わが地獄(仮)
きみにまほうを
その店は坂道の通りに隠れるようにして立っていた。
煉瓦建ての二階建てで、一階が喫茶店になっている。
待ち合わせはそこだった。まだ冬の寒さが残る春の日に、くたびれた背広を着た青白い顔の男が、その店の扉をくぐった。ベルがりんりんと鳴って、女給がやってきた。
「いらっしゃいませ。一名さまですか?」
「いや、待ち合わせで……ええと、D代行の方と……」
女給はにっこり笑って、
「ああ、その方々ならもういらしてますよ。ご案内します。こちらです」
案内するまでもなく、入り口から十歩ほど歩いたところにあるボックス席に案内される。
その席には眼鏡をかけ紅色のスーツを着た若い女と、学生服の童顔気味の少年が座っていた。男と視線が合うと二人は目礼した。男もそれに慌ててならう。
ごゆっくり、と女給は下がった。
男はしきりにひざ頭に両手をこすりつけて汗を拭った。喋ろうとすると喉が急に渇いて、お冷に手が伸びてしまう。しばらく三人はお冷を飲み交わすだけの静かな空間を作った。やがて女が焦れた。
「……で、ご依頼の相談ということでよろしかったでしょうか?」
そういう女の声は感情の読み取れないビジネスライクで、感情が読み取りにくかったが、かえってそれが男にとっては楽だった。ヘタに冗談でも交わす必要に迫られる方が辛い。男はかしこまってぶんぶん頷いた。
「そうなんです。お願いしたいんです、是非」
「キャンセルはできませんよ。当然のことですが」
「ええ、ええ、そりゃもう。そんなこと考えもしないほどでして……本当に困っているんです。あなた方の噂を聞いたときには神様に感謝したほどで……私は無宗教なんですが……」
ぼくもです、と少年がにこやかに言った。男はにへらっと笑って、話しやすい女の方に会話の矛先を戻した。
「で、御代はおいくらで……あまり蓄えはないのですが……実は年金を払い損ねておりまして、ええ、ちょっとした手続きのミスで二年ほど未納したのですが、それでももらえる額が……」
「それでは老後は大変ですね」と女がちっとも気の毒そうじゃない風に言った。男は薄くなりかかった頭をなでて、
「はい。なのでできればマケていただきたいところでして……いえぶしつけなお願いなのは重々承知しておりますが……あなた方を紹介される際の情報料もひどく絞られまして……その……」
「まあ、支払いはいいじゃないですか。相応のものを頂くだけです。取立ては自動的なんでね」
男は少年を見た。さきほどとまったく変化していない笑顔がそこにはあった。
「自動的……?」
「ええ。心配いりませんよ。きっと過分な支払いだとは思わないはずですから」
女給が頼んでもいないのにコーヒーを持ってきた。黒い水面から湯気が立っていて、いいにおいがする。少年はテーブルの真ん中に置かれたカップを、そっと男の方に押し出した。
「あなたにはっきりとおっしゃって頂きたいのです……依頼の内容を、包み隠さずに、明確にね」
男はごくりと生唾を飲み込んで、言った。
「ある人物を殺して頂きたいのです」
○
男は急に熱弁になった。
自分がいかにしてその人物に騙され、脅され、弄ばれてきたか。
どんな人間でも不幸自慢だけは得意なものだ。女はシステム手帳で今後の予定に赤ペンを入れながら男の話を聞いた。少年は熱心に男の話に耳を傾けた。しかしやっぱり男は女の方を向いて話すのだった。
やっと話が終わると、男はハンカチで額の汗を拭って、また例の薄笑いを浮かべるのだった。年甲斐もなく熱くなって恥じ入っている、とでも言いたいらしい。
少年は頷いた。
「わかりました」
「では……」と男が身を乗り出し、「引き受けてくださるんですね?」
「引き受けましたよ。そして終わりました」
「え?」
戸惑っているのは男だけであった。女は何事もなかったかのように黙っている。
おもむろに、少年は男の前に握った右拳を出した。
男は拳と少年を交互に見やる。少年はにやついたまま、ゆっくりと拳を開いた。
なにもなかった。ただ、すべすべした白い手が広がっているばかり。男はわけもわからず、さっきよりも笑みを引きつらせて、小首を傾げた。
「あの、どういうことで……?」
「ははは。もったいぶってすみません。実はいま、魔法を飛ばしたんです」
「ま、魔法……実行犯の方に連絡したという意味で?」
「いやいや。本当に魔法なんですよ。三、二、一」
少年がパンと手を叩いたと同時に男のポケットのなかで携帯が猛烈に振動し始めた。男は飛び上がらんばかりにびっくらこいて、噛み付くように携帯に出た。しばらく黙ってそのまま聞いていたが、やがて「わかりました」と言って電話を切った。そして少年を真正面から、きらきらした眼で見つめた。その眼は賞賛の輝きに溢れていた。
少年はにっこり笑う。
「ね、約束通り死んだでしょ? ……ぼくはね、魔法使いなんです」
「な、な、なんとお礼を言ったらいいか……あのっ……あのっ!」
感極まって握手をせがむ男を、少年はまあまあと席に座らせた。
「いいんですよ仕事ですから。それにぼくの趣味でもあるし」
「はは……で、では御代の方を……少ないのですが……」
「結構です。もう頂きましたから。いこうか、美鈴さん」
「ええ」
呆然とする男を置き去りにして、少年と美鈴と呼ばれた女は出て行ってしまった。
ベルがりんりん鳴り、それが聞こえなくなった頃、ようやく男は腹の底から笑い始めた。カウンター席にいる禿頭の店主にぎろりと睨まれたが、これが笑わずにいられようか。伝票はプラスチックの筒のなかに入ったまま。つまりこれが御代というわけだ。
なんて粋な人殺しだろう。自分はラッキーだ。これからも邪魔な人間を見つけたら、彼に頼んで消してもらおう。
緊張がほどけたせいか、小腹が空いてきたので、女給を呼んだ。女給はなかなか来なかった。カンにさわってテーブルをどんどん叩いてやっときた。サンドウィッチを注文する。飛ぶような速さでハムとレタスとチーズとトマトを分厚いパンで挟んだ美味そうなサンドウィッチがやってきたので、それで反応のにぶい女給への怒りはどこかへいってしまった。
ひとつの人生の転機を迎え、やり過ごしたことに喜びを感じつつ、男はあんぐりと大口をあけてサンドウィッチにかぶりついた。しかし、いくらかじりついてもパンは一向に食べられなかった。腕を振り回して店主に文句を言う。しかしうまく喋れない。なぜだろう。
新聞を読んでいた店主が、目もあげずに言った。
「お客さん、窓ガラスに口の中を映してごらんなさい」
言われたとおりにすると、桃色の歯茎が広がっていた。
歯が一本もなくなっていた。
○
エア・パックできる小さな袋に、ついさっきまで男の口のなかで唾液にまみれていた歯がじゃらじゃらと入っていた。それをしげしげと見つめる少年に、美鈴は不思議そうに尋ねる。
「ほんとうにあなたは風変わりね。依頼人の身体の一部を報酬にするなんて」
「それが魔法使いのルールなのさ」と少年は悪びれもせずにあちこちに角度から歯を検分している。
「殺したやつと等価値だと依頼人が思っているモノをもらう。ぼくの魔法は彼らの願望によって作動するからね。今回は、歯をなくしてもいいぐらいには死んで欲しかったということだろうよ」
少年は学生服のポケットに歯を仕舞いこんだ。
「家に帰って、いままで得てきたコレクションを見ているとね、思うんだよ美鈴さん」
「……なんて?」
「ぼくは人を殺したいと思ったことはない。でも、あそこには、依頼者の肉片の数だけ人に強い感情を誰かが持ったという証がある。そのひとつひとつが見ていて狂おしいほど愛おしいんだ」
「そう。……あなたには感情がないのね」
「そうかな?」
「そうよ。だから、あなたにとっては直接的な行動だけが感情を証明する手段なの。唯一のコミュニケーション手段なのね」
「ふうん。美鈴さんはおもしろい考え方をするんだね。でも残念ながら、ぼくは誰も殺したくない……」
「ねえ」
「なに?」
「もしあなたが殺されたら、あなたはその人をどう思う?」
前をいく少年は快活に笑った。爽やか過ぎるほどに。
「殺されたことがないから、わからないな」
「そう」
美鈴は、ハンドバッグから拳銃をぬっと取り出した。
銃口を少年の背に向ける。引き金をゆっくりと、絞る。
少年は気づかない。
これで、彼に気持ちが伝わればいいのだが。
銃声。
了