Neetel Inside ニートノベル
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わが地獄(仮)
遺書

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 子供の頃、入院したことがある。思えば腹痛に苦しむことになったのもそれからだった。
 夏だった。
 俺はその頃、母方の祖母の家へ休みのたびに遊びにいっていた。祖母の家は、なんていえばいいのだろう。昔風の家だった。縁側があって、ふすまがあって、和式便所で――俺はよくグルグルと家の中を走り回って怒られていた。昔は、今よりも元気だった。こう見えてもサッカーボールを蹴るのが好きで、そういう地元のチームに入れようかと母は考えたこともあったという。もし入れられていればまったく違った人生になっていたのだろうか。いや、きっとこうなったと思う。母は「おまえは薦めてもやる気を出さなかった」というが、俺は母から「おまえならできるよ」と言われたことはない。「やってみる?」と言われただけでは一歩が踏み出せない子供だったが、おだてれば木に登る子だということを母は今でも理解してくれない。母は嘘つきじゃない、正直者だ。だから、俺を褒めてくれない。
 話がそれた。
 俺は昔から偏食がひどかった。野菜はほとんど食べられなかった。その拒否はひどいもので、頑として受け入れず、無理やり食べさせられたことは母にはなかったが、よその人には親切心からたまに強要された。それもほとんど拒んだ。味覚に何か問題があるのかもしれない。二メートルほどの高さから転落し頭部を強打したことがあるが、あの時、致命的に何かが破損したのかもしれない。やはりそれも、年齢もおぼつかない、幼児の頃の話だ。
 とにかく、俺は好きなものしか食べない子どもだった。味噌汁を飲むときはわかめだけ残るようにしたし、最近にいたるまで豆腐まで嫌がっていた。高校に入って少し矯正したが、いまでもサラダは完食できない。上司に薦められても怒鳴られても、俺は口にしないだろう。たぶん飢えても。
 俺はソーダのアイスバーが好きで、あれを夏に食べるのは最高だった。外は水色のガワになっていて中にバニラが入っているのだ。いまでも売っているのだろうか。ガリガリくんよりもいささか品のある味だった。
 そればかり食べていた。
 親が止めるだろう、と言うだろうか。そこが俺の母の不思議なところなのだ。アイスばかり食べていては腹を壊す、とわかっていたはずだ。しかし母は口で言うだけで体を張って取り上げてはくれなかった。だから昔からきかん坊だった俺はアイスばかり食べた。三食それで済まして平気な顔をしていた。
 ある日、吐いた。
 当時のことは恐ろしい原体験として残っている。トイレとオケの間を往復して、泣き叫んでいた。腹の中が、いまとなっては馴染みの、あの灼熱に犯されていた。祖母と叔父と母が「救急車」と何度も言うのが開けっ放しのトイレから聞こえた。俺は叔父の車で病院へ運ばれた。その後部座席で吐き戻しながら、夜の町の景色が鮮明に残っている。車に揺られる振動も。
 診断は腸閉塞。俺は入院することになった。
 母に恨み言を言いたい気持ちは、ある。母に「なぜ止めなかった」と聞くと「言うことを聞かないから」という。言うことを聞かなければ電車に飛び込むのも見過ごすのか。俺はこの性格だから、理解できないことを憎悪する。たとえ親でも兄弟でもだ。いまこの稿を書いている今も――いや、実はそれほど怒りは感じていない。もう終わったことだ。ある意味、俺は辛いことやきついことを文章にすることによって自分を浄化している節がある。それで嫌われてしまうことがほとんどなのだが、実際、吐露した後の俺はいくらか気分がよくなっていることが多い。それをわかってくれとは言えない。仕方ない。天命だと思う。
 何を主題にするのか一瞬、忘れていた。母の過剰な保護と、またその逆を突くような行き過ぎた放任主義を責めることはこの稿のテーマではない。余談になるが、この極端な性格は母から受け継いでいる気がする。
 入院した俺は、糞をもらすようになった。というのも腸閉塞という病気のせいか、薬のせいか、それはわからないが、腸の機能が停滞しているためにうまく脱糞ができない。だからたまにベッドに茶色いシミができた。それ以外のときはどうしていたのか覚えていない。
 入院しているときの気分はそう悪いものではなかった。白い部屋でがやがやとした人の気配のぬくもりの中でまどろむのはある意味で落ち着いた。いまでも天国を想像するとあの病室になる。いいところだった。
 病室には、俺より一つ下の子と二つ下の子が同室していた。二人とも男の子だ。名前はもう思い出せない。まだ字もろくに読めない頃だ。俺たちはよく遊んだ。何をしていたか、覚えていないが、お互いのおもちゃを交換したりといった程度だろう。
 俺は二つ下の子があまり好きではなかった。幼児だった俺よりさらに二つ下ではもうほとんど三、四歳だったのじゃないかと思う。話をしていても要領を得るところがなかった。俺はえこひいきされるのが嫌いなくせしてえこひいきをするタチで、一つ下の子にばかりかまっていた。俺はその子を友達だと思っていた。
 退院した。その後の人生の鬱屈も知らずに俺は育っていった。俺はこの性格だ。人に嫌われることがとにかく多かった。一例をあげよう。
 一年生になって、先生に「クラスの誰かがいじめられていたら、先生に教えてくださいね」と言われた俺は忠実にそれを守った。俺はたったひとりの秘密警察になって「だれだれがこうした、だれそれがああした」ということを逐一先生に密告した。いや、俺の記憶では密告ですらない。みんなの前で報告を奏上した。記憶はほとんどないが、嫌われたのだと思う。俺はよく休み時間、教室にひとり残っていることが多かった。
 俺は忠実であろうとしたのだ。正しいといわれたことを正しく行おうとしただけなのだ。七歳の俺に何ができたというのか。俺はいつもこの忠実さに苦しめられてきた。社会というのは忠実さなんて求めてはいない。都合のよさを求めている。俺はそれに気づくまでだいぶかかったし、本質的には多分、今でも分かっていない。俺には断固とした理想の雛形があり、誰もがそれを見上げながら生きていかないことが我慢ならないのだ。気が違っているのだと思う。
 それでも俺がまったく孤独だったかといえばそうでもないと思う。遊んだ覚えはある。ただその記憶は重なり合っていて、多分俺の空想とも混ざっていて、よくわからない。多分、クラスの中心グループとは離れていて、同じようにはぐれ気味のやつや、それほど中核ではないメンバーとは遊んでいたのだと思う。やはり、運動が得意なやつとは気が合わなかった。
 俺は、人と同じことができない。なぜかはわからない。マット運動や団体競技では必ず浮いたミスをして目立った。クラスメイトに壁に追い詰められて「なぜ同じようにできない」と問い詰められたことも一度や二度じゃない。誰よりそんなことは俺が知りたい。
 そう、俺が知りたいことはたくさんあった。




 俺はある年、年賀状を入院したときに知り合った一つ年下の子に送ることを思いついた。それは素敵なことに思えた。もう少し角ばって言えば粋に思えた。俺は忘れてないよ、離れていても、ちょっとしか一緒にはいなくても、俺は友達だと思ってる――
 母も快諾してくれて、俺はその年、その子に年賀状を書いて送った。文面は覚えていない。
 次の年は、忘れた。そしてさらに翌年、また思い出して母に年賀状を出してくれるようにせがんだ。母は曖昧に笑うだけだった。俺はしつこく問いただした。頑として引かない子だった。
 母はちょっと寂しそうにいった。
「入院してるときのことは、思い出したくないから、もう何も送らないでくれって」







 その子がどういう病状で入院していたかは知らない。ひょっとしたら重い病気だったのかもしれない。いまさら知りようもないし、知りたいとも思わない。
 ただ、母からそう言われた時、俺の胸には一つの感情が走った。それを言葉にはできなかったが、今ならできる。
 俺は「必要とされていない」と、その時思ったのだ。
 今でも忘れられないほどに。




 年賀状は、今ではもう誰にも書かない。今年、恩師だと思っている小学校の頃の先生に送ったが、あまり冴えない返事を返されてしまった。「元気か?」とか「酒でも飲みましょう」とか、俺には言って欲しいことがあった。今後のご健康をお祈りなんてされても嬉しくなかった。
 そのことを、同窓のやつに春先、喋った。親友だと思っていたそいつはこういった。
「気持ち悪いな、おまえ」




 忘れていたのだが、俺は「自虐芸」で小学校戦線を生き残った人間だった。自虐芸というのは徹底的に自分をおとしめ、どんな悪口を言われても笑ってふざけて押し通す芸のことを言う。並みの精神力ではできない。気違いにもなりやすい。小学校、いやもう人間そのものが多数集まるところで生まれる歪、その一端がこの俺だ。ただ、俺は、こう言ってはなんだか昔に比べて強くなった。それはたぶん、一人でいることが平気になったというただ一点それだけだ。だから、もう、気持ち悪いと言われてまでそいつとつるむ気が失せた。昔は年がら年中一緒にいたその元・親友は、内定を取って大人になった。今年の春からどこかへ引っ越して働いているらしい。一度だけ携帯に電話があったがバイト中で取れなかった。折り返しかけたが出ず、メールもよこさず、それっきり、六月を迎えた。
 考えすぎなのかもしれない。笑っていればいいのかもしれない。けれど俺には、そうすることが逃げに思える。そんな風に頭を下げて生きていくことに俺は心底疲れ切ったのだ。馬鹿だと思う。


 こうして振り返ると嫌なことばかりのように思えるが、それでもいいことは沢山あったはずだ。思えば俺が小説書きになったのは、大人になってしまったあいつのランドセルを引っぺがしてその中から一冊の文庫本を引きずりだし、そいつとその本の話がしたいがためにその本を読んだことから始まった。もうあいつは本を読んでいないらしく、普通に彼女を作って、普通に別れて、普通に就職して、普通に大人になっていった。もう俺と話す話題なんて何もなくなっていた。何も通じ合わなくなってしまった。あいつはもう社会人で、俺は何者でもなくただどこまでも俺自身でしかなかったから。
 俺は今も昔も、友達が欲しかった。わかってくれるやつが、同じ話ができるやつが欲しかった。同じ気持ちを感じて欲しかった。誰にでもいい。伝わって欲しかった。
 それだけだ。





 遺書のように思える。実際、途中経過を保存する際になんの気負いもなしに『遺書』とつけた。不吉きわまりないが、確かに俺個人の遺書にするならこの稿はちょうどいいと思う。ほかの稿を読んでもらうよりもわかりやすいだろう。
 ただ、俺はこの期に及んで死ぬ気はさらさらない。これはいっそ清清しいほどだと思う。俺にとって死を求める気持ちや鬱の気なんてものは、はっきり言ってしまえば酒を飲んだ際に襲ってくる二日酔いや、あるいは単純に定期的に襲ってくる腹痛とさして違わない。俺は徹底的に自分というものを嫌っているから、腹痛が俺にとって敵であるように、死もまた俺の敵でしかない。そして俺は、敵に頭は下げない。




 俺は自分のことしか考えていない。この稿を読んでいるとつくづくそう思う。自分がどうした、自分はこうだ、それしかないのだ。悲しくて虚しい人間だと思う。嫌われて当然だし、愛される資格もあるわけがない。だが俺にはこうする他に道がない。これが俺のやり方で、ずっとそうしてきた生き方なのだ。いまさら変えられるとは思えないし、変わるとしたら、長い時間が必要だろう。
 それでも俺にはこの苦しみがある。この苦しみを俺と同じように感じている人間はきっとどこかにいるはずで、ひょっとしたらそれは俺のことをずっと見ていてくれている誰かなのかもしれない。もしそうなら、俺はそういう人たちのためにこれからも何かを書いていきたい。
 わかってもらえない気持ちをわかってやれる人間としては、俺はほんの少しだけ上等だ。

       

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