Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
さざ波の男

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 さざ波の音がする。くすんだ陽光がテラスに降り注ぎ、私の座る案樂椅子の肘かけを鈍く輝かせる。私はそれを震える掌で何度も撫でる。何度も。
 膝掛けの上にポンと置かれた板とその上に重ねられた原稿用紙。ゆるい風が時折紙切れをさらっていこうとするが、そうしてもらってかまわない。なぜなら私の膝の上の原稿はもうずっと長い間、白紙なのだから。
 私はボールペンに手を伸ばした。私の癖を知るものたちにとっては不思議らしいのだが、私はボールペンにこだわったことがない。だからそのボールペンも安物の、どこにでもある、すぐインクの切れる怠惰な筆だったが、私にとっては白を黒にしてくれるだけで充分だった。いま、問題なのはペンではなく指の方だった。
 ボールペンをかろうじて握り、いまにも落ちてきそうなまぶたを懸命にこらえながら、筆を走らせようとする。もうこれまで何千何万と繰り返してきた所作。書くということ。それができない。筆は、不可視の電磁(エレキ)に食い止められているかのように動かなかった。指が動かない、だがそれは肉質の故障ではなく霊質の沈殿によるものだ。かつてあった私の中の衝動がめっきりとなりを潜めている。それは腹痛に似ている。忘れた頃にやってきて、ひとしきり暴れ、かと思うと収まり、しかし結局は何もかも出し尽くすまで痛み続ける。もし私に天賦の何かがあったとしたら、腹痛持ちの虚弱体質であったことそれ一点だろうと思う。
 作家になりたかったわけではない。栄光も賞賛も必要なかった。私はただ、私にできることがしたかった。このあまりに早く老いた身体と、めまぐるしく変わる溺れた夏と渇いた冬しかない脳にできる、もっともかちりとはまってくれること、私にとっては、それが書くことだった。私は書き続けた。幸不幸を置き去りにして。だが、結果は私に振り向いてはくれなかった。振り返れば私の書斎には製本化されなかった、一次落選の判を捺された生原稿がぎしりと書棚に積まっている。私は物を作ったという点では作家だが、世間の誰一人として、私の名を作家として認識したりはしないだろう。
 私は一度書いたものは忘れてしまう性質なので、もうあの原稿たちに何が書かれているのか覚えていない。近作の二、三編のあらすじぐらいなら諳んじられるかもしれないが、それより前となるともう駄目だ。思い出そうとしてみたところで、いくつもの物語の端糸が私の脳の中で絡み合い、もはや別の物語として再構成されてしまう。ある意味ではそのときにできる副産物を次の一作へと転がしてきたとも言える。仲間は私を速いと呼んだが、私からしてみれば、不満でしかなかった。きっと私は昼も夜も溶けて消えるほどに書いていたかったのだ。気が向いた時に書くのでなく、気が向いた時に現実に帰るのが私の理想だったのだ。
 そんな私が、いま、太陽の下で何もできずにペン先を寝かせている。何度も何度も起こそうとするのだが、そのたびに腕からふにゃりと力が抜けた。そんな私のあがきを包むやさしい手があった。振り向くと、少女が私に向かって微笑みかけている。
 ――さん、もういいんですよ。もう書かなくていいのです。
 私には少女が何を言っているのかがわからない。いいも悪いもないのだ。ただ、書くのだ。私はペンを握る指先に力をこめた。白くなるほど。だが、結果はやはり私の意にそぐわず、不測の暴力に浴した原稿用紙には穴が開いてしまった。私は悲しくなってペンを転がした。
 私は不本意ながら、喋ることにした。書くことができないなら喋るほかにない。私は意地を張る口で、文章の利きを磨けば磨くほど口下手になっていった。元からそういう傾向にあったのだが、意識的にそうあろうと傾倒すれば結果は悲惨の一語に尽きた。私の声はかすれ、小さく、のろく、曖昧で、不協和だった。だが、書けないのならその辱めも受けねばならないことのひとつに繰り上がる。
 私は、子供の頃、教師というものを妄信していた。大人、といってもいい。彼らはやさしく正しく、すべてを知っていて、自分を愛してくれる、いまのところ愛してくれていないように見えるがしかしそれは何か神々しい理由があってのことで、つまるところ自分は愛されるはずなのだ。そう思っていた。その信仰が破られることになったのは七つの時だ。
 私は勉強ができた。それだけのことだが、しかし、まだ自分がなにかしらの仮想世界じみたものを作り始めるとは露ほども思っていなかった頃だから、たかが小学一年生の勉強ができただけでも私にとっては誇りだった。私は動きに奇怪さを宿していて、こと運動になると皆とほとんど同じ動きができなかった。だから、私は勉強に集中するほかなかった。目を失った脳が耳を養うかのように。
 ある時、先生にひどく叱られた。理由は覚えていない。とにかく怒られ、私は屈辱の中で殺意を覚えた。だが、それでもまだそれは絶対的なものに対する怒りで、つまり理解できるものだった。理解できないと心底人間相手に初めて思ったのはそのすぐ後だ。私は怒りに駆られて、その日のテストに集中できなかった。鉛筆の先に不要に力がこもった。私はすぐに人を殺したがる少年だった。
 ばりっ、という音がして、答案に穴が開いた。ぞっとした。そんなつもりではなかった。まずい、と思った時には伏せた顔の上に先生の影が落ちていた。私はおそるおそる顔を上げた。
 ――どうしてこういうことをするんですか。
 わざとじゃない、本当だ、と言った。叫んだと思う。大人はなんでも知っていて、正しく、悪を挫く、壁も走れぬ光も出せぬ戦力外ではあれその心は正義に染まっているのだと信じていた。正義が青臭ければ絶対でもいい。大人は絶対だと思っていた。だが違った。先生は私に侮蔑の視線を向けると、何も言わずに去っていった。かける言葉もないということらしかった。私の誇りは著しく傷つけられた。恨み、憎み、殺そうと思った。手の中で握り締めた鉛筆が折れる感触だけがまざまざとした現実だった。憎悪は小さな七つの身体から溢れんばかりになっていたが、しかしその時のそれは、芯にどうしようもない悲しみを孕んだ憎しみだった。どう言えば伝わるのかがわからない。哀れすぎて憎んだ、というのも違うし、憎みすぎて悲しくなった、というのでもない。悲しみと憎しみが同居して、重なり合い、同じ相として界面を作っていた。今日まで、私の胸からあの激情が醒めたことはきっとない。
 私は、絶対を探している。大人や教師で駄目なら正でも邪でもなんでもいい。信じられるもの、それのためなら生命さえ捨ててもいいと諦められる何かが欲しかった。今にして思えば、この世にそれがないことを異類の知覚で悟った私だからこそ、創作に没頭したのかもしれない。求めるものがどこにもないなら作るしかなかった。
 だから、私は書き続けなければならないのだ。けれど、どうしても指が動かない。包み込むような日差しの暖かさが私から思考も思念も奪っていく。まどろみの中で重ねられた少女の手だけがひやりとしていた。
 ――もういいのです。もう。
 少女は私の頭蓋を自分の胸に当てながら、歌うように囁いて来る。もういい、もういいのだ、と。
 もういいのだろうか。
 もはや光の中の影しか見えない。聞こえるのは少女の子守唄と、さざ波の音。寄せては返すただそれだけを繰り返す波のかたちに、言葉で飾りをつけようとした。確かにそこにあるのだ。手が届いたっていいはずなのだ。だが、さざ波は掴めもしなければ留めてもおけない、それはゆらぎであって、凍らすことさえできはしない。
 ゆっくりと五感が恐ろしいほど澄んだ光の中へと融けていく。その最後の一刹那、私の指がペンの握りを感じた。あと一語、書けるとしたら、私は何を書くのだろう。あと一語、書けたとしたら、君よ、その原稿を私の机の上に置いておいて欲しい。そこへ積もった埃の層が、私という男をゆっくり殺してくれるはずだから。






















       

表紙

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