わが地獄(仮)
このアンフェアな世界で
ステッパーというものがある。足でふみふみする物凄く音がでかい器具。なのでマンションとか集合住宅では絶対に使えない。実家に戻ってきたので買ったんだけれども、これがふみふみしているだけで30分で大汗をかく。痩せてる気がする。
そのステッパーを見ながら、ユーチューブで電験三種の過去問解説動画を流している。30分くらいやっていると大汗をかきながら考えているのであっという間に時間が経つ。かなりアルティメットな時間の使い方で自尊心がわく。人間の身体は運動していると余計なことを考えにくくしてくれる。しかも足を動かすと余計なことは考えない代わりに思考力が上がる。マンションみたいな集合住宅が人間を不幸にするとモモに書いてあった。じかんどろぼう。エンデは純粋すぎた。だから死んだ。
それはともかく、電験三種は不合格だった。こないだ落とした試験がこれ。
いろんな試験を受けてきたが、電験三種は別格に難しい。そもそも過去問から出ない。卑怯である。範囲が広すぎて十数年前の問題が改題されて出されたりする。そういうのは法律で禁止すべきである。流通している過去問が15年までなのだから、それより遡った問題は出してはいけない。出すなら15年以内に出題すべきだ。フェアじゃない。人道にもとる。くそったれだ。
そもそも15年も過去問をやった俺のことは合格にすべきだ。たしかに今回は基礎問題を片っ端から落とした。時間も足りなかった。ADHDを発揮してケアレスミスを連発した。驚きの30/100点を叩き出した。過去問15年をやってこれである。数学に関しては致命的にセンスがない。間違った解き方でも自分がやると正しいと感じる。過去問解説を見ても自分が間違っていたと認める気がしない。キチガイである。
それでも現実に比べれば、分圧の式からある程度は立式できる直流回路のほうがいくらかマシだ。人間は嘘をつくし、気まぐれだし、バカだから、相手にしても得が少ない。でも計算問題は間違えれば間違いなく自分のせいなので(ある程度は)、人間関係よりはいくらかフェアだ。
おかげで来年の三月に試験を受け直しだ。過去問15年やって落としてるんだから(もう回答を覚えてしまってるから全然練習にならない)、どうしたもんだかというところだが、コンデンサと磁気が弱すぎたのでそこを重点的にやろうと思う。交流はたぶんなんだかんだでなんとかなる。たぶん。落としたけど。
試験問題用紙の隅っこの計算問題が若手の作家なみにびっしり埋め尽くされてるほど計算して答えが出ないんだから困ったもんである。そもそもマイナーな公式すら把握していじくり回せるようじゃないと合格できない。次はなんとかしたい。
電験三種はニートの星、というけれども、その実情はともかくとして投資するだけの価値はある資格のようには思える。ダメでも基礎的な計算問題が解けるようになる。俺は文字式が苦手だ。
いずれにしても、朝からステッパーしながら落っことした試験の速報動画を見れるくらいには回復してきた。とはいえ死にたさは消滅しておらず、仲がいいけどあまりしゃべらない友達のように俺の斜め後ろにずっとくっついている。もう放っておくことにしている。刺激するとよくない。
午後は講習にいって、地元のジムの見学にいって、大戸屋でごはんを食べた。大戸屋は栄養のありそうなごはんをくれるので、俺はお母さんと呼んでいる。俺がママ、ママと呼んでいたら大戸屋のことを指している。いつだって温かいごはんをくれる。俺の母は計量をしない。
そのあとワンピの映画を見てきた。感想は割愛する。俺はやっぱりワンピは合わないんだけど、映画としてはよかったと思う。ただ俺が苦手なだけである。
そして最寄りの駅から歩いて帰ってきて、無事に一日1万歩を超えた。プロテインも飲んだし、とても希死念慮まみれの男とは思えない過密スケジュールの一日だった。
講習の受講票を忘れたことにも気づかぬままにバスに揺られながら、会社から「おまえなんかいらない」と言われたことについて考えてみた。
やっぱり相手にする価値がないと思う。
なぜって、俺はまだ死んでないから。
これがゲームなら、相手はゲームが終了していないのに「おまえはもう終わった」と高らかに宣言しているようなもので、自分は馬鹿だと喧伝しているに等しい。南三局のラス家をトップ目がせせら笑ってみても、そいつが南四局で地和直撃でまくられる可能性はある。
死んでないというのは、そういうことである。
自分も相手も、ゲームの参加者である以上、どうなるかわからない。未来なんかわかりっこないのである。もちろんこのまま俺は負けるだろう。終わったのも事実かもしれない。でもそんなものは、俺が死んだ時に確定する話だし、麻雀と違って死ねば悔しい思いをしながら家に帰る必要もない。無になってサヨナラ。気楽なもんである。
麻雀なんか何が起きるかわからない。俺は大三元をアガったあとに親のインパチに振り込んで二位で決着したこともある。誰だって振り込みたくて振ってるわけじゃない。振り込んだやつを責めるやつに強いやつはいない。振るときは振る。振ったあとにどうするかが大事なのであって、どう頑張っても振り込めないような状況なんか振って死ねばいいだけである。死ななければ手役をつくるだけである。何も難しいことはない。人の振りこみを責めるやつほど、自分が振った時にガチャガチャ言い出す。無様に等しい。
だから死ぬことを受け入れることは、振り込むことを受け入れることに似ている。振ったらどうしよう、でもリーチする手だし、というときはリーチしておけばいい。どうせ凡夫なんだから。リーチで迷っている時ほどあっさりツモアガる。難しいことなんか神様が仕組んでるんだから、放っておけばいい。俺たちは神様じゃない。
そう、ゲームはまだ終わっていない。俺が死ねばゲームは終わる。ハコテンになれば。
箱にまだ点棒はある。リーチする千点がないなら役満を作ればいい。どうせ役満クラスじゃないとまくれないほど負けてるんだから。気楽にやればいい。
そんなことを考えながら帰宅した。運動したからか食欲も多くはないが少しある。ほどよい眠気、薬に頼らない眠気を久々に感じる。人間は足で出来ているのかもしれない。足の血行をよくして筋肉を増大させれば、健全な精神が宿るのかもしれない。誰だって足の筋肉量は腕の三倍あるんだから、腕で殴ってきたやつには蹴りをくれてやればいい。正面からやり合う必要はない。相手にだって足はあるんだから、フェアの範疇だ。自分は蹴っておいて他人には蹴られないと思っているやつを子供という。卑怯ともいう。
相変わらず、友達からラインの返事はない。状況は一切好転していない。それでも多少はマシな気分を作れる。
それを強さと呼ぶのかもしれない。