐だが言われるとグッと来るな。私の作品をどこで知ったのかね?」
「あんたがまだ駆け出しだった頃にちょっと」
「冗談を言うな。きみはいくつだ? 赤ん坊の頃に私の作品に触れたことがあるとでも?」
「似たようなもんだ」
 男ははぐらかすばかりだった。故郷と比べるように周囲を見回し、
「ずいぶん羽振りがいいんだな。一流のマンションに最高級の家具、宝玉みたいな酒蔵に、チャチで聞き流しやすいメロソング。ここに来てわかったよ、あんた勝ったんだな。本当に勝ったんだ」
「勝利か、ま、手に入れたがね。実際はそれほどいいものじゃない」
「同感だね」
 私は聞き違いだと思うことにした。新たな酒を注ぎ、それを飲み干し全てを忘れ、取り戻した親しみで若者に言う。
「勝利の秘訣が知りたいか? 今なら無料で教えてやろう。今夜の私は気分がいいから」
「いや、いらない」
「なぜ」
「あんたのようになりたくないから」
 私は三杯目を注ぎ、飲み干した。口元を手の甲で拭い、
「歯向かうのもいい。世界の全てが敵だと思いこむのもそれなりに楽しいだろう。だが、得難いチャンスというものはもっと丁寧に扱うものだ。きみはいま、私の前にいる。それがどういう意味かわかっているのかい?」
「あんたこそわかっているのか? こんな金曜日を作るために、あんたはこれとかあれとか生み出したのか?」
 男は汚物でも見るように私の作品たちを睨めつけた。
「さぞ気分がよさそうだが、あんた最近、こういうガラクタを作っているのか?」
「なんだって?」
「ガラクタだよ。このなんの価値もないもの。それを作らなくなって何年経ったのかって聞いているんだ」
 私はもう少しでグラスを投げつけそうになった。だが、直前でふいに怒りが萎んで、心の圧が抜けていった。釈然としない不満だけを抱えて、私は新たに酒を注ぐ。酒はいい。
「ガラクタか、ふん、ま、そう思うのもいいだろう。しかし君にガラクタを作るだけでこの暮らしができるかね? 私はもう金には困らん。何に困ることもないんだ。それも全て若かった頃の私の努力の賜物だ。私は勝利したのだ。成功者なんだ。お前ごときが騒いだところで、それがなんだというんだい?」
「そのとおりだ」若者は素直だった。視線を逸しながら、
「まさにそのとおり、あんたは成功した。俺みたいなチンピラが喚いたところで痛くも痒くもないだろう。あんたはこれからもこの世界の最前線をいくものとして定期的にネタに困ったインタビュワーからコメントを求められるだろうし、新人発掘の企画でもあれば箔をつけるために呼ばれるだろう。そのたびにアシスタントディレクターが足で稼いだ金の何倍も懐に入れて、それでいてあんたの価値はいっしょうけんめい仕事をするADほどの価値もねぇし、もうガタガタ言うのも疲れたからはっきり言うとてめぇなんか早く死んじまったほうがいいんだ。オーケイ?」
「オーケイ」私は微笑んだ。これだけ飲めば怒りも沈没だ。征服できないものなどこの世にナシ。
「早く帰りたまえ。君はつまらん。そうして家に帰ってオナニーでもしていろ。したいんだろ? 誰からも相手にされずメソメソしているのがお似合いだ。よかったな、おめでとう。君は有名人と握手する機会を失った。ま、今度はもっと上手に興味を惹くんだな」
「そんなことより、あんたいつから作品を作ってない?」
 若者は私の声など聞こえなかったかのように自分の話を続けた。私は肩をすくめた。
「君には想像もできないほど、産みの苦しみというのは重くてね」
「こんなに素敵な金曜日のなかで苦しむ度胸がお前にあるのか?」
 彼はあきらかに私を嘲笑していた。どちらが勝利者なのか、身分や地位なしには証明しかねるところだった。
「あんた実に満足そうにご帰宅あそばしたじゃないか。とても今日も傑作がつくれなかったと頭抱える悩めるマジキチってツラじゃねぇぜ。みんなにチヤホヤされてちょろい仕事こなしてギャラだけたんまり。実に幸せそうなヨダレまみれの顔で玄関の扉をくぐって戻ってきたお前が、苦しみ? 冗談を言うんじゃないよ、お前は何も苦しんでなんかいないよ。苦しむことを忘れてしまったんだよ」
「それの何が悪い? 苦痛など所詮、なんの価値もないものだ」
「そうとも。しかしだからこそ味わう価値があるんだ。そうじゃないか? いつか、あんたは本物のキチガイだった。それがどうだいまではおとなしくなりはてて、テレビでいっちょまえのことを当たり前みたいに話してる。キチガイはどこいった? にせものだったのか? それはつまりあんたの人生も偽物で、この作品とやらもガラクタ以下のゴミ同然ってことだ」
 男は私の作品を棚から片っ端に落として回った。安い磁器で再製された私の作品群。それが壊されても、私はソファから腰をあげたりはしなかった。所詮はレプリカだ。いくらでも代わりは利く。
「満足か? だったら帰れ。これ以上、君の茶番に付き合う時間は私にはない」
「俺が帰ったらどうする? このレプリカの死骸をいそいそと片付けるのか。もっと気の利いた脅し文句が言えたなとか考えながら一人でニヤニヤして高級チリトリでゴミ集めンのか。そうして仕切り直してワインも注ぎ直して映画を見る。自分の中の映画が終幕したことも忘れたフリをしながら。へぇ、それがお前の望みか。虫けらみてぇな願望だな」
「虫けらだからなんだというんだ? そういうお前はどうなんだ?」
「俺は作り手だよ」
 私は笑った。
「賞は? 金は? 知名度は? いったい誰がどこの何者でもないお前の作品などに気にかける? お前の作品にどれほどの値打ちがある? 誰がいくら金を出す? さあ答えてみろ、どうなんだ?」
「価値のあるものが作品なんかであるもんか」
 私は笑いだしてしまった。愉快だった。いくらでも論破できそうだ。この男の戯言は隙だらけだ。いくらでも否定できる。だから私は口を拭って念入りに、ちょっと調子に乗ってしまった駆け出し作家志望がどんな言葉をかけられれば傷つくのか、過去の私の記憶から引っ張り出して男に浴びせかけてやった。マシンガンでゾンビを撃ち殺している気分だった。最高だった。人の心を傷つけるこの瞬間、この優越感こそ人生最大の喜びだ。どんな酒でも贖いきれない――だが私はどこかのセンテンスを口にした後で気づいた。若者が私の言葉など聞いていないことに。その目になんのゆらぎもないことに。
「俺が聞きたいのはたったひとつ。――なぜ作らない?」
「なぜか、なぜというのか、じゃ、いいだろう。工房を開けよう。作ればいいんだろ? 簡単なことだ、私にとっては」
 私はほとんど入ることがなくなっていた部屋を開け、そのなかの作業場で三十分程度で三角を作ってみせた。とても整った、誰がどうみても三角の模型だ。少しだけ批評家好みの傾斜もつけてある。どうだ、と私は若者にそれを見せた。これが作品というものだ。だが若者は私の作品に興味を示さなかった。その目が磁気を放つあの瞬間、それが彼には無かった。
「ひとつ聞きたい、あんた三角が好きなのか?」
「なに?」
「もういい」
 男は私の作品を破壊した。だが私は何も感じなかった。三十分が無駄になっただけだ。それ相応の憤りしかない。トイレにでもいけば忘れるだろう。
「なにをするんだ? 君はいま、ファン垂涎の品を壊したんだぞ」
「頭の悪い馬鹿どもだまくらかして満足か? これがあんたの本当にやりたいことなのか? 三十年前の自分に胸を張って誇れるのか? 俺は俺だと言えるのか。どうなんだ」
「金ならある。この喜びは代えがたい」
 若者は汚物を喰ったような顔をした。
「救いがたい俗物に成り果てたな。お前の顔を鏡があったら見せてやりたい。その呆けた顔、もし天国があるのなら、絶対にそこには行きたくないと嘆願したくなるような地獄の顔だな。気分が悪いよ。お前はもはやお前じゃない」
「何を馬鹿げたことを。お前の言っていることは支離滅裂で要領を得ない。いったいなんなんだ? お前ごときになんの価値があると思っている? 何様のつもりなんだ」
「さっきから質問ばかりだが、俺がどう答えたら満足なんだ。それを鵜呑みにしてやったぜと拳を突き上げるのか。馬鹿かお前は。他人の戯言、まさにそれに振り回されて安易で不要の解答にすがりつく。お前が憎んだお前の敵どもと同じことをいまお前はしている」
「だからどうした。憎しみがなんだ。そんなものは済んだことなんだ。私の戦いは終わった。勝つというのはそういうことだ。成功者にはそれが許される!」
 私が投げつけたワイングラスが若者の顔にあたって弾けた。だらだらと額から血を流し始めた彼に私は怯んだが、それでも彼は視線を決してそらそうとはしなかった。虎のように、赤子のように。
「戦いは終わった。そう言ったか?」
「きみ、病院に……」
「終わりゃしない。終わりなんかないんだよ。戦いはいつまででも続くのに、いつだってそれを適当なところで終わらせられると思い違いに駆られるのが傲慢だというんだ。もうこのへんでいいだろう、お前から臭い立つ悪臭の正体がそれだ。もういい? もういいなんてなんでお前なんかが決められるんだ。いくところまでいく、その最果てに何が本当は待っているのかどうしてお前ごときにわかるんだ。適当なところで手を打つ臆病者が。お前は死にながら生きようとしてしている。誰もが悲しむ最低の演劇だ。生きるか死ぬか、どちらか一つなのに、なんで中途半端にしようとするんだ?」
 血まみれの男が私の胸ぐらをつかもうとする。
 私はその汚れた赤い手から悲鳴をあげて逃げ惑った。
 ぐるぐるとソファを駆け回る。
 血染の手が私を追い、私は悲鳴をあげながらそれから逃げる。
 いつまでも夜が明けることはなかった。

       

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