わが地獄(仮)
書評ブログがやりたい
書評ブログをやってみたい、と思って、ブログ用のレンタルサーバーなんかも探していたんだけど、ちょっとやっぱり無理かな、と思ってやめた。
思いついた時は名案に思えて、たとえば読書しながら感想文を書いて、アフィリエイトで月1万でも稼げればいいなあ、それくらいなら場末のブログでもできるかも、と思ったんだけど、月1万を稼げるブログなんてほとんどないらしい。あっても、かなりのエネルギーをブログ運営に注ぎ込まないといけないみたい。
ちゃちゃっと書いて、バッとアップして、がっぽり稼ぐなんていうのは、やっぱり夢物語らしい。1年半、有料サーバーを借りて運営して、収益が1万ちょっと、という実例もあるそう。なんて世知辛い世界なんだろう。
まあ、誰だってこんな世界で労働もせず、自己承認されることでお金になるなら、それで暮らしていきたい。競合相手が多いというのは地獄の始まりで、常に走り続けるマラソンが始まる。それじゃ普通に働いているのと変わらない。
いつまでもニノベにエッセイをアップし続けるべきかどうか、たまに迷うんだけど、このわが地獄は常にリアルタイムの俺の遍歴を見れるというのもあるし、そこからエッセイだけ抜いて短編だけにしても、かえって物足りなさみたいのが残ったりするかな、と思ったりもする。いや要らんよブログでやれという意見ももちろんあるんだろうけれども。
それに、書評ブログをやるにあたって、難点がいくつかある。
まず第一に、俺は読むのが遅い。
毎日1冊ペースでアップしている書評ブログなんかには、スピードでは太刀打ちできない。読書感想文をするために読書をする、というのじゃ本末転倒だし、たぶんそれは俺が読書を楽しめなくなる。
俺自身が、読書を楽しむというか、読書するペースを維持できること。これは夜勤労働者が体調管理に気を配るくらい大切なことで、ここで転ぶとリカバリーが効かない。
目を滑らせながらの速読なんていうのは、俺にはできない。鍛錬すればマシになるのかもしれないが、俺は味わって読みたい。
次に、アフィリエイトで稼ぐなら、好意的な文章を書かないといけない。
この本を読んだけどクソだった、でも褒めるところはあったよみたいな書評で、「じゃあ買ってみようかな」とアマゾンリンクをポチるやつなんていない。一万人いて一人であれば、その一人は存在しないのと同義になる。資本主義というのはそういうもの。
数が暴力、数が正義。その質は問わない。それがアフィリエイト、広告業の基本理念だと思う。
俺が、自分の本心や心情を蔑ろにして、売るための営業マンみたいな書評を書けるとは思えないし、たぶん作っても「こいつ本当にこういうのヘタクソだな…」と思われる結末が待っていると思う。俺は基本的にやりたいことをやりたいようにやる病気の人であって、営業マンじゃない。言わなくていいことを言ってしまうし、ほとんどの人が興味を持たないところにこだわる。
多様性の時代なんだからそういう書評ブログがあってもいい、と俺も個人としては思うけれども、たぶん稼ぐのは無理だ。まあ、無料ブログで細々と収益化せずにやっていくなら別だけれども。それが一番、現実的かもしれない。
金が欲しい以外にも、書評を書くことで、読書という割に合わない文化が少しでも盛り上がってくれればいいなあ、みたいな期待もあったんだけれども、当たり前だけど俺みたいなハエがぶんぶんしても世の中は変わらない。だから、やるなら、自分のためにやる場合だけかなと思う。そしてそれは収益化しないということと同義。
収益化、というのは、よいことのように扱われるし、みんなそれを目指すけれども、俺は調べれば調べるほど怖いなあと思う。
まず収益化するためのNGというものがあって、商品が売れないようなことを書くのはダメ。まず、この時点で俺はほとんどの表現を打つことができなくなると思う。
「この作者は本当にバカで、こんな書き方して売れるわけがない。百人いたら一人しか楽しめない文章。でも、俺はこいつが好き」という文章を見て、じゃあ俺はその百人の一人だなとハイテンションになって本買うやつがどこにいる? いるわけない。いたら俺だ。
だから、誰でもわかるように、少しでも商品を買いたくなるような表現を使う。
これは、報酬というエサを使った言葉狩りに近い。報酬が欲しいなら、その社会に沿った言葉を使え、ということ。
もちろん人を罵って悲しませたり追い込んだりする言葉はよくないし狩られてもいいと思う。でも、本心から思った言葉が「金にならないから」と引っ込む世界というのは、恐ろしい世界のように俺には思える。
だからやっぱり、収益化したい、というのは思わない方がいいのかもしれない。
一生懸命やっても、一年半で一万円。お金を稼ぐって大変だなあ、と思った。
同時に、Kindleの電子書籍に登録して、わが地獄の切り売りでもしようかと思ったが、なんでもKindleの自費出版で最も読まれないのが「小説」らしい。
別に無理してなんの信頼もないやつの本を買う意味がないからだとか。確かに俺もいきなり知らん人の本を、たとえあらすじや題材がよくてもポチっと買うのは躊躇う。実際にそれで失敗して懲りた体験もある。
そりゃそうだよなあ、と思う。みんなゴミみたいな労働でひねり出した虎の子のお金を出すわけで、それを出せ出せと揺さぶるのも少し違う気がする。
そういう意味では、Kindleアンリミテッドでとりあえず無料で読めるだとか、あるいは図書館のシステムなんかは、合理的なのかもしれない。口コミで広がって読まれる、なんていう流れは無料のところから始まることが多いし、必ずしも創作物が高額の金銭を要求するならば、それこそ一種の免許制、保障や担保がある作品しか読まれなくなる。まるで銀行みたいだ。俺たち読者は時間を貸す銀行マンなのかもしれない。その審査は厳しい。
労働以外にも、生きがいが欲しくて、月に1万というお小遣い程度でもいいから、自分の好きなことで生きてみたい。そんな願いすら粉々に打ち砕かれるほど、世の中というのは切羽詰まっているらしい。困ったもんである。
そうなってくると、やっぱり、どう生きていくかじゃなくて、どう死ぬか、どう満足するかのほうがポイントになってくる。
死ぬ、負ける。それが確定。なら、どう死ぬ、どう負ける。武士みたい。
生きることはできない。生きようとしてもうまくいかない。
なら、やっぱり諦める方がいい。命を投げ捨てるんじゃなく、軟着陸させて、海に返すというか。
で、ここまで考えて、やっぱり自分のことを大切にしようと思った。
収益化できない、マネタイズできない、といって不満に思うよりも、収益化できないからこそ好き勝手にやれる、という側面に着目したい。
そもそも土台として、俺は収益化できるブログの運営がしたいんじゃなく、書評なり映画レビューなりがしたい、というのが根っこにある。だから、それを自分が嫌にならずに続けていけるなら、オーケー。
そこがいつの間にかひっくり返って、まず最初にお金、まず最初に結果、が来てしまうのが、資本主義の怖いところだ。全然自由じゃない。死ぬ自由がない。
読書も、自分がしたいと思い、無理せず続けていけるのが大切。金がなさすぎて新刊とかは買えなくなったが、Kindleアンリミテッドや図書館を使えば、なにかしら読んでいける。そもそも俺は「誰々が読んでるから自分も読んで話題にしーよぉっと!」みたいな読書が苦手だ。いや、ぜひともそうすることによって人間関係を円滑にしたいんだけれども、「てきとーに見つけたやつをざっくり読む」という、はじめて行った街のマックにとりあえず入ってみるみたいな気軽さを捨てられない。俺は自由気ままでいたい。
だから、別に話題作を焦って読む必要もない。たまたま見つけた本を読む。それでいい。
一種のミニマリストの生き方であって、仙人みたいな境地に辿り着きそう。そして実はあんまり、人から好かれない生き方でもある。みんな、しょうもない欲望にしょうもなく駆られている人に愛着とか共感を持つもんで、「なにそれ全部いらなくね」なんて言い出すやつは鼻つまみものである。俺は実際に、鼻つまみものである。
これも仕方ない、と諦めるしかない。俺は何年経っても変わらない。
わが地獄のコメントがついている短編を、たまに「こんなの書いたの?」と気になって俺も読んでみるんだけども、ちょっと面白かったり、過激すぎてドン引きしたりしている。なのでコメントでどれが面白かったとか教えて欲しい。俺も読む。
スコップしたのだと、かえるの宇宙船の話が好きだった。うわあ、これを書いたやつは間違いなく病んでる!と思った。ずいぶんすごいもん書いてるなあ、と思ったが、2015年頃の俺らしい。心配になる。
2015年というと、労働する直前くらいだから、意外なことに、労働者になる前から俺は限界を迎えていたらしい。俺自身は労働したことで創作意欲とかを失ったと思っていたんだけれども、それ以前から創作意欲はともかくメンタルはくたばっていたらしい。
そう思うと、この世界そのものが嫌なんだろうなあ、と思いはするんだけれども、どうすることもできないし、困ったなあというところだ。
わが地獄を読み返すと、今と主張したいことに共通点もあるし、なんだか違う世界線の自分を眺めてるようで面白い。2013年のコメントで「また顎のオナニーか」というコメントを見つけたが、驚きのぎっちょん、2023年でもまだ病んでオナニーを繰り返している。当時のコメントをつけたやつもビックリだろう。何があっても、労働しようが精神病になろうが友達と絶交しようが、俺というやつは変わらなかったのである。煽るどころか心配されるかもしれない。
変わらないやつ、というにも種類があって、変わらないがゆえに、たとえば一作品だけ猛烈に燃えて書き抜けたあとに、何も作れなくなり終わるやつ(変われないから)と、自分が燃えたことすら忘れて「これが最初で最後だ!」と燃え盛り続けるやつがいるけれども、精神崩壊度でいえば間違いなく忘れて燃え続けるやつのほうがやばい。自分がどれほど傷つき、戦い、苦しんだ末に得たもの失ったもの、そういった一切合切を今月の電気代払ったっけくらいのノリで忘れて戦い続けるやつは間違いなく精神病である。だからやっぱり、精神疾患と創造性というのは、比例しているように俺には思える。
頭おかしいやつが幸せに生きられる世界になればなあ、と言い続けているけれども、それはこの地球が無重力になれば腰痛持ちがいなくなるのになあ、くらい自然の摂理に反しているので、まあ無理だろうなと思う。
だから、頭がおかしいやつが頭おかしいまま、この生きづらい世の中を致命傷を避けながら渡っていくベターなやり方というものが、あるといいなと思う。