わが地獄(仮)
夢の話
あー。書きてえんだろうなあ。
じゃ、書くか。
つーわけで夢です。
え? なんだって? などと鈍感系主人公みたいな反応されそうですが、夢の話です。
夢があってね。
で、その夢を叶えられそうに無い。しかも性質の悪いことに、本当にそれが俺の夢なのかどうかもよくわからない。ほんとうは別のことで代替できるのに、格好悪いから拘ってるだけなんじゃ? と自分でも思ってしまうんですね。
こういう場合、大抵はみんなに諭されて、あぶないよとか、意味ないよとか、無理だよとか、言われて諦めるのが普通なわけです。ほらよく「東京出て一発当ててビッグになるぜ!」とギター背負ってる青年とか壊されるべき偶像として描かれるじゃないですか。俺あれなんですよね。
や、ビッグになりたくはないんですよ。金は別にいらない。まあ電気ガス水道に住む所と質素なメシを所望してる時点で金が要るわけなんですが、それさえ確保してもらえれば、別にマイホームもマイカーもいらない。どこにも旅行になんていけなくていい(取材したくなったら別)
だから、俺は夢が叶えばそれでいい。そう思ってたはずなんですね。でも本当にそれって俺の夢? そもそも具体的にどういうカタチをしているのか自分でもよくわからない。
なんだろうね。自分でも何を求めているのかよくわからないんですが、しかし確かに「俺には欲しいものがある」という思いだけはある。それだけのために人生を棒に振ってもいいと最近までは割と思ってたんですが、悩んできちゃった。
夢とは別の部分で夢を諦める要素が出てきたんですよね。たとえばシャカリキになってがんばったって、俺ががんばらずに普通にしている方が(そう見せている方が)俺の周囲のひとは喜ぶわけなんですよ。
や、なんか違うんですよ。そうじゃなくって……だから、夢を追う際に発揮するエネルギーを省けば、それはもちろん、俺の普段の生活の補填になる、ということなんです。
夢なんていらない。俺なんて大したものでもなし、なんでもない日常のささやかな幸福や不幸に一喜一憂したり、あるいはそれさえも無視して、植物のように生きていけばいい。社会が求めて来る「人間らしさ」を擬態して、一丁前の人間らしく振舞って、いったい誰が困るんだ?
そう思ってしまったときに不意に身体から力が抜けましてね。ああ、そうか、と。
うすうすわかってはいたんですね。俺の思い通りになる、というのは無理だし、できても意味がない。それは絶対に勝つ麻雀と同じで意味がないんですよ。麻雀は負けてこそ、面白いんです。勝てないって部分にコクってのが出て来る。だから、俺は勝てない、夢を叶えられない。しかしここで夢が叶えられない状況があるからこそまた夢を叶えることに価値が出て来る。
だから、その狭間のジレンマの中で、ずっともう、この一年間ぐらい、いやひょっとするともっと長い間悩んできたんですね。俺は夢を叶えられない、だからこそ夢に価値がある。でもそれならば、夢を追ってしまえばいったい何が失われてしまうのだろう? 時間、金、人、その他もろもろが失われてしまうんですね。まァ夢というのは往々にしてそういうものですが。
ここで言う夢には、たぶん創作活動以外のことも含まれているんですよ。そう、俺が人間らしく、いっぱしの、どこに出しても恥ずかしくない「普通」の人間になる、ということも。結局、俺は人と違うことこそが素晴らしいのだと言いつつも、自分がはぐれ者であることに絶対的なコンプレックスを抱いていたのです。
それもね、もう無理なんだな、とわかったんですよ。
どっちかを選ばなきゃならないんですね。
夢を追えば、俺はすべてを失う。夢を諦めれば、反射的に叶う夢がある。これっておかしいんですが、どう考えてもそうなんですよ。俺はふつうの人間であることを諦めた時に初めてふつうの人間に擬態することができるようになるんです。このふつう、という定義を定めていないがために(そして他人のいいところをふつうのこと、として捉えている崇拝主義というか浪漫主義というか、そういう面のせいで)、俺はあらゆる己の負を恥じ、他者のいいところだけしか見ないがために、なんていうか、聖人ぶったところがあるんですね。それは自分でもわかってはいるのです。
なんだかややこしくなってきましたが、つまりは夢を諦めれば夢の一部分だけは叶う。
お、こうするとギャンブル風味になりますね。俺らしい感じが出てきた気がします。
オリればいくらか元手は帰ってくる。だが進めば死ぬ。勝つことはありえない。俺は存在しない、叶うことのない、叶っても苦しみしか産まない夢を追っているから。
だったらオリろ、の一言なんですが、しかし俺が張っているのは俺のすべて、そして形骸的ではあれ目の前にぶら下げられたニンジンは己の夢、なわけです。
小説だったら勝たせてやりゃあいいだけの話なんですが、これは俺の実人生、ところがどっこい現実ってやつなのです。
まァわかっちゃいるのです。わかっちゃいる。そしてもうオリる算段をしつつある。だからこれを書いている。わかってはいる。わかってる。
そう、夢を諦める、その間際にあって俺はすごく落ち着いている。ラクになれると思ってる。これは果たして夢を追っていたと言えるのか? それでも譲れないものこそ夢ではないのか? それともすべては現世の幻、すべては幸運と悲運でしかなく、俺たちがあがくことに意味なんて最初からなかったのか?
だとしたら、俺は夢を諦めることになんの後悔もない。いらない、と胸を張って言える。そう夢を夢さえも捨てることが夢を叶えるには必要なのか? 即物的なものに頼り、すぐに結果にすがろうとするのは夢を追っているのではなく夢に逃げているだけなのではないか?
難しいですね。俺にはよくわかりません。いったい何が正しいのか? そもそも正しさが必要なのか? ほんとうに大切なことはなんだったのか?
でも俺は、いまでも、ギター背負って東京出たいってやつを見かけたら(最近はそんなやつ出すドラマも漫画もあんまりないけど)、いいじゃん行かせてやれよって思うんですよね。死ぬ? 不幸になる? それがどうした、てめえなんぞこのままダラダラ生きたってどうせ無駄じゃねえか、だったら今死のうが後で死のうが同じだろうが。死ぬなら死ねよ、止めたりしねーよ、それに、おまえも、ほんとはそう言って追い出して欲しいんじゃねえのか? さあ死ねよ、俺は止めたりしない、おまえはおまえの思う通りに馬鹿やって、そのまま死んでしまえばいいんだ……って。
間違ってるかな? でも俺は口ではどう言おうと、どう謝ろうと、心の底ではこう思ってる。それを変えたりはできないと思う。死ぬなら死ねよ。それのどこが悪いんだ?
ただ、闇雲に逃げ出したいだけなら、俺は止めるかもしれない。そして俺はいま闇雲に逃げているだけかもしれない。だから、俺はオリようと思う。オリられるかどうかはともかく、オリてみようと思う。そうしなくちゃ、前へ進めないと思う。
俺はオリる。夢からオリる。
それも夢のための布石だったんだと、言える日が来るかどうかもわからないまま、俺は、オリる。