Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
ファウスト(顎男Ver)

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 登場人物



 ファウスト先生…この世の快楽すべてを味わうために悪魔と契約した偉い学者先生。とてもわがまま。

 メフィストフェレス…ファウスト先生を堕落させられるか神様と賭けをして、天から降りてきた悪魔。ファウスト先生にこき使われてげんなりしている。








 物語は、いままさに終わろうとしていた。









「しかしあんたも物好きですな」
 と、悪魔――メフィストフェレスは言った。
 彼はいつものように赤の燕尾服に羽根つき帽子をあみだに被って、ベランダの安楽椅子をゆっさゆっさ揺らしながら、己の主人、ゲオルグ=ファウストを見上げた。
 メフィストフェレスは両手を広げて、恩着せがましくファウストの背中に言葉をぶつける。
「私はね、あんたのためにいろいろやってきてあげましたが、つくづく人間というのはどうしてこうも莫迦なのかと思いますよ」
「そうかね」とファウストは真っ白になったひげの中に半ば埋もれた顔を悪魔に向けた。どことなく親しみ混じりのにやにや笑いを浮かべて、
「悪魔は、海に勝ちたいと思わんのか?」
「勝つ? 勝つときた!」
 メフィストフェレスはパシンと膝を叩いて、
「なんだって勝ちたいなんて思うんです。あんなもの、ただの塩辛い水の塊ですよ。殴ったって切ったって勝てやしません。ペンで書いた書状を振りかざしたって波に押し返されるのがオチです。まァあんたのやったように、土嚢を積み積み海岸を引き伸ばして、陸地を伸ばすっていうのは、確かに海に勝つと言えるかもしれない。でもねそれは所詮言葉の綾みたいなもんで、海は相変わらずずっと向こう、茫漠無比の大陸か、あるいはしょぼくれた田舎島にぶつかるまで続いてるんですよ。この世から塩水がなくなったわけでもない。完全に勝つといったら、海を滅ぼすしかないが、そんときゃあんただって滅ぶんだ。なんの意味がある?」
「意味ね」
 ファウストは最近めっきり動きの悪くなった首をぐりぐり回して、
「まァいいじゃないか。俺にとっては、ちょっと滋養豊かな大地を海のやつから奪って、そこに土地を求めていた民を集めて、俺の指示で、俺の理想通りに、俺の都市を作る。これが勝つということなのさ」
 そして、とファウストはベランダの手すりに両手を置いて、眼下に広がるまだ湿った土地と、そこを実り豊かな農地にしようとあくせく働く彼の民たちを見下ろして、言った。
「おまえの言うとおり。俺はあらゆる快楽を追及してきた。俺が納得し、満足し、二度と立ち上がりたくないと思ってしまうような、そういう極限を俺は求めてこの生涯を駆け抜けた。至高の女と踊ったこともある。誉れあるかの英雄と談笑したこともある。だが、すべては結局、この俺の手の中から零れ落ちていった」
 メフィストフェレスはため息をついた。
「また似たような目に遭いたいってんなら、いつでもどうぞ。私はあんたが生きている限り、あんたのしもべになると誓いましたからね。あんたの魂と引き換えに。だから、その知識まみれの目ン玉が黒い内は、お好きなようになさったらいい。あんたの悪魔は、いつもあんたのそばにいるんだから」
 そういってそっぽを向いたメフィストフェレスを振り返ったファウストの顔には、穏やかな色が浮かんでいた。だがそれはほんの一瞬、光が反射するまさにその瞬間程度の時間しか彼の面に留まらなかった。ファウストはまたあの燃えたぎる信念に胸を焦がれたものの顔をして、
「いや、もういい――」
 と言った。
 聞き捨てならないセリフにメフィストフェレスがやおら安楽椅子から身を起こした。ファウストはその態度を面白そうに見やりながら、
「俺は手に入れたんだ」
「――本気ですか」メフィストフェレスの目からおどけた色が一気に消えた。それを見てファウストは頷く。
「無論、そうだ」
「あんた忘れたわけじゃないでしょうな。あんたは、あんたがもう動きたくないと思うまで、あんたのその報われぬザルみたいな魂が心ゆくまで、進み続けるしかないんですよ。それをやめるってことは、あんたが極限の時を得たってことだ。いまがその時だと?」
 メフィストフェレスは立ち上がり、眼下に広がる、なんでもない、どこにでもある、移民たちが街を作ろうとし始めた、懐かしくさえある光景を腕で振り仰いだ。
「これが、あんたの望んだものだと? こんな、なんでもないものが!」
「ああ――」
 ファウストは笑っていた。実に幸せそうに、まるで孫の寝顔でも眺めるように、ベランダに組んだ腕に身をもたれかけて、何度も何度も頷いた。
「そうだ。俺は求めていた。ここには自由がある。みんなが自分の力で明日を掴もうとしている。誰に命令されるでもなく、誰に何を押し付けるわけでもなく。自分から、自分たちで、あらゆるものにケリをつけていこうとしている。そういうやつらにこそ、闘い続けるやつらにこそ、平和と自由、あたたかい生活ってやつは与えられるべきなんだ。迷いもしない、望みもしない、そんなやつは埋葬されてしまえばいい」
「先生――」
 メフィストフェレスは何か言いかけ、だが、それを聞き届ける前に、ファウストは言った。
 約束の言葉を。


「俺はいま、

 俺の望んだ境界をこの腕に抱き締めて、告げる。

 時よ、

 止まれ!

 ――――おまえは、おれには美しすぎるのだ」



 その言葉が時と空間を震わせた瞬間、ファウストの身体から何かが抜け落ちた。がくん、とローブに包まれた膝が折れ、うしろに倒れかかったその老体を、最後の忠義でメフィストフェレスが抱きとめた。
 ただのお荷物になりさがった雇い主の肉体を、悪魔は、ハッとするほど丁寧に、ベランダのよく陽が差すあたりに横たえた。その満足げな老人の顔を見下ろして、悪魔は誰に言うでもなく呟いた。
「こいつは、この男は、己の飽くなき欲望の果てを捜し求めて、この俺が与えた永い時間を、俺と共に駆け抜けた。どんなものにも終わりというものを見つけられなかったこの男が、最後の最後に、『いくな』と引き止めた時間が、こんななんでもない瞬間だとは、俺のいままでの労苦すべてが馬鹿馬鹿しくなる限りだぜ」
 だが、と悪魔は、うっすらと開いたままだった男のまぶたを閉じてやりながら、言った。
「理解はできなくとも、あんたがこの『いま』を繋ぎ止めようとしたことは、あんたがそうしかねない男だったということは――悪魔の俺でもよくわかる。なにせ永いこと一緒にいたからなあ。なあ先生? あんたの身体を操って、グレートヒェンの兄貴から身を守ってやったこともあったっけな。一緒に魔女のお祭りにもいったし、ナンパもしたよな。あの世を彷徨って幽霊とくっつけてやったこともあれば、せっかくヘレネーと作ったあんたの倅が使い物にならない馬鹿者になっちまったときは、あんたも結構へこんでいたっけ――」
 冷たい身体はなにも答えない。メフィストフェレスはくっくと笑って、
「なあ先生――あんた莫迦だぜ。そんなんだから、悪魔の俺に、魂を奪われちまうんだ。言ったよな? あんたが死んだら、あんたは俺の奴隷になるのさ。今度は俺の奴隷になって――あんたが俺にペコペコするのさ。覚悟しておけよ。今までの恨みをたっぷり晴らしてやるからな」
 そう言い終えると、ふいに、二人の上に差していた陽に影が差した。
 メフィストフェレスはいままで太陽がさんさんと照っていたあたりを見上げた。
「――やあ、メフィストフェレス。久しぶりだね」
 そこには、会いたくもない顔ぶれが勢ぞろいしていた。
「ミカエル――ラファエル、ガブリエル、アブディエル。てめえらこんなところで何してる? 雑魚天使どもを引き連れて、どこかへ往くつもりかよ?」
「ああ、往くつもりだ――」
 天使の大群を背中に控えて、ミカエルが柔和な顔を作って言った。
「そして、いま、着いたところだ」
「なに?」
「メフィストフェレスよ、おとなしくその男の魂をよこすのだ。それは、おまえのようなものが手にしていい代物ではない」
「ほお――」
 メフィストフェレスは立ち上がり、腰の佩いたサーベルの柄に手をやった。
「なるほど、てめえら、雁首揃えて俺の獲物を横取りしにきたんだな」
「違うさ。それは元々我らの元だ」
「俺がこいつをたぶらかすと、あの老いぼれジジイに言った時、やつはこう言った――勝負をしようと。俺がこいつを堕落させ、時を愛したならば、その魂は俺にくれると、やつはそう言ったんだぜ」
「それでも」
 ミカエルは笑顔を崩さない。作り物めいた、端整な笑顔を。
「それは、我々のものなのだ」
「ふざけるのもたいがいにしやがれ――嘘吐き野郎の使い走りどもが」
「よすんだメフィストフェレス」ラファエルが心配そうな顔で言った。
「われわれに勝てると思っているのか? 武装した天使が、この蒼穹にどれほどいると思っているんだ?」
「知らん。百から先は数えてねえ」
「だったらわかるでしょう?」ガブリエルが苦しげに首を振った。
「あなたが勝てないということが」
「黙ってろ鳥ガラ女! てめえなんぞ、誰も抱く気にならねえから穢れてねえだけだろうが!」
「きっ、貴様っ! 私を熾天使と知っての発言か! 忌まわしき蛇の甥っ子ごときが、よくも――」
 その時、抜き放ったメフィストフェレスのサーベルから放たれた妖気が空間さえも引き裂いて、ガブリエルの顔を袈裟切りにした。この世のものとは思われぬ絶叫をあげて顔を覆った熾天使に、うしろに控えた天使たちが激昂しかけたが、ミカエルが腕をあげてそれを静止した。その青い目が、冷ややかに眼下の悪魔をとらえていた。
「莫迦が。きさまの叔父貴もそうだった。なぜ我らが創造主(つくりぬし)に勝てるだなどと思うのだ? 私には理解できん」
「ああ――俺にもようわからん。ただ、俺にわかるのは、てめえらじゃこのゲオルグ=ファウストの魂の取り扱いは到底荷が勝ちすぎるってことだ。半世紀以上こいつと生きた俺が言うんだ、間違いねえよ」
「その魂は我々が浄化する。そして天使として、天に迎える」
「この人を、この楽園から連れて行くっていうのか――」
 サーベルを握る手が怒りで震えた。
「この莫迦が、ようやく『止まれ』と言えたこの場所から、その魂を引き剥がすというなら――それが天の命だと言うなら――」
 全身で朽ちた男の身体を守るように、剣を構えて、メフィストフェレスは言った。
「いまこの時が、貴様らと俺との永遠の決別の『時』だ。天使なんぞの乾いた手で、こいつの時計の針に触れるんじゃねえ」
「残念だよ、メフィストフェレス。本当に残念だ。おまえら悪魔は、自由であるがゆえに堕天し、滅びるのだ。いつもな。その自由意志でもって、神に遣えさえすれば、おまえはこれ以上はない優秀な天使になれるのに」
 それが開戦の合図だった。天使たちは我先にとメフィストフェレスに殺到した。燃える槍を構えて、翼を羽ばたかせて、ファウストの家が壊れても突撃をやめなかった。それは死んだ狼を啄ばむハゲタカの空襲にも似ていた。
 七日七晩、闘いは続いた。
 神が定めたもうた安息日にさえ、剣戟の音は耐えなかった。
 それでも、最後に、燐粉を振りまきながら、虫のような二枚の翅を一生懸命に羽ばたかせて、あの男の魂が寄り添っていたのは、喜色満面に両手を広げた天使の懐にではなかった。
 刃こぼれだらけの剣を支えに死骸の上に立っていた悪魔は、ふと気づいた時、すぐそばに友達がいることに気がついて――なんとも言えない笑みを浮かべたという。




 了










(あごがき)


 これはゲーテの戯曲『ファウスト』で、俺が一番好きなシーンを、いろいろ改変しながら書いてみちゃったという、二次創作と言いますか、小説のカバーといいますか、まあ好き放題にやってしまったという代物です。
 ファウストを知っていてもよし、知らなくてもノリで楽しんでもらえたらなと思います。
 いやーそれにしてもすっかり俺っぽい話になっちゃってまあ。もともと俺が好む話なので俺と似通った部分はあってしかるべきっちゃべきなんすけど、どうすかね、俺的には結構満足してる感じなんすけど。
 いつか全編通してやってみたいなあ。

       

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Neetsha