わが地獄(仮)
取調室
ないよね、あれは、と俺が席に座るとうしろの女子が囁いた。語学の再履修なので俺より一つ下だろう。その女どもがまた言った。おっさんじゃあるまいし、なにこの服?
ほほう。なるほど。ないか、俺は。ふうん、なるほどね。
俺はがたっと立ち上がって、振り向きざまに厚化粧の小娘の鼻っ柱に鉄拳を打ち込んだ。そのまま一気にざわめきだした教室で椅子を振り上げて、取り押さえられるまで、計八人に一生残るであろう傷(主に歯)を残し、俺自身も体育会系の馬鹿どもに前歯一本と頬骨のなめらかさを奪われる羽目になったが、たいしたことじゃない、歯なんぞ差し歯にすりゃあこと足りる。俺は折れた自分の歯を掌に乗せて泣き叫ぶ女を見下ろせただけで充分に満足だ。
取調室には倦怠感が漂っていた。俺は犯行を認めているし、自分でも手傷を負った。向こうの嘲笑が原因でもあるし、刑事たちは(といっても手があいていないのか一人だけだったが)俺の事件をもてあましているようだった。叱るべきでも、罵るべきでも、自白を取る必要もない。なぜ取り調べるのか、刑事自身もよくわかっていなさそうだった。
「まァ、よくないことをしたってことは、わかってるだろ」と刑事が言う。俺は答える。
「犯罪ではありますね。傷害罪です。しかし、正義感で俺を殴ったあのマッチョマンは何罪ですか?」
「なに――?」
「正当防衛じゃないでしょう。緊急回避でもない。やつはいったい、なぜ、俺の歯を折ったんです。他人でしょう。他人が人の喧嘩に手ェ突っ込んだら、無罪じゃ済まんでしょう」
実のところ、それほどそうは思っていない。止めるだろう、普通。だがその普通ってやつに俺は罪をなすりつけたかった。
刑事は煙草に火をつけようとして、壁に貼られた「禁煙」のシールを苦々しげに見た。
「馬鹿が」
とだけ言った。俺は笑った。
「女に笑われたぐらいで殴ってるようじゃ、生きていけんぞ」
「当たり前でしょう。俺は社会的に生きていけないですよ。入院すべきなんです。躁鬱でね。血筋なんですよ。ああでも、身内じゃ俺が一番キレさせるとヤバイかな。祖父母がね、これで」俺はこめかみのあたりで指をくるくる回した。
「参りましたよ。十五でガキ作ってとんずらかました従兄に、コミュニケーション不全の従弟、それに俺。女は女でギャンブル中毒の男にひっかかってバツが増えていくばかりだし、妹は俺のバイクで酒気帯びで捕まってますからね。犯罪一家ってやつです」
「おまえは」刑事はとうとう我慢できずに煙草を吸い始めた。
「まじめそうに見えるがな」
「でしょうね。チェックのよれよれのシャツ着て眼鏡かけて猫背してりゃあ、誰でもそう思うんでしょうよ。しかし俺の中身はキ印一家の長男坊で、禁治産者で、コミュニケーション不全者で、躁鬱持ちなんです。俺はね、羊の皮をかぶってますが、悪魔なんですよ」
「俺は仕事柄悪魔みたいのをたくさん見てきてるが、おまえはまともな方だよ」
「俺は、死にたくない悪魔だからね――健康に生きていたいんですよ。安全に、平和にね。でも悪魔だから。災厄ってのはどうしてもついてくる。カッとなってこれですからね。被害者は俺の方ですよ」
刑事は長々と煙草の煙を吐いた。俺は構わず続けた。
「好きなように生きて、それが犯罪だってんならまだ幸せですよ。うちはね、平和に生きていきたいのに、その素質がない。羊にぜひともなりたいが、やはり無理なんですよ、化けきれない。ボロが出る。そしてこの世の中はボロを出してるやつを生かしておいちゃくれんでしょう」
「犯罪者に進んでなりたいやつはいないよ」
「それは捕まりたくないってだけでしょ。それだけですよ。法律なんか無意味です」
「よかったな。世が世なら銃殺刑だ、おまえは」
「でしょうね。だからこそいらつくんですよ。俺は弱い。死んでしかるべきだ。でも生かされている――肉体だけはね。それが気に喰わない」
「じゃあ、死ね」
「いやですよ。産まれてきただけで大変なのに、死ぬなんて面倒なことまでやらされるんですか? ごめんですよ、とんでもない。誰かに殺られるってんならわかるけど、自殺なんてね、やだやだ」
「なら」いい加減刑事もイライラしてきたようだ。「どうしたいんだ」
「どうしたい? ――どうもしたくないですよ。俺は誰とも顔を合わせたくない。誰にも会いたくない。それでいて、とても孤独なんです。死にそうなくらいにね。俺は孤独だが、その孤独を埋められるやつはいないから、救われようがない」
俺は続けた。
「何かに熱くなれるやつはそれだけで救われているし、また当然ですが愛されているやつってのも救われているんですよ。俺は、そういうやつらが、おのれが救われていないようなツラして生きてるのが我慢ならない。持たざるものの気持ちってのを考えないやつにはね、俺はたとえ負けるとわかっていても拳を振り上げますよ」
「戦士気取りか、格好いいね」
「俺の祖先はきっと戦士だったんですよ。臆病、短気、冷血。みな生きていくうえで敵を殺すときに必要なものです。臆病だから危険を回避できる。短気だから殺すと思ったときに殺せる。冷血だから、道徳や感傷に惑わされない。人間が生き残ってきたのは戦士のおかげなんですよ、洞穴から出て行って虎を殺せる力を持っていたやつのおかげ。なのにいまの社会ときたら、特におそらくこの狭苦しい日本に顕著だろうと思うんですが、空気なんてものを読むのが美徳とされてる。あのね、空気なんて読んでて何になります? それで身を守れますか? それは井戸の中の秩序ですよ。空から大いなる災いが降ってきたときに、空気読んでじゃ生き残れないですよ。闘わないと。だから、俺みたいなやつはもっと大事にされるべきだし、尊重されるべきだ。王様にしろってんじゃないですよ。ただね、先祖にそうするみたいに、霊長類のトップに就くためにカラダ張ってた人種の末裔に敬意を払えってんですよ。空気ばっか読んでカラオケで楽しくジャニーズ熱唱するようなやつが虎殺せますか?」
「俺みたいな人種を淘汰していったら――」俺はまた続けた。
「後悔しますよ。いまはいいですよ、井戸の中だから。しかし、一度、外敵ってのがあらわれたら、空気を読むだけじゃ生き残れない。そりゃそうでしょ、大阪の商売人見てごらんなさいよ。人でなしばかりだが、商売だきゃあ上手いでしょ。ゴキブリみてえなもんですよ、生きることにかけては天才的」
「終末論者か。いまどき珍しいな」刑事が久々に口を開いた。
「終末?」俺は笑った。「いつだって終末ですよ。一秒あとにあんたが生きてる保障なんかどこにもないんだ」
「じゃ、おまえはどうしたいんだ? 褒めてもらいたいのか?」
「いや。――個性ってのがあるってことをもっと社会的に認めるべきなんですよ。素晴らしいライフスタイルの雛形のようなものがあるって考え方を捨てなくちゃならない。人はみな違うし、畜生なんです。それをね、顔がいいから、いい服着てるから、人間ですみたいなツラしてんのはおかしいんですよ。糞も小便もたらす癖しやがってね、俺のことを「ある」だの「ない」だの、俺はスイッチじゃないんですよ、人間はスイッチじゃないんですよ、それがあの女にはわかってなかったんでね、ちょいと勉強させてやった。それだけです」
「おまえの言いたいことはわからんでもない」刑事は灰皿に煙草の灰を落とした。
「だが、極端すぎる。テロリストと変わらん」
「俺に会話をする権利があればね。空気が読めないと、それだけでもうKYってレッテル貼るでしょ。そうなったらもう、実力行使しかないね」
「おまえは会話をしようと努力したのか?」
「しちゃいませんが――」俺は言葉を濁した。
「だが、どうせ言ったってわからんでしょう。自信がありますよ」
「そうだな、おまえは受け入れられまい。おまえはみんなにとって『見たくないもの』だ。誰も相手にしない。幽霊と同じだ」
「そう」俺はもはや語る言葉を持たなかった。だから繰り返した。「そうなんですよ」
取調室に沈黙が下りた。
「で、どうしたい。精神病院に入りたいか。おまえは確かにおかしいよ。太鼓判を押してやる。狂ってるよ」
「いや、俺は狂ってない。社会的には狂っているが、俺は生命として間違ってはいないはずだ。みんながみんな同じ方向を向いていてどうするんです? 誰かが、うしろを見守っていなかったら、誰がみんなに危険を知らせるんです? 太陽だけ見てりゃいいって連中は気楽でいいですよ」
「もういい。もういけ。今日は帰っていい。後日、召集する。罰金か、妙なことを言わなければ執行猶予つきの判決で済むだろう。もういってくれ。おまえの顔はもう見たくない。おまえの目をもう見ていたくない」
「みんなそういうんだ」俺は立ち上がった。「みんなね」
後日、裁判所から通知が来て、罰金うんたら万円、みたいなことが書いてあったが、俺はそれを破り捨てて居場所をくらました。それきり親元にも大学にも戻っていない。いまは無銭飲食で生きている。とても充実しているが、夜、冬の夜だけは、死にたくなるくらいとても寒い。それでも、春のあの暖かな日差しを誰に許可を得ることもなく浴びられることに比べれば、どうってことはないのだ。
了