わが地獄(仮)
自分にOK
またどうも生きづらさを感じている。それが別に誰が悪いというわけではなくて、むしろ周囲はよくしてくれているのに、どうも居心地が悪い。ばつが悪い。気まずさがある。それがなんなのかさっぱりよくわからない。
別に普通にしていればいいし、俯瞰的に見て状況が悪いわけじゃない。むしろ上手くいっているほう。本当にどん底にいるわけじゃない。
なのになぜか、離人感というか、現実味がない。何をしていても、えーっと、確かこういうふうにボタンを押すんだよな、ポチ!というふうに、現実感なく生きている感覚がある。もちろんそうすることによってちゃんと働けたり、トラブルを避けたり、そもそも人間として通常の在り方を維持できたりしているんだけれども、どうもうまくピンとこない。
そうして、ピンとこないから、と捨ててしまったものこそ重要だったような気が最近しているのに、それでもピンとこない。すこぶるバカだと自分でも思う。
たとえば、岡本太郎を読んだり、「危うく一生懸命生きるところだった」とかを読む。納得する。そうだ、俺はこいつらと一緒だ、と思う。確かに俺が自分で編み出した考え方も、彼らと同じように、自分のやり方を通す、周囲は関係ない、というところに着地はする。
けれども、俺は常に、目先のトラブルやインパクトがあると、自分の信念が吹っ飛びパニックを起こす習性がある。頭真っ白、何をどうすればわからず自滅する。
修行が足りないといえばそうだし、やはりどこまでいっても発達障害は発達障害に過ぎない、ということもできる。俺は少なくとも特別な才能があるから発達障害が生きていてもよい、という考え方は疑問がある。
たとえば誰かが死んだ時に「すごい有能な人だったのに」みたいな意見を見ると、じゃあ無能だったら死んでもいいって思ってるってことだよな、と思う。実際にそれが現実だ。無能なやつは死んだって仕方ないし、そのほうが幸せだ、くらいにみんな思っている。俺だってそうかもしれない。
だから結局、能力があって生かされたところで、能力つきのお情けでしかない。それを失えばまた死ねの世界だ。
なんでまたこんな気まずいんだろう。
世の中で生きていて、どうもピンとこない。
楽しくない、というとひどいかもしれないが、どうも楽しくない。
そもそも楽しかった、というのが、俺にとってはすごく限定的な状況が多かったし(たとえばいろんな飲み会の記憶があるけれども、100あったら楽しかったのは12だな、とか)、結局、友達と仲違いしてその記憶も御破算に終わってしまったものも多い。
その時は真実楽しかったんだからいいじゃないか、というのは、俺にとってはタテマエで、俺はやはり何かが残ってほしかったなぁと思う。
こういうことを書かないほうがいいんだろうか。書くことによって真実になってしまうとか? なにかの呪術的な縛りが生まれるとか?
しかし、状況を否定するだけですべて上手くいくなら、俺の状況はすべて改善しているはずだ。そうならずに気まずさが残ったまま、なんだか借りてきた自分を慌てて被って過ごしているような、この気分は一体なんなんだろう? それを否定しても否定しても苦しいし、こうして表現しても苦しい。まさに出口なし、どうしようもない。
なんだか生きててさっぱり気分が落ち着かない。ちゃんとそれなりに生きていて、不満もないはずなのに、まぶたが時々ストレスで痙攣する。いったい何に俺は不満を持っているんだろう。
仮にその不満を吹き飛ばす小気味いいスカッとジャパンが発生したとする。それは所詮は一時しのぎにすぎないし、常態化させることもできない。だから、不満を解消したところで無駄なのだ。結局、それは永続しない。ストレスも、不満も、結局は俺のわがままが原因でしかない。
そんなわがまま、他人からしたらどうでもいいし対処もできない、アクセスできないバグデータみたいなもので、俺がただひたすらに困っているだけ。ここが本当にこの世のクソなところで、うんざりする。
理屈はわかる。こんなくだらないことを考えてるなんて暇だからだとか、他人はそんなものに関わるほど暇じゃないとか、自意識過剰だとか、なんだとかかんだとか。理屈はわかる。俺もそう思う。
なのにちっともよくならない。何かがよい方向へ向かわない。虚脱感と吐き気に襲われる。何もかも面倒になって投げ捨てたいのに、やはりそれはできない。いや、できないと思いこんでいるだけで、岡本太郎や危うくの人みたいに、やろうと思えば俺はやってしまえる。そして、そうやって捨ててきたものよりも、ただ何もせず一日を無駄にして天井を見上げていたニートの日々こそ貴重だったという気持ちがやはりどうしても俺にはある。
だったら最初から他人と関わったり、社会と関わったりせず、ヒキニートしていればよかったじゃないかという話になるんだけども、それも難しい。どうあっても苦に繋がる。そうしておけばよかったかな、という気持ちは確かにある。
俺はやっぱり単独行動しかできないし、無責任だし、自分勝手だ。この世に生まれてくるべきではなかった。
ただこうして自分を否定したところで、それごと他人も否定しているような面もあって、それもよくない気がする。自分を叩いていただけなのにそれに傷ついた誰かが凹む、みたいなのはよくない。そういう意味でも、自分に優しくする、というのは必要な気がする。自分に優しいやつが他人にも優しくできる。最近はそんな気がする。この世に自分しかいないやつは、自分に優しく他人に厳しいが、そういうやつはもうモンスターなのだと思う。
自分に優しくしたいなあ、と思うんだけども、やり方がよくわからない。どうも甘やかすのとは少し違うらしい。微妙な問題だ。
ただ、どうも、言わなくていいことというのはあるらしい。俺はそれをすぐに言ってしまう。ADHDだから。衝動が抑えられない。俺たちにとって自然に生きるというのは衝動に従うことであって、それを捻じ曲げた時点であらゆる自然さを失う。どのみち、どこかで、自分が自然に生きるのは止められない気がするが、それだと迂闊な失言で他人を怒らせる。わざと怒らせたいのかというようなセリフの選び方をADHDはよくする。でも、不自然を憶えれば不自然だと怒り出す定型にも問題があると思う。
もうちょっと上手く生きたいが、どうも上手く生きようとすると、息苦しくなるらしい。どう考えても正しいのに、何も間違っていないのに、健全なのに、俺は息苦しくなる。そう思った時点で、人間の里からは離れるべきだったのかもしれない。クマは所詮は人とは生きられない。
エロ小説をノクターンノベルズで読んでいる。
久々に、お気に入りの作家の小説を読んでみた。面白い。気にいる。なのに、更新年月日を見てみると2021年で終わっている。
作者報告を見ると、2020年の終わりに、「自分はムラっけがあるから、週1とかに絞って、2021年はコンスタントに更新していきたい」と書いてある。なのに、更新は止まっている。
仕事をしながら小説を書く、しかもなんの報酬もなく。
そんなん無理だろと思う。俺たちは神様じゃない。
好きな作家を発掘できても、世の中の渦が飲み込んでいって消してしまう。残っているのは、「残る才能」があったやつらだけ。死にゆく中で輝く才能はあっという間に消える。まあ、その才能という基準は、俺が気に入るかどうかなんだけども。
Kindleアンリミテッドでは、自分とは相性があまりよくない作家の文章も読めた。それは無料だったのもあると思う。これが890円出して毒にも薬にもならない作品だったら俺もやはり怒るかもしれない。890円の重みを誰も消してくれないから。その痛みのぶん、どうしても作品に対してキツく当たるようになる。だから、俺はビジネスと創作は反比例の関係にあるから真の共存はできないと思っている。カネは人をおかしくする。
なのに、俺は無料のエロ小説では、自分の好みが反映されていないと読む気がしないし怒り出す。この現象の意味がよくわからない。無料だし、完結作がいいならそれで検索を絞ってかければいいだけ。何が気に入らないのか?
エロ小説も、心を広くして読むべきなのかもしれない。
原因はエロ小説にあるのではなく、俺の心にあるのか。ここでもそれが答えなのかもしれない。
確かに、俺は消えていった自分のお気に入り作家たちが絶対によかったという感想はなくならないと思う。それでも、ほかの作品を受け入れて読み進めるべきなんだろう。そもそも深呼吸して文章を読み進めていけない時点で重度の精神疾患だというのは俺の持論だ。それができない時点で自分の中の何かがおかしい。そう断定してよさそうな気がする。
消えていったやつらは戻って来ないし、いくら褒めても苦笑いして「悪いけど、それだけじゃやっていけないよ」と返されるだけ。そしてそれが真実だ。だからもう、諦めるしかない。
そうやって、何もかも諦めて、何もかも仮の気持ちで生きているから、息苦しいんだろうか。
多分、俺は自分にはできないこと、自分にとっては不自然なことを無理やりやろうとしている。できないものはできないし、それでいいはずなのに、それでも自分にOKが出せない。口先ではどうこう言っても、俺は結局自分をジャッジして、否定している。それが正しいし、他者に受け入れられる唯一の筋道なのだと思っている。それは違う。
自分が信じた道のためには周囲のすべてを破壊して突き進むのが、俺の自然なやり方だ。それにOKを出せない以上は、心の平穏なんてありはしない。俺は誰かにとって不都合な存在で、それを消すことはできない。
自分にOKを出している状態なら、いろんなものを受け入れる余裕ができる。自分に優しいやつだけが他人に優しくできる。だから俺は自分にOKを出したい。どうやって出すか、どうすれば出しやすいのか、考えてみてもいいけれども、そもそもいかなる状況であったとしてもOKを出すのがOKの役割だ。不利な状況になったら腰砕けになってしまう、それじゃなんの意味もない。
自分を否定しない代わりに、他人も否定しない。たぶん、フラットにその境地にたどり着くために、他人を表面的に否定しない素振りをするだけじゃなく、心の底から自分を否定しないことが重要なのだと思う。否定していないフリをするだけじゃダメ。根っこから真に肯定するしかない。
いったいぜんたい、何がどうして、こんなふうに歪んでしまったのか思い出せないが、歪んでいるなら歪んだまま、それを受け入れるしかない。こういう器もあるのかと。それでいい。
メリットなどいらない。