Neetel Inside ニートノベル
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わが地獄(仮)
俺がなぜ低評価だったエグゼイドの評価を覆したのか(エッセイ)

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 エグゼイドがすごく面白かったんですよね。
 だからずっとエグゼイトについて考えていて、寝ても覚めてもエグゼイド、気がつくとあごさんには見えるガシャットを構えて「みんな死ね! 変身!」とかやってるわけです(宝生永夢はそんなこと言わない)。
 ライダーはゴーストで離れていたんですけど、まいとくん(注:硬質アルマイト)が「エグゼイドやばい。クウガとかダブルを超えてるかも」とか言っててななせん(注:七沢楓 旧姓七瀬)と「仕方ねェなァ……目ェ覚まさしてやっか!」くらいのナメたプレイでまいとんちで13話まで見たんですけどまァ~ハマったよね。即DVD借りたしね。相当なエキサイが相当エキサイだったわけなんですけど、なんであんなに面白かったんですかね。

 電王がヒットしてから、やっぱ子供向けって大事だよねみたいな方向にライダーも流れていって、そういう子供人気を否定しない形でブラッシュアップしていったのがダブル~ウィザードあたりの流れだったと思います。
 で、鎧武はともかくとしてドライブやゴーストもいつものメンバーとのコミカルテイストを活かしながらチェイス爆散させたり御成が暴走したりしていたと思うんですけど、俺がエグゼイド第一話をリアタイで見た時って「あ、はいはい。もーこういう路線しかやる気ないのね」って感じだったんですよね。
 ピンク髪の松田るかが「すべてのバグスターを倒して世界一のスーパードクターになって!」とか言い出したときはずっと黒スーツ着ててくんねぇかなとか、なんていうかそういう穢れた大人のいやらしい目しかしてなかったんですよ。
 だってゲームと医療を組み合わせるっていう時点で意味がわからなさすぎてやばいじゃないですか。
「命の大切さを説く要素が医療で、子供たちが好きな要素がゲームね!」っていう現場を知らない大人がやらかしちゃった感がすごくて、そんな簡単に掛け算したって1×1は1だよって思ったんですけど最終的には1×1が100億くらいになっててなんかもう掛け算は繰り返せば勝手に増えていくんじゃないかとか、そういう「なんで面白くなったのか全然わかんないのに面白い」みたいな不思議さがエグゼイドにはあったと思うんですよね。今でもなんでデカイ顔背負ったピンクタイツがあんなに相当エキサイエキサイ高鳴ってたのかよくわからない。なのでよく考えてみようと思ったんですね。

 で、全部見たわけです。クロノスが止まった時のなかで永夢にぶん殴られてから神が時間差コンティニューで実の父親の必殺技をキャンセルさせて正宗社長は自分にバグヴァイザーツヴァイぶっ刺して消えたわけです。でもゲーム病になった人たちは戻ってこなくて、これからもCRの戦いは続いていくのです。はい、電脳救命センター。最高だったよね。
 じゃあゲーム医療ってなんで面白かったんだろう。もちろんゲームをモチーフにしたライダーガシャットから特徴を得て変身するというのは目新しさがありました。不死身になるためにゾンビゲームのガシャット使って体力無限とかいう「納得できる強さの表現」でもゲーム要素は優れていたと思います。なんていうか俺らの世代、今の子供たちのお父さん世代が「ああ~懐かしいんじゃあ~^」ってなる要素がたくさんあったよね。カセットフーフーとか。まァ俺に子供なんていないんですけども。俺が永遠の子供なんですけれども。

 じゃあそういうガジェット(ガシャットならぬ)がよく考えられていたから面白かったのか? 設定が優れていて、クリア困難なライダークロニクルが話を盛り上げたのか? というと、それがすべてではなかったんじゃないかな、と思います。やっぱりエグゼイドが面白かった根幹にあるのは「医療」を題材にしたからじゃないかと思うんです。なんか仕事から帰る時にふとそんなことをあごさんは思ったんですね。
 エグゼイドって、今までのライダーのどれとも違うと思うんですよね。それはクルマに乗ってタイヤカキマゼールでコウジゲンバーしか出てこなかったドライブや、高校生が仮面ライダー部を立ち上げて後に科学が幸福したフォーゼとか、そのどれとも違う。それは題材が特殊だったとかそういうことではなくて、「ほかのヒーローが今まで見捨ててきた人たち」のために戦うヒーローが「エグゼイド」だったんじゃないかな、と。
 何を唐突に言い出したんだと2時間前の俺もバイク乗りながら思ったんですけど、まァ聞いてください。ヒーローって(というかライダーって、でもいいんですが)、基本的には大きな陰謀とか、敵のでっかい組織とか、そういうのやっつけるために戦ってるじゃないですか。もちろんその中で街の人たちを見捨てられないから、大きな力で人を支配したり傷つけようとしたりするやつらと戦うぞ、という。たとえば仮面ライダー鎧武はヘルヘイムっていう異世界から侵食してくる果物がやばくて、主人公のこーたさんが黄金の果実を喰って敵のインベスごと違う星に出ていって神になる、という結末です。そして世界を救われた後、めちゃくちゃ裏切りまくったミッチがこーたさんに負けないように新しいヒーローとして生きていく。ものすごく面白かったですよね。完成された孫悟飯みたいな感じ。
 で、引き合いに出してきた鎧武なんですが、ここでこーたさんは世界を救ったわけです。世界を救って、姉ちゃんとかミッチとかタカトラニキがいる地球からバイバイして、人間じゃなくなったまま神様として出ていく。ここでこーたさんがやっているのは「世界を救う」です。そしてミッチにやったのは「道を示す」ということです。
 何が言いたいかっていうと、ヒーローというのは世界を救ったりする中で生き方や見習うべき姿勢を示すだけであって、たとえば貧困とか、たとえば病気とか、そういう「現実の中で対処すべき問題に対して解決しない」ということです。
 いやいやいやあごふざけんなよ、そんなこと言い出したらほとんどのヒーローが否定されるじゃねーか、と。そうなんです。ほとんどのヒーローが(もちろん街で襲われてる人を助けたりはしますが)、「現実の問題に苦しんでいる人を助けたりしない」んです。だからこそ、ゲーム病になってしまった人たちのために「医療」として戦うエグゼイドは特殊なんだと思うんです。

 じゃあゲーム病ってなんなんだ、それは架空の病気じゃないのか、そんなこと言い出したら自分がジョーカーになってはじめさんにロリコンとして生きる道をくれた剣崎は名医か、とかいろいろな考え方が人にはあると思うんですが、「ゲーム病は病気だ」とあごさんは考えています。単なる設定じゃなく、あれは病気として描写されていたと。
 ゲーム病というのはバグスターウイルスに感染すると高熱を発症し、CRの聴診器みたいなやつで診るとどんなウイルスに感染しているのかがわかり、そのウイルスの元であるバグスターをゲーム医療で倒さないと、最終的には患者のストレスが限界に達して感染者は消滅してしまいます(小姫さん事件)。
 病気って、マイノリティな現象だと思うんですよね。たとえばあごさんが風邪ひいた。でもみんなは風邪ひいてない。だからみんなはしあわせ。あごさん自分でリンゴ剥く。これが風邪です。だから俺が風邪でもみんなはつらくないし、腹出して寝てたあごさんが悪いわけで誰も罪悪感に苦しんだりしない。つまり何が言いたいかっていうと「他人の病気は無視できる」ということです。
 ゲーム病だと消滅者を出すとバグスターウイルスは強化されたかなにかしたと思いますが、じゃあバグスターを放置できないからCRはゲーム医療していたのか、というと違うと思います。仕事だからやっていたのか、というとそれも違います。
 永夢はかつて黒幕みたいな顔したオッサンに助けられ、そのオッサンの「絶対助ける」という言葉が忘れられずにドクターになりました。なのでゲーム病で苦しんでいる患者を見捨てておけないわけです。
 飛彩さんは恋人をゲーム病で失ってしまい、ゲーム医療から遠ざかって見てみぬフリをしたり、ドクターをやめてしまうと「世界で一番のドクターになってね」という恋人の言葉を裏切ってしまうことになります。大我さんも同様にグラファイトの一件から犠牲者を出してしまい、自分ひとりでバグスターを根絶するために戦い続けてきたわけです。
 で、キリヤさん。キリヤさんは一度、社長にデンジャラスゾンビでライダーゲージをゼロにされて殺されてしまいます。そのあとにバグスターとして蘇ってきて、社長を実験体にしてワクチン作ってた時に「ずっと考えてた。なんで自分だけ蘇ったのかって。その答えがようやくわかった」と言っていました。自分がバグスターになってしまった以上、見てみぬフリはできないわけです。立場としては、ゲーム病(パラド)の感染者であり、自分の中で成長したウイルスであり別人格のようなものであるパラドが大量の消滅者たちを生み出してしまった永夢と似た境遇です。つまり二人とも自分自身が「ゲーム病の当事者」なんですね。
 だから、「ゲーム病患者を積極的に救済しない」というのは、彼らにとって自分自身を否定するような行為になるわけです。それはこーたさんのように「誰かが犠牲になる世界を変えたい」ということではなく、「自分自身のことだから」戦うわけです。
 患者が消滅してもバグスターを倒せなくなるわけじゃないから、街でバグスターが出ることだけに注意しておいて、患者が消滅しそうだからって焦って動いたりするのはよそう、というような(作中でパラドが永夢を乗っ取っていた時にそういう態度を取っていましたが、世界を救うだけならあれでいいわけです)ことはせず、CRは犠牲者を最小限にするべく尽力していました。そこにあるのは「義務感」ではなかったようにあごさんには見えたんですね。
 彼らはみんなが「病気に感染した」、「病気のせいで人間じゃなくなった」、「病気のせいで大切な人を失った」、「医者でありながら病気から患者を救えなかった」、当事者です。つまり、ほとんどの大多数が(パンデミック前は)感染者ではなかったのに感染してしまった患者たちと、彼らCRのドクターたちは病気に運命を変えられてしまった「マイノリティ」同士なんですね。
 だから、エグゼイドは「マイノリティ」を救済する話なんです。もしこーたさんがエグゼイドであれば、救済できなかった人たちがいて、それがこれからもバグスターウイルスがある限り一定数の犠牲者が続くなら、自分が犠牲になることを選んでもバグスターウイルスを根絶していたかもしれません。ですがエグゼイドは(スピンオフがあるのでまだなんとも言えませんがおそらく)バグスターウイルスを根絶しませんでした。「おまえも僕だ」と永夢はパラドを受け入れます。そしてウイルスから作ったワクチンなどが開発されていく、という未来になるようです。つまりエグゼイドは「世界を救ってない」んです。手の届くところにいた人たちのために戦ったのであり、世界はなにひとつ変わっておらず、社長がえらいことやらかしたまま、えらいことになりながらCRの戦いは続いているのです。そしてそれが一番強く描写されているのが最終回の「消滅者たちの名前を読み上げる」シーンです。
 マイノリティにとって一番つらいこと、一番苦しいのは

「忘れ去られること」
「存在しなかったことにされること」

 です。
 エグゼイドがマイノリティの立場に立って作られた作品である、ということがあの「名前の読み上げ」シーンには含まれています。
 病気というマイノリティに陥った患者を、マイノリティになることの悲しさを知っているライダーたちが救済する。
 それがエグゼイドの根幹にあったテーマであり、そしてエグゼイドがほかのライダーと一線を画している由縁であると俺は考えています。

 鎧武でこーたさんは生き方を示してミッチを置き去りにしました。貧困や病気をこーたさんは救ってくれません。「俺から学んで、おまえ自身がなんとかしろ」というヒーローです(最終回でミッチを助けにきてましたがそれは置いておきます)。
 それが悪いとかそういうことではなく、エグゼイドはこーたさんが救わなかった、「ゴチャゴチャ言ってる余裕ない、今もうすぐ病気で死にそう、たすけて」という生き方云々以前のピンチに陥った人たちにかけつけるヒーローなんです。だから本当はエグゼイドはヒーローではなく、「ヒーローに助けてもらえなかった人たち」が自分自身のために戦う物語なのかもしれません。だからこそ仮面ライダークロニクルでは、エグゼイドもブレイブもスナイプもレーザーもデンジャラスゾンビも「敵キャラ」でしかなく、「主人公」ではありません。
 なぜなら彼らには世界を救えないから。
 こーたさんのようにすべてのインベスを物理的に地上から追放することはできなかったから。
 だからこそ、俺はエグゼイドに物凄く共感したんですね。俺自身も大なり小なり「上から取っていけば下に余る、見捨てられた存在」だからです。それを救ってくれるのは「患者を選んだりしない」エグゼイドであり、同じマイノリティ経験者しかいないのです。ヒーローが格好いいこと言って生き方を見せてくれても、振り返れば自分自身の途方もない倒しようがない現実(貧困、病気)がある。だからどこまで言っても「世界の救済」や「みんなのため」なんて他人事にしか思えず、一番の願いは「自分を見捨てないでくれ」でしかない。

 とはいっても、俺は鎧武が嫌いとかそういうことではありません。むしろこないだ一気に見ちゃって、ずっとミッチの運命にハラハラしてたんですけど、あれはちゃんと世界を救った物語であり、世界を救うということがどういうことなのか描写していた物語だと思います。こーたさんがミッチを羽毛工場で抱きしめるシーンとか最高だったよね。ヨミヨミヨミ。だからミッチは、こーたさんに生き方を見せつけられ、もうどう頑張っても裏切ることができなくなって、これからの世界を救う新たなヒーローとして贖罪を続けていくわけなんですけど、「どうしようもない運命から救済してくれるエグゼイド」はミッチのところには来ません。だからマイノリティでありながら救ってもらえず、「自己救済」を運命づけられたミッチは、きっちりあの世界でツケを払っているのかもしれません。
 ゆえにエグゼイドはある意味で「ミッチ」を救う物語なんです。「ゴチャゴチャ言ってても、今コイツ死にかけてるだろ!!」というのがエグゼイドなんです。だから俺は好きなんです。患者が苦しんでるのにドクターが立ち止まってられるかよって監察医が言ってたけど、監察医は死体専門だよねとかそういうことはいいんです。なんでそういうこと言い出すの? あごさんかなしい。

 で、最初のところに戻るんですが、エグゼイドは大きな陰謀や世界の救済のための物語ではありませんでした。やっつけて終わりではなく、マイノリティになった人たちの物語でした(ということにしておきます)。ふと思ったんですが「病気・貧困」そのものから人を救うヒーローがまだいるんですね。
 アンパンマンです。
 アンパンマンは自分の顔をカバオくんにあげるヒーローです。たしかテレビで見たんですが、作者のやなせたかしさんは「敵をやっつけるとかそういうことじゃなく、ひもじい思いをしている誰かを助けてくれるヒーロー」としてアンパンマンを作ったらしいです。
 現実として存在する、根性や精神論ではどうにもならない「餓えている」という状況から救済してくれるヒーロー。それがアンパンマンです。
 そしてエグゼイドは、どうにもならない「病気」というこの世界から消滅させられない苦しみから患者を救うヒーローです。
 どちらも大道克己から風都を守ったりしません。肩に人形乗せたオッサンから命がけで街を守ったりしません。卒業証書のために校長殴ったり、機械生命体を正義の名の元に根絶したりしません。だから俺はあんなピンクタイツの、中間フォームがクソデブで、最強フォームになったらプロレスラーみたいな長髪になって本編最後の登場シーンが物陰に隠れて頭かかえてるエグゼイドというヒーローが大好きなんです。
 これが、『俺がなぜ低評価だったエグゼイドの評価を覆したのか』の考察になります。ご査収ください。






 余談ですが、なろう小説が絶対になくならないのも、この「現実の問題を解決してくれるもの」だからだと思っています。
 異性にモテたい、他人を見下したい、支配したい、自分の勢力圏(なわばり)を作りたい。すべて人間の欲望であり、そして現実で充足していないからこそ渇望する要素です。なぜヒーロー文庫が全シリーズ重版を唄うのか、なぜ書店に1000円以上もするなろうのノベライズ書籍が1棚まるまる占領しているのか、結局のところは自分の現実を変えてくれる現象が「異世界転生」だからです(宝生永夢ゥ!)。
 だから俺は異世界転生を否定しませんし、自分でも読みます。そういうものが無駄だとは思いません。
 ライトノベルの感想ブログサイトに「ラノベくらい、幸せな世界であってほしい」という読者の方の意見がありました。そのとおりだと思います。好みの差はあれ、緻密な世界観考証をしていないとか、展開の都合がよすぎるとか、文章がヘタクソとか、パクリだとか、そんなもの、結局は読み手の願望がどこへ向いているかに比べれば大したことはないんです。大切なのは読者と作者が何を望んでいるのか? であり、そして世界にたくさんある「既存のもの」が自分を救済しないと気づいた時、「ゲーム医療」などというワケのわからない「誰も組み合わせたことのない新しいもの」を作り出す人がふらっと現れるんですね。進化論じゃないですけど、だからこそマイノリティの作り出すものは強靭であり、マイノリティを排除する世界からは、何も産まれなくなるわけです。ビルド見るわ。



       

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