わが地獄(仮)
『君と豹と』
「ワトスン君、いま僕が何について考えているかわかるかい」
「わかるわけがないだろう、ホームズ。私は君とは違って、読心術を学んでなんかいないんだからね。で、何を考えているんだ?」
「僕はね、友情について考えているんだ」
ある日の夜、ホームズがそんなことを言い出して、私は意外に思った。英国における犯罪学の頂点にして世界唯一の私立顧問探偵、シャーロック・ホームズが友情について考えるなんて、肉屋が詩を書き始めたようなものだ。私は椅子に座り直して、対面に座って彫像のように動かないホームズを見た。
「友情、か」
「友情、だよ」とホームズは言った。
私は顎鬚を撫でた。
「君の唯一の親友と自負している私からすると、それは私のことを考えていると思っていいのかい」
ホームズはくつくつと笑った。
「自信過剰だなワトスン君。だが、その通りだ。僕は君以外に友達なんかいないんだからね。そう、僕は君のことを考えていたんだ」
「それは光栄だね」
「茶化すなよ。……君は友達が多いね。この間も、僕が事件解決の手がかりを探す冒険に誘った時、先約があると断っただろう」
確かにそういうことがあった。妻の甥っ子から、精神失調者の身内の様子を見てくれないかと頼まれたのだ。私は外科医だから門外漢だと言ったのだが、親戚一同、そのきちがいのことで食事も取れないほど疲弊しているらしく、行かないわけにはならなかった。ホームズはどうもそのことを気にしているらしい。
「あのことは悪かったと謝っただろう、ホームズ。仕方の無いことだったんだ。私だって君との冒険を優先したかったさ」
「いや、分かってる。責めてるわけじゃないんだ――もう今はね」ホームズは皮肉げに唇を歪めた。
「だが、他の誰かからの約束があるから、親友の誘いを断る。それは僕には永遠に起こり得ない事象だ。なぜなら僕には君しか友達がいないから……」
「ホームズ……」
「そう同情した目で見るなよ。僕はこれでも、君と出会えただけ、僕の人生もまんざら壊れ果ててはいなかったと思ってるんだぜ」
古めかしい手燭にパイプをあてがって、火を点けながらホームズが言った。
「ただ、友達の数、愛情の分量、どうして僕と君にはそういった差異があるのかと思ってね。これはちょっとした難事件だ。名探偵・シャーロック・ホームズになぜ友達が増えていかないのか?」
「それは、まァ、君は思い通りにならないとすぐ怒ったりするからな」
「仕方ないだろ、あれにはあれで僕なりの理由があるんだ」
私はため息をついた。
「そういうところを、直していかないとな、ホームズ」
「言うと思った!」嬉しそうにホームズが手を叩いた。伏せていたエースをめくってたまりにたまったポットを掻っ攫った賭博師のような笑顔だ。
「そう、みんなそう言うんだ。何かあれば直せ直せ、さ。しかし、僕に言わせてもらえば、僕が犯罪推理で用いている洞察力や観察眼なんていうものはね、僕の悪癖や悪辣さから端を発しているんだ。それを無くせば、僕はもう探偵なんて看板を掲げては生きてゆけなくなるよ」
「なぜだい? 犯人の思惑やトリックを見抜くことと、路傍の石に蹴躓いただけで真っ赤になって怒り出すことの、何が関係あるというんだ?」
「それがあるのさ。詩人じゃないから上手く言葉に出来ないが……それは僕にとって必要不可欠なものなんだ。絶対に失うことは出来ない。言ってしまえば、人が僕を嫌い、罵る要素――昔、あのレストレード警部は僕のことをきちがいだと馬鹿にしたものだったね――そういったものが、『僕』なんだ。それこそがシャーロック・ホームズなんだよ」
「何を言ってるのかさっぱりだ」私は匙を投げた。が、ホームズはそれを投げ返してきた。
「それほど難しいことじゃないさ、深遠な哲学でもなければ看破不可能の密室犯罪でもない。君だって、自分が他人に好かれるのは、君のその朴訥とした人柄から起因していると思っているだろう?」
「私は別に、人から特別に好かれているとは思っていないよ」
「そういうところさ、君のいいところは。誰もが君を親切な人だと思う。そこに知能がどれだけあるかとか、どんな事件を解決してきたかなんてことは関係ないのさ。君のその大らかな風貌、可愛げのある髭、時々曲がっているネクタイ、たくさんの友人と付き合って擦り切れた靴……そういうものが、人をして、君をいいやつだと判断させる。草を反芻する牛を見るような安らかな気持ちというのかな、そういうものを相手に与えるんだ、君は」
僕は違う、とホームズは続けた。
「そう、僕は違う。僕は――僕は豹だ。人を警戒させずにはいられない。この僕の回り続ける頭、疾走し続ける目、真実を思わず口走りそうになってはむずつく唇が、人を不安にさせる。誰もが僕と一緒ではじっとして食事を楽しもうなんて気分にはならない。僕から漂うのは、破滅の気配、惨死の習慣、そしてせいぜいコカイン常習者の悪臭くらいだ。危険人物というわけだね」
饒舌になったホームズは、手の指をひねくり回す癖がある。私はどこか寂しい気持ちで、そんなホームズを見ていた。
「時々、本当に時々ね、ワトスン君。僕は君になりたいと思うことがある。どんな難事件も解決できなくていい。犯罪心理学の権威だなんて評価はたくさんだ。どこか静かな場所で、探偵稼業を引退して養蜂でもしながら、君と君の友人たちと気だるい午後を過ごしたい……この犯罪の温床であるロンドンなんて捨て去ってね。そう、僕は豹だ。そしてこのロンドンは、僕を閉じ込める檻なのだ。僕が誰かを噛まないように、多すぎる人間たちが、いつも僕を見張っているんだ……」
そして、ホームズの語りは終わった。重苦しい沈黙の後、パッと道化師ぶった笑顔で、ホームズは私を見た。
「これが、あまりにも退屈だったんで僕がさっき考えていたことさ。どうだい、なかなか鋭い考察だと思わないか? 特に自分を動物にたとえてその孤独を表現するところなんか、我ながらよく――」
「私に分かることはね、ホームズ。一つだけだよ」
ホームズは口を閉ざした。そして叱られた子供のようにぶすっとした。
「なんだい、それは」
「君は、私の手なんか噛まないってことさ」
ホームズは何も言わなかった。
しかし、その夜、もう二度とその話題を持ち出すことはなかった。