アパートを引き払った時に、覚悟を決めた。
夜逃げ人のような大風呂敷に家財をありったけ突っ込み、お気に入りのピンクの傘を剣に見立て、私は白塗りの一軒家の前に立った。
普通の家だ。
南向きのベランダで、カラカラとハンガーが揺れている。
昔は農地だったのかもしれない、段々になった閑静な住宅街。その中腹の方に埋もれるようにして立っているその家が、私の新しい家であり、私の雇い主の住む『仕事場』だ。
深呼吸を繰り返しているうちに、犬の散歩をしている人が私の背中を往復していった。ちょっと恥ずかしい。
だが、ここで躊躇していても仕方がない。私は意を決してチャイムを鳴らした。
誰も出てこない。
そこで、雇い主の母親から言われたことを思い出す。『彼』は昼夜逆転していることが多いから、昼間は眠っているかもしれないと。緊張して損した。私はスペアキーで勝手に家の中に入った。背中の大風呂敷がガンガンつっかえたがゴリ押しで通った。
居間に入って、背中の風呂敷をテーブルに落として、一息つく。
家主は、出てくる気配ナシ。相変わらずの自己中っぷり。もういいや。それ込みのお給金だと思おう。
とりあえず、家の中を探索してみることにした。年甲斐もなくワクワクしたが、あっさり済んでしまった。テレビとコタツ机のある居間と、そこから繋がった台所。生活感が欠片もないのは箸立てすらテーブルに乗っていないからか。メモが一枚も貼られていない冷蔵庫の中は空っぽで、案の定、食器棚の一番下を空けてみるとインスタントラーメンがズラリ。これじゃ体調が悪くなるのも当たり前だ。私が来たからには、もう少しいいものを食べさせてあげよう。今まで付き合ってきた彼氏はみんな胃袋から落としてきた実績は伊達じゃない。
居間から繋がっている和室には、綺麗さっぱり何も置いてなかった。ひとまず荷物一式をそこにぶち込んで一仕事したような顔をしてみる。
二階に上がると、人の気配がした。三つある部屋のうち、一番奥にある部屋から「ガタタタタタタタ」と凄まじい音がする。どうやら彼は仕事中らしい。スランプという話だが、まったくダメというわけではないらしかった。邪魔しちゃ悪いかな、と思ったが、彼の母親から『体温は二時間置きに計るように』言われている。初っ端から職務怠慢は心苦しい。どうしようかドアノブの前で躊躇っていると、いきなりドアが開いて私は悲鳴を上げた。彼は、目を丸くして尻餅をついた私を見下ろしている。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が下りる。
「……体温?」
「は?」
私が面食らっていると、彼はため息をひとつ残して私をまたぎ、一階に降りてしまった。呆然とその背中を見送った私は、テーブルにこぼした水が床に滴るように、彼の言葉を遅れながら理解した。
「体温を計りにきたのか?」と言いたかったのだろう。省略しすぎだ。
私は使い潰したタイヤのように両足を空転させて、慌てて彼の後を追った。とにかく、どうも仕事の方は一段落したようだし、今の内に体温を計ってしまわなければ。下がっているようならば、何か対策を打たねば。お風呂を沸かして湯船にぶち込むのが手っ取り早いかもしれない。
居間に下りると、誰もいない。目を台所に振ると、彼がカップラーメンに湯を注ごうとしているところだった。壁の時計は一時を回っていた。別に不思議じゃない、腹が減ったらラーメンを喰う。普通のことだ。だが、私にとってその光景は衝撃的だった。
家政婦がいるのに、カップラーメンを主人が食べていたら、私ってなんのためにいるんだ?
落ち続けた入社面接のことがフラッシュバックする。何度ももらったお祈りメールが頭のなかで炸裂した。あ、やばい、と自分で思った時にはもうダメだった。私は駆け出していた。
半分くらい注がれていたカップラーメンの容器と、彼が持っていた薬缶を払い落とした。後から考えれば危険極まりない。家政婦失格という以前に人間としてちょっとヤバイ。
そんなことは私にも分かっていた。
「…………」
「…………」
カップラーメンを作ろうとしたら、家政婦に叩き落とされた青年作家は、さすがにその想像力を持ってしてもこの状況が理解できなかったらしい。今度こそビックリして口をポカンと開けている。歯並びいいな、と思いながら、私は搾り出すように言った。
「作りますから。ごはんは、私が作りますから。そこ、座っててください」
青年作家は、時間が止まったような顔のまま、食卓に着いた。珍獣でも見るような目つきで私を見ているのを頬で感じる。耳が熱い。何やってんだ私は。
中身をぶちまけたまだ硬いカップラーメンを片付けると、私は冷蔵庫を開けた。
何も入ってなかった。
そういえば、さっき見た。
閉める。
ゴン、と冷蔵庫のドアに額を打ちつけた私に、背後で彼がビクっと反応するのが気配で分かった。
「何食べたいですか」
私は冷蔵庫にゼロ距離でガンをくれながら背後の雇い主に尋ねた。
「食材、買ってきます」
「…………」
ぼそぼそと彼が何か言った。
全っ然聞こえない。
私はぐるりと振り返ると、彼をキッと睨んだ。
「なんですか?」
「……べつに、いい」
ごはんはいらない、ということらしい。そんなワケにいくかボケ。私はテーブルに放置されていた体温計を握ると、それを彼の胸に押しつけた。
「体温、計っておいてください」
「…………」
「何か精のつくもの買ってきます。なんでもいいですよね。キライなものはもう伺ってるんで。じゃ」
叩きつけるように言い残し、私は和室に置きっぱなしの自分の大風呂敷からポーチを取り出した。生活費は経費で落ちるが、領収書が必要だから忘れないようにしなければ。とにかく、自分がやるべきことをやって、ミスもトチも忘れたかった。
玄関を出た私に、あの、と呼びかける声があった。私は振り返る。
「なんですか?」
彼は、よれよれのシャツの脇から体温計を差したまま、私に言った。
「ほうれんそう」
「は?」
「ほうれんそうが食べたい」
「……分かりました」
私は靴の爪先を二度打つと、門から外へ出た。午後の日差しが早くも傾き始めている。
ほうれんそうって、料理じゃないし。
ご希望通りにほうれんそうも近所のスーパーで買ってきたが、もちろんそれだけ喰わせておくわけにもいかない。家事は適当でもいいと言われていたが、そんな甘い考え方をしているからストレス性の低体温症なんて引き起こすのではないかと思う。どうもあの母親は家事をナメている節を感じる。家政婦として雇われた以上は、全力を尽くしたかった。
せっかく見つけた、初めての仕事だから。
冬の日は短い。彼の家に戻るとすでに日没だった。靴を脱ぎざまに「お邪魔します」と呟いてしまう。まあ、べつに家族になるわけでもなし、お邪魔しますでもいいか。
台所にいくと、彼が座っていた。
「36度」
「は?」
「…………」
ぷいっと顔を背けられる。なんだコイツ。私が何したって言うのさ。36度? ……ああ、体温か。相変わらず、言葉が少ない。それでも作家か。私は買い物袋を置くと、ふうと一息ついた。短気はよくない。
「36度なら、大丈夫ですね。お夕飯作るのにちょっと時間頂くので、部屋に戻っててもいいですよ。あ、それとも今お風呂沸かします?」
「もう沸かした」
言葉に詰まった。
「……あ、そう」
よく見れば服もパジャマに変わっているし、髪がまだ湿っている。一番風呂はもう済ましたのね。水どうしよ。抜こっかな。
まあいいや、とりあえず夕飯作らないと。私は腕まくりをして、前の家から持ってきた愛用のエプロンをつけて食事の支度に入る。
私が準備している間、彼はずっと食卓に座っていた。じいっと見られている気配を感じて、ちょっとおぞましく感じてしまう。どっか行っててくれないかな。テレビ見るとかでもいいから。だが、なんとなく予想した通り、料理が出来るまで彼は食卓を動くことはなく、私も彼にどっかいけという勇気が湧かず、肉じゃがとほうれん草の野菜炒めと白身魚と納豆ご飯を出した時にはもう、私は心身ともにズタボロだった。食べ終わったら流しに置いといてください、と言い残して風呂に直行した。ところどころカビた風呂場を湯船からぼんやり見上げている時に、水を抜き忘れたことを思い出した。うわ。うわあ。なんか、触られるよりも穢れた気分。ぷかぷかと浮いていた自分のものか相手のものかも知れない縮れ毛を湯船からすくってポイした。
「……ふう」
それでも浸かっちゃったものは仕方ない。死ぬわけでもなし、目を閉じて振り込まれたばかりの通帳の額面を思い出せば疲れも吹っ飛ぶ。生活費が完全に向こう持ちである以上、稼げば稼いだだけそっくりそのまま私の給料になるのだから、考えてみればこれほどボロい仕事もない。これで文句を言ったら殺されても文句は言えない。
ちゃぷん、と水を手ですくっては、零す。どんどんどん、と足音が聞こえた気がした。彼が食べ終わって、二階に戻ったのかもしれない。足音がしたと思える方向に目を向けながら、ぼんやり思う。
ホントに起たないのかな。
事と次第によっては覚悟しなければならないのかもしれない。もしかすると何もかもただの狂言なのかもしれないし。そう思うと私も随分無茶をしたような気がする。まともな神経を持っていたら、きっとこんな仕事に就いたりしないのだろう。
心臓が、早鐘を打っている。
のぼせる前に、お湯を出た。
セミダブルのベッドの上に、彼が寝そべっている。かけ布団から覗く肩は、剥き出し。私はパジャマのまま、サスペンドのよく利いたベッドに膝をついた。私のパジャマ、急に知らないところに放り出されてビックリしてないかな。私もすっごい、ビックリしてるし。
なんでこんなことになってるんだろ。
あまりにも『今日』が長すぎて、『昨日』が思い出せない。
なんだか、もう何十年もこの生活を続けているような錯覚さえする……今からこんな調子で、やっていけるのか不安になる。
でも、やらなければ。
これは、仕事なんだから。
彼は、さっきまで仕事をしていたのか、虚脱したような顔で天井を見上げている。私なんて、いないかのように。
私は意を決して、布団をめくりあげた。
中に収まっていた彼の身体が、あらわになる。視線が、磁力を帯びたように彼の下半身に飛ぶ。
わ。
本当に、起っていなかった。そして心配になるくらい、小さい。皮はしっかりと被っていた。戯れに掴んだらそのまま潰れてしまいそうだ。
視線を感じて、はっと顔を上げると、彼の目玉がこちらを向いていた。責める色も、恥ずかしがっている色もそこにはなかった。ただ、私を見ていた。その目はこう言っていた。好きにしろ。なんとでも思え。俺は何も感じない。
どうも、私は、
一方的な態度というものに、つい反逆的になってしまうサガがあるらしい。
負けてたまるか、と思った。
「し、失礼します」
それでも震える声で前置きし、パジャマを脱いだ。下着姿になる。ふ、とサイドテーブルに乗った体温計に目が行った。まだ表示が残っている。
34.8度。
生唾を飲み込んで、ブラとパンツを脱いだ。
全裸になる。
顔から火が出るほど恥ずかしかった。よくもまあ彼は股間丸出しで平然としていられるものだと思う。ここはハワイのビーチかと疑いたくなるほどリラックスしておられる。なんだかこっちが馬鹿みたいだ。でも、馬鹿でいいのだろう。この恥ずかしさで上がる体温を、私は彼に売ったのだから。
ゆっくりと近づいて、抱きしめる。
うっ、と声が思わず出た。
冷たい……
彼の身体は、雪の中から掘り出したばかりかのように、冷え切っていた。触れ合っているだけで体温を奪われていくのを感じる。
手を掴まれた。押し倒される。不思議と恐怖はなかった。萎え切ったそれが常に視界の隅にチラついていたからかもしれない。
決して貧しくはない乳房を、吸われる。
「……っ」
乳房の表面を撫でては離れていく彼の鼻面がくすぐったい。強く抱き締められて身動きが取れない。
身体を扱う手つきは、優しい。撫でられて浮き彫りになった身体を感じていると、まるで自分が尊いものになったような気がする。
しがみつくように、彼は私をそのままの意味で抱いた。私は乳房にしゃぶりつく彼の頭を撫でて、あやす。
彼の顔は苦しげだった。この世に蔓延るすべての悪から逃げる場所が私の身体しかないかのように、すがってくる。吐く息は興奮のそれというよりも苦痛のそれ。ぐずるような喉から溢れる唸りは手負いの獣じみていた。
何が、そんなに苦しいのだろう。
ただ生きているだけで、何が。
こんなに傷つくまで、いったいどれだけの悲しみを、その身に。その心に。
どうして――
「ううっ……ああぁぁっ……」
泣き出す一歩手前の呻きを漏らしながら、彼は私の肩を掴み、顔を乳房に埋める。生暖かくなってきた吐息と、熱を持ち出した身体。氷のような無表情と拒絶が融けて、子供のような本性が剥き出しになる。
湿った犬歯が、私の肩に突き立った。
「んんっ……!」
痛みと共に、肩が濡れる感触。血が溢れたのだろう。
「ううっ……」
彼は、そうしないと私がここにいることを確かめられないかのように、強く強く、私の肌という肌を噛んでいった。時に弱く、時に強く。
私は、自分から彼を抱き締めた。
男性のものにしては細すぎる肩が、こわばる。
「大丈夫だよ」
脈の音を聞こうとするように、私は彼の首筋に自分の頬を当てた。
「大丈夫。大丈夫だから」
私の手の中で、捕まえられたウサギが生を諦めるように、彼の身体から力が抜けていく。
氷が融けていく音が、聞こえた気がした。
彼が寝静まってからも、私の仕事は続く。
放っておくとすぐに冷えてしまう彼の身体を抱き締めて、朝陽を待つ。
いつか、ただのつまらない太陽の光だけで、彼のこころが融ける日が来るまで。
私は、太陽の代わりを務め続ける――