Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
酸欠

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 職場が燃えていた。そんな経験、誰にだってあると思う。俺にもようやっとやってきた。地上五階と六階建の二棟が赤々と火を噴いている。夜空に映えてとてもきれいだ。君のほうがきれいだよ、そんなセリフは誰にも意味がない。どこの誰より、炎上する職場は輝いている。なにが燃えているのだろう? どうしてコンクリートは燃えるんだろう? それとも可燃物があっちこっちに散乱していたのか、壁のボードは燃えるのか、そもそも燃えるってなんだ? 燃焼を伴う酸化反応、そんな言葉にどんな意味がある? 大切なのは、俺はきっと明日から仕事に行かなくていいんだってことだ。どこの誰にもならなくていいんだってことだ。これでやっと自由になれる。俺はホッとした。そばにあるべきなのは後悔ではなくて温かいミルクであるべきだ。俺は生き残った外部コンセントに電気ケトルを繋いで、コンビニから買ってきた牛乳を注いだ。電気ケトルって牛乳を温めていいんだっけ? べつに構わないだろう、そう思うのは簡単だ。でもいつだって誰かが横から口を出してきて、やれ水垢が溜まっていて牛乳には適さないだとか、やれ水と牛乳は熱伝達率が違うから高熱になって破損する恐れがあるとか、やれ湯灌じゃないとホットミルクとは言えないとか、よくわからない検証しようがない考える気にもならないことをペチャクチャペチャクチャのたまうのだ。そのたびに俺は電気ケトルの電源を落としたり、いや落とさなくてもいいけどなどとだったら最初から口に出すなと言いたくなるような胸糞悪いセリフを吐かれたり、横槍を入れられたときにスルーすべきか我慢すべきか、そもそもその2つの違いってなんだ? どうして俺は器用に生きられない? 電源を入れたり切ったり、ボリュームを下げたり上げたり、みんなやってるバランス調整がどうして俺には効かない? そんな答えを出すのに永遠がかかりそうな疑問が次から次へと湧いてきて、とてもじゃないが電気ケトルの電源を落とすか落とさないかなんてことに気がまわらない。眼の前でケトルが電熱し始めていて、とても暖かそう。ケトルがあったかいのであれば、あったかいというのはいいことなのだから、それでいいじゃないか? 火事になるわけでもないし。よしんば眼前のように職場が燃えていたからって、俺がどうして電気ケトルを落とさなきゃいけない? そもそも棟内から引いている外部コンセントなのだから火災が進行して受変電設備が燃えたらそこでブレーカーが落ちてこのコンセントも死ぬ、そのときにもしかしたら変なアークが飛んで危ないかもしれない、そんなことを言ってなんになるっていうんだ? 俺はもう牛乳をケトルに注いでしまっていて、電源ボタンを押したのだ。あとは温まるだけであって、たとえ職場がこの地球上から消滅するとしても、俺は温かい牛乳が飲みたいのだ。みんなどうして俺がどれほど温かいミルクを飲みたがっているかなんて気にもとめずに電気の話なんかしたりするんだ? そんなに俺が嫌いなのか? 俺がいったいなにをしたっていうんだ? 何もしないからいけないのか? この職場で俺は一等よく働いている。俺が一番努力していて、俺が一番見込みがあるのだ。だから些細なミスなど帳消しにされるべきだし、アークが飛びかねない危険なコンセント(ほんとうにそうなのか? どうやって確かめたんだ? 電気の資格でも持っているのか? アークが飛ぶのを見たことがあるのか? たかが100ボルトが吹き飛んでどうなるっていうんだ? 目がやられるのか? それは困る、だが本当に100ボルトからアークが飛ぶのか? 飛んだとして、どうして俺の目がやられなきゃいけない? なにか超常の力で守られるべきだ)いよいよ俺はどいつもこいつも皆殺しにしたくなってきていて、職場のドアをくぐるたびにめまいがする。誰が何をしたというわけでもないけれど、爪弾きにされているわけでもないけれど、俺は俺を最優先にしてもらえないのが嫌いだ。何もかも俺の思い通りになればいい。だから当たり前みたいに厄介な書類が、五十面してファックスされた報告書もキングファイルに綴じられない馬鹿がまとめるのをサボリ倒した一年分の書類が俺の机の上にどっさり置かれていることに我慢がならない。どうして誰も俺の心配をしないんだ? とんでもないことなんだぞ? 馬鹿が一年分の仕事のツケを俺にかぶせて、それを当然のような顔して暮らしている、そんなことは許されないんだ。今すぐあの火の中で誰も彼もが焼かれるべきなんだ。それでこそ俺の苦しみがわかるというもので、あの火はあの中にあるすべてのものに俺の苦痛を教えてくれているんだ。鳴り響く火災ベル、目覚ましによく似ている。みんなびっくりして俺の怒りを味わえばいい。俺が放火したわけじゃないが(なぜって俺は夜勤を抜けて、コンビニで夜食を買いにいっていたのだから。2棟ともすでに施錠していて、おそらく火元は交換を推奨しているのに一向に管理者がそろばんを弾こうとしなかったブレーカーかマグネットスイッチだ。きっとそうに決まっているんだ)これはまず会社に連絡すべきか、それとも消防だろうか? 今ここで俺はとりあえず電気ケトルで牛乳を温め始めてしまったが、これはいったいどんな罪になるんだろう、そして俺はどうしてコップもないのに牛乳を温めているんだろう? 明日からどうやって生きていくんだろう。いや、べつに生きていかなくたっていいんだ。あのもくもくと黒煙を吐いている換気扇のフードに首を突っ込んで心ゆくまで一酸化炭素を吸ってりゃ死ねるのだ。無味無臭のCOはあっという間に人間の意識を奪う。だが死んだからってどうだというんだろう、それで俺は救われるのか? 俺が費やしてきたことの帳尻が合うのか? そんなわけはない、自殺というのは最低の自己表現だ。そんなことするくらいならロリコンの天才外科医でもブッ殺してもっと大勢の悲しみともっと大勢の未成年売春防止を生み出せばいい。あんたはどっちを選ぶんだ? 俺はどっちも選びたくない。何もかもスイッチで押したように消えればいいし、びっくりしてスイッチを入れ直せば復元されてほしい。コントロールプラスゼットとコントロールプラスワイで(そうだったか?)進んだり戻ったりしてほしい。何にも責任を取りたくないし、どこへも行きたくない。上司の顔なんて二度と見たくないし、親しげにもされたくない。みんな俺を支配しようとする。俺を支配できるなんてどうして思うんだ? 俺を思い通りに制御できるなら、誰にやられる前にこの俺自身が自分をそうしている。それができないからこんなに苦労しているのに、横からしゃしゃり出てきて俺をおもちゃにしようとするその神経が理解できない。誰のことも殺したいなんて思いたくないのに、どうしてみんな俺を傷つけたりするんだ? 傷つけたな、絶対に許さない、そう思って殺したい気持ちを溢れ出させていると鳩が豆鉄砲食らったような顔をして、みんなそんな傲慢が通ると思うのか? 人に殺されたいなんて思われちゃいけないだろう、だからみんな、もっと俺を丁寧に扱うべきだ。些細なミスを見つけては「やっぱりあいつは信用できない」と自分のケツも拭けてない馬鹿が俺を低く評価して会社から俺の評価が一向に上がらない。エリアリーダーの仕事をやっている俺がエリアリーダーじゃないのは百歩譲って許すとして、俺にはエリアリーダーの仕事ができないとどうしてそう思えるんだ? 俺がやってることは透明人間か妖精の仕事だっていうのか? 俺は俺がやったことを金で評価されたい。だから残業代も、作業費も、最新式の装備もなにひとつゴネることなく、会社は俺に頭を下げてお納めすべきなのだ。ゴネたりしちゃいけないのだ、いったい誰が馬鹿どものケツを拭いてると思ってる? いつだって俺が苦労しているんだ。周りの苦労なんぞ知ったことか。誰の身内が死のうが関係あるか、おまえら全員、俺の仲間が死んだり俺が死んだら泣いたりするのか。戸惑って、いいあぐねて、顔をそむけて、似たようなどっかから引っ張ってきたくだらんセリフを吐くしかない、おまえらこそを弱虫というんだ。俺の親父と同じ、どいつもこいつも虫けらだ。焼かれて死んでろ。みんなまとめて死ねば悲しむやつもいない。そこまで考えて俺は、電気ケトルの電源ランプが消えていることに気づく。棟内の電気がいよいよ死んだのだ。屋上から火花が飛ぶ気配と、自家発電機の重油に引火したであろう爆発音(ほかに燃えるものなんかない)がした。このテナントは死んだ。俺は生きている。じゃあ、俺のほうが強いのか? きっとそんなことはないんだろう。疑問は尽きない。何もかも、この世は俺にとって謎ばかりだ。気絶しそうだ。酸素がほしい。

       

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