Neetel Inside ニートノベル
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わが地獄(仮)
興味が無い

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 2013年5月26日、私はレイプされた。
 いま思い出しても後悔する。あの日、私は少しバイト先のシフトが延長して、10時半頃、自宅そばの公園の横を通って帰宅しているところだった。周りには民家もあったし、自販機もあり、コンビニが歩いて二分のところにあった。いったい誰がそこで警戒など出来る? 私はスマートフォンを持ちながら歩いていて、LINEのスタンプを押しているところだった。どこからどう見ても日常そのものの空間にいた私は、そこが屋外であり、どんな危険人物が茂みの中に隠れていてもおかしくないのがこの世界だということを、文字通り痛いほど知った。
 がん、と殴られた、と思った時にはもう、月が見えていた。そして私に覆いかぶさる、人狼のように真っ黒な影。野犬にでも襲われたのかと思ったが、月明かりでぼうっと輝くその影には、体毛が無かった。いや、陰茎のそばにだけごっそりと生えていたが。勃起した男性器など見たことがなかった私でも、それが野犬のものなどではないことにはすぐ察しがついた。赤黒く、白い垢がこびりついたそれは、私に病気を連想させた。
 悲鳴をあげようとして、首根っこを押さえられた。相手は慣れていた。私は両手をすでにねじ上げられて身体の下に敷かされ、動けば肩が外れる体勢になっていた。えっ、えっ、と、どうしていいか分からず、これは何かの間違いなのではないかと藁にもすがる思いを抱いているうちに、何かの間違いが行われた。私はレイプされた。
 警察には出頭したのではなく、保護された。夜の街を下半身裸で、股から血を流している女が歩いていたら職務質問抜きで速攻で保護されることを私は知った。パトカーに乗せられて、まるで自分自身が罪人になったかのような気分で、私は警官に貸してもらった膝かけをぎゅっと掴んで、窓の外を睨んでいた。
 犯人はすぐに捕まった。強姦常習犯だったらしい。私の体内に残っていた――採取された――精液からDNAが割り出され、前科のあった男が逮捕された。ニュースにもならなかった。が、裁判はきちんと執り行われた。
 裁判というものは、当事者が欠席してはならないものらしい。
 私がその真実に気づいた時にはもう遅かった。私はなんとか逃げ延びようとしたが、男を刑務所へぶち込むためには、私が裁判所へ出向かないわけにはいかなかった。私は毛布を噛み、髪を引き抜き、泣きながら裁判に出た。
 レイプされた女として。
 セカンドレイプは静かに行われた。私は幸薄そうな裁判官と、狐のような弁護士、そして事件の結末などどうでもよさそうな検察官に見守られながら入廷した。傍聴人はたくさんいた。某有名私立大学の法学サークルが活動の一環として全員参加で教授と一緒にピクニックにでも来たような顔で座っていた。殺してやろうかと思った。
 レイプされたことがある女なら分かってくれると思う。
 口先だけではどうこう言おうが、男という生き物は、レイプされたことがある女を必ずそういう目で見る。
 親切げに頷き、私が受けた被害に同情と憐憫の眼差しを浮かべ、拳をひっそりと握り締めていても男の頭の中には私が犯された瞬間の精巧なリプレイしかない。私は誰と目が合っても、その奥に輝く暗い欲情を感じずにはいられなかった。被害妄想? それでもいい、私にはそう見えたのだから。そう見ることしかできないのだから。
 私は一度嘔吐し、法廷でそういうことはやめてくださいと係員に厳重注意された。私はすみません、と答えながら、なぜ自分が謝っているのだろうと思った。私は被害者なのに。犯されたのに。謝るならあのバーコードハゲではないのか? 私が何をしても、叫ぼうが暴れようが、その責は全て私の処女を奪ったあの男にあるんじゃないのか? だが、私の正義は静かに進む裁判のどこかに飲み込まれて消えた。男は十年間、刑務所に入るらしい。どうでもよかった。二度と私の前に現れなければそれでよかった。
 私は、それから二年、引きこもった。
 だが、レイプ被害者は障害者ではない。年金も保護も何も受けられない。私がどんなに布団に潜っても、耳をふさいでも、生活費は着々と溶けていった。どんなに祈っても願っても銀行口座の預金は増えていったりはしなかった。パンの耳をかじって生きていたこともある。お湯を張った湯船になんてどんなに寒い日も入っていない。質素な暮らしだ、どこへ出ても恥ずかしくない、倹約生活だったはずだ。
 それでも私の預金は溶けた。
 働かざるを得なくなった。
 しかし、二年という歳月は私を少しは回復させていたらしい。私は書店のアルバイトに合格し、静かに町の片隅で働き始めた。気に入らないことも多かったが、おおむね、よくしてもらったほうだろう。パートのおばさんや社員の女性は優しかった。時々嫌味を言われたりもしたが(私は体調不良による欠勤が多かった)、許してもらえていただけ有難いだろう。勤務態度はどうだか知らないが、私が社員ならこの頻度で休むバイトは切る。ふふ、と私は自嘲しながらフロアをよく回っていたものだ。腐っても鯛、犯されても女。二目と見られぬブスではないから犯されて、二目と見られるぬブスではないからバイトを休んでも許される。プラスマイナス、大幅マイナス。
 働いていて嫌だったのは、調子に乗った男のバイト仲間がしつこく言い寄ってくることだ。やれ映画に行こう、やれ休日は何をしてるんですか、やれせっかく働くならみんなで楽しくやるのがモットーなんです……そんなことは聞いちゃいない。私に話しかけないでくれとどれほど祈ったことか。なんで男という生き物は、はっきり言ってやらなければわからないのだろう。はっきり言えるわけがないじゃないか、お前のことなんて大嫌いだなんて面と向かって言ったら職場での私の立場が台無しになる。なんでロクに知りもしない赤の他人なんかのせいで私の生活が脅かされなければならないんだ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 それでも飲み会には参加しなければならない時がある。私だって、美味しいお酒が飲みたくなることぐらいある。飲めるんじゃないかと期待してしまう時がある。つくづく私は馬鹿だ。

「……○○さんって、レイプされたことあるらしいよ」

 人の口には戸が立てられないというが、これはもう、心を読まれたとしか思えない。トイレに行った後、座敷に戻ろうとしてよろけて、壁に手を突いた姿勢のまま私は石になった。石ころになった。座敷の中で、私に何度も何度も何度も何度も言い寄ってきたバイト仲間の萩山が声を潜めて私の真実を暴露していた。どこから知ったのだろう、誰が教えたのだろう、殺してやる、殺してやる、殺してやる。ああ、せっかく友達になれそうだった女の子たちが声を殺して引いている気配が分かる。やめてやめてやめて。私が何をしたっていうの? なんでこんなに苦しまなきゃいけないの? 悪いのは私なの? 私が悪いからこんな目に遭うの? なんでなんでなんで? 萩山殺す。絶対殺す。
 萩山は、ため息まじりに、まるで自分の弟の出来の悪さでもひけらかすような口調で、同席していた菊池に言った。
「人生いろいろあるもんだねー。菊池くんも興味あるっしょ? ○○さん、とてもそうは見えな……」
「興味ない」
 ぼそっと答える男の声がして、ガン、とジョッキをテーブルに叩きつける音がした。私はびくっと身をすくませた(レイプされたから、私は大きな音が苦手になっていた)。私はおそるおそる、そっと中を覗き込んだ。
「……あっそ! 何、興味ないって? 別にこっちこそお前に興味なんかねーし。黙って飲んでっから話振ってやったんだろうが、空気読めよバーカ」
 萩山が一気にまくし立て、「あー気分悪ィ」と黄色く見えそうなげっぷを吐いていた。そしてにへらっと表情を崩して、周りの女の子に別の話題を振っては媚びへつらっていた。菊池はそんな萩山を見もせずに、不味そうにビールを飲んでいる。私はほとぼりが冷めてから、そっと座敷に戻って、遠い位置に座っている菊池を見ていた。
 菊池は一度も私の方を見なかった。
 それからしばらくして、私は菊池と交際を始めた。

 親に菊池の話をすると、決まって「そんな男はやめろ」と言う。当然だと思う。菊池は酒も煙草もやらないが、美術狂いで、よく骨董品屋に行っては目玉が吹っ飛ぶような値段のツボやら絵やらを買ってくる。私にはその価値がまるで分からないが、菊池はそれを狭苦しい六畳一間のアパートにそっと飾り、飽きると売る。当然、菊池の部屋に置いておいた期間分のロスが絶対に発生するわけで、だから菊池にはいつも金がない。車もない。服もない。高校生でも買えるような遊園地の一日フリーパスをくれることもない。男としての責務をほぼ放棄していると言える。自分でもたまに油絵なんかを描いていたりするが、お世辞にも上手くはない。「この道で喰っていく」と菊池が言い出したら、私は菊池を病院に連れて行くだろう。百万人に一人くらいは菊池の駄作を天才の神業と呼ぶ人間もいるかもしれないが、この世界には残念ながら普通の人間の方が多いのだ。
 私が絵や骨董品に理解を示さないと、菊池は凄く不機嫌になる。
「……どうしようもねえな」
 それが菊池の口癖。私は菊池に言わせれば百万通りくらいの「どうしようもなさ」を持った女らしい。もうトコトンどうしようもないようだ。だが私からすれば菊池だってどうしようもない男だ。だから私は最初の頃みたいにいちいち腹を立てたりはもうしない。
「お前にはわかんねえんだ。いいか、この絵はな……」
 乾いて毛先がダメになったペンで、菊池は絵の講釈を私にするのが好きだ。放っておくと一日ずっと喋っている。私は黙って聞いていたり、菊池の髪の数を数えていたりする。菊池は一通り喋ると満足して、買い物にいく。
 菊池にいいところがあるとすれば、買い物にいくときは「何かいるか?」と絶対に聞いてくれるところだ。私はだいたいアイスかヨーグルトを買ってきてもらう。そんなの大したことじゃない、と言う人もいるかもしれないが、私にはこのどうしようもない男に美点があるとしたら、この点くらいしか思いつかない。
 母の言うとおり、確かに菊池はどうしようもない男だ。あのむかつくバイトの男、一流企業にしゃあしゃあと就職して今はローンで買ったベンツか何かを乗り回している萩山に比べたら、顔も悪いしお金も持っていない。それでも萩山の、あの目の奥底にジロジロ燃えていた欲望をそばに置くぐらいなら、私はこのどうしようもない菊池の方がいい。
 彼には彼の世界があって、そしてそこに『レイプされた女』などが割って入る余地はないのだ。彼にとって私がレイプされたことなどは『どうでもいいこと』であり、そんなことより秘蔵の絵に小さな傷が入ったかどうかの方が大問題らしい。一度、私が菊池の絵をダメにして、彼が部屋中ひっくり返るような大騒ぎをして泣き崩れたことがあったが、私は跪いて獣のように吼える彼を見て、なんというか、……疼いた。それからたまに私はダメにしてもなんとか許されそうな絵を選んではこっそり傷をつけて菊池をわざと怒らせまくっている。結構楽しい。それでも菊池は私を追い出そうとしない。私も菊池の前から出て行こうとは思わない。ぬいぐるみは喋ってくれないし、コンビニの店員はいつも疲れていて大変そうだ。とても私の話など聞いてくれそうにない。レイプされたことを隠して、どこかで当たり前の常識や世間並みのお給料を取ってきてくれる男を見つけて、幸せに暮らす。そんなことはきっと、やってやれないことはないんだろうけれど。
 私は、自分の真実を隠してまで、誰かと一緒にいたいとは思えない。
 そして真実を知られて、何かが変わってしまうのなんて絶対に嫌。
 そんな我侭な私には、私のことなど眼中にない、どこか遠くを見ている男しか選べない。
 私は今、狂人と付き合っている。
 幸せ、だと思う。

       

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