魔術師



 異世界に転生する――俺がそれを決意したのは就職してからだった。特に何がつらかったとうわけでもない。ただ、俺はとても疲れてしまっていて、何もする気になれなかった。だから全部思い通りにしようと思ったのだ。
 幸運なことに俺は魔術師だった。現代に生き残る魔術師。だからその技術を使って異世界に転生するなど造作もないことだった。実家に帰って、魔法陣を印す道具を探せばいいだけだった。だから東京ともこれでお別れだ。俺にたくさん歩かせて、たくさん電車賃を取った街。もう中央線にも山手線にも乗らずに済む。人がたくさんいるというのは、それだけ多くの悲しみがあるということだ。
 ビルの屋上から街を見下ろすと、ギャーギャーうるさい若者がギャーギャー騒いでいる。いわゆるリア充。通行人にぶつかっているのに気にも留めない。俺は魔法弾を屋上から杖で飛ばし、その若者の首から上をふっとばした。噴水のように頭を失った首から血が吹き出す。周囲はざわつくかと思えば、そうでもない。一緒に一瞬前まで騒いでいた猿どもは眼の前から相手がいなくなったことは理解したのか能面のような表情になってただ血のシャワーを浴びている。サイコパスども。駆除だ駆除。
 駆除し続けていればいいことがあるはずだ。だが、俺にそれはできない。こんな大都会の真ん中で魔術を使えば、協会が俺を追跡してくるだろう。好きにすればいい。その前に、俺は異世界へ姿をくらませる。無限にある異世界のどこに俺が逃げ込んだかなんて、協会にはわかるはずもない。もし追いついてきたのであれば、戦うだけだ。
 俺には、物語がなかった――俺の人生にはなんのストーリー性もなかった。ただ生き、ただ死ぬ、それだけの毎日。何を糧にして進めばいいのかわからなかった。魔術師としての使命もなければ、魔術が求められる様子もない。俺は何がしたかったんだろう? こんなビルの屋上から、通行人を虐殺するのが俺の人生の至上命題だったのだろうか。俺は何がしたかったんだろう。もうわからないし、その答えを得ることもないだろう。
 スーツがやけに重い。涙でも吸ったようだ。心が泣けば服が重くなる。だから俺は上着を脱ぎ捨てて、それを放り投げた。青空に俺のジャケットが舞っていく。それを風の魔術でより遠くへ飛ばしながら、俺は蜂の鳴く声を聞いた。敵の魔術師どもがもうすぐ来る。俺は逃亡戦を強いられる。あんなつまらない命をふっ飛ばしたくらいでケチケチうるさいのだ。いいだろう、べつに。生きていることこそ苦しみなのだから。あのガキが肩でぶつかって転んだ通行人を助けないから、俺がガキを殺す羽目になったのだ。俺の手が汚れないように、協会がきちんと管理してくれていればよかったのだ。魔術師とはそういうものだ……もう引くに引けない。魔術は使うためにある。こんなふうに隠して使い続けられるものじゃない。
 ビルから出ようとすると二人、俺を待ち構えていた。若い顔、きれいな肌。俺はその二人を殺害し表の通りに出た。あんな新米を俺にぶつけてくるなんて、いったいどういう神経をしているんだろう。俺は九九と一緒に魔術を習ったのだ。もう二十年も戦士でいるというのに、あんな素質だけで採用した大卒を俺にぶつけてどうする。なぜ俺が迷わず殺すと考えない? おかげで罪のない命を二つも奪ってしまった。俺は誰でも構わず殺して歩きたいわけじゃない。
 電車に乗ろうと思って駅へ向かった。血まみれの俺を見て通行人が棒立ちになる。犬の散歩をしていた主婦が立ち止まり、楽器を背負った高校生が脇に避ける。だが、誰も悲鳴もあげなければ逃げ惑いもしない。距離を取ってから、じっとこっちを見てくるか、スマホを取り出して動画を撮っている。特に何も感じていないようだ。どう感じればいいのか教えてもらっていないらしい。なら、悲しむ必要もない。いいことだ。俺は通行人の足元をふっ飛ばし、逃げた方がいいと教えてやった。じきに大部隊が俺を討伐しに来るだろう。
 そう思っていたのに、誰も来なかった。俺はあっさりと電車に乗って実家に帰った。もう父も母もいない。物置からでかい筆ペンを取り出して、余っていた白ペンキで魔法陣を描く。少しずれていたって問題ない。この世界のほうがよっぽどずれている。
 二人も死なせた上でさらに犠牲が出るかもしれない征伐業務に意味も値打ちもない。俺が殺したのはつまらないガキ一人。俺を殺す分の人件費で、あの周辺の記憶操作や情報贈賄に奔走した方が割がいい。協会はそう判断したらしいが、おかげで俺は永遠に罪を裁かれることがなくなった。協会へ自首すれば凍結刑に処されて切ない自己憐憫に浸りながら死ねるだろうが、そうしてやるほどの元気も余裕もない。俺は逃げるのだ。この世界から。この現実から。誰にも責められる筋合いはない。
 ゲートが開き、青い光が実家の前の舗道に溢れる。すくえば手に乗りそうな綺麗な光だ。その向こうには俺の望んだ世界があるだろう。俺は疲れていた。向こうで死にたい。