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わが地獄(仮)
スクライドと、秋山瑞人と、欅坂46と、あと俺(エッセイ)

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 平手友梨奈が復帰しましたね。



 欅坂46というとやはり絶対的センター平手友梨奈の存在感が大きいかと思います。
 デビューして一年目に紅白出場、去年も年末に俺が一足早くみかん喰ってるときに『不協和音』を披露してぶっ倒れ、平手はそこからグループ活動を離脱しました。
 ステージ上で倒れ込む振り付けがあるんですけど、そこで受け身を取らなかったがために右腕に全治一ヶ月の怪我を負ったんですね。
 翌年の新曲『ガラスを割れ』のミュージックビデオでは、平手がつけていたギプスの三角巾を完治の表現としてドラム缶で燃やすなどのパフォーマンスがありました。
 欅坂はそういうライブ感というか、グループそのもののストーリーを曲から受け取ることができる、そんなアイドルなんですね。
 よく少年漫画みたいと言われますが(そのせいかジャンプフェスタに呼ばれてましたが)、確かに毎週のように新しい出来事が起きて目まぐるしいグループです。

 俺は、俺が創作をやってることを知ってる友達に「顎はこういう曲、好きだと思うよ」とカラオケで言われてサイレントマジョリティーを聞いて欅坂にハマったんですけど、確かに平手友梨奈のオーラというか、表現力というのは響くものがありました。曲も社会への反抗を歌っていたり、『スクライド』的なところがあるんですね。それでいいのか、と投げかけてくるような。だから、「ああ、俺が好きそうだな」と思って、そして紅白で受け身も取らずに倒れ込んだ平手を見て、いよいよのめり込んだんですね。

 普通は受け身を取るんですよね。
 倒れる振り付けがあるなら、いかに怪我しないような倒れ方をするか、そしていかに本当に倒れ込むように見せられるかをまず演出と相談すると思うんですけど、曲を伝えるためなら平手は本当に倒れ込んでしまう。
 おそらく本能的にそういう「プロらしい欺瞞」をやればやるほど「本当に伝えたい相手」にそれが伝わらなくなるのを悟っているんだと思います。損得勘定ができてないんですね。おかげで一ヶ月も右腕を使えなかったんですから。
 月末に予定されていた武道館ライブはキャンセルされ、その後、平手は先日の音楽番組で公の場に復帰するまで、半年間も欅坂にいませんでした。怪我自体は完治していたようなんですが、主演映画『響』の撮影もあり、デビュー二周年記念ライブも欠席ということで。
 だからこの半年間はちょうど、『平手坂』などと悪口を言われていたグループが、平手抜きで戦っていた期間なわけです。もうほんと復帰が一週間くらい前なんで、それまでずっと平手はいなかったんですね。

 俺が『スクライド』を見た時に、面白いな、と思ったのは、あの作品が『言ってはいけないこと』を伝えようとしてたからなんですよね。
 当時、友情や努力や勝利を決められたパターンで踏襲していく、そんなツアー旅行みたいな漫画世界に飽き飽きしていた俺は(ナルトが嫌いだったんですけども)、スクライドを見た時にびぃーん……と来てしまったんですね。もうテレビの前にかじりついて、教祖の御言葉を賜る信者のようにじっとして。
 だってほかのアニメでは主役を張るような巨大ロボットを繰り出してくる敵を相手に(しかも仮面ライダーのコスプレをしている)、「そんなものに頼ってるから本当のことがわからなくなるんだ」なんて言っちゃいけないじゃないですか。だってみんな現実を忘れるために夢に逃げ込んできているのに、その夢のなかで「そんなものに意味はない」と言ってしまう。その作品性、反逆指向に俺は打たれたんですね。十数年後に『黄金の黒』を作るわけになるんですけれども。『シマウマ』でも「オッケー、刻んだ」とかシマに言わせてましたね。俺の原点です。

 で、欅坂はというと、サイレントマジョリティーがまさにそういうテーマで、『先ゆく人が振返り、列を乱すなと、ルールを説くけど、その目は死んでいる』と歌詞があります。これは先をゆく人、自分自身のルーツを否定しているんですね。乃木坂だったりAKBだったり、あるいはもっと上の芸能界、社会、国そのもの。そんなものはもういらないんだと歌っている。

 俺は創作をしていて思うんですけど、創作の本質というのは『親殺し』にあると思うんです。
 というのも、たとえば秋山瑞人という天才作家が昔いましたが、彼に憧れ、彼を模倣している作家は絶対に彼に近づけません。どれほど秋山の本を模写しようと、文体の規則性や癖を模倣しようと、秋山にはなれないんです。
 なぜなら秋山は「俺より前にいたやつらよりも、俺の方が上手い」と思っていた作家だからです。
 だから、「秋山より俺が上だ」と思える人間にしか、秋山に近づくことはできないんですね。秋山を尊敬すればするほど、秋山からは遠くなる。そして近づくためには『親=ルーツ』である秋山を否定しなければならない。だから欅坂がほかのアイドルグループをごぼう抜きにしてトップに立ったのは、自分自身のルーツを否定するということが、何かを作り出すということの本質に近かったがために、ほかのグループを置き去りにして次のステージに上がってしまったからだ、と俺は思っています。社会そのものがああいう反抗性を求めていたというのもあると思いますが。

 だからというわけでもないですけれど、欅坂のファンにはクリエイター層が多いことでも知られています。
 ハンターハンターの冨樫とか、十角館の綾辻とか、最近だと誉田徹也という作家も雑誌に欅坂に関するインタビューを掲載したりしてますね。
 小説や漫画、作品というのは親殺しが激しい現場ですから、そういうところで共感できる人間がトップに残っているのは不思議ではない気がします。みんな多かれ少なかれ、損得勘定ができない人たちなんですね。
 そして、その人達がどういう気分で生きてるのか、損得勘定ができる人にはわからないんですよ。
 だから、それを共感しあえる存在には強烈に惹かれるわけですね。




 で、何が言いたいかっていうと、欅坂を追いかけるのに疲れました。
 いったいどうしたんだ、ここまで書いてきたのはなんだったんだ、勧誘したいんじゃないのか、などなどの意見があると思いますが、俺は疲れました。
 というのも、この半年間、自分が欅坂に何を求めていたのかわかった気がするからです。




 今泉ってメンバーがいるんですけど、平手がセンターを続けていることに、最後まで抵抗した子だったんですね。
 わりとおとなしめで、言いたいことがあっても口には出せない、人から「やれ!」と命令されたことが上手にできない欅坂のメンバーは、ほとんどが「平手は凄い。だから、平手のセンターを支えよう」という子たちばかりだったんですが、今泉だけは「自分がセンターに立ちたい」と言い続けていたんですね。これは雑誌のインタビューとかでも言ってて、いろんな方面で物議を醸した発言だったんですけれども。
「置けば勝つ」というまるで『天に輝くものすべて敵』の愛馬縄生かというほどの平手友梨奈に「勝ちたい」と言っていたのは、ずっと今泉だけでした。あくまで主観ですが、確執がないわけがないと思います。

 まァ俺の推しメンなんで簡単に説明しますと、今泉は欅坂加入前にすでに別のアイドル活動に参加していて、セミプロみたいな感じで入ったんですね。
 歌唱力に定評があり、欅坂に入るより難しいとされたソニーミュージックの特待生。
 つまり勝利を約束されたエリートみたいなもので、ほぼベジータと考えていいと思います。プライドが高いけど折れやすいところも一緒ですね。
 一人で路上ライブを行っていた時期もあったり、ずっと努力し続けて、やっと欅坂で開花したところだったんですが、平手友梨奈という天才にぶち当たって、今泉はずっとNo.2の烙印を押され続けます。
 それが要因の一つとなり精神的に崩れ、去年は四ヶ月の休養を取りました。俺から言わせれば、たった四ヶ月で戻って来れた時点で今泉もまた一人の天才です。

 で、平手が怪我をして、各楽曲でダンスの中心に立つ代理センターを決めなければならなくなりました。
 そこで今泉を含む何人かのメンバーが選抜され、今泉は平手不在の最新曲『ガラスを割れ』のセンターを、ユニットで相棒を組んでいる小林と組むことになりました。
 つまり、平手の怪我によって、ようやく自分の力を最前列で見せつけられるチャンスが巡ってきたということです。
 実際、平手がいない場合のセンター候補がファンの間で話題にのぼると、今泉の名前が挙がらなかったことはなかったと思います。それはサイレントマジョリティーの頃から平手の隣で存在感を発揮し続けた今泉が紛れもなく本物だったからです。あまりにも不安定な体調面(平手昏倒の紅白では病欠していました)さえ除けば、今泉が平手以外のセンターの最有力候補でした。

 今泉の何が凄いかといえば、あの平手友梨奈に勝てると本気で思ってるところなんですよね。
 普通はあの才能にぶち当たったら「自分とは違う」と一歩引いてしまうと思います。ああ、やっぱり世界には神様に選ばれた特別な存在がいて、そういう子が世界を動かしていくんだと。せいぜい頑張ってね、くらいに肩をすくめて後ろに下がるのが普通です。
 でも今泉は「やる」と言って、やりました。
 平手不在の二周年記念ライブでは最前列を務め、休養中に参加できなかった楽曲六曲をすべて突貫で振り入れして仕上げ、自分のソロ曲は最終日に喉が不調にも関わらずアカペラを披露して演じきりました。
 みんな当たり前みたいに忘れてますけど、今泉ってほんとにヤバイんですよ。何がヤバイって、それだけのことをしておきながら、全然それでも自分に自信が持てないところなんですよね。
 どこまでいっても満たされない。赦してもらえると思ってない。だからどこまでも自分のクオリティを上げようとするし、その途中でダメージに耐えきれず肉体と精神に影響が出てしまう。それは平手友梨奈も同じです。

 そんな今泉なんですが、最近はライブなどに参加していません。病欠ということですが、原因は発表されていません。もう二ヶ月近くになります。そして、七月に平手が復帰しました。以後、今泉は公の場に姿を見せてくれていません。




 平手が戻ってきたからだ、という直接的な理由かどうかはわかりませんが、今泉は二周年記念ライブを成功させたことに(今泉一人の力ではありませんが、今泉抜きで成功したとは思えません)それなりに達成感を覚えていたのではないかと思います。だから、これは俺の主観ですが、おそらく今泉は存在しない小切手を自分に切ったんだと思うんですよね。
 人は自分の中にある力を全て出そうとすると壊れますが、その時に、存在しない空手形を切るんです。ここを頑張れば、きっと自分の思い通りになるはず。今まで不運だったけど、そろそろ逆に車輪が回ってもいいはず。言葉ではそんなの信じてない、自分は今できることをやるだけと言っておきながら、人は心の底では期待します。自分が投資した、自分が費やした熱量に見合うだけの見返りがあると。ほんの少しでもいい、欠片でも叶うはずだと。
 おそらく、欅坂46の七枚目のシングルのセンターは平手です。
 そして、俺が今泉だったら、二周年記念ライブで平手抜きの代理センターを成功させたら、こう思います。ああ、これで平手だけをセンターにする必要はないんだって、わかってもらえたはず。べつにずっとじゃなくていい、少しずつ、二枚に一枚でもいいから、せめて、次の七枚目は、自分じゃなくてもいい、違う子をセンターにして欲しい。
 俺ならそう思います。自分が成功させたものに対する報酬は、『それ』だと。
 そして、おそらく、今泉が姿を見せなくなった頃に、七枚目の内容とポジション発表があったんじゃないかと思います。これは本当に主観で、流言飛語も甚だしいですけれども、それを断った上でやっぱり俺はそんな気がするんです。あんなに頑張ったのに、七枚目も平手なのかと。
 もちろん、運営上の都合というものがあり、主演映画の公開を控えている平手友梨奈をセンターから下ろすわけにはいかない、ということもあると思います。商業的に「え、あの主演の子がどうしてセンターじゃないの」とスポンサーに言われた時に返せる言葉が運営にはないでしょう。俺も味わってきましたが、結局、この世は金を出すやつの言うことがすべてなんです。ファンの気持ちも、メンバーの努力も、何もしらない部外者のスポンサーの一言に劣るんです。残念なことですが。

 今泉が損得勘定のできる人間だったら、わかるはずです。
 欅坂46でNo.2であるというだけで、どれほど凄いことなのか。
 慌てなくても、いずれ成功は自分に回ってきます。それこそ卒業センターくらいならさせてもらえるでしょう。まずは充分、今の位置をキープしながら、外仕事でも増やして認知度を高めて、ゆっくり外堀を埋めていけばいい。
 そんな損得勘定のできる人間にセンターが務まらないのが、欅坂なんですね。
 それができないから、今泉は平手の隣で霞まなかったんです。本人が世間に「平手のバックダンサー」扱いされることをどう思っていようとも。
 俺は、たぶん、理屈で動けない人が好きなんですね。


 欅坂は今後も、平手一強で進んでいくのかもしれません。
 平手復帰後、まるでそれを取り戻すかのように連続でライブ出演、センター登板。
 俺にはまるで平手が不在だった期間を洗い流そうとしているかのように見えます。

 あの半年間、平手友梨奈という夢が見せた幻によってスターダムにのし上がったグループが、その幻影を振り切ってあがき続けた六ヶ月。
 俺はそれを追いかけていてとても楽しかったです。
 創作者として自分がずば抜けた天才ではないと気づいている俺にとって、平手抜きで戦うメンバーは希望に見えました。
 勝てるかどうかは、才能なんかじゃないのだと。



 もちろん、これはすべて俺の妄想です。未公開の七枚目のセンターは平手ではないかもしれないし、今泉の病欠はグループ活動とは関係がないかもしれません。楽屋で平手と今泉が仲良くしらたき喰ってる可能性もありますし、それが一番いいです。
 ただ、俺は今後も平手友梨奈は凄いんだと言い続けるグループが欅坂であるのであれば、創作者として応援することはないと思います。
 一人のドルオタとしては、平手友梨奈復帰は嬉しいし、やはり間近で見ていても凄いものがあります。その活動自体を否定するわけではないし、これからも追っかけ続けるでしょう。
 でもそれはドルオタとして、エンターテイメントとしてです。

 もしアーティストとして、一つの創作的存在として欅坂46があり続けるのであれば、
 平手友梨奈がそこにいるというのはどういうことなのか?
 神様に愛された存在がいたとして、その隣にいる人間がどう生き、どう成長するのか? 何を答えとして選ぶのか?
 平手が本物である以上、そこから目を背けることはできないと思うし、それから目を背ける人たちの作品に俺が「びぃぃぃぃん」と来ることはないと思います。
 俺はいつも「びぃぃぃぃぃん」と来るものを探していて、それは本当に、数が少ないんです。





       

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