薫子ちゃんと桜子ちゃんは、ほんとうに綺麗だねえ。
薫子は、近所のおばあちゃんが嫌いだった。
なにかにつけておすそわけをうちに持ってきてくれるのはいいが、そのどれもが狙い澄ましたように薫子の苦手なもののオンパレードなのだった。
温野菜のサラダにきゅうりとなすの漬物。
おばあちゃんに他意がなかったのは間違いないが、幼い薫子がくさくさしい食事に馴染めなかったのもまた無理はない。
近所のおばあちゃんは、薫子が内定を――すぐに失うことになる未来への切符を手に入れた日に、狙いすましたように亡くなった。
いま、薫子は、猛烈におばあちゃんに会いたかった。
薫子ちゃんと桜子ちゃんは、ほんとうに綺麗――
頬を打たれて、薫子は生ぬるい夢から眼を覚ました。
なぜ意識を失っていたのだろう。暗くて周りになにがあるのかよくわからない。わかっていることは、両手を冷たいなにかが縛って薫子を吊り下げているということ。たぶん、鎖が。
削岩機で掘られているような頭痛がする。ということは、なにか薬でも嗅がされて眠らされたのか。
誰に?
目の前に、学生の顔があった。
突然、錯乱し喚き始めた薫子を再び燕のような平手打ちが見舞った。
それは、痛みがあるにも関わらず夢と現実の区別が判然としない薫子がしくしく泣き出しておとなしくなるまで続いた。
薫子は、乱れた髪の隙間から敵を窺い見る。
あの学生だった。
学生が手を伸ばし、暗闇でなにかに触れた気配がした。すぐにブゥン、と低い唸りと共にパソコンのディスプレイが青白い光を放ち始めた。ここは学生の自室らしい。つけたパソコンでなにをするのかと薫子は身構えたが、どうやら灯り代わりに点けただけのようだ。
唐突に学生が言い放ったセリフは、薫子をフリーズさせるに十分な破壊力を有していた。
「実は、あんたに惚れていたんだ」
「え?」
少女のように無垢な驚きをみせた薫子にまじまじと見返され、学生は照れくさそうに頬をかいた。
「いまでも覚えているよ。駅前のドーナツ屋あるだろ? あんた、あそこでアップル牌を頼んでた……」
ちなみにこれは誤字ではなく、アップル牌という麻雀牌型のパイなのだが、これは薫子の大好物だった。週に十三回は食べている。
いまや学生は身振りも交えて熱演している。締め切られた部屋で、少年と女の心臓と回転するHDDが温度を上げる。
「びびっときたんだ! ああ、おれ、この人を好きになるんだなって……で、あんたのことを調べていくうちに、その」
薫子は、生まれて初めて自分の趣味を恥ずかしく思った。誰にも見られることさえなかったが頬を赤く染めさえした。
自分の状況も忘れて。
「出会い方は悪かったかもしれない……でもおれたちうまくやっていけると思う。そうだろ? いま、あんたがここにいることが、つまり運命ってやつなのさ」
「うん……そう、かも……」
すっかり自分に舞い降りたドラマにめろめろになってしまった薫子はこくん、と頷いた。
この世に、薫子の性癖を知りつつ受け入れてくれる異性がはたして何人いるだろう?
薫子の脳はシナリオモードに移行し光の速さで薫子が三人の孫と最愛の夫に見守られて大往生するシーンまで展開した。
学生が、とびきり甘い声で、青白い後光をバックに囁いた。
「おれを受け入れてくれるか?」
薫子はおずおずと顎を引いた。心は少女のときの輝きに満ちたものに戻り、もう二度と熟れた身体とともに夜を疾走することはないだろう。
住宅街の怪女は死んだのだ。
うん……うん……と望んだ答えを得た学生はしきりに頷きながら、引き出しをガラッと開けた。
「それはよかった。本当によかった」
薫子は、少年が引っ張り出したものを見ても、彼を信じ続けた。
もし、ここで裏切られるのであれば、もう二度と衛藤薫子の人生に再起の瞬間は訪れないだろう。
だから、どっちに転ぼうと、薫子には信じるほかに道などなかった。
とっくの昔に。
「ちくっとするよ」
「うん……あたし、こわい」
「心配いらない。砂を詰めてるだけだ。もちろん、本物の砂じゃないけどね」
鎖に縛られた腕に、少年が針を突き刺し、そこから冷たい感覚が薫子に忍び込んできた。注射は苦手だったはずなのに、なぜかそのときだけは平気だった。神様もたまには気を利かせるのだ。
それから少年は無言になり、薫子も伴侶として彼に合わせた。ときどき身体がかゆくなったので、少年に頼んでかいてもらった。
やがて、ぱちりと少年が電気を点け、まばゆい光の炸裂に薫子は目を細めた。腕で庇いたがったが、つながれているのでできなかった。
満面の笑顔で、少年は手をすり合わせ、広報担当が自社の製品を褒めそやかすような手つきで薫子のラインをなでた。女性として当然、悪い気はしない薫子だった。
そして女の子なら誰でも一回は聞いてみたくなるセリフを吐いた。
「ねえ……あたし綺麗?」
学生は笑顔のまま、薫子はどきどきしながら答えを待ち、
「こいつを見た方が早いな」
部屋の隅から姿見が引っ張り出されて、薫子の前に置かれた。
豚が映っている。
足首から太ももは、均等な太さをキープしていた。蹴りを放てばブラウン管TVぐらいなら一撃でブッ壊せそうだがあいにくそんな機会はない。ぶるんぶるんになった腹の脂肪が傘のように垂れ下がっている。では乳房はというと空気を抜かれたようにぺったんこだ。ドラム缶のような首の上には、やはり傘のようになった顎と、つぶれた鼻、肌の色だけが瑞々しい桃色、小さな豆に似た目。
薫子は手をあげて、変わり果てた自分の頬に触れた。
その手は、人差し指と中指、薬指と小指が癒着していた。
蹄ということだろう。
薫子は絶叫した。絶叫し続けた……。