Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
『伝承魁』

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 カシュメとジャスパにはまだ言っていない。しかし、食べられる食料が底を尽いていた。タリムの夫であるドランのひいおじいさんが住み着いてから、受け継がれ続けてきた洞窟、そのひんやりした空気の中にひっそりと隠された食料は、もう夢のように溶け去っていた。タリムはそれを茫然と見ながら、洞窟の外の野原でとっくみあってじゃれあっているカシュメとジャスパの声を聞いていた。
 ドランの狩りが上手くいっていないのが痛かった。普段なら角羊の三頭は山菜と一緒に採ってきてくれてもいいのに、今年の秋は何も取れずに終わった。夏の実りが多かったから楽観視してはいたけれど、それもいよいよ終わりが来たのだ。
 洞窟の外から母を呼ぶ子供たちの声に、タリムは生返事をするばかりだった。
 生きていくことは難しい。
 これはタリムが、嫁にいくよりも前に、ひょっとすると生まれた時から、教わり続けてきたことだった。生きていくことは難しいんだよ、タリム。それは祖母だったかもしれないし、時々出会っては去っていくばかりの流れ狩人の誰かがぽつりとこぼした言葉だったのかもしれない。けれどタリムは覚えている。それが真実だと、子供の頃から、なんとなくではあれど悟っていたから。
 幸せに溺れていて忘れていた。
 いつかそれが追いついてくることを。
 タリムは、土の中に埋もれているいくつかの葉っぱをかき集めて、なんとか今夜の夕飯にならないかと願った。それは空虚な考えに過ぎなかった。狩人の夫と、育ち盛りの男の子二人を、葉っぱなんかでどうなだめすかせる? それにコリュムもいるのに。
 タリムは、洞窟の隅を見やった。そこは空気が澱んでいて、決して光が入らない。
 そこにコリュムは横たわっていた。
 草を編んだ寝床に、乾いた肌をして、コリュムは虚ろな口を軽く開けながら天井を見上げていた。その目にはなんの光もないが、時折、雲間から光が兆すように意思の欠片が垣間見えることもある。だが、いまはそれもなかった。
 コリュムは忌み子だった。コリュムを産んだばかりのタリムに、産婆は言った。
 この子は殺してしまった方がいい、と。
 生まれながらに呪われた子。自分の力では身動きもできず、しゃべることもできず、石像のように横たわることしか出来ない。ドランは優しかった。なかには役立たずの子はすぐに殺してしまう狩人も少なくない。自分の手駒にならなければ生かしておく意味はない。タリムは子供の頃、狩人のことが嫌いだったけれど、今ではその言葉の意味がほんの少しだけわかる。生命の薪が堆く積んであらねばならない土壁の中で、コリュムは何もしてくれない。起き上がって、弟たちと一緒に小さな野兎でも取ってきてくれればまだいい。でも、それもしてくれない。タリムは震える息を吐いた。こんなこと考えたくない、でも、と足元を見る。深く四角く掘られた穴には、もう何も残っていない。何度瞬きしても、悪い夢で終わってくれない。
 ドランは甘かったのかもしれない。
 狩人の生き方と、コリュムを生かすことは、矛盾していたのかもしれない。
 タリムは少しだけ泣いた。
 そして、涙が干上がった頃、コリュムのそばに積まれたキノコを見た。
 時々、ドランが採ってきたり、あるいは知り合いの狩人が分けてくれる幸がある。しかし、そのほとんどは食べずに捨てられる。あるいは動物に与えてみたりもする。けれどそのほとんどは漲る明日ではなく苦しみ悶えて泥にまみれる死をくれる。毒なのだ。近くに魔女でも住んでいれば毒見をしてくれることもあるけれど、そんなもの、タリムは見たこともない。
 だから、子供たちへの、これを食べてはいけないよ、という見本として、ただ積まれてあるだけのキノコなのだ。
 決して食べてはいけないキノコなのだ。
 タリムはゆっくりとそのキノコの一つを手に取った。あまりに多く積まれているため、タリムの手が触れた瞬間にほかのキノコが足元に零れ落ちた。虫の声が聞こえる。タリムはそれを調理場へ持って行って、火を熾し、ナイフで小さく刻んで、練土の鍋で煮立てた。日が少しだけ陰った。
 タリムはそれを横たわったコリュムに飲ませた。コリュムの痺れて凍った顔の中で、目玉だけがやたらにギョロギョロ動いた。タリムは匙をコリュムの口の中へ突き入れ、少しずつ汁を飲ませた。一杯目は何事もなかった。二杯目からコリュムの目が血走り始めた。三杯目で少し吐いた。四杯目で目から血が溢れだした。五杯目で、喉の奥から風の唸りのような、掠れた悲鳴が聞こえてきた。六杯目の匙を突きこんだ瞬間、コリュムはげっげっと緑色の蛙のように鳴いて、死んだ。
 タリムはぼうっとそれを見下ろしていた。
 自分で産んだ子だった。
 まだ中身の残っている椀に映る、歪んだ光線を見た。
 タリムは理解した。
 二つまでなら、死ぬことはなさそうだ。


 それからタリムはきっと、孫や、姪や、それに類ずる小さな誰かにこう言って暮らしたことだろう。
 このキノコを食べてはいけないよ。
 決して。








                 END

       

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