わが地獄(仮)
船と教授
「諸君が私の講義をきちんと聴かないのは、もちろん、君たちが船体力学に関する興味関心をまるで持っていないからだ。違うかね」
否定を許さぬ声音で教授は言った。秋の夕暮れ、学生たちは死体のような顔色で教授から顔を背けている。
「だから私は今日、この講義の一コマを刈り取って、諸君にイメージを授けたい。私以外の講義に出るという愚を諸君が犯させないためだ。私以外の講義を聴く必要はないのだ。それを分からせる」
教授は伸ばし棒の先にくくりつけたチョークを釣竿のように振って、壁のように大きい黒板に船の図を描き始めた。
「まず土台そもそもが、船が水に浮くということがおかしいのだ。水はそんなにやさしいものではないし、ものはそれほど存在が軽くなることはないのだ。だから船は間違っている。浮くということは間違っている」
教授の描く絵は、解体されたさかなのようだった。
「船には必ず竜骨がある。この湾曲した、船の底部にある大きな柱だ。曲がった柱というのもおかしな言葉だが、水上では狂気が優先する。船というのはこのおかしな柱に、さらに湾曲した骨を雨粒を受け止める手のひらのように組んでいって、かたちを作る。その上に乗っているものなど、飾りに過ぎん。いいか、手のひらだ。私が知っていて、諸君も知っている共通のもの。それは人間の身体だ。イメージの共有がそこで齟齬することはない」
教授はそこで学生を振り返った。教授からすればここまで言えば分かるだろうと思っていたのだろうが、学生たちの顔色は晴れない。舌打ちして、教授はふたたび講義を続ける。
「船の底部は推進力と極めて密接な関係がある。底部にあるなにかが必ず船を動かすのだ。それは人力のオールかもしれないし、なにかもっとべつなふしぎでおもしろいものかもしれない。そんなことは私の知ったことではない。私は船体力学の権威であって、推進機関のエンジニアではない。諸君には、美しい船体についての理解をもって、この大学を卒業してもらいたい。博士号も高等数学もクソ喰らえだ。そんなものは取得しなくてよろしい」
わずかに学生たちの顔色に朱色が戻ってきたが、教授はそんなことにばかり気づかない。
「船はおおよそ、人間を乗せるものだ。つまり、生活空間が要求される。船の下部が推進機構に占有されているとしたら、船の上部は当然ながら生活区画となる。枠組みされた下宿のような部屋割りかもしれないし、ぶち抜きの大広間かもしれない。いずれにせよ、上部と下部を分けるパーツが存在する。それが甲板だ。メインデッキだ。諸君はいずれ私とフィールドワーキングに出たときは、この甲板の上を歩くことになる。諸君がゲームセンターで反射神経と経験値のランキングにくだらんハンドルネームを刻むことを私の講義より優先しなければ、立派な船に乗せてやる。知人の漁船だが、私はそれでたまに釣りにいく」
いいですね、と学生の誰かが声をあげたが、教授はいらいらと頭を振りながら手を振った。これで喜んでいるというのだから、学者はふしぎだ。
「人間が増えてくると多層構造が生まれてくる。船にもそれは当てはまり、乗船人数を増やそうとすれば、必然的にデッキの上にデッキを作らなければならない。だが同じ面積の甲板をその上に積み上げていけば、つくりは簡単だが船体のバランスは著しく崩れる。諸君は複葉機を見たことがあるか? あれは中央の胴体部分が極めてはっきりと二枚の翼をぶち抜いているから安定しているのだ。船でこれをやれば沈む」
カツカツカツ、と黒板に白いチョークが引かれていく。
「ゆえに、多層甲板では積層の上部へのぼるにつれ、甲板の面積が萎縮していく。部屋数は少なくなるが、見晴らしはよくなる。船内全域にいつでも怒鳴りつけられる伝声管があちこちから突き出している操舵室も、たいていは上層デッキにつくられる。船内で火災でも発生すれば、その区画を閉鎖して切り離すこともありうる。小型船の場合だが、推進機構そのものを船体から遮断して、落とした靴みたいに水上に残したまま船が慣性のみで燃える海から逃げ出したのを私は見たことがある。大型船ではこれは出来ない。推進機構の重量を外しただけで船内の荷重バランスが崩れるからだ。これもまた、沈没の原因だ」
教授は何度も黒板の前をいったりきたりしている。
「船、というものは建築物だ。建築物には、同じものは本来、ひとつとしてない。もしあるとすれば、それはイメージが虐待されている場合だ。同じでなければならない、共通していなければならないという思想の弾圧によって同一のものがつくられることはある。諸君は二人の男がまったく同じ小説を書いているのを見たことがあるかね。もし心当たりがあるというのなら、警察に連絡することを勧める。それは虐待されている男の生き方だからだ。
ゆえに、船にも数え切れぬほどの建造パターンがある。居住に適したものもあるだろう、ダンスやミュージックを嗜むために広くつくられたものもあれば、荷物運搬用の輸送船もあるだろう。誰かのためにつくられた、お城みたいなプレゼント船もあるかもしれない。だからこれが船だ、と一言で説明しろというのは不可能だし、私が諸君への試験で『船、という言葉を定義せよ』などというくだらん問題も出さない。それを定義できるというやつは必ず嘘をついている。信頼するには値しない。
だが骨組みは共通している。竜骨のない船はないし、浮かない。もし私がさきほどの問題を試験に出すとすれば、『竜骨こそ船だ』という解答を用意するかもしれない。だが、私以外の試験官にこの解答を提示すれば間違いなく落第するから気をつけろ」
教授は深く息を吐いた。
「結局のところ、浮こうとするものが浮くのだ。私の船に対する考え方はそれだけのものだ。諸君がわかってくれたかどうかは知らない。私が正しいかどうかもわからん。だが、私はこう思うのだ」
教授は部屋から出て行った。