わが地獄(仮)
猫/吐き気/あの目/何を掴めば/棺
猫は寂しくないのだろうかと思う。いつも自分は自由で、高貴で、誰の命令も受けるつもりはないとばかりに毛づくろいしている姿を見ると羨ましくなる。いったいその自信はどこから来るのだろう? べつに百獣の王であるわけでもなく、人語を解するわけでもなく、蹴っ飛ばせば(もちろんそんなことは俺にはできない)鞠のように転がっていくだけ。それなのに、死も恐怖もないとばかりに縦に切れた目で俺を見つめてくる。蹴っ飛ばせるものなら蹴っ飛ばしてみろ、とその目は俺に言っている。蹴りはしないが、蹴られない確信をどこから得るのだろう。俺にはわからない。俺はいつも蹴っ飛ばされすぎて、生きることは蹴っ飛ばされることだと思っている。横槍を入れられ、大事なことは伝わらず、いつも誤解され、その一部は正しく、責任だけはしっかり負わされる。「自分のことだから」なるほど確かにそうかもしれない。俺は自分のことを処理できず、いつも蹴り飛ばされている。それは蹴られるに値する罪なのかもしれない。それはいい。しかし、猫はどうだろう。ところかまわず爪を研ぎ、ゴキブリを狩っては綺麗に磨かれた床に置き、枕を破いては潜り込み、抜いてはいけないプラグほど確実に抜きに来る。こんな猫の所業は自分を上手く制御できないというより、誰かが困ろうがやってみたいのだから仕方なかろう、という呆れ返るほどの極悪さの発露にしか思えない。猫は赦されるが、俺は赦されない。そのことに不思議と納得している自分がいる。なぜだろう。
俺は猫を愛していない。友達でもない。尊敬もしていないし、親しんでもいない。だが好意のようなものは感じる。猫が塀の上に自慢のしっぽを立て振って、意気揚々と歩んでいく後ろ姿には胸に来るものがある。勝ち目など何もなく、車に轢かれでもすれば粉々になるというのに(その危険はいつだって彼らのそばにあるのに)、その瞬間が来るまではそんなものは知らない、と切って捨てる猫の無頓着さには拍手を贈る価値がある。
俺は猫にはなれない。俺には自慢のしっぽなどなく、爪を切るにも気を遣い、獲った手柄を見せびらかす相手もいない。それに無頓着になれるほど俺は強くなく、高貴ではないし、自信などどこにもない。俺は蓋を開けてみれば空っぽの人間で、ただ空洞があるだけだし、いつも何かの残響がその中にはこだましている。俺自身の言葉などとうの昔に枯れ果てたし、そんなものが本当にあったのかもわからない。あまりにも大きな残響が、自分の声に思えていただけ。俺は塀を渡ろうと無謀にも試みて、何度も何度も落ちてきた。そのたびに怪我を負い、腕は上がらず、膝は突っ張り、喉は助けを乞う潤みも失った。俺にはなにもない。最初からずっと。
俺は寂しい。俺は俺であることに理由や称賛が必要だし、猫のようにあるがままで満足などできない。だがそれでも生きようとするならば、俺は猫の真似事をするしかないだろう。芝居ではいけない。本物でなければならない。それがどんな事柄だろうと。本物しか赦されないのだ。
人を傷つけるのは楽しい、と親父が言った。その気持ちはよくわかる。あれは一種の盗癖であり、自分の存在を承認させる手っ取り早い攻撃なのだ。もし赦されれば、それほど愉快なことはない。どんな悪逆も赦されることの前には制限されるべきではない。なぜならそうすることでしか自分を承認できないし、自分を承認できない世界などなんの値打ちもないからだ。その時点で思考は終了、もはや出口はどこにもなくなる。俺もそれを味わった。そして今、吐き気を覚えている。
涙を売りにいくと金になる。それに気づいてからは楽だった。毎日ペットボトルを頬に当て、壁を見つめていれば泣けてくる。自分を憐れみ陶酔することほど時間が早く経つ方法はない。四時間も泣いていればそこそこの涙が採れる。俺はそれを丁寧にキャップで締めて密封し、専売店に卸しに行く。散歩のついでに涙を売る。悲しみには値段がつくべきだし、俺は悲しむのが得意だ。涙は誰かが泣いたという事実が重要だ。形あるもの、ラベルがついているもの、それが確かだと証明されているもの。人はそれしか信用しない。ポケットの中の小銭の手触りと、店員の傷跡を見るような目を思い出しながら帰路につく。あの目。
俺が何に見えているんだ?
道が枝分かれしている。嫌いだ。道は一つであるべきだ。右にいこうが左にいこうが、最後はどうせ死ぬだけだ。そう思えたらラクなのに、いつも何かが俺を引っ張る。あっちへいこう、こっちへいこう、そんな囁きにはウンザリだ。どちらかを選べばどちらかを選べない。そんな残酷な話を平気な顔で耳にはできない。心臓は跳ねるし、呼吸は浅くなる。視界が明滅して脳は酒気に沈む。俺には決められない。俺には選べない。道など無くなればいい。誰も歩かなくていい世界が欲しい。もう俺を惑わすな。
最後に何を掴めばいいのか、決めてくれ。
ひさびさに棺を開けてみると懐かしい顔がある。腐敗などしない。とても不思議だ。死者は腐るはずなのに。俺がおかしくなったのか、何度もまばたきをして、いくつもの棺の中を覗き込んでみるが、誰一人として腐ってなどいない。腐っていてくれたらいい。腐って、見るに耐えず、すべて夢だったと肩を落として捨て台詞を吐いて逃げを打ちたい。俺にはこんな友人はいらなかったのだと、死ぬようなやつは最初から信用できなかったのだと思うために俺はこの丘に来た。腐った死者を見るために。終わった夢を笑うために。なのに誰もが、生前の顔を残していた。目を開けているやつさえいた。俺を見ていた。何も変わらなかった。俺が覚えている、あの顔のまま。たくさんのことを忘れてしまって、もう何も思い出せないのに、この丘にもやっと来たというのに、ここで、俺の友人は眠っている。
起きているのは、俺だけだ。