Neetel Inside ニートノベル
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賭博残虐王シマヘビ
世界で一番いきたくないマンション

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 白垣真にはオキニの場所がある。
 それは自宅の自室の椅子の上だったり、彼が長を勤める生徒会室だったり、車と人が滅多に通りかからないため全速力でチャリを飛ばせる坂道だったり、
 顔なじみの狂人のすみかだったりする。
 放課後。
 夕闇に、クリーム色のマンションが地面からにゅっと生えている。ところどころ煤けているのは、昔火事があったからだろうか。ベランダからパラボラアンテナが衛星から電波を受信し、もしかしたら遠い月へと思いのこもったメッセージを送信しているのかもしれなかった。
 秋だった。露出するにはいい季節だ、と白垣は思い、はて自分はなぜ露出なんて単語を思い出したのだろうかと不思議に思った。ストレスというものがどんなものか白垣は生まれてこの方知らないが、まあストレスのせいにしておくことにしよう。
 郵便物を吐き出したポスト群を通り越し、階段を登る。あちこちからカレーやらシチューやら麻婆豆腐やらのにおいが白垣のすきっ腹をいじめてくる。やっぱり購買のパンばかり食べていては夕食までの間にいつか餓死する。
 四階の床を踏みしめると、どことなく空気が変わった気がした。常人なら立ちすくんでしまうその異界を、白垣は鼻息まじりに受け流す。もうカレーもシチューも麻婆豆腐もない、漂っているのは、濡れた雑巾と脂ぎったふけと肉の腐ったにおいだ。狂気の母たるにおいだ。
 どこかから、なにかを打つような音がする。
 白垣は、404号室のチャイムを鳴らした。
 震える電子呼び鈴のこだまが遠のき、またプッシュ。ピンポンダッシュではないことをアピール。
 応答なし。
 強攻策に白垣は出た。
 制服のポケットのなかをゴソゴソやり、そこら中に鼻をかんだティッシュやら今日の授業のプリントやらマッチの燃えカスやら麻雀牌やら、ありとあらゆるゴミを巻き散らかした。
 やがて一本の針金を見つけ出すと、それを丁寧に折り曲げ、およそ千年後の美を造り上げ、ドアの鍵穴に突っ込んでぐっちゃぐちゃにかき回した。
 ガチリ。
 なんと開いた。自分でもびっくりしたのか大きな愛嬌のある鼻をひくつかせてドヤ顔をつくり、無断侵入。
 玄関は暗かった。ここの住人が節電家であることを知っているため白垣は驚かない。

 どこかから、なにかを打つような音がする。

 地底へもぐっていく探検家のように、白垣は屈み気味に家具の隙間を進んでいく。
 ダイニングキッチンを抜けると、二つの襖があった。右と左、どちらかに彼がわざわざ訪ねるべき異界の住人が潜んでいるのだろう。
 偶数は右、奇数は左。
 白垣は腕時計を見た。四時四十四分。べつに壊れているわけではない、たまたまだ。
 四足す四足す四は十二。
 白垣は、なんとなく気が変わって左の襖を開けた。
 こういうところが白垣生徒会放逐説が巷に流布する遠因である。よくも悪くもいい加減な男であることは間違いない。
 そんなだから、八畳の和室で、女が両手を縛られて吊るされているのを見ても、眉ひとつ動かさないのだった。
 女は、息をしていなかった。血まみれになった顔面は陥没し、ストッキングをかぶった変態みたいになっている。だるんだるんのボディは殴打の形跡が隙間なくスタンプされており、それを満足げに眺めている少年がいた。
 少年は白垣に気づいて組んでいた腕をほどいた。
「白垣か」
「やあ、蛇崎。おひさおひさ。お邪魔だったかな? それとももう終わったとか」
 蛇崎は女の死体を上から下までざっと見分し、
「もうちょい」
 おもむろに大振りなフックを肉塊に打ち込んだ。素人目にも無様なスイングで、蛇崎はいかなる角度であらゆるパンチを繰り出そうとも必ず反動でよろけた。いじめられっこが必死にガキ大将のデブに挑んでいるようだったが、蛇崎はそこそこ満足感を得ているらしい。口がへの字なのは、白垣がそばにいるためににやけ面を押さえているからだろう。
 白垣は勉強机の回転椅子に逆さに腰かけて、背もたれに顎を乗せて死体損壊を見学した。腹の虫がくうと鳴る。こんなときでもやっぱり腹は減る。
 蛇崎は、弱パンチ弱パンチしゃがみキック強パンチ昇龍拳をかまして死体を跳ねさせたまではよかったものの、反動で振り子のように戻ってきた肉の体当たりをまともに食らって部屋の反対側まで吹っ飛び壁をずるずると滑り落ちしりもちをついてようやく、
「で、なんの用?」と聞いた。
 白垣は暇つぶしに抜いたまつ毛を愛おしそうに見つめていた。
「いやなに、そろそろ単位がやばいからさ、教えてあげようと思って」
「ちゃんと計算してる」
 いやいやわかんないぜ、と白垣は息を吹きかけてまつ毛を吹っ飛ばす。
「現国の田名部なんだけどさ、知ってる? あいつステルス持ち嫌いだから、勝手に欠席のペケ増やしてるんだぜ。だからあいつの授業はプロの間じゃ最初からマイナス3から始まる単位」
 しりもちをついたところで止まっていた蛇崎の落下が再始動し、フローリングの床に大の字に伸びた。
「マジかよ。やってらんねえな。死ねばいいのに」
「ところがどっこい死なないんだなあーゆータイプ。あの黒々とした髪と2.0の視力からわかるだろ、やっこさんはストレスを感じない男なのだよ。僕の見立てじゃまず大還暦まで生きるね」
 しばらく蛇崎の舌打ちとため息のアカペラが演奏されるので、お楽しみいただけたら幸いである。ちっちっちはぁちっちはぁちっちっちはあ。
 きっちり一分半の上奏ののち、蛇崎は足を振り上げて、反動を使って跳ね起きた。片膝を立てて肘を乗せ、諸悪の根源を見るような目つきで白垣をにらむ。
「なるほどね、で、おれに単位をくれるってわけだ。――条件つきで」
 白垣はにやにや笑って首を振る。
「単位と、金と、次のサンドバッグの前売り券さ」
 蛇崎はすっかり絞り尽くされた肉袋に空洞のような眼を向けた。漆黒の真円にふざけてストッキングをかぶったような大真面目の死体が映りこむ。
「そりゃ願ってもない話だけどな、どうせおまえの話にゃいつも裏があるんだ。いつもそうだ」
「信用ないなあ。まあ確かに、ただの昼飯ってのはこの世にはないからね。月の雫を採りにいくためには、細い細い綱を登っていかなくっちゃ」
「で、おまえはそれをサンドイッチの詰まったバスケットぶら下げて見物するんだろ。綱渡りが落っこちたっておまえにはただの刺激的なショーなんだ。娯楽なんだ。いつもそうだ今度もそうだ絶対そうだ地獄へ落ちろばーか」
 はっはっは、と白垣は笑った。
「地獄もここも変わらない、僕と君がいることだけは、間違いないだろうから」
 今度は三分間のため息と舌打ちのブルース。ぶら下がった肉の爪先が、ときどき床をすっている。
「おれの相手って、もしかして馬場か? だったらやる気を出してもいいぜ、あのむかつく面は昔っから気に入らねえ」
 懐かしい名前だなあ、と白垣は口元を波形にして、
「ちがうよ。彼はいま目下行方不明だ。それに天馬が相手じゃ、次のサンドバッグがお気に召さないと思うね」
「かもな。――次の相手は、女か」
「ああ」
 ひとつだけ条件がある、と蛇崎は前置きして、
「おれはブラックジャックもポーカーもルーレットも嫌いだ」
「知ってる」
「おれは、おまえも嫌いだ」
「それは、ちょっと初耳」
「あの薬を調達するのをサポートしてもらって助かったのは本当……だが、いつまでもおまえの闘犬でいるつもりもない。次で、終わりだ。おれは抜ける」
 白垣は首を振る。
「抜けられないさ」
 蛇崎はびくともしない。
「抜けてみせるよ。おれはギャンブラーじゃない。白垣、」
 斜め二十度の角度で二人の視線が交錯した。
「次の種目をおれに教えろ。それがおれの、最初で最後の交換条件だ」
 白垣はじっと無表情をたっぷり二十秒は顔に貼り付けてから、言った。
 カウンティング。
 

       

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