わが地獄(仮)
モルヒネのために
こういう夏の暑い時期は終末モノを読むとさっぱりする。これからの世界がどうなっていくかなんて興味が無い。どうせろくなことなんてありはしない。
昔、PS2のゲームが出たときなんかは「ほんものの実写みたいだ!」と感動した。今ではあの程度のグラフィックでは満足しない。
どんどんリアルに、どんどん精妙に。
どうしてゲーム画面の草がリアルかどうかなんて気にしなきゃいけなくなったんだろう? 没入感は大切だ、確かに。
でもそのせいで、ゲーム本体よりもわかりやすい「綺麗さ」ばかりに気が散るようになってしまった。草が綺麗でなんになる?
こういうゲームがあれば無限に遊べるのになあ、と思ったあれから何十年も経って、時間も友達もいなくなってゲームを遊びたいという気持ちはなくなった。ゼルダも買ったのにやってない。
時間もないが、仮にあったとしても、熱中できるだけのモチベーションがない。そんなものかなとも思う。
『滅びの園』を読了した。面倒なのでネタバレする。
終末モノというかファンタジーというか。確かホラー畑の人だったような気がする。
これが久々のスマッシュヒットで面白かった。というか、好みだった。
俺がたまに作ろうとしている終末モノと構図が似ていたのでよかった。やっぱり誰かの心を救おうとするとこうなるよな、と思う。
俺が作ろうとしていたのは『理想郷で暮らす人々が外界(現実)からの襲撃を一致団結して撃退して平和な世界を守る』というもので、これは滅びの園の序盤までの設定と一致する。金も家も苦労することなく手に入るが、それほど無茶をしたり乱暴をしたりするわけじゃないブラック企業勤めの主人公がほのぼのと生活しているのがとても落ち着く。
滅びの園ではその後、現実世界の混乱が描写された後、「おまえ一人だけ幸せにするわけにはいかない」と主人公の理想郷が破壊され、主人公は理想郷を忘れられずに現実に苦しみ、最後は理想郷時代の恨みを買った遺族に引き潮の水辺に放置されてしまう。
話の構図として理想郷を壊すことは避けられない。というのも、理想郷で平和に過ごすだけだと物語にならないから。
だけども俺は、いつも、映画とか見ていて思うが、「主人公が幸せな時代」で見るのをやめてしまったりする。たとえハッピーエンドになるとわかっていても、それから主人公が苦労したり苦悩したりするのを見るのが耐えられないから。共感性のなんちゃらだろう。
この話の構図として「自分さえよければ現実世界はどうなってもいいのか」というテーゼは一応、存在しているけれども、主人公にとって現実世界が耐えがたいものなのだからそれを守れおまえは死ねという理屈は通らんだろうと思う。実際に主人公は現実を救済するのを拒否して理想郷の中の妻子や住民たちを皆殺しにされてようやくギブアップする。そんなものはディストピア的な恐喝に過ぎない。『1984』で主人公のネズミ恐怖症を利用して仲間を売らせるシーンがあったけれども、それとやってること変わらんぞって感じだ。
とはいえ、これは作者を否定しているわけではなく、どうも俺の感覚だと作者のほうも「話の構図として主人公を露悪的に描写はするけれども、理想郷を求める気持ちを否定するのはなんか違う気がする」と思っていたような節は感じる。
滅びの園では主人公が死ぬ場面は描写されていないし、助けを呼ぶ電話が繋がった(現実で生きのびる方法を得た)のに、その電話を主人公は捨てる。生きることより夢の中で死ぬことを選んでいる。
社会に貢献せず生活保護でゲームばかりしている人間は死ぬべきかどうか、みたいな問題であり、確かにそいつらを助けていたら社会は崩壊するけれども、だからといって問答無用でぶち殺し社会貢献できるできないで存在していいか悪いかを決めるのは野蛮だ。
結局のところ、この滅びの園でも、1984でも、「他者をコントロールしようとする人間=政府側」が勝利している。話のオチとしてはそれしかなくても、夢がないなァと俺なんかは思ってしまう。
夢の中うんぬん、スワンプマン問題、俺はどれもこれもくだらんと思っていて、たとえば「夢の中で生きるなんて……」というのは、人工知能と暮らして思い出や関係性を育む物語があったとして、最後に「人工知能なんてただのデータの羅列だよ」という敵が出てくるとする。それに対して「そんなことない! 俺たちの思い出は本物なんだ!」と反抗する。
デジモンを4クール見たあとに「デジモンなんてただのデータだよ」という現実世界から来たおじさんが来たら視聴者は「何言ってんだコイツ殺せ」となる。それは普通のことだ。
現実や他者を優先しろ、という考え方は「自分にとって都合のいい存在であれ」と要求してくる社会そのものの考え方だ。だから俺はそれを否定するし、それを否定することを止められない。
だから滅びの園で主人公がまるで自分勝手な人間のように描写されている(描写せざるを得ない)としても、それを間違っていると言いたいのであれば「デジモンはデータ! 俺たちが見た4クールはゴミ!」と言わなきゃいけない。それはセットである。分かつことなどできない。
これを自分の都合で切り離してその都度に意見を変えるやつはちょっと卑怯だと思う。
滅びの園で主人公が辿り着いた理想郷の描写はとてもよい。
本当に疲れている人間だけが書ける内容だよなあ、と思う。
この世界で主人公はわがまま放題に過ごしたりしていない。ときどき来る魔物を倒し、山で手に入った物資を街で売ったり、お金が十分にたまっても「何もしないのもあれだから」ときちんと働き続けている。奥さんもいて子供もいる。近所の喫茶店のマスターとは友達。魔物が増え始めたからみんなで対策を練ろう!と集会を起こして危機意識を持たせたりとしっかりしている。
それが現実世界から来たイケメンとそのイケメンと寝た女のうすっぺらい「なんかしなくちゃ感」だけで理想郷を滅ぼされたのだから可哀想である。嫁さんと子供吹っ飛ばされたところなんてここまでやるか?って感じだ。
現実世界で大勢の人間が死んでいるのを主人公は見ていないから、みたいなことを作中でも言っていたが、そんなこと知るかって感じで、じゃあおまえらはスマホで使われているリチウムのせいでコンゴの人が苦しむから電子機器使わないのかって話だ。自分勝手なのはお互い様だろ。
俺もずいぶん、こういう理想郷をずっと続けていける話が書きたいし、そういう構図はないものかと考えてきたけれども、残念ながらない。
極端な話、幸せになるだけなら「俺は異世界に転生した。そこはとてもいいところだった。俺はそこで永遠に幸せに暮らした。終わり」で終わってしまう。それが悪いわけじゃないんだけれども、終わってしまう。
だからバッドエンドにしなくちゃいけないかというと、上述のように知ったふうな口をきくイケメンが来てすべてをぶち壊していくという結末にイライラする羽目になるし、難しい。
たぶん、デジモンのように、「現実世界ではないけれども、そこで得た経験や、みんなで乗り越えた苦労は本物だった」というように、なんらかのイベントや試練が必要なんだろうなと思う。
滅びの園も、主人公側が現実世界側ときちんと戦って、主人公が成長し試練を乗り越えれば現実を討伐して理想郷を守れたとしても、その話の構図に説得力があったかもしれない。
たとえばブラック企業時代に、上司に追い詰められて泣いている同僚を見捨てた記憶があったとする。同じように、理想郷と現実との戦いで、泣いている誰かを見かけた時に見捨てずに戦う選択肢をとる。
この時点で、主人公の内面には変化が起きているわけだから、物語としての説得力として問題はなくなる。
現実世界が滅亡しようが、じゃあデジモンたちはデリートされていいのか? という話になってくる。
共存ができないなら絶滅戦争になるしかなく、そこに『誰かの責任』などない。強いて言うなら神が悪い。
滅びの園では理想郷崩壊ルートを取ったけれども、理想郷の描写、そして理想郷を訪れるに足る『現実で限界を迎えている人間』の配置などはそれこそ理想的だった。ここからたくさんの派生作品を作れそうといえば作れそうだ。
そういえば、理想郷といえば、タイトルは長くて忘れてしまったんだが『彼女に浮気された俺が小悪魔な後輩に誘惑されている』みたいなラノベを読んでいる。2巻くらいか。
これも理想郷もので(現実の大学ラブコメなんだけども俺からすれば理想郷)、ほどよく都合のいい世界が展開されているんだけれども、主人公がちょっと完璧というかそつがなさすぎてたまにイライラする。
元バスケ部出身で運動神経もいいしバイトも掛け持ちしてお金にそれほど困っていない大学生。理想郷の設定としては優秀なんだが、あまりにも本人が優秀だとやっぱりシャクに触るなあ、と思ったりもする。
滅びの園だと限界ブラック社員で書類を電車に置き忘れて上司に殴られるのが確定して泣く、というものすごく親近感のわくシーンがあるから、応援したくなる。ただ小悪魔後輩の主人公にはそういうキズがないから、やっぱりどうも他人事のように思える。
やっぱり主人公にキズをつけておくのは大切だなあ、と思う。
とはいっても、大学ラブコメで主人公にキズをつけると理想郷が壊れる可能性もあるし、中途半端なキズ(たとえば昔、有名ユーチューバーだったけどアンチコメントのせいで病んで休業した、なんて設定)ではかえって嫌味になってしまう。これも難しい。
ただ現実の設定だとちょっとのキズでも致命傷になり得る(それだけ現実は厳しい)から、キズの選定も難しいよなあ、と思う。このあたりは議論・検討の余地がかなりあると思う。
放っておくと黒い服ばかり着まくるコクトウミキヤくらいのキズがちょうどいいのかもしんない。
最近はあまりエッセイを書く時間もない。が、やっぱり書きたいなと思う。
永田カビ先生が新刊を出していて読んでみた。相変わらず面白い(これを面白いとしか表現できないから、日本語は嫌いだ。まるで永田カビ先生のエッセイが娯楽やショーだと思っているみたいだ)。
面白い、という言葉を否定するなら、アングルがいい。ノっている時のカビ先生のコマ割は臨場感がある(腕から点滴針ぶっこ抜いてトイレの床に血が滴ってるところとか)。迫真に迫っているとか、鬼気迫るとか、こういう表現も使いやすいが月並みで気に食わない。
だから言うなら、これは『ガチ』だ。ガチの表現、ガチの作品。嘘や忖度がない。誤魔化しがない。本気の作品。ガチを感じるというと、頸動脈に真剣を突きつけられて相手がグルグル目で突っ込んできてるような、空恐ろしい直進感。それを覚える。
ガチこそ全て。そんな気がする。
俺はあまりカビ先生本人のことについては言及したくない(やっぱり本人が存在するのにそれをオモチャのように考察したり分解したりは、あまりしたくない)。
ただ、強いて言うなら、気になったところとして『エッセイで他人を傷つけてしまったから、フィクションを書かなきゃいけない強迫観念を感じていた』というところがある。
カビ先生がどう思っていたかわからないけど、俺はなんとなく『フィクション>エッセイ』という思想を感じた。ようするに、フィクションを書いてアニメ化したり増刷したりしないと作家じゃない、というようなフィクション至上主義。
俺はこれは否定する。まあ、俺自身もそう思っているからかもしれないが。
俺は最近思うに、フィクション作品というのはビジネスショー、つまり見世物の才能のほうが大きい。
観客が喜び、あるいは怒り、金を出すようにするのがビジネスショーの本質であり、どちらかというと、本人の生き方そのものがアウトローなエッセイスト型の人間はフィクションに向いていない。
俺自身も、わが地獄はエッセイ集となりつつあるし、コメントでも「こういうエッセイのほうが好き」というのがたまに来る。俺も実際はエッセイスト型の人間なんだと思う。
だからカビ先生が無理にフィクションを書こうとして苦しんでいたというのはよくわかる。そしてどうしても書けずにエッセイに戻るのもわかる。
ドクターストーンの項でも書いたけど、現代のフィクションは方法論や最適解がこれでもかと圧縮された超高品質なシーケンスに沿って作られているから、才能だけでぶっ飛ばせる時代ではもうない。それだけでなんとかしようとしたのはチェンソーマンくらいだと思う。そのチェンソーマンも第二部であのザマである。
エッセイスト型がフィクションで戦えたとしても、その戦える期間は短いのだと俺は思う。それは短距離走の選手が長距離走用のトレーニングをせず(あるいはしたとしても適合できず)、自分の走り方だけでフルマラソンを走り出してしまったのと同じくらいの時間しか、持たないのだと思う。エッセイスト型で走り抜いたのはジョジョくらいだと思う。
(ちなみにジョジョが長期マラソンできたのはジョジョに競合相手が存在しなかったからだと俺は思っている。競合相手が存在しなければ、相手に応じて自分の戦術を変える必要がないから集中できる)
エッセイがフィクションに劣っているとは俺は思わない。最近は。
むしろ今はエッセイのほうが潜在的な人気はあるんじゃなかろうか。
エッセイ型の人間はYouTubeに流れたような気もする。あれこそ自分の実体験をネタにして再生数を稼ぐスタイルだから。
フィクションは前提として情報を記憶していかないといけない。
たとえば俺のトカゲなら主人公がトカゲで、寒いのに弱くて、妙な機械が出てきて、変な握りの剣があって、とかいろいろ覚えなきゃいけない。それが醍醐味でもあるけど、現代人の脳のキャパはそれほど多くない。だから人はますますフィクションを読まなくなるし、読みたくても読めないというのが現実だろうと思う。
エッセイなら、前提条件を覚えなくていい。これまでの経緯も、伏線も、覚えておかなくていい。さっと読める。嫌なら閉じる。
岡元太郎も中村うさぎも、エッセイを書き続けた。中村うさぎはゴクドーくんを完結させられなかったことに対して「今でも罪だと思ってる」とツイッターで言っていたけれども、やっぱりエッセイスト型はフィクションをやり続けるのはキツイんだと思う。
それがなぜなのかは分からない。本質がどこにあるのか、俺自身にもよくわからない。
ただ、結局は自分の「やりたいこと」を一番やりやすいのが、フィクションなのか、エッセイなのかで分けるべきで、「フィクションであるべき、エッセイであるべき」というような区分けをしても意味がない気がする。
そのときに自分が何をやりたいか、なになら『ガチ』になれるか、が一番大事だ。
俺なんかは投稿作品を書くのをやめてしまったし、たとえば「作家になりたいなら投稿作品を書き続けろ、一分一秒も惜しむな」という意見は正しい。結果だけを考えるなら。
でも俺はそうしなかった。
黄金の黒を書くために投稿限界の10万字を無視したし、あの世横丁も最終的には40万字超くらいになった。とても投稿できるような長さじゃない。今でこそたとえば100万字規模の異世界転生モノはさっくり書籍化したりするけれども、当時はまだそこまでじゃなかった。ラノベ新人賞がほぼ全ての登竜門だった。
投稿限界文字数を無視するということは、作家にならないということと同じだった。
俺は自分が結果を出したり幸せになったりお金を稼いだりすることより、自分が何をしたいかを優先した。そしてたぶん、自分が何をしたいか以外の価値基準で動くと具合が悪くなって死んでしまう。
自分はそういう生き物なんだと最近は思っている。
カビ先生の話で、もうひとつ印象的なのは、以前も触れたかも知れないが、自分のエッセイ本を殴ったところ。
読んだお母さんを傷つけて泣かせてしまって、自分の献本分のエッセイを殴りまくったというところで、それを読んだとき、俺は「ああ、この人は自分の作品を『自分』だと思ってるんだな」と思った。それが正しいかどうかはともかく。
それぐらいの気持ちで書く、書いてしまう。そういうことができる人はほとんどいないんじゃなかろうか。
少なくとも最初から最後までコントロールされたプロットを組み、そのシーケンス上どこでどういう感情を読者に引き起こすかを方法論上でくみ上げられた作品のなかに『自分』なんていうものは、いたとしても薄いだろう。1/16希釈のカルピス程度の自分しか。
原液をぶっこめばそりゃ味は濃くなる。身体にだって悪くなる。
エッセイスト型の文章にある『味』の正体は、そういうものなのかもしれない。
色川武大(麻雀放浪記の人)も奥さんのことを半フィクションの私小説でボロクソに書いて(愛してるんだかないんだかわからないとか、愚かだと思ってるとか、ぽろっと出た本音だったんだろうけど)奥さんが自殺しそうなくらい悩んだというし、やっぱりカルピスの原液はあぶねーなーと思ったりはする。
それでも、カルピスの原液は存在する。
書かないからといって、それがなかったことにはならない。
「思っても、それを表に出さなければいいんだよ」という意見もあるかもしれないが、カルピスの原液なんて危険なものを大量に自分の内側にため込んでいたら中毒死する。だからこうやって、危険を冒して、他人を巻き込むかもしれないとわかっていながら文章にする。
文章にするしかない。
何もかも気を遣って、愛想笑いしていても、自分も幸せにならないし、思ったよりも他人も幸せそうじゃないから。
不幸になるのは、生き物の自然な流れだから。
話は変わるが、最近仕事で勝手な行動が増えてきた。
些細な行動だし、本当にヤバイやつらよりはマシな動きで、特に責められたりもしていない(ありがたい)けれども、ちょっと悪目立ちしてるなと思う時はある。
俺はやっぱり『選ばれる、信頼に足る人間』ではないなと思う。
チーム行動において、補欠からレギュラーに選ばれる時はレギュラーが欠員した『やむを得ない状況』だけ。それ以外は基本的にベンチ。
誰も俺を選びたくなんかない。
それは当然だよなあ、と思ったりもする。
俺は『こうしたい』と思ったらそうしたいし、『今まではこうだった』ということに一切の関心がない。たとえしくじったとしても『しくじるかどうか試してみたい』という一心で行動したくなる。そしてこのタイプは『普段からいつも我慢しているから、たまにならいい』という自分ルールで勝手なことをやり始める。
まさに無能な働き者というやつ。
知らんぷりして大人しくしていたほうがまだマシ、というような時でも動きたくなる。
大人しくしていたほうがいい、という時代では生きていくのが難しい。
かといって乱世なら活躍できるかというと、あっさり死んだのほうが多いと思う。
どのみち、死ぬ。
まあ、これもナルシストな話であって、俺より能力的に低いやつらはいくらでもいる。自分を卑下するということはそいつらもまるごと卑下するということだから、自己愛も甚だしいなと思いはする。まあ、社会そのものが求めるボーダーがアホみたいに高くなっているから、劣等感を覚えるのは社会のせいだし当然ではあるんだが。
酒もタバコもギャンブルもやらないのに、電気の消し忘れで怒られる。電気代を上げたのは俺じゃなく東電であり、東電にキレて欲しい。俺たちはみんな被害者じゃないか?
生きているのがしんどいなあ、と思う。
昔の友達もちょっと年上だとアラフォーになってたりする。ええ、嘘でしょ、20歳そこそこのお兄ちゃんお姉ちゃんだったのに、とビックリしているが、俺だって今年でもう33歳だ。ふわふわしてたらあっという間に40歳。
新都社に来たときは16歳だったのになあ。
ひどい時代が、ひどい時代のまま突っ走ったような世界だなと思う。戦争こそなかったが、心は死んだなという感じ。
ただ俺は、「どうせ来年には死ぬ」と思って生きるようにしている。本当に死ぬかもしれないし、先のことなんて考えたって仕方ない。
「明日死ぬと思って生きろ」なんてのはふざけた考えで、明日死ぬなら普通に生きてマック喰って寝て死ぬ。ほかに出来ることなんか何もない。ただ、最後の1年ならちょっとは使い道がある。
俺はそう思って黄金の黒を書いた。
あれは本当にニート時代の作品で、自分は翌年には父親を殺して死ぬんじゃないかと思って生きていた。来年以降が自分にあると思っていなかった。実際、たまたま底辺労働者になったから今も仕事しているが、そこで蹴られていたらニートのままだったろうし、何かの弾みでキレて父親を絞め殺していたかもしれない。ニュースでそんな話を見ると全然他人事じゃない。俺にもありえたコンプレックスの末路だ。
だから、『最後の一年』を使えば、何か書いたり、まあ書けなかったり、いずれにせよ使い道くらいにはなる。
俺が今、最後の一年を使うなら、どうするかなー。
小説を書くと言いたいところだが。
前も言ったが俺の小説が読者に時間を割かせるほどの価値があるかどうかといえば疑問だし(俺の話を読みたがるという場合は、おそらく世間一般の作品で満足できないタイプのような気がする)、自分のニーズだけで小説を書けるかどうか。まあ、エッセイを書きまくるでもいいんだけれども、エッセイは逆に『書き終わってしまう』ので、終わった後にどうしようか、という目的を見失いがちだったりする。
小説なら『今回は主人公とヒロインがくっついた。次は別れさせてみよう!』とか方向の舵取りができるんだけれども、エッセイにはそれはない。だから達成感という意味では、ちょっと薄いかも知れない。
まあ、たった一講のエッセイに全力を振り絞ってみろと言われれば「そうかも!」と思ったりもする。別にちょっと書いただけのものに価値なんかないというのは、横暴な考え方だ。自分でもやりがちだが。
そういえば、最近、自分がなぜ小説を書き始めたのか思い出している。
俺は昔から腹痛がちで、脂汗を流しながらトイレに篭もっていることが多かった。
たぶん小麦粉系が若干弱くて、パンやラーメン、パスタを喰うと腹を壊すことが多かった。
そして料理が苦手な母親が買ってくるのが、お惣菜のパンやラーメン、パスタだった。
母からしたらいつも腹を壊しているし、自分の買ってくるパンが原因とは限らないし、そんなことを考えていろいろ試して上手くいかなかったら徒労になるから、考えたくなかったんだろう。
なので俺はパンを食べ続け、腹を壊し続けた。
母を責めるというか、結局、弱さは人を救わないし、俺にそれを撥ね除ける強さもなかった。弱さは弱さしか産まないだけだと今では思う。
で、俺は腹痛のたびに空想した。
自分の痛みが止まるような妄想をし続けた。
どういうイメージだったか覚えていないが、今で言う異世界転生的な、あるいはテロリストが襲ってきた学校をさっそうと自分が機転をきかして救うような妄想をしていたような気がする。
少しでも痛みを止めたくて。
脂汗を流しながら、トイレの枠をゴンゴン蹴りつけて足の裏の痛みで腹部の痛みを消そうとするような時間の中で、空想だけが救いだった。
だから俺は『滅びの園』で、現実より空想を選んだ主人公を責める気になれなかった。
なんで痛みに耐えなくちゃいけない? これは何かの罰なのか?
この痛みさえ消えるならなんでもいい。
今でもそう思っている。
俺はモルヒネが作りたい。それがフィクションでもエッセイでも。
ただ人間の心は複雑で、ただ幸せになるフィクションは即効性があってもすぐに効かなくなる。耐性があっという間につく。
なるべく長く、しかもより強く。
痛みを消してくれるモルヒネ。
もしできるなら、これからもそんな作品を作っていきたいなあと思う。