Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
俺のクラスの細川はちょっと言い逃れができないデブ

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 俺のクラスの細川は、ちょっと言い逃れができないデブである。
 詳しい数字は本人が嫌がるから書かない。
 が、パッと見た段階でその巨体は明らかに目立つ。
 むっちりしたその肉は贅肉というよりは赤ん坊がそのままデカくなってしまったように健康的でさえある。
 電車で座ろうとすれば三人分の席を専有するするし、旧校舎を歩いていたら廊下の床板をぶち抜いて落ちたという噂もある。
 その真偽を確かめに言ったやつらが無言で首を振るばかりだったのは、おそらくどこかから圧力がかかったのだろう。いや、細川のことを言っているわけじゃない。
 とにかく、俺のクラスの細川はデブだ。これはもう、言い逃れの出来ない事実。
 本人もそれをとても気にしていて、日々ダイエットに勤しんでいる。朝食を抜くのは当たり前。昼飯は通販で買ったらしい謎のサプリメント。バスか自転車通学が望ましい距離を細川は毎朝毎夕走っている。それも朝は遅刻というリスクを背負ってこそ自分の限界を突破することができると固く信じているらしく、どう考えても間に合わない時間に家を出ては一限の半分を脱落している。おかげでちょっと留年説が浮上したほどだ。
 それでも細川は諦めずにダイエットを続けている。放課後、運動部に混じってひたすらグラウンドを走りこんでいる細川を見て野球部顧問の田代が「お前らあ! 細川を見習わんかい!!」と部員を叱咤し、なぜかそれを聞いていた細川がその場にへたりこんで大号泣するという椿事もあった。女心は複雑である。
 それでも、細川は痩せない。
 高校二年の夏を迎えて、細川はちょっと落ち込んでいる。
 教室の一隅で、学校特有の小さな蜂が増殖しているようなざわめきの中、アンニュイな表情で窓の外を眺めている細川は、どことなく物悲しい。
「細川、どうした」
「彼氏欲しい」
 俺たち男子が気の毒そうな表情になってしまったのは言うまでもない。
 高校二年の夏である。噂によれば、女の子が大人の階段を登る確率が一番高いのがこの頃なのだという。
 細川だって、デブだけど女の子だ。
 少女マンガみたいな、いやせめてそうでなくても、サッカー部とかバスケ部とかの、「それほど悪くないかな」程度の男子とちょっと危ない火遊びをしてみたい。そう思うのは自然なことだと思うし、なにもデブが夢を見ちゃいけねぇってルールなんかない。あったらそんなの無視していい。
 それでもやっぱり細川はデブで、ヤツと目と目が合ってときめく男子というのは、ちょっと特殊な方だと思う。
 残念ながら、俺も細川で抜くことはできない。
 あまりにも細川が哀れで、一度なにを血迷ったか試してみたことがあるが、駄目だった。
 細川すまん、とフルチンで鼻をすすった夜のことはちょっとやそっとじゃ忘れられそうにねぇ。
 だが、細川はべつにブスってわけじゃない。
 これはべつに俺じゃなくても、そのへんにいる誰かに聞いてもそうだと言うだろう。
 目鼻立ちはハッキリしているし、髪だってわりとサラサラのセミロング。
 身長だって180cmの巨人ってわけじゃなく、156cmとかそこら。
 もし細川が痩せたりしたら付き合ってみたい、と思う男子は決して少なくない。
 それがまた、あれほどの研鑽と努力を積み重ねても痩せられない細川への哀れみを俺たちに催させるのだ。
 ある時、俺は思い立って、中学はちょっと遠くの方だったという男友達の何人かに『デブ専を探してやってくれねぇか』と号令をかけてみた。
 みんな俺の本気と細川の未来の重大さを機敏に察知したらしく、これからいざ筆を下ろすみたいな気合の入った顔つきで携帯電話を取り出し、一斉に昔の知り合いに性癖を聞きまくってくれた。
 あれはちょっとしたお祭り騒ぎで、下級生の間で俺と仲間たちはちょっとした伝説と化しているらしい。
 まァ、それは余談。
 頼りがいのある馬鹿どものおかげで、選りすぐりのデブ専が俺の元に集められた。
 俺は空き教室の机に座り、壁際に整列したデブ専どもをジロジロ眺めた。
 お前、とボールペンの先で一人の男子を指した。
「デブが好きか」
「ああ、好きだね!!」
 デブ専代表は怒ったように言った。まるで俺が悪者みたいである。
「どこが好きだ、言ってみろ」
「あのむちむちっとした感じがいい!!」
 あと巨乳率が高い! と誰かがフォローを入れた。俺は名簿に記されたその二人の名前に花丸をつけた。
「よし、お前らに最高のデブを教えてやる!! 早いもの勝ちだあ!!」
「おおーっ!!!!!」
 デブ専たちは「誰が彼女のハートを射止めても、恨みっこなしだぜ!!」と拳を突き合わせあい、そして袂を分かった。
 そして全員が細川に告白し、ものの見事に撃沈した。


 ある日の放課後。
 俺は珍しく、ダイエットをサボって教室に残っている細川に話しかけてみた。
「なあ、細川」
「…………」
 細川は、俺がデブ専を集めて細川にぶつけたことが気に入らないらしく、あれからちょっとそっけない。
「お前に相談もせずに勝手なことをしたのは悪かったよ。でも悪気があったわけじゃねえんだ」
「……知ってる」
 細川はぼそっと言った。ちなみに目を閉じて細川の声を聞けば、とてもデブとは思えないだろう。喉にかからないその清涼感のある声は充分に美少女を連想させる。これで背中がハルクみたいに盛り上がっていなければ、と落胆せざるを得ない。
「なあ、細川。べつにそれほど悪い話じゃなかったろ。みんなお前がいいって集まってくれたんだぜ」
「…………」
 細川は黙っている。
「本当に全員イヤだったんならよ、しょうがねえよ。でもお前、ロクに話もせずに全員フッたじゃねーか。なんか理由があったなら知りてえんだよ」
「べつに片岡には関係ないじゃん……」
「まあ、そう言われちゃそれまでだけどよ」
 俺はポケットに手を突っ込んで、やけに暑苦しい色をした夕焼け空を見た。
 細川は悪いやつじゃない。だから勝手なマネをした俺に対して、バツのよくないものがあったのだろう。最後には、喋ってくれた。
「…………てる」
「ん?」
「こんなデブを好きだなんて、変態に決まってる」
 俺は細川を見た。
 細川はぐっと唇を噛み締めていた。
 俺は言った。
「細川、それは違ぇだろ」
「違わない」
「違ぇよ。それ絶対違ぇよ。なあ、細川。お前それ、自分のこと好きだって言ってくれるやつ、みんな頭がおかしいって言ってんだぞ。それはおかしいだろ」
「だって、本当のことだし。だから痩せようとしてるの」
「痩せるのが悪ィことだなんて誰も言ってねぇ。でも、いまのままのお前がいいってやつだっているだろ。いただろ。それを否定すんのはおかしいよ」
「片岡にはわかんないよ。デブの気持ちなんて……」
「ふざけんな。俺だって若ハゲで苦しんでんだよ。やってらんねえよ、後輩が陰で俺のことジェイソン・ステイサムって呼んでたんだぞ? マジで泣いたわ。けどな、だからって俺はそんなことで自分が全然価値のない人間なんだって思ったことはねえし、自分は正しいって思ってるよ」
 俺はばりばりと髪をかきむしった。
「細川」
「……」
「完璧な人間なんかいねえよ。お前はさ、確かにちょっと太ってるよ。歯に衣着せられてムカツクってんなら、ハッキリ言えばデブだよ。でも、それでお前が意味のねぇ存在になるわけじゃねえって。確かに俺はデブ専を集めた。変態も混じってたかもしれねぇ。でも、西村とか金子とかが昔の連中に連絡とって、そいつら集めてくれたのは、お前のためなんだぜ」
「頼んでないし」
「頼んでなくても、やってもらったことだろ。ありがた迷惑だったんなら謝るよ。でもな、たとえ迷惑だったとしても、みんな普段のお前を知ってるから、お前ががんばってることわかってるから、応援しようって動いてくれたんじゃねえのか」
「…………」
「それを最初から否定するのは、お前がなんと言おうと、どう考えていようと、おかしいよ」
 細川が席を立った。ぶん殴られるかと身構えたが、細川は何も言わず、髪に顔を隠してただ教室を出て行こうとするだけだった。
「細川……」
 ごめん。
 細川は、それだけ言い残して出て行った。
 俺は一人ぼっちで取り残された教室で、誰のだかもわからない机に腰かけて、ため息をついた。ああ、イライラする。
 ほんと。
 デブじゃなかったら、ほっとかねえよ、あんないいやつ。


 細川の話はこれで終わりだ。
 が、ちょっとした後日談というか、仲間内でイザコザがあったので、それもこの日記に付け足しておくことにする。
 ちょっと話が飛ぶが、俺たちの通う高校には部室棟がある。けれど進む少子化で生徒が減って、廃部になってしまった部活も多く、その分の空き部室が結構ある。一応、建前ではそこは使用禁止で鍵をかけておかなければならないのだが、立て付けが悪いのか、誰かがこっそりブッ壊しているのか、いつの間にか鍵が取れてしまっている。だから、そこに俺とか西村みたいな帰宅部のやつらがたまにタムロしていたりする。もちろん見つかれば怒られるが、先生たちは俺たちみたいなイケてないグループを取り締まるより、繁華街で援助交際とか流血沙汰を起こしてしまう熱くて前向きな高校生の対処に手一杯なのだ。なので俺たちはのんびりと、ちょっと臭う空き部室でゲーム三昧というわけだ。
 あんまりこういう文章を書きなれていないから、どうも進行がフラフラしちまうんだが、結論から言うと最近、空き部室には細川のダイエットの手伝いをするメンバーが常駐していることが多い。ちょうど部室の窓から疾走する細川が見えるもんで、駐輪場からチャリンコ取り出してきて一緒に走ってやったり、ひとっ走りしてキャンドゥで買ってきたストップウォッチで細川のランニングのタイムを計ってやったりしている。細川は最初、徹底的に俺たちを無視していたが、いまは差し入れのタオルとスポーツドリンクを当たり前のように受け取ってはベンチに腰かけて休憩するようになった。俺はそんな細川の後ろ姿を眺めるのが結構好きだ。
 が、もちろん、気持ちは分かるが、そんなの全然楽しくないって思うやつだっているわけだ。
 ある時、俺と西村が「いっそ細川と一緒に走ってみるか」ということになってジャージに着替えている時、俺らと同じクラスの笹塚がジャンプを読みながら言った。
「なあ、帰らねえ?」
 俺と西村は着替えの手を止めた。
「帰るって、なんで?」
「いや、なんでもなにもさ」
 笹塚はジャンプを閉じた。半笑いで不機嫌そうだった。
「俺たちがこんなことする必要あんの?」
「必要はねーけど」
「だったらいいじゃん、帰ろうぜ」
 俺と西村は動かなかった。
「笹塚、おまえ嫌なのか」
「嫌っていうかさ、意味ねえじゃん」
「意味?」
「そ。細川ってもう一年以上も走ってんじゃん。こんだけやって痩せられないってことは、そういうことでしょ」
「どういうことだよ」
 俺は自分の声が低くなるのを抑えられなかった。
「なあ笹塚、どういうことだよ」
「だから……」
 笹塚は視線を合わせてこなかった。
「体質ってことだよ。細川は痩せらんない。もうそれは確実じゃん。お前らだって、ほんとはもう無理だってわかってんだろ」
「わかってたら、なんだってんだよ」
「お前もわかんねーやつだな片岡。無意味なことはやめようぜ。俺たち高校二年生だぜ? もっと楽しいこと色々あんじゃん。それこそ彼女作ったりとかさ。何も細川に合わせて俺たちまで破滅することねーよ」
 俺は笹塚の持っていたジャンプを弾き落とした。
 笹塚が無表情に地面に落ちて広がったジャンプを見下ろしている。
「なにすんだよ」
「むかついてんだよ」
「……は。むかついたから暴力? バッカじゃねえの、何熱くなってんだよ」
「うるせえな。気に喰わねえんだったらもういいよ。無理にいてくれなんて言ってねえし。俺らに勝手に付いてきたのはてめーだろ。帰れよ笹塚」
 笹塚が嫌な感じの汗をかきながら、それでもニヤリと笑った。
「なんだよ片岡。おまえ細川のこと好きなの? あんなデブがいいのかよ、どうかしてんじゃねえの」
「喋ってねえでとっとと帰れよ」
 言ったのは西村だった。
 二対一になったことを悟った笹塚は「馬鹿みてえ」と捨て台詞を吐いて部室から出て行った。部室棟のすぐ外で、何かが蹴飛ばされたような音がした。
 嫌な沈黙が、十分くらい続いた。
 何も言わずに壁にもたれている西村に、俺は言った。
「あいつってあんな嫌なやつだったっけ」
「俺も同じこと思った」
「むかついたわ。もう二度とあいつとは遊ばねえ」
「それもいいかもな。俺は前からちょっと合わねえって思ってた」
「もっと早く言えよ。したらこんなムカツクこともなかった」
「仕方ねえだろ、俺に言うなよ」
「そうだな」
 また、黙った。
「笹塚ってさ、自分のこと好きなのかな」
 西本がちょっと怪訝そうな顔になった。
「……また話が飛んだな。なんだよそれ。べつに普通に好きなんじゃねーの」
「俺はさ」
 俺は両手を組んで、その指を身悶えするように弄った。
「べつにいい格好がしてえわけじゃねえんだ。細川のこと。結局は他人事だし。あいつが痩せらんねえんだろうなってのは、薄々わかってるよ、もう」
「……片岡」
「それでもさ……こんな途中で、今まであいつが頑張ってきたの見てきて、まるで何もなかったみたいな顔してさ、知らんぷりして、いなくなったりしたらさ、なんていうか……それが悪いとは言わねえよ。べつに普通のことだ。俺たちがいたからって細川の何の役に立つのかなんてわかんねーよ」
「……そうだな」
「でも、俺はもし、ここで細川を見捨てたら、自分のことが好きになれそうにねえ。……笹塚は、そういうの感じねえのかな。これから生きてくのが、怖くねえのかな。本当に心の底から自分自身が『つまんねー奴』だってのを感じ取っちゃってるままで……」
 俺は確かに、その時ちょっと熱くなっていた。
 急に恥ずかしくなった。
「いいや、忘れろ西村。今日の俺、なんかヘンだ」
「いいよ別に。俺も似たようなこと思ってる。ただ、笹塚はそんなこと思ってなかった。それだけのことだろ」
「……ああ、そうだな」
 俺たちは、外を見た。
 グラウンドの外周を、細川が顔に汗して走っている。
 俺たちはそれをちょっと眩しく思いながら、見つめていた。
「なあ、西村」
「なんだ」
「細川が痩せたら、お前どうする」
 即答だった。
「結婚する」
 だよなあ、と俺たちは笑った。
 細川はそんな俺たちの会話など知りもせず、外周を走り続けていた。

       

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