わが地獄(仮)
ある投手の苦悩
九回裏二死満塁。
2ストライク、フルカウント。
「フォークでいこう」
藍色の骨みたいな防具をガチャガチャ鳴らしながら、わざわざマウンドにやってきたキャッチャーはグローブで口元を隠しながら、俺にそう言った。
俺はボールの縫い目を見ていた。
「俺のフォークは、ストライクゾーンに入らないですよ」
「分かってる」
俺は顔を上げた。
「……分かってる?」
「分かってて、言ってる。フォアボールになれば押し出しだ。同点になる。試合は延長――でも、それでもここで逆転サヨナラを喰らうよりはマシだ」
つまり、コイツはこう言いたいのだ。
ボールでもいいから、点を取られてもいいから、打ちにくそうな球を投げろと。
この俺に。
俺が間違いなく首を振るのはキャッチャーも分かっていたから、わざわざタイムを取ってきたんだろう。
「……じゃあ何を投げるつもりだ? ストレートか? 最後はストレート。気持ちはわかるが、ここは決勝なんだぞ。いくらお前がエースでも、その傲慢さでチームを負かしていいわけがない」
やっぱりコイツは分かってない、と俺は思う。
最後はストレート、そんな言葉の響きに酔ってるわけでも、一番投げてきた自信のある球種だからそれで決めたいと言ってるわけでもない。
あの打者を打ち取れる球だと思うからストレートでいくと言っているんだ。
それなのに。
コイツはただ、俺を『傲慢』のひとくくりにまとめようとしてくる――……
俺はもう何を言っても無駄だと思ったので、黙っていた。キャッチャーは、少し泣きそうな顔をしていた。それでもその表情は俺にハッキリと告げていた。
お前は間違っている、と。
本当にそうだろうか。
俺は確かにエースだ。
傲慢だと言われればそうかもしれない。
でも、勝負で手を抜いたことは一度も無い。
何も考えずに投げたことなんて一度も無い。
ぎりぎりまで考えているから、首を振るのだ。
キャッチャーからすれば面白くないのかもしれないのは分かる。
結局、俺はいつも自分の組み立てで投げている。
でもそれは、この人が思っているような傲慢さからじゃないし、何より、俺は勝ってきた。
俺は、自分のやり方で勝ってきたんだ。
それを信じず、何を信じる?
後ろを振り返る。
守備の仲間たちが、おのおの自分の位置に着きながら、俺を見ている。
責める目つきで。
グローブから、少し力が抜ける。
そんなに俺が悪いのか。
そんなに俺が嫌なら、お前らが投げればいいだろう。
機会がなかったとは言わせない。エース不在のこの学校で登板経験のないヤツは一人もいない。俺たち九人は全員ピッチャーグローブを左手にはめた。はめた上で、俺がエースになったのだ。どうしても俺が嫌だというならマウンドから俺を引きずり下して誰か別のヤツが投げればいい。
俺はべつに、それでもいい。
それがチームの総意だというなら、いい。
なのに、誰もそれをしない。ただ、俺のやり方にケチだけをつける。心臓に悪いとか、ギャンブルすぎるとか、正論だけまくし立てて結局自分はマウンドに立たない。俺には不思議でならない。そんなにいい投手がどんなものか分かっているなら、どうして自分でなろうとしない? どうして、俺のエースナンバーを睨んでいるだけで何もしない? 俺から背番号を取ろうというやつがいたら、俺はそいつを応援する。俺に勝って欲しいとさえ思う。そうすれば、こんな暑い中でたった一人で九回まで投げ続けることもなくなるし、ベンチで攻撃の間中に投手同士にしか分からない会話だって出来る。
なのに。
俺は、責められるだけだ。
フォーク?
あんなものここで投げてどうする。押し出しで同点にして、クリンナップから外した次の打者で勝負。そんなのただの一つのセオリーだ。
確かに、俺はあの打者に打たれる可能性は高い。いや、ほぼ間違いなく勝負すれば打たれるだろう。連日の試合で体力も限界だし、ボールのスピードも回転数も落ちてきた。
だからこそ、ここで勝負を着けなければならないんだ。
次の打者を相手にして、アウト一つ取るまでに何球かかるか知らないが、俺にはもう、せいぜいあと一球ぐらいしか投げる力は残っていない。
あと一球――……
あと一球で俺たちのすべてが決まる。トーナメントをごぼう抜きで勝ち上がり、突っ走ってきた俺たちの最後の結果。
優勝か敗北か。
ここに来るまで、何球投げたろう。ここに来るまで、三振をいくつ取ったろう。
俺が勝たせてきた、と言えば言いすぎなのかもしれない。
でも、俺がいなければ負けていたはずだ。
当たり前だ。
全試合投手戦で一点取るか取らないかのギリギリの試合で決勝まで来たチームの投手がクズなわけがあるか。
自分たちより何ランクも上の強豪私立の打者を俺はこの右腕で切って落としてきた。
落としてきたんだ。
「…………!!」
氷のように冷たく重いボールを感じながら、あまりにも遠く感じるキャッチャーの言葉が身体にぶつかってくる。俺は一年の頃からずっと女房役だったその先輩の顔を見た。
そんなに俺が悪いのか。
いまここで俺の判断を信じないということは、いままで俺が奪ってきた勝利のすべてを認めていないということだ。
どうしてだろう。
どうして、たった一つ『信じる』ということを、この人たちは俺にしてくれないんだろう――……
満塁か。
確かにそうだ。
開き直るしかないとはいえ、やっぱり投手にはキツイ状況だ。
でも、俺の敵は三つの塁のランナーとバッターボックスの打者だけじゃない。
このギッシリと満員に詰め込まれた球場そのものが、俺の敵だ。
背中を守ってくれる野手も含めて。
俺のボールを取ってくれる捕手さえも。
俺は、先輩をカベだなんて思ったことないのに。
ただ、俺の方が組み立てが上手かっただけだ。
勝ちにいくなら、いい組み立てが出来るヤツに従う。
きっと俺が捕手でもそれでいいと感じると思う。
それなのに、どうして、いまここで、
「あいつにお前の球は絶対に打てない」と、言ってくれないんだ――……
「聞いてるのか?」
「……聞いてます」
「フォークだ。分かったな。歩かせていいんだ」
「それも、分かってます」
さすがに、俺の言い方で、まだ俺が了承していないことを悟ったらしい。先輩は、深々とため息をついた。
「……どうしてお前はそうなんだ。いつもだ。お前は俺の話を聞こうとしない。俺が意地悪を言っているように思えるか?」
「……いえ」
「なら、ちょっとでいい、今だけでいい。俺の言うことを聞いてくれないか。勝つために」
「勝つために、フォークじゃ駄目なんです」
「お前のワガママで、この大会、チームがどれだけピンチに追い込まれたと思う?」
「……え?」
「危ない試合ばかりだった……お前なら、もっと危なげなく勝てるはずだったのに。お前の後始末をする身のほうにもなってみろ」
身体から力が抜けていく。
これが捕手の言うことか、と思った。
危ない試合ばかりだった?
危なげなく勝てるはずだった?
馬鹿じゃないのか。
そんなの全部結果論だ。
この人の言う通りに投げていたら何本ホームランを打たれていたかきっと分からない。
それを俺は防いだのに。
野球は勝つものだと思うから、勝とうとがんばって、ぎりぎりまで煮詰めた組み立てで際どいコースを攻め続けたのに。
それがこの人には、ただの「わがまま」に見えていたのか。
……みんなからも……
「先輩、戻ってください。時間切れです」
「……お前」
「これ以上ゴネるなら、俺、マウンド降ります。後は勝手にやってください。なんなら、俺がマスク被りますよ。先輩、投げたらどうです? 応援しますよ」
顔を上げた時、先輩はもう俺のそばにはいなかった。
ただ黙って位置に戻り、キャッチャーグローブを構えていた。
冷たい目で。
ああ。
まただ。
どうしてこうなってしまうんだろう。
俺は頑張っているのに。
俺は俺なりにやってきたのに。
結果だって出してきた。
いまこのグラウンドにいるのは何かの間違いだとでも言うのか。
これ以上、俺に何を求めるんだ?
俺に何を――……
確かに俺はみんなが求める『理想の投手』じゃないかもしれない。
フォアボールだって出す。デッドボールだって少なくない。押し出しで点だって取られる。
でも、勝ってきた。
勝ってきたんだ。
俺は別に、勝てなくてもよかったんだ。
大きく振りかぶる。
何万回と繰り返してきた投球フォーム。
左足を振り上げ、腕をしならせ、指先に一点集中で全ての力を注ぎ込む。
狙うはインコース。
打者の胸元を抉りこむ豪速球のストレート。
どんなに綺麗事を並べても、あの打者は投手。サードランナーがいる時に内角を攻める怖さを俺と同じくらいによく知っているはず。
そうとも俺たちはどんなに偉ぶってもまだ高校生。
土壇場で勇気を振り絞れるほど鋭くない。
ましてやこっちは都立の無名校。
俺が打者なら、外一本に絞る。
だからこそ、なんだ。
危険だから、攻めなくちゃいけないんだ。
俺は別に打たれてもいい。
負けてもいい。
なんで野球を始めたのかって、なんで投手をやっているのかって、
そんなの、聞きたいだけだ。
ナイスボール、って。
試合が終わった後、「緊張しましたか?」と聞かれて、俺はこう答えた。
「全然」
嘘だった。